Hermit【改稿版】

ひろたひかる

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本編

夏世の憂鬱①

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本日から三回、夏世が主人公になります。がっつり恋愛ターンです。
優、出てきません…
一応時系列的にも合致した順番になりますが、もしご興味なければ7/5更新分から優主人公のお話に戻りますので、そちらからどうぞ。
(読まなくても話の大筋がわからなくなることはありません)

**********

『大事な話があるから今度の土曜に帰ってきなさい。一泊するよう準備をしてくるように』
 たったそれだけのメールに夏世は動揺していた。手に持っているスマホの画面がぱっと消灯してしまうくらいの時間、ただただ画面を見つめることしかできない。
「夏世? どうかした?」
 古川家のリビングに置かれたソファーに座り無言でスマホを見つめる夏世に、すぐ隣にくっついて座っていた蘇芳が声をかけた。
 珍しく早めに帰ってきた蘇芳と一緒にリビングで映画を見ていたのだ。真正面に設置された大きなテレビには派手な演出のアクション映画が流れている。こういう日は単純明快でスカッとする映画がいい。
 蘇芳が手元のリモコンで映画をストップする。そんなに深刻な顔をしていただろうかと思うが、きっと自分で考えている以上に顔に出てしまっているのだろう。
 メールの送り主は、夏世が苦手としている実の父親だった。ちらりとスマホの画面を蘇芳の方へ向ける。
「――夏世のお父さんから?」
「うん。もう数年会ってないのに、今更何の用があるんだろ」
 殊更明るめの声を出したつもりだったが、蘇芳には動揺している気持ちが筒抜けだったようだ。そっと肩を抱かれる。
 高校時代から始めた一人暮らし。夏世は家族と折り合いが悪かったので、高校に進学すると同時に家を出たのだ。とはいえ暮らしているのは父の所有するマンションで、高校から現在通っている大学まで学費は父が払ってくれているので独立しているとは言い難い。最初はすべて断って一人で生きていくつもりだったが、世間体が悪いの一言から始まりさんざん話し合いをした挙句、その条件なら家を出ることを認めるというところで落ち着いたのだ。
 社会人になったら今度こそ独り立ちするつもりだ。
 そんなこともあって実家には顔を出したくないし、今までろくに顔を出してこなかった。そして父も顔を出さないことに関しては何も言ってこなかった。
 それが突然「話がある」? 夏世には不安しかない。
「夏世、行くの?」
「――うん、とりあえず行くだけ行こうかな、と」
「僕も一緒に行こうか?」
 心配そうな蘇芳の声に首を横に振った。
「ううん、お父さんも別に私に何も期待なんかしてないだろうから、きっと大した話じゃないよ。もし何かあったら迎えに来て? 一平でもこき使って」
 わざとおどけて肩をすくめて見せた。蘇芳が「しょうがないなあ」という顔で笑い、それから夏世の額に小さくキスを落とす。
「了解、何かあったらすぐ連絡して。いつでも行くから」

 そうして翌日、夏世は実家の門の前に立っていた。
 朝は一平をたたき起こしてテレポートで送らせた。普通に電車で行こうかとも思ったが、途中で気持ちが折れて実家までたどり着けなくなるのも困ると思ったからだ。
 不承不承という感じで起きた一平だったが、夏世が「実家に行く」と伝えるとすっと表情を引き締めていた。一平とは彼が中学の頃からのつきあいなので、彼も夏世の事情はよく知っている。だから、家族と折り合いの悪い夏世が敵地に行くようで心配だったのだろう。
「じゃ、明日帰るから」
「おう。帰るときはまた呼べよな」
 別れるときにそう伝えて一平の姿がかき消える。

 夏世自身は元々さばさばした性格だ。いろいろな出来事や感情をしっかり受け止めたり、柔軟に流したりできるしなやかさを持っている。
 けれど父との確執は、幼いころから刻み込まれたトラウマのようなもので、ひどく夏世の心を揺さぶる。これだけは時折心の奥から浮かび上がってきては夏世の心を痛めていく。
 ――大丈夫、あの頃と違って私には蘇芳がいる。一平もいる。
 夏世の恋人とその義弟は、夏世にとってはもはや家族も同然だった。今はそこに妹のような優もいる。血のつながった父や兄よりもずっと夏世の近くにいてくれる人たちを思い出すと心強い。きっと父との対面も乗り越えられる、そんな気がした。
 実家の大きな黒い門扉の前で深く深呼吸をした。豪華というより堅牢な印象の門扉、その横にあるインターホンを押そうと指を伸ばし、押す前に一瞬躊躇してしまう。実家にいるときはいつも通っていた門だけれど、今は自分を拒んでいるような気がする。
 けれど思い切ってボタンを押した。
 〈はい〉
 すぐにインターホンから女性の声で返事があった。夏世にはいやというほど聞き覚えのある声だ。
「――夏世です」
 〈夏世お嬢様? まあ、まあ! すぐお開け致します〉
 とたんに相手の声が跳ね上がり、ばたばたとその人が出てきた。夏世にとって、唯一この家で懐かしい人、心を許せる人だ。
「さとさん」
「まあ、まあ、すっかりお綺麗になられて」
 すっかり白髪の混じった髪の小柄なこの女性は野上さと、夏世が小さい頃から井原家に勤めている家政婦だ。
「よかった、まださとさんがうちにいてくれて」
「当たり前です。お嬢様の花嫁姿を見るまではあたしゃ辞められません」
「やだ、さとさんったら――あとその『お嬢様』っていうのやめて」
「はいはい」
 さとと一緒にくすくす笑いながら玄関を入った。
 が、そこに冷たい声が降ってくる。
「なんだ。来たのか」
 階段の上に人影が見えた。兄の史孝だ。
 顔は夏世とよく似ているが、かっちりと髪をセットし、目はどこか冷たい印象がぬぐえない。父も苦手だが、夏世は史孝のことも苦手だった。
「お久しぶり、お兄さん」
「ふん」
 階段の上からにこりともせずに見下ろす史孝の視線につい身構えてしまう。これも習い性だ。
「余計なおしゃべりをしている暇があったら父さんのところへ行け。書斎だ」
 史孝はそれだけ言うと踵を返し、二階の部屋に姿を消した。玄関は水を打ったようにしいんとしてしまっている。
 あの頃と一緒だ。史孝はいつでも夏世に冷たい言葉ばかりかけてくる。何年も会わなかった兄妹だというのに、会ったとたんにあの態度とは徹底しているものだ。
「あの――お嬢、じゃない、夏世様」
「大丈夫よ、いつものことだから。気にしてたらもたないわ――お父さんのところへ行かないと」
 荷物をさとに預け、夏世はそのまま父の書斎へ向かった。
 さっき史孝がいた階段をゆっくりと二階へ昇る。階段を上がってすぐが史孝の部屋、その前を通り過ぎ、東側の突き当りが父の寝室兼書斎だ。
 小さいころからこの扉を開けるときはいつもいやな気持ちだった。

 七歳の時に母が亡くなってからも仕事一辺倒の父は残された子供たち――史孝と夏世――をあまり顧みることはなかった。遊んでもらった記憶などない。父の会社はローズヤード化粧品、祖父が興した会社だが、現在のように大きく発展させたのは父の手腕だと聞いている。その大事な発展させる時期にあったことも重なって、その傾向はますます顕著になっていった。
 父はどちらかというとワンマン気質で、進学先や塾、習い事なども子供の希望というよりは「ここへ通え」と指示することの方が多かった。つまり夏世にとっては父は幼いころから絶対的な支配者だったのだ。
 ただ、史孝は長男で後継ということもあり、経営や帝王学的なものを学ばせるために時折父が仕事に連れて行ったり自ら教えたりという機会があったのだが、夏世ははっきりいって放ったらかしだった。
 顔を合わせるのも月に数回程度というのが普通だった上に、会ってもろくに話もしなかった。生活に不自由はなかったが、実際に夏世の世話をしたのはさとだった。

 中学に上がった頃から夏世の生活は荒み始める。夜遊びを覚え、遅くまで帰らなくなったのだ。
 夏世自身はどちらかというと大人びた子だったので、服装と化粧で中学生とはわかりにくくなる。そのファッションで夜の街に繰り出し、遊び歩く。犯罪行為に手出しはしないので警察の厄介になったことはないが、けんかに巻き込まれることはしばしばだった。
 それでも父は夏世のそんな生活に気づくことはなかった。
 それが発覚したのは史孝の告げ口が原因だった。
 多少誇張して伝えたのだろう。その件で父に呼び出された時には、父の中で夏世は「落伍者」扱いになってしまっていた。史孝はそれを見て
「何の役にも立たないくせに人に迷惑かけることだけは一人前だな」
 と言い放った。
 結局高校進学と同時に夏世はマンションで一人暮らしを始めることになる。
 蘇芳と出会ったのはその後だ。

 父の部屋の扉の前でそんなことが脳裏をかすめる。もう一度待ってくれている人たちのことを思い浮かべて気持ちを奮い立たせ、夏世は扉をノックした。
「入れ」
 中から低い声がした。夏世の体がこわばる。
 思い切って扉を開けて中に入ると、まるで重役室のような重厚なインテリアが広がっている。真正面にマホガニーの机、その向こうに大きな窓。青いローマンシェードが印象的な窓からは燦燦と日が差し込んでくる。部屋の広さは八畳ほどだが、部屋の左右は天井までの高さの本棚にびっしりと難しい本が並んでいる。右側の壁だけはドアがひとつついていて、その先は父の寝室になっている。
「お父さん、夏世です」
「来たか」
 机に向かっていた父は顔を上げ、久しぶりに見る娘の顔を見ていた。それから机の引き出しを開け、中から大きな封筒をばさっと投げてよこした。
「中を見ろ」
 言われるままに開くと、中から大学ノートくらいの大きさの写真と、小さな封筒が出てきた。小さな封筒の中には身上書が入っている。写真は筋肉質の青年の写真だ。二十代半ばくらいだろうか、ぎらぎらした印象を受ける。
「彼は槙尾浩市くん。アレクシス・ジャパンの社長の次男坊だ。確か二十五歳だったか」
 アレクシス・ジャパンはイギリス発のファッションブランドだ。それほど歴史は古くないが、最近は飛ぶ鳥を落とす勢いで成長してきている。もちろん夏世もよく知っているブランドだ。
「はあ、その槙尾さんが何か」
「明日、見合いをしろ」
 一瞬何を言われたか理解できず、返事ができなかった。
「見合い――お見合い? え? 私が?」
「当たり前だ。俺がしてどうする」
 父はにこりともしないので、どうやら冗談ではなさそうだ。一方的に命令されることに慣れていたはずの夏世も、これにはさすがに混乱する。
「困ります、急にそんなこと言われたって。第一私には」
「なんだ、付き合っている男でもいるのか」
「そうです」
「どんな男だか知らないが、別れろ。これ以上いい話があるか」
「いやです!」
 カッとして気がついたら拒否していた。習い事を強制するのとはわけが違う。そもそも相手が誰だか知らないのに、頭ごなしに「別れろ」はないと思う。
「相手がどんな人なのかも知らないのに、そんな言い方をされるのは心外です。彼は素晴らしい人です」
「じゃあどんな男だ」
「それは――」
 夏世は言い淀んでしまった。
 蘇芳は日本トップの「昴グループ」の現会長だ。だが本人の意向で、会長に就任して以来公に姿を見せたことがないのだ。蘇芳が会長だということは秘書である番匠、ブレーンである重役たちしか知らない。蘇芳には蘇芳の考えがあるのだ。いくら自分の父とはいえ、むやみに彼の素性を話すわけにいかないのだ。
 第一、この父のことだ。たとえ「昴グループ会長とつきあっている」と話したところで信用しないだろう。
 それ以上言い返せないでいると、父はかけていた眼鏡をはずし、目頭をもみほぐしながら言った。
「とりあえず、俺の顔を立てようとは思わんか」
 夏世ははっとした。父の声には以前のような覇気がない。そういえば眼鏡をかけているところを見たのは初めてかもしれない。ひょっとして老眼鏡だろうか。髪にも白いものがずいぶん混じっているし、しわも増えたような気がする。
 急に父が年を取ったのだということを痛感させられた。
「――少し、時間をください」
 夏世はそう言って父の返事も待たずに退室した。

 夏世の部屋は父の部屋から廊下をまっすぐ進んだ先にある。途中で史孝の部屋の前を通らなければならない。
 夏世が通りかかった時、扉が開いて史孝が顔を出した。
「話は済んだのか」
 あいかわらず無表情な兄だ。昔からこの顔できついことばかり言われてきたように記憶している。父は畏怖の対象だが、史孝はまたちょっと違う意味でいい感情を持てていない。
「ひとまず終わったわ」
「よかったじゃないか。おまえもわが社の役に立てるんだからな」
「何がよ」
「アレクシス・ジャパンとの関係を強化するのは、我がローズヤード化粧品には重要事項だ。今回のお見合いはその意味も含んでるだろう」
 ああやっぱり政略結婚なのね、と冷めた目で兄を見つめた。
「――このお見合いを進言したのはお兄さんなわけ?」
「なんで俺が」
「違うの?」
「違う。ここ数年はおまえのことを考えてる暇なんてなかった」
「相変わらずね」
 なぜこの兄は自分のことをこんなに嫌っているのだろう。思い当たる節は特にないが、物心ついたころからこんなふうにきつい言葉を浴びせられていたように思う。
 父にも兄にも期待なんてしていない。なのにこうやって冷たい言葉を浴びせられるたびに、心のどこかに尖った氷が刺さって凍っていく気がするのは、やはりどこかに期待しているのかもしれない。
「おまえは相変わらずふらふらしてるのか」
「失礼ね」
「まあいい。せっかく役に立てるチャンスなんだ、せいぜい着飾って行けよ」
 史孝はそのまま部屋へ戻って扉を閉めてしまった。
(もう何も感じないって思ってたのに)
 胸の奥がキリキリと寒い。この家の中はまるで暗い洞穴のようだ。
 早足で自室に駆け込みベッドに倒れこむ。夏世の部屋は夏世がこの家を出て行った頃と同じ、白とオレンジで統一されたインテリアのままだ。
 白いベッドに白い箪笥、ベッドカバーはオレンジを基調にした大きな花柄、それにベージュのラグとカーテン。ちょっと少女趣味みたいだが中学の頃はそれなりに気に入っていた。きっと定期的にさとが掃除してくれているのだろう、部屋はきれいなままだ。
 のろのろと起き上がり、さとが運び入れてくれていたハンドバッグからスマホを取り出した。
(連絡しなきゃ)
 画面を操作してメッセージアプリを立ち上げ、蘇芳のアカウントを開く。しばらくその画面を眺めていたが、意を決してメッセージを打ち始めた。
 けれど打ち終わったメッセージを送信する勇気がどうしてもわかない。
「蘇芳――」
 浮かんでくるのは、昨夜の彼の顔だ。


 昨夜遅く、夏世は蘇芳の部屋へ行った。
 ノックするとすぐに蘇芳が扉を開けてくれた。夏世が来ることはテレパスな彼にはわかっていたようで、驚いた様子はない。
「明日、行ってくるね」
「うん」
 蘇芳お気に入りの一人掛けソファーの横にあるティーテーブルにしおりを挟んだ本が置いてある。今まで読んでいたのだろうか。
 蘇芳の部屋はいつも蘇芳がつけているコロンの残り香がしていて好きだ。
「夏世――」
「大丈夫よ。一泊だけだし、何の用か知らないけど用事が終わったらすぐ帰ってくるから」
 そういいながらも目をそらす。本当は実家に帰るのは気が重くて嫌なんだけれど、そんなみっともない自分を蘇芳に見せたくないから。
 でもこうやって蘇芳の部屋に来たこと自体、甘えたい証拠なんだろう。
 蘇芳にそっと抱き寄せられ、やさしく唇が重なった。
「わかった。待ってるよ」
「――ごめん。やっぱり甘えてばっかりだね、私」
「甘えてほしいんだ」
 蘇芳の体温とやさしい言葉に、胸がいっぱいになる。
「もう何年も帰ってないの。父が私を厄介者扱いしてもしょうがないのよ、親不孝してるもんね――だから、たまにはちゃんと話をしてもいいかな、って」
「うん。何かあったらいつでも連絡して。明日ちょっと休日出勤だけど、連絡くれれば必ず駆けつけるから」
 蘇芳の首に腕を回して自分からもぎゅっと抱き着く。蘇芳も夏世をきつく抱きしめ、それからもう一度キスをした。
 もっと深く、熱く。
 夏世の胸は愛しさでいっぱいになった。
 どうやったらこの想いを伝えられるだろう。切なくて切なくてしょうがない。もっともっと想いを伝えたいのに。
 どれだけこの人が大切で、必要で、愛しく思っているか。
 言葉を無力にすら感じてしまう。もどかしくて相手にしがみつく。
 口づける。


 昨夜はそう言ってくれたが、やっぱり仕事の邪魔はしたくない。どうしても送信ボタンはタップできなかった。
 正直、ここからこっそりと逃げ出さない限りはお見合いからは逃れられないだろう。一平に連絡を取って抜け出してしまおうかとも考えたが、それでは何も変わらない。父のことだ、最悪調べ上げて古川の家まで乗り込んでこないとも限らない。さすがにそれは避けたい。
 やっぱり父の言う通り、顔を立てるためにお見合いに行かないとどうしようもなさそうだと考え始めていた。
 でも、最終的に断る話だとしても、蘇芳以外の男性とのお見合いなんだから。
「ちゃんと話しておかなくちゃ」
 もう一度スマホを開いて文面を読み返した。
『父からお見合いをしろと言われています。相手はアレクシス・ジャパンの社長の次男坊だそうです。もちろん行くのはいやなんだけど、久しぶりに会った父が何だかすごく年を取って弱って見えて、だから、父の顔を立てるためだけに行ってみようかと思います。絶対断ってくるから。ごめんなさい、今回だけ許してね。終わったらその足で蘇芳のところに帰ります』
 何度も読み返し、最終的に意を決して送信ボタンをタップした。
「蘇芳――」
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