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催眠術なんて全部眉唾だろ
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夏休みと言っても、なぜか授業があるのが、今時の高校。
七月も下旬。連日、夏期講習という名目で、先生方のありがたいお話を、みんなして汗をだらだら流しながら聞いている。
連日猛暑の日本列島。お世辞にも広いとは言えない教室に、四十人強の人間が密集すれば、天井に附いているエアコンなど、ほとんど意味を成さない。冷却器は中庭にある、業務用とは言っても、たった二台の機械だ。それで一から三年の全ての教室に風を送るのは、どう考えても無理がある。
よほど扇風機の方がいい仕事をすると思うのだが、暑いと言っても、気温が下がるわけではないので、ごちゃごちゃとこのくそ暑さについて考えるのは無駄だろう。
さて、俺は何のためにここにいるんだ?
幼女を自分好みの女性を育てる、光源氏という変態紳士の話を、相好を崩さず説明している女教師の様子を見て、自分が今何の授業を受けているのか思い出した。
授業が終わってから、ふらふらと、極楽を求めて放送室へと向かった。
教室に比べれば、より密閉度が高く、また人も少ない、放送室の方が、クーラーの効きは良い。授業後は普通教室のクーラーが切られることも関係しているとは思うが。
放送室に入って、クーラーを入れれば、自然と「あー」という声が漏れる。
俺が文明の利器のありがたみを存分に享受していたところ、
「花丸君。今日で前期講習は終了ね」
と橘が俺に話しかけてきた。
「そうだな」
橘の言うように、あの地獄のような時間も、とりあえずは、お盆までお休みになる。
宿題をするほか、特に予定もないので、バイトをすることにしている。
肩肘をついて、ぺらぺらと文庫の頁を繰っていたところ、
「ねえ、花丸くん。催眠術って信じる?」
「急に何を言い出すんだよ」
会話をすると、あらぬ方向に話が飛んでいく事の多い橘。今でも、というか大抵の場合、話にはついていけない。
「図書室の新着図書にこんなのがあったのよ」
橘が差し出した手の上には、「催眠術の秘密」と書かれた、新書版の本があった。
「催眠術なんて全部眉唾だろ」
「でも、精神科医や心理カウンセラーなどは、それに近いことをやるのではないかしら」
「そういうのに関わるのは、切羽詰まった人間ばかりだ。騙されやすい状態ではある。普通の人間には通用せんと思うな」
「そう? じゃあ、やってみる?」
「嫌だよめんどくさい」
「逃げるの?」
この女の安い挑発に乗るのも馬鹿らしい。
だが俺はそれに乗る男だ。
「いいぜ。そこまで言うならやってみろよ」
「じゃあこの椅子に座ってくれるかしら」
言われたとおり、席を移動し、橘の前のイスに座った。
「まず深呼吸を五回繰り返してください。吸って吐くが一セットです」
「今から言うとおりのことを復唱してください」
「今から私はあなたの言うことを何でも聞きます」
暗示にでも掛けようと言うのだろうか?
「今から私はあなたの言うことを何でも聞きます」
「あなたの言葉は、私にとって福音であり、オーケストラの奏でる、美しい曲のようです」
嫌に抒情的なことを言わせる。
「あなたの言葉は、私にとって福音であり、オーケストラの奏でる、美しい曲のようです」
「私はあなたのこと以外考えられません」
「私はあなたのこと以外考えられません」
「私はあなたの奴隷です」
「……私はあなたの奴隷です」
「復唱はここまでです。次の指示に従ってください。四つん這いになって、三週回ってワンと吠えてから、『僕は美幸さんが大好きです』と言って下さい」
「……」
やれるわけがない。
橘は俺が微動だにしないのを見て、
「やっぱり一朝一夕にはいかないようね」
と言って、本をパタンと閉じた。
「……今の時間、俺が恥ずかしい台詞をひたすらに言わされただけな気がするんだが」
まさか、そのためだけに怪しげな本を探し出してきたということはないだろうな。
「おい橘、ちょっとそれ見せてみろよ」
そう言って、橘が手にしている本に手を伸ばそうとしたところ、
「ちょっと、気安く触らないでくれるかしら」
と異様なほどに拒絶された。……臭うな。
「俺にも見せてくれよ」
「花丸くんが催眠術なんて覚えたら、手当たり次第に、人にかけるに決まっているもの。分かっててこれを見せる道理はないわ」
「そんなことするわけ無いだろ」
「つまり、私だけに、いやらしいことをさせるつもりなのかしら?」
「違うそうじゃない」
あっ、今鼻で笑いやがった。
「そんなことより、花丸君。夏休みなんだけど――」
橘が何か言いかけたところで、放送室の扉が開いた。
「やっほー。あー、涼しー」
顔をほんのりと赤くさせた安曇が、手でぱたぱたと顔を仰ぎながら、放送室へと入ってきた。
「安曇さん、こんにちは」
「ハイ、美幸ちゃん、まるモン」
嫌にハイテンションだ。授業が終わったのが、それだけ嬉しいらしい。
俺は、顔を少しだけ動かして、小さく「うす」と言った。
安曇は鞄を置き、
「ねえねえ。授業も終わったしさ、三人でどっか遊びに行かない?」
と急な提案をしてきた。
「この前、七夕祭りに行ったばっかだろ」
「あれは違うじゃん! 二人と一緒にいなかったもん」
「離れていても、心は一緒だろ」
「花丸くん。今まで我慢して言っていなかったのだけれど、すごく気持ち悪いわ」
……。割と言われている気がするんだが。
「遊びに行くっつっても、このくそ暑いのに、出歩きたくないな」
「まるで、根暗ぼっちの発想ね。一緒に遊んでくれるお友達はいないのかしら?」
「橘、答えが分かりきっている質問をこの国では愚問と言うんだぜ」
今まで何度同じようなやり取りをしたことか。
「まるモンに男子の友達がいないのは分かったからさ、三人で映画見に行こうよ」
安曇さん、さらりと酷いこと言うな。誰かさんの癖が移ってないですか?
「……映画?」
「うん。ほら、今流行っているやつ。岐阜がモデルの」
……ああ。最近その映画の主題歌をよく耳にする。
「今日行くのか?」
「予定がなければだけど」
まあ、俺のスケジュールは大抵真っ白だが。
「なんか、見る気がせんな。話が予想できるっていうか」
「ほんと? みんな面白かったって言ってるよ」
「どうせあれだろ。ウイルス感染で、みんな疑心暗鬼になって、『お前は誰だ?』とか言い始めて、殺し合うっていうパニック映画だろ。舞台的にも題名的にもそんな感じがする。
そんで、パンデミックを防ぐために、政府が村人を虐殺して、隠蔽しようと隕石を落とすってやつだろ。大体分かるって」
風土病は、前前前世からの呪い的な。
「……絶対そういう話ではないと思うけど」
「もしくは、世界線を移動する話だな。ダイバージェンスを1パーセント超えたらオッケーみたいな」
「ごめん、ちょっと何言ってんのか分かんない」
と表情的には、こいつやばい、という感じで言った。
「安曇さん。そんな捻くれた男と映画なんて見ても仕方ないと思うわよ」
と橘が、要らぬ横やりを差す。
「美幸ちゃんは、見に行かない?」
俺を攻略するのを諦めた安曇は、橘の方を向いて言った。
残念ながら、橘の方が癖が強いわけだが。
「それ、アニメ映画よね? 私アニメの事はよく分からないのよ」
橘らしいと言えば、橘らしい。橘がアニメを見ながら、「ふふふふふ、腐腐っ」と笑っている姿は想像できないし、想像したくもないな。
けれども、アニメだからと言って、十把一絡げに嫌うのもどうだろうと思い、
「一般受けしてるっぽいから、そんな拒絶しなくてもいいと思うぜ。TVシリーズの劇場版でもないみたいだし。絵が綺麗らしいから、見てみてもいいんじゃないか?」
と言ったところ、
「あら、随分詳しいのね。あなた本当は行きたいのではないの?」
「別に」
流行ろうが流行らまいが、俺は見たいものを見る。ただそれだけの事だ。
「まるモンが行かないと、美幸ちゃんも来てくれないんだよ。いいでしょ?」
と再び安曇は俺に懇願するように言ってきた。
すかさず橘が口をはさみ、
「安曇さん、あなた何を言っているの? 私は花丸君がいるかどうかなんてまったく気にしていないのだけれど。今だって、安曇さんが花丸君に話しかけるまで、部屋にいたのに気づかなかったほどよ」
とのたまう。
さっき俺に催眠術をかけようと話しかけてきた人がいたが、一体誰だったかな?
「じゃあ、まるモンがいなくても来てくれるよね」
今日の安曇さんは攻めの姿勢らしい。橘の手を取って、まるで飼い主が現れるのを待っている子犬のような表情をしている。
「……しょうがないわね」
俺との交渉では、滅多に折れることの無い橘が、簡単に折れてしまった。
さしもの橘も安曇の願いには弱いらしい。この人権不平等が罷り通っている現状を、誰かに訴えたい気分だ。
「でも、今日は花丸君と金魚鉢を見る約束をしていたわよね」
と俺の方を見て言う。
さも当然のように言っているが、
「身に覚えがないんですけど」
身に覚えのない催促は無視しましょうと、消費者庁が呼び掛けていたが、まさか本当にそんな状況に陥るとは。危ない危ないワンクリック橘。クリックしなくても催促される始末。
「女の子の御機嫌を取ろうと、果たす気のない口約束ばかりするなんて、あなた本当最低ね」
「お前は何を言っているんだ?」
「金魚のこと教えてくれるって言ったじゃない。これもその延長よ」
まじかよ。確かに電話でそのような話をした気がするが。
「……別な日でいいだろ」
もはや行くことは仕方ないとして、わざわざ今日行く必要もなかろう。
「私の花丸金に、いつまでもバケツで泳げと言うの?」
「その花丸金っていうのそろそろ卒業しない?」
「あ、私は別に今日じゃなくてもいいんだけど」
気の使える安曇は、場を穏便に済ませようとしてくれている。友達に、自分との映画より、金魚鉢を優先されるというのもどんな気持ちだろうか。
「だめよ。せっかくのお誘いなのだから、花丸君の都合なんかのために、日程をずらすのも申し訳ないわ」
俺の都合じゃなくて、お前のエゴだろうが。
「私と安曇さんが、映画を見ている間、あなたを待たせるのも申し訳ないから、花丸くんも見ましょうよ」
え、えー?
「先にパパっと見ればよくないか?」
それで俺だけ帰ればいい。
そう提案したら橘は安曇の方を見て、
「……安曇さん、映画って何時からかしら?」
安曇はスマートフォンを取り出して、フリックしてから、
「十四時からのと、後は……、十八時から」
十四時のは今から映画館に向かえば間に合うが、暢気に金魚鉢を選んでいる時間などない。十八時からのしてしまうと、それまで時間が空きすぎてしまう。
「花丸くん。今日来てくれないのなら、穂波さんに、花丸くんが私に対してした、セクハラ行為を洗いざらいぶちまけるわよ」
……。
少しく自覚のあった俺は、妹に醜態を晒すわけにも行かず、橘の言うことに従うしかなかった。
「……わかったよ。俺も見るよ」
「決まりね」
橘がほくそ笑んだように見えたのは気のせいだろうか。
多分気のせいじゃないな。
三人で自転車をこいで、学校近くのモールへと向かった。
夏休みとあって、学生らしき人間で、平日の昼間ではあったが、混雑していた。
今になって、女子二人と歩いているこの奇異な状況を、誰かに見られることのリスクを鑑みる。
学校で変に噂されるのは面倒だ。そう思って、俺は二人から少し離れるようにしてついていこうと思ったのだが、少し離れたところで、
「花丸君。あまり離れると、不審者だと思われて捕まるわよ」
「いや、なんでだよ?」
「どう見ても、女子高生をつけ狙っている変質者にしか見えないでしょう」
「おい、俺も制服着ているんだぞ」
「コスプレしてまで近づくなんてかなり悪質ね」
これ以上ごちゃごちゃ言われるのも、ただ俺が疲れるだけなので、仕方なく二人に追いついた。
知り合いに見られないことを祈る。
何とはなしに、通りすがる店を見てみる。
服屋に服屋に服屋。それも女物ばかり。
いつも思うのだが、どうしてこういう所の店は、女性服ばかり置いているのだろう? 俺の知る限りでは、男と女の数は、生産年齢人口まではほぼ一緒だし、大体は男子の方が多い。それなのに、女性服を売っている店が多数だ。それも、どれも同じように見える服を。
あるものを売っている店が、ちらと視界に入って来たのに気づいた。
悪いことをしていないのに、背徳感を覚えさせる店。
どうしてああも主張激しく売るのだろう。ライトで煌々と照らしてまで。
ああされると、いやでも見てしまうではないか。
視線の先にあるのは下着屋。無論レディースの。
マネキンに着させた、女性下着のほか、色とりどりのブラとショーツが目に飛び込んでくる。
ピンクに赤に黄緑に、イエロー。
まるで花畑だ。
なんでか知らないが、口から垂れそうになった涎を拭ったところで、視線を痛いほど向けられているのに気が付いた。
「……まるモン」
安曇が俺の名を躊躇いがちに呼ぶ。
「花丸君。女性の下着を見て、ヘラヘラするのやめてもらえる?」
「まるモン、最低」
この場に俺の味方はいないらしい。
七月も下旬。連日、夏期講習という名目で、先生方のありがたいお話を、みんなして汗をだらだら流しながら聞いている。
連日猛暑の日本列島。お世辞にも広いとは言えない教室に、四十人強の人間が密集すれば、天井に附いているエアコンなど、ほとんど意味を成さない。冷却器は中庭にある、業務用とは言っても、たった二台の機械だ。それで一から三年の全ての教室に風を送るのは、どう考えても無理がある。
よほど扇風機の方がいい仕事をすると思うのだが、暑いと言っても、気温が下がるわけではないので、ごちゃごちゃとこのくそ暑さについて考えるのは無駄だろう。
さて、俺は何のためにここにいるんだ?
幼女を自分好みの女性を育てる、光源氏という変態紳士の話を、相好を崩さず説明している女教師の様子を見て、自分が今何の授業を受けているのか思い出した。
授業が終わってから、ふらふらと、極楽を求めて放送室へと向かった。
教室に比べれば、より密閉度が高く、また人も少ない、放送室の方が、クーラーの効きは良い。授業後は普通教室のクーラーが切られることも関係しているとは思うが。
放送室に入って、クーラーを入れれば、自然と「あー」という声が漏れる。
俺が文明の利器のありがたみを存分に享受していたところ、
「花丸君。今日で前期講習は終了ね」
と橘が俺に話しかけてきた。
「そうだな」
橘の言うように、あの地獄のような時間も、とりあえずは、お盆までお休みになる。
宿題をするほか、特に予定もないので、バイトをすることにしている。
肩肘をついて、ぺらぺらと文庫の頁を繰っていたところ、
「ねえ、花丸くん。催眠術って信じる?」
「急に何を言い出すんだよ」
会話をすると、あらぬ方向に話が飛んでいく事の多い橘。今でも、というか大抵の場合、話にはついていけない。
「図書室の新着図書にこんなのがあったのよ」
橘が差し出した手の上には、「催眠術の秘密」と書かれた、新書版の本があった。
「催眠術なんて全部眉唾だろ」
「でも、精神科医や心理カウンセラーなどは、それに近いことをやるのではないかしら」
「そういうのに関わるのは、切羽詰まった人間ばかりだ。騙されやすい状態ではある。普通の人間には通用せんと思うな」
「そう? じゃあ、やってみる?」
「嫌だよめんどくさい」
「逃げるの?」
この女の安い挑発に乗るのも馬鹿らしい。
だが俺はそれに乗る男だ。
「いいぜ。そこまで言うならやってみろよ」
「じゃあこの椅子に座ってくれるかしら」
言われたとおり、席を移動し、橘の前のイスに座った。
「まず深呼吸を五回繰り返してください。吸って吐くが一セットです」
「今から言うとおりのことを復唱してください」
「今から私はあなたの言うことを何でも聞きます」
暗示にでも掛けようと言うのだろうか?
「今から私はあなたの言うことを何でも聞きます」
「あなたの言葉は、私にとって福音であり、オーケストラの奏でる、美しい曲のようです」
嫌に抒情的なことを言わせる。
「あなたの言葉は、私にとって福音であり、オーケストラの奏でる、美しい曲のようです」
「私はあなたのこと以外考えられません」
「私はあなたのこと以外考えられません」
「私はあなたの奴隷です」
「……私はあなたの奴隷です」
「復唱はここまでです。次の指示に従ってください。四つん這いになって、三週回ってワンと吠えてから、『僕は美幸さんが大好きです』と言って下さい」
「……」
やれるわけがない。
橘は俺が微動だにしないのを見て、
「やっぱり一朝一夕にはいかないようね」
と言って、本をパタンと閉じた。
「……今の時間、俺が恥ずかしい台詞をひたすらに言わされただけな気がするんだが」
まさか、そのためだけに怪しげな本を探し出してきたということはないだろうな。
「おい橘、ちょっとそれ見せてみろよ」
そう言って、橘が手にしている本に手を伸ばそうとしたところ、
「ちょっと、気安く触らないでくれるかしら」
と異様なほどに拒絶された。……臭うな。
「俺にも見せてくれよ」
「花丸くんが催眠術なんて覚えたら、手当たり次第に、人にかけるに決まっているもの。分かっててこれを見せる道理はないわ」
「そんなことするわけ無いだろ」
「つまり、私だけに、いやらしいことをさせるつもりなのかしら?」
「違うそうじゃない」
あっ、今鼻で笑いやがった。
「そんなことより、花丸君。夏休みなんだけど――」
橘が何か言いかけたところで、放送室の扉が開いた。
「やっほー。あー、涼しー」
顔をほんのりと赤くさせた安曇が、手でぱたぱたと顔を仰ぎながら、放送室へと入ってきた。
「安曇さん、こんにちは」
「ハイ、美幸ちゃん、まるモン」
嫌にハイテンションだ。授業が終わったのが、それだけ嬉しいらしい。
俺は、顔を少しだけ動かして、小さく「うす」と言った。
安曇は鞄を置き、
「ねえねえ。授業も終わったしさ、三人でどっか遊びに行かない?」
と急な提案をしてきた。
「この前、七夕祭りに行ったばっかだろ」
「あれは違うじゃん! 二人と一緒にいなかったもん」
「離れていても、心は一緒だろ」
「花丸くん。今まで我慢して言っていなかったのだけれど、すごく気持ち悪いわ」
……。割と言われている気がするんだが。
「遊びに行くっつっても、このくそ暑いのに、出歩きたくないな」
「まるで、根暗ぼっちの発想ね。一緒に遊んでくれるお友達はいないのかしら?」
「橘、答えが分かりきっている質問をこの国では愚問と言うんだぜ」
今まで何度同じようなやり取りをしたことか。
「まるモンに男子の友達がいないのは分かったからさ、三人で映画見に行こうよ」
安曇さん、さらりと酷いこと言うな。誰かさんの癖が移ってないですか?
「……映画?」
「うん。ほら、今流行っているやつ。岐阜がモデルの」
……ああ。最近その映画の主題歌をよく耳にする。
「今日行くのか?」
「予定がなければだけど」
まあ、俺のスケジュールは大抵真っ白だが。
「なんか、見る気がせんな。話が予想できるっていうか」
「ほんと? みんな面白かったって言ってるよ」
「どうせあれだろ。ウイルス感染で、みんな疑心暗鬼になって、『お前は誰だ?』とか言い始めて、殺し合うっていうパニック映画だろ。舞台的にも題名的にもそんな感じがする。
そんで、パンデミックを防ぐために、政府が村人を虐殺して、隠蔽しようと隕石を落とすってやつだろ。大体分かるって」
風土病は、前前前世からの呪い的な。
「……絶対そういう話ではないと思うけど」
「もしくは、世界線を移動する話だな。ダイバージェンスを1パーセント超えたらオッケーみたいな」
「ごめん、ちょっと何言ってんのか分かんない」
と表情的には、こいつやばい、という感じで言った。
「安曇さん。そんな捻くれた男と映画なんて見ても仕方ないと思うわよ」
と橘が、要らぬ横やりを差す。
「美幸ちゃんは、見に行かない?」
俺を攻略するのを諦めた安曇は、橘の方を向いて言った。
残念ながら、橘の方が癖が強いわけだが。
「それ、アニメ映画よね? 私アニメの事はよく分からないのよ」
橘らしいと言えば、橘らしい。橘がアニメを見ながら、「ふふふふふ、腐腐っ」と笑っている姿は想像できないし、想像したくもないな。
けれども、アニメだからと言って、十把一絡げに嫌うのもどうだろうと思い、
「一般受けしてるっぽいから、そんな拒絶しなくてもいいと思うぜ。TVシリーズの劇場版でもないみたいだし。絵が綺麗らしいから、見てみてもいいんじゃないか?」
と言ったところ、
「あら、随分詳しいのね。あなた本当は行きたいのではないの?」
「別に」
流行ろうが流行らまいが、俺は見たいものを見る。ただそれだけの事だ。
「まるモンが行かないと、美幸ちゃんも来てくれないんだよ。いいでしょ?」
と再び安曇は俺に懇願するように言ってきた。
すかさず橘が口をはさみ、
「安曇さん、あなた何を言っているの? 私は花丸君がいるかどうかなんてまったく気にしていないのだけれど。今だって、安曇さんが花丸君に話しかけるまで、部屋にいたのに気づかなかったほどよ」
とのたまう。
さっき俺に催眠術をかけようと話しかけてきた人がいたが、一体誰だったかな?
「じゃあ、まるモンがいなくても来てくれるよね」
今日の安曇さんは攻めの姿勢らしい。橘の手を取って、まるで飼い主が現れるのを待っている子犬のような表情をしている。
「……しょうがないわね」
俺との交渉では、滅多に折れることの無い橘が、簡単に折れてしまった。
さしもの橘も安曇の願いには弱いらしい。この人権不平等が罷り通っている現状を、誰かに訴えたい気分だ。
「でも、今日は花丸君と金魚鉢を見る約束をしていたわよね」
と俺の方を見て言う。
さも当然のように言っているが、
「身に覚えがないんですけど」
身に覚えのない催促は無視しましょうと、消費者庁が呼び掛けていたが、まさか本当にそんな状況に陥るとは。危ない危ないワンクリック橘。クリックしなくても催促される始末。
「女の子の御機嫌を取ろうと、果たす気のない口約束ばかりするなんて、あなた本当最低ね」
「お前は何を言っているんだ?」
「金魚のこと教えてくれるって言ったじゃない。これもその延長よ」
まじかよ。確かに電話でそのような話をした気がするが。
「……別な日でいいだろ」
もはや行くことは仕方ないとして、わざわざ今日行く必要もなかろう。
「私の花丸金に、いつまでもバケツで泳げと言うの?」
「その花丸金っていうのそろそろ卒業しない?」
「あ、私は別に今日じゃなくてもいいんだけど」
気の使える安曇は、場を穏便に済ませようとしてくれている。友達に、自分との映画より、金魚鉢を優先されるというのもどんな気持ちだろうか。
「だめよ。せっかくのお誘いなのだから、花丸君の都合なんかのために、日程をずらすのも申し訳ないわ」
俺の都合じゃなくて、お前のエゴだろうが。
「私と安曇さんが、映画を見ている間、あなたを待たせるのも申し訳ないから、花丸くんも見ましょうよ」
え、えー?
「先にパパっと見ればよくないか?」
それで俺だけ帰ればいい。
そう提案したら橘は安曇の方を見て、
「……安曇さん、映画って何時からかしら?」
安曇はスマートフォンを取り出して、フリックしてから、
「十四時からのと、後は……、十八時から」
十四時のは今から映画館に向かえば間に合うが、暢気に金魚鉢を選んでいる時間などない。十八時からのしてしまうと、それまで時間が空きすぎてしまう。
「花丸くん。今日来てくれないのなら、穂波さんに、花丸くんが私に対してした、セクハラ行為を洗いざらいぶちまけるわよ」
……。
少しく自覚のあった俺は、妹に醜態を晒すわけにも行かず、橘の言うことに従うしかなかった。
「……わかったよ。俺も見るよ」
「決まりね」
橘がほくそ笑んだように見えたのは気のせいだろうか。
多分気のせいじゃないな。
三人で自転車をこいで、学校近くのモールへと向かった。
夏休みとあって、学生らしき人間で、平日の昼間ではあったが、混雑していた。
今になって、女子二人と歩いているこの奇異な状況を、誰かに見られることのリスクを鑑みる。
学校で変に噂されるのは面倒だ。そう思って、俺は二人から少し離れるようにしてついていこうと思ったのだが、少し離れたところで、
「花丸君。あまり離れると、不審者だと思われて捕まるわよ」
「いや、なんでだよ?」
「どう見ても、女子高生をつけ狙っている変質者にしか見えないでしょう」
「おい、俺も制服着ているんだぞ」
「コスプレしてまで近づくなんてかなり悪質ね」
これ以上ごちゃごちゃ言われるのも、ただ俺が疲れるだけなので、仕方なく二人に追いついた。
知り合いに見られないことを祈る。
何とはなしに、通りすがる店を見てみる。
服屋に服屋に服屋。それも女物ばかり。
いつも思うのだが、どうしてこういう所の店は、女性服ばかり置いているのだろう? 俺の知る限りでは、男と女の数は、生産年齢人口まではほぼ一緒だし、大体は男子の方が多い。それなのに、女性服を売っている店が多数だ。それも、どれも同じように見える服を。
あるものを売っている店が、ちらと視界に入って来たのに気づいた。
悪いことをしていないのに、背徳感を覚えさせる店。
どうしてああも主張激しく売るのだろう。ライトで煌々と照らしてまで。
ああされると、いやでも見てしまうではないか。
視線の先にあるのは下着屋。無論レディースの。
マネキンに着させた、女性下着のほか、色とりどりのブラとショーツが目に飛び込んでくる。
ピンクに赤に黄緑に、イエロー。
まるで花畑だ。
なんでか知らないが、口から垂れそうになった涎を拭ったところで、視線を痛いほど向けられているのに気が付いた。
「……まるモン」
安曇が俺の名を躊躇いがちに呼ぶ。
「花丸君。女性の下着を見て、ヘラヘラするのやめてもらえる?」
「まるモン、最低」
この場に俺の味方はいないらしい。
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