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恋慕日記
茶を飲み待夢
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尾張人のカフェ好きには、目を見張るものがある。
意外に思われるかもしれないが、カフェでコーヒーを頼むと、軽食のついてくるモーニングサービスというのは、尾張西部が発祥の文化だ。
嘘だと思うなら、愛知県で午前中に適当な喫茶店に入ってみるといい。驚くほど人で賑わっている。カフェというと静かなイメージがあるかもしれないが、愛知のそれは、多くの人が集まり、賑わう場所というのが定説だ。
カフェの起こりが、種々の知識人の話し合いの場であったことを考えると、ある意味ではそれが自然の姿なのかもしれないが。
ともかく、愛知県民のカフェ好きは、どうやら若いころから形成されるようである。
そんなことを思いながら、俺は、カフェの隅の席に座り、制服を着た女子高生の一団を、そっと窺うように見ていた。
「先輩に~、チョコ渡そうと思っているんだけど~、男子って甘いもの好きじゃない人もいるじゃん。どうすればいい?」
「自分にリボン巻いて、私を食べてって言ってみたら?」
「「それはやばい」」
きゃはははは、と黄色い声が上がる。
よく公共の場で、あんな恥ずかしい話ができるものだ。人は集団になると周りが見えなくなるらしいが、これもその一例なのだろう。どこの、おバカな高校生がそんな話をしているのかと思って、制服をよく見てみたら、うちの高校の校章を胸につけていた。……ご近所様に、神宮高校の生徒は、平日の朝から痴話をする子らだと思われると思うと、ため息をつきたくなる。
平日の朝。本来であればもうすぐ始業時間だ。
本日は、予餞会当日。集合場所は教室ではなく、市民会館となっている。
どのくらいの時間がかかるかよく分からず、早めに家を出たら、予想以上に早くについてしまったので、市民会館近くのカフェで時間を潰しているところである。
その女子たちはチョコがどうの、と言っているが、おそらく二月十四日の話をしているに違いない。
そう。もうすぐ記念すべき二月十四日がやってくる。
北海道阿寒湖に生息する、まりもを擬人化したキャラクター、まりもっこりの誕生日である。
なぜかは分らないが、この日は、日本中の若い男女がキャッキャウフフして、まりもっこりの生誕を祝う。女子は男子にチョコレートを贈り、男子はそれを受け取り、もっこりするのだ。……滅びればいい。
閑話休題。
一月も下旬。三年生はセンター試験を終え、その結果に一喜一憂し、二月に控える二次試験の準備に勤しんでいる事だろう。けれど今日だけは、勉強の事を忘れて、下級生の用意した、出し物を楽しんでもらう。
選考会で高い得点を取った上位四クラスの演技に加え、有志によるダンス発表、アカペラ部の歌唱、ブラスバンド部の演奏など、出し物は多岐にわたった。どれも習熟度が高く、とても同じ高校生がやっているとは思えなかった。
毎年、クラス発表で予餞会の上位に食い込むのは、二年生らしい。経験の浅い一年生は、なかなか予餞会のステージに立つことができない。今年も例外なく、一年のクラスで、本選出場を果たしたところはなかった。
そんな様子を見て、端から二年生には加点されているのでは、というやっかみとも取れる噂が囁かれたのだが、本番の劇を見たところ、確かに二年生の演技の方が、演技もシナリオも数段優れていたように思えた。
別段、本選に出られなくとも、相当の時間をかけて準備された、上位クラスの寸劇を見るだけで、なかなか楽しめる。むしろ、緊張することなく演技を見られるので、楽しむというだけなら、座っているだけの方がいいのかもしれない。こういうと、負け犬の遠吠えのように聞こえるのだが、ほとんど劇にかかわらなかった俺としては、それが本当に本心だった。……人前に立って道化をやるとか、日陰者には辛すぎる。
劇は楽しめた。だが、何より印象に残ったのは、閉会式での出来事だった。
閉会式。前に立ったのは、生徒会執行委員長、綿貫萌菜。人呼んで女傑である。
彼女は、自らのクラスでも、主演女優を務めた。演劇部員ではないというのに(演劇部は今はもうないが)、堂々たる演技を見せ、主演女優賞を得ている。
ちなみに、綿貫は癒やし部門で天使大賞を得ている。聞くところによると、綿貫を見た審査委員長が急遽作った賞らしい。誰か知らんが、そいつとは友達になれそうだ。
閑話休題。
執行委員長にして、主演女優賞を得た萌菜先輩が行う、閉会のスピーチ。自然皆の注目が集まる。何かやってくれるのではないか、と。
萌菜先輩はそんな期待を裏切らなかった。
三年生に対する、感謝と、卒業の前祝いの言葉、そして残る受験の激励を述べて、最後に萌菜先輩は言った。
「最後に、この場を借りて言うのもなんですが、尊敬する三年生の先輩、そして大好きなあなたに向かって歌を届けます」
「え~、傑様。こんなところで、我恥ずかしいですぅ」
萌菜先輩の言葉に続いて、司会を務めていた、執行副委員長の、榎本先輩がおどけた調子で言った。
「榎本。お前じゃないから安心して」
それにぴしゃりと萌菜先輩は突っ込みを入れる。
会場は爆笑の渦に包まれる。そして、あちこちから、囃すような声や、指笛が聞こえてきた。
「では、聞いてください」
萌菜先輩が息を深く吸ったと同時に、呼応して、すぅと、会場が静かになった。
ステージに立つ彼女の口からこぼれる音は、まるで七色に輝く、帯が会場を包み込むかのようだった。俺の座る席は、会場のかなり上方で、舞台からは離れていたのだが、それでも萌菜先輩の姿が、大きくくっきり目に映った。
天使の歌声。そう表現するほか、言うべくもない。
綺麗な声だ。それでいて、力強い。
萌菜先輩が歌ったのは、尾崎豊のI love you。
さっきまでの和気あいあいとした雰囲気は、どこかへと消え、会場にいる誰もが、彼女の歌声に聴き入っていたと思う。
自分の親世代と同じ、昭和の天才が、齢十七の頃に歌った、愛の歌。俺たちの生まれる前に亡くなった彼の歌が、こうして平成生まれの高校生たちを感動させている。中には、ハンカチで目頭を押さえているような生徒もいた。
それは一つの芸術だった。どこにもいやらしさなどなく、純粋な美しさだけがそこにはあった。
俺は自分の体が、彼女の歌声に痺れるのを止めることはできなかった。ともすれば涙さえ出てきてしまいそうだった。
最後まで、完璧に歌い上げた彼女は、最後に礼をして、スタンディングオベーションの状態となった会場からは、彼女が舞台袖に下がった後も、拍手の音が鳴りやまなかった。
その歌唱を以て、綿貫萌菜という女性は、本当に能力に溢れた、超人のような人なんだということが、全校生徒に改めて知らしめたのだ。
そんな萌菜先輩が惚れた三年生の先輩か。一体どのような人だろうか。
俺はふと、夏の頃に見た光景を思い出した。
井上生徒会長と楽しそうに話している萌菜先輩。萌菜先輩はたいてい笑っているが、あの時彼女がしていた表情は、決して俺の前では見せない表情だったと思う。
もちろん、萌菜先輩は俺と比べるべくもなく、交流の広い人だ。彼女が他の人間とどういう関係を築いているかなんて、俺には知りようがないが。
……機会があったら、萌菜先輩の口上に勘違いして、言い寄った三年生が、どれくらい居たか後で尋ねてみよう。その前に先日の件については、謝らないといけないだろうが。
彼女の最後の、歌唱によって、一位をとったクラスの劇もなんだか霞んでしまったような気がしたが、まあこれも一興だろう。どちらにせよ、三年生は楽しめたはずである。
こうして神宮高校予餞会は幕引きとなった。
意外に思われるかもしれないが、カフェでコーヒーを頼むと、軽食のついてくるモーニングサービスというのは、尾張西部が発祥の文化だ。
嘘だと思うなら、愛知県で午前中に適当な喫茶店に入ってみるといい。驚くほど人で賑わっている。カフェというと静かなイメージがあるかもしれないが、愛知のそれは、多くの人が集まり、賑わう場所というのが定説だ。
カフェの起こりが、種々の知識人の話し合いの場であったことを考えると、ある意味ではそれが自然の姿なのかもしれないが。
ともかく、愛知県民のカフェ好きは、どうやら若いころから形成されるようである。
そんなことを思いながら、俺は、カフェの隅の席に座り、制服を着た女子高生の一団を、そっと窺うように見ていた。
「先輩に~、チョコ渡そうと思っているんだけど~、男子って甘いもの好きじゃない人もいるじゃん。どうすればいい?」
「自分にリボン巻いて、私を食べてって言ってみたら?」
「「それはやばい」」
きゃはははは、と黄色い声が上がる。
よく公共の場で、あんな恥ずかしい話ができるものだ。人は集団になると周りが見えなくなるらしいが、これもその一例なのだろう。どこの、おバカな高校生がそんな話をしているのかと思って、制服をよく見てみたら、うちの高校の校章を胸につけていた。……ご近所様に、神宮高校の生徒は、平日の朝から痴話をする子らだと思われると思うと、ため息をつきたくなる。
平日の朝。本来であればもうすぐ始業時間だ。
本日は、予餞会当日。集合場所は教室ではなく、市民会館となっている。
どのくらいの時間がかかるかよく分からず、早めに家を出たら、予想以上に早くについてしまったので、市民会館近くのカフェで時間を潰しているところである。
その女子たちはチョコがどうの、と言っているが、おそらく二月十四日の話をしているに違いない。
そう。もうすぐ記念すべき二月十四日がやってくる。
北海道阿寒湖に生息する、まりもを擬人化したキャラクター、まりもっこりの誕生日である。
なぜかは分らないが、この日は、日本中の若い男女がキャッキャウフフして、まりもっこりの生誕を祝う。女子は男子にチョコレートを贈り、男子はそれを受け取り、もっこりするのだ。……滅びればいい。
閑話休題。
一月も下旬。三年生はセンター試験を終え、その結果に一喜一憂し、二月に控える二次試験の準備に勤しんでいる事だろう。けれど今日だけは、勉強の事を忘れて、下級生の用意した、出し物を楽しんでもらう。
選考会で高い得点を取った上位四クラスの演技に加え、有志によるダンス発表、アカペラ部の歌唱、ブラスバンド部の演奏など、出し物は多岐にわたった。どれも習熟度が高く、とても同じ高校生がやっているとは思えなかった。
毎年、クラス発表で予餞会の上位に食い込むのは、二年生らしい。経験の浅い一年生は、なかなか予餞会のステージに立つことができない。今年も例外なく、一年のクラスで、本選出場を果たしたところはなかった。
そんな様子を見て、端から二年生には加点されているのでは、というやっかみとも取れる噂が囁かれたのだが、本番の劇を見たところ、確かに二年生の演技の方が、演技もシナリオも数段優れていたように思えた。
別段、本選に出られなくとも、相当の時間をかけて準備された、上位クラスの寸劇を見るだけで、なかなか楽しめる。むしろ、緊張することなく演技を見られるので、楽しむというだけなら、座っているだけの方がいいのかもしれない。こういうと、負け犬の遠吠えのように聞こえるのだが、ほとんど劇にかかわらなかった俺としては、それが本当に本心だった。……人前に立って道化をやるとか、日陰者には辛すぎる。
劇は楽しめた。だが、何より印象に残ったのは、閉会式での出来事だった。
閉会式。前に立ったのは、生徒会執行委員長、綿貫萌菜。人呼んで女傑である。
彼女は、自らのクラスでも、主演女優を務めた。演劇部員ではないというのに(演劇部は今はもうないが)、堂々たる演技を見せ、主演女優賞を得ている。
ちなみに、綿貫は癒やし部門で天使大賞を得ている。聞くところによると、綿貫を見た審査委員長が急遽作った賞らしい。誰か知らんが、そいつとは友達になれそうだ。
閑話休題。
執行委員長にして、主演女優賞を得た萌菜先輩が行う、閉会のスピーチ。自然皆の注目が集まる。何かやってくれるのではないか、と。
萌菜先輩はそんな期待を裏切らなかった。
三年生に対する、感謝と、卒業の前祝いの言葉、そして残る受験の激励を述べて、最後に萌菜先輩は言った。
「最後に、この場を借りて言うのもなんですが、尊敬する三年生の先輩、そして大好きなあなたに向かって歌を届けます」
「え~、傑様。こんなところで、我恥ずかしいですぅ」
萌菜先輩の言葉に続いて、司会を務めていた、執行副委員長の、榎本先輩がおどけた調子で言った。
「榎本。お前じゃないから安心して」
それにぴしゃりと萌菜先輩は突っ込みを入れる。
会場は爆笑の渦に包まれる。そして、あちこちから、囃すような声や、指笛が聞こえてきた。
「では、聞いてください」
萌菜先輩が息を深く吸ったと同時に、呼応して、すぅと、会場が静かになった。
ステージに立つ彼女の口からこぼれる音は、まるで七色に輝く、帯が会場を包み込むかのようだった。俺の座る席は、会場のかなり上方で、舞台からは離れていたのだが、それでも萌菜先輩の姿が、大きくくっきり目に映った。
天使の歌声。そう表現するほか、言うべくもない。
綺麗な声だ。それでいて、力強い。
萌菜先輩が歌ったのは、尾崎豊のI love you。
さっきまでの和気あいあいとした雰囲気は、どこかへと消え、会場にいる誰もが、彼女の歌声に聴き入っていたと思う。
自分の親世代と同じ、昭和の天才が、齢十七の頃に歌った、愛の歌。俺たちの生まれる前に亡くなった彼の歌が、こうして平成生まれの高校生たちを感動させている。中には、ハンカチで目頭を押さえているような生徒もいた。
それは一つの芸術だった。どこにもいやらしさなどなく、純粋な美しさだけがそこにはあった。
俺は自分の体が、彼女の歌声に痺れるのを止めることはできなかった。ともすれば涙さえ出てきてしまいそうだった。
最後まで、完璧に歌い上げた彼女は、最後に礼をして、スタンディングオベーションの状態となった会場からは、彼女が舞台袖に下がった後も、拍手の音が鳴りやまなかった。
その歌唱を以て、綿貫萌菜という女性は、本当に能力に溢れた、超人のような人なんだということが、全校生徒に改めて知らしめたのだ。
そんな萌菜先輩が惚れた三年生の先輩か。一体どのような人だろうか。
俺はふと、夏の頃に見た光景を思い出した。
井上生徒会長と楽しそうに話している萌菜先輩。萌菜先輩はたいてい笑っているが、あの時彼女がしていた表情は、決して俺の前では見せない表情だったと思う。
もちろん、萌菜先輩は俺と比べるべくもなく、交流の広い人だ。彼女が他の人間とどういう関係を築いているかなんて、俺には知りようがないが。
……機会があったら、萌菜先輩の口上に勘違いして、言い寄った三年生が、どれくらい居たか後で尋ねてみよう。その前に先日の件については、謝らないといけないだろうが。
彼女の最後の、歌唱によって、一位をとったクラスの劇もなんだか霞んでしまったような気がしたが、まあこれも一興だろう。どちらにせよ、三年生は楽しめたはずである。
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