振り向けば君がいた

和之

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第三十一話

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   それは一枚の便箋に走り書きのように数行だけ書かれていた。
 私と結婚する前に公務員の父が昔、数ヶ月泊まり込みで丹後の出張所へ行きました。その時に父は実母と知り会った。父は熊本に戻ってからあなたが生まれた。実母は一人で育てるつもりだったが、苦しくて二歳に成る前にあなたは父に引き取られた。
 二十年前の出来事を数年前に綴《つづ》った便箋を彼女は仕舞った。
「二十年も育ててくれたとは思えないほど今の母は簡単な手紙をくれたでしょう」
「まあね、で、覚えてないの?」
「まったく覚えてないの」
「それから実の母には会ったの?」
「すぐに今のお母さんが知らせてくれた住所に手紙を書いた。そして返事をもらってから一度会いに行った」
「一度だけ」
「深山さんに知られたくなかったから、でもあなたの事で此の前もう一度会った。電話ではよくやりとりはしていたわ」
 ーー母は命掛けて私を授かったのに、その相手には婚約者がいた。上司の娘さんだった。それが私の恋の真実を追究する原点に成っている。
「それでヘッセのあの本を勧めたのですか」    
「あなたの理解力には感心した。あなたには他の人にはない物が備わってると信じてるの」
 その原点に照らし合わせれば深山はどうなのだろう。すでにその枠に当てはまらないのは確かだ。
「なぜそう言い切れるんですか、それに深山さんを実家に連れて行ったからこそあなたはお母さんに会える機会が出来たと言ってもよい人なのに・・・」
 確かに彼のお陰で会えたと頷く希美子に理由を尋ねる。この言葉に今度は歯切れが悪くなる。
「どう言えばいいのかしら」
 と車窓に目を移し、困惑するように小首を傾げて人差し指をこめかめに当てながら「あの人は悪い人じゃないんだけど」と切り出した。ちょっと眉を寄せて困惑する顔を見ると思わず抱き締めたくなった。      
「何を躊躇《ためら》ってるんです」      
「よく判らないの・・・どう分析していいか・・・。巧く言い表せない・・・ただ受け入れようとしない自分がいるだけかも知れない」
 嫌いな理由は見つけても好きになれない理由《わけ》は様々《さまざま》な要因が絡み合うらしい。
  ーー深山は以前にあなたが前の会社で作った物を貶してたけど。それ以外にもあなたは学校紹介の会社をすぐ辞めてしまうような根性のない奴だから庇うのは止めるように忠告された。何でそんな風に言うのと口論になった。最後は気が合わなければしょうがないでしょうと言ったけど・・・。合わなくしたのはあなたかしら?
 この時、列車は車輪を軋ませ大きく曲がった。彼女の体が妖艶な瞳のままぐぐっと寄りかかって来る。この一連の仕草と言葉が見事に共鳴して、苦悩する彼女の煩悩のすべてをこのまま身体ごと引き受けそうになった。
「じゃあどうしてぼくを実の母に会わせようとするんです」
「この街は古いけど考え方は新しい。九州って割と父も含めて古い考えの人が多いの、深山さんを連れて行った時も誰も反対しなかった。でもあなたは絶対反対した。年下だから、ただそれだけで他に理由はないの」
 熊本の駅前ではどれだけの涙と引き換えても埋め尽くせなかった理由《わけ》がそこにあった。
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