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(28)第六章
しおりを挟む窓から射し込む朝日が夢をむさぼる佐恵子の安眠を妨げて「夢見る頃は過ぎたのよ」と彼女を現実に戻した。
半身を起こした彼女は「なぜ朔郎に会ったのだろう」と自問した。それから白々と四隅が明け始めた頃に今の私を支えて居る夫の寝顔を映し出した。
台所には朝の陽射しが裏窓を掠めて彼女に生気を与えるように今日も降り注いだ。
トーストの焼き上がる音とポットの沸騰を知らせる電子音が鳴った。
「あなた、朝よ!」
階下に立つ佐恵子の声が響いた。二階から正幸の声が返って来ると台所に戻った。
彼女が野菜を洗い皿に盛り付ける頃には洗面を終えたパジャマ姿の正幸がキッチンテーブルに着いた。
「昨日も先に休んでしまってごめんなさい」
佐恵子はコーヒーカップに熱いコーヒーを入れながら砂糖のような甘い言葉を添えて出した。
正幸は上目遣いに佐恵子を見て軽く奥歯を噛み締めた。
「 気にすることはない、それよりかおりはもう学校に行ったのか」
「ええ・・・」
「 気にすることはない」とまた意味不明な言葉を繰り返した。彼はすぐにパンを頬張り、野菜とハムエッグを交互に食べ出した。
正幸は朔郎より良く喋る人だった。一緒になってからもそれは変わらなかったが最初の子供が死産すると、余程のショックだったのか仕事に埋没して口数も減って来た。しかし記念日やお互いの誕生日、その他の特別な日にはまめにその日に相応しい物を買って真っ直ぐ帰宅していた。単調な二人の生活には正幸の心遣いは嬉しかった。だが記念日と云う過去に執着して此の先の未来志向がぼやけて仕舞うのが悲しかった。何か有った日を大切にするのは良いが「これからどうするの」と云う先の事が脱落していた。
食事が済み正幸は居間で着替えると佐恵子は後片付けを始めた。
正幸はいつも自分でするから手間が掛からない。常に手際よく身なりを整えて行く。どんなに遅く帰宅しても飲み過ぎても、翌朝には上から下までビシッと決めて行った。最初はバサバサの頭でどうなるのか気を揉んでも数分で整髪する。
佐恵子の用意したスーツに身を固めて、彼女が磨いた靴を履いて出て行く。この一連の動作を毎日佐恵子はチェックするが常に手抜きがなかった。
「じゃ行ってくるよ」
夫は挨拶をするが気持ちはもう家を飛び出していた。
「いってらっしゃい」
佐恵子は抜け殻に向かって返事をする。
幾度となく繰り返されるこの短い言葉の韻律に一喜一憂した日々が過ぎて久しい。今ではお互いの立場と存続を確認する合い言葉になっていた。だがたとえ白髪になろうとこの言葉だけは一日として絶やしたくなかった。この短い言葉にお互いの信頼が結ばれていると正幸はともかく佐恵子はそう思っていた。
朝の片付けが終わり居間の鏡台で鏡を覗き込んだ。鏡は彼女の重ねた年月(としつき)を映し思わず眉を寄せた。彼女は深い溜め息の後に浅い化粧をして紅を引いた。
「何かが違っている。それは自分が変わったのか、それとも正幸なのか・・・」
鏡に映った自分に気を取られてつかの間の時間が奪われた。佐恵子は手当たり次第に詰め込んだバッグを肩に掛け慌ただしく駅に向かった。
夫と彼の両親の助けを借りて郊外にあるこの家を買った。当時はこの辺りにはまだ広い田畑が残っていた。食事支度の手を休めては窓から眺めたものが、今では宅地化されて僅かな田畑しか残っていなかった。それは流産した彼女と同じように周りから取り残されていた。家以外には築いた物が無かった。それで十分と思う人も居るが、形でなくもっと大切な物を残したいと望む人にとっては一抹の寂しさは拭い切れなかった。
駅までのいつもの町並みまでが今日は妙に無彩色のモノトーンな古い物に感じられた。人さえも無機質に見えて顔を合わせるのさえ険悪感を漂わせてしまった。
電車内でも空いた席に座らずドアに横向きに凭れ過ぎゆく景色に身を任せていた。
「いつもと変わらない朝なのにさっきは鏡の前でいったい何を考えようとしたのかしら」
電車は桂川の鉄橋を渡り掛けると、雲の切れ間から夏を思わす強い陽射しが佐恵子を捉えた。眩しさに目を背ける内に電車はすぐに地下鉄線に入った。陽射しは閉ざされて窓の外には闇が一気に広がった。
佐恵子は愁眉を解きドアの外に視線を移した。窓ガラスに映る顔が自分の姿だと気付くのに時を要した。
浅い化粧は暗い地下鉄線内では目立たなく素顔に近い。それでも一向に気にならなかった。がこの日は内向き志向なのか車内の乗客の視線が気になった。
地下鉄を降りて秋の陽射しを一杯に浴びて北山通りを歩き出すとやっといつもの自分に戻れてほっこりとした。
は
いつも独りだった朔郎に友人がいる事を知ったのは、珍しくその日は友達と一緒にいるのを偶然に見つけてからだった。私は思わず話しかけると朔郎は紹介もせずにすぐに彼とは別れて仕舞った。だから単なる同じサークル活動の友人と思った。でも話を聞く内に高校時代からの友人でしかも別の大学生だと知って驚いた。
友人は経済に強い私立の大学生だった。朔郎の文学部志向はその友人の影響だと聞かされてまた驚いた。いったいこの二人はどういう友人なのだろうと興味を持つが、関心を持てば持つほど朔郎はその友人を遠ざけてしまった。
スッカリ話題にも上らなくなった有る日に、朔郎は友人の正幸を全くの突然に紹介したのだった。それからは成り行きで三人揃っても正幸を急に帰す事は無くなった。正幸を通じて朔郎への新しい発見も有った。
元来この二人は動の正幸に対して静の朔郎と云うように二人は際立っていた。その成り立ちも真逆で文学志向が強かったのは正幸の方だった。それに朔郎が感化されたらしい。だが大学受験を前にしてハッキリとした現実路線を採ったのが正幸だった。それに引き換え自然派の朔郎は単独行動で写真活動派だった。その朔郎に乗り物での移動中に読書を勧めたのが正幸だった。正幸は朔郎を通じて山登りにも興味を持った。
この様にして陰と陽に開きが有る二人が長い友情を続けられたのはお互いにない物を求めた結果だった。だがそれに区切りを付けるべく行ったのが最後の穂高縦走だった。
それから二人は全く別々の道を十数年も遠ざかっていた。しかも意識的にどちらかと云うとそれは正幸の方ではという気がしてならなかった。
佐恵子は幼い時に父に連れられて近くの川へ遊びに行った。そこで自分の不注意で足を怪我した。
大声で泣く佐恵子に父は「不可抗力なら仕方がないが不注意なら泣くな」と厳しい顔で父に叱られた。痛みより父の厳しさに声が出なくなった。けれど父はすぐに優しく私を抱きかかえて夕暮れの家路を背中におぶってくれた。父の温もりを一杯に感じて周りに染まる夕陽の朱までが暖かく思えた。あの時に感じた幸せを朔郎に求めた結果、私は何をしていたのだろう。正幸から何を得られたのだろう。
今日も佐恵子は気が晴れないままに北山のブティックに辿り着いた。
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