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3:<月曜日> マサラチャイ

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 退職届を出して二週間、楓は次の職を探していた。

(駄目だ、条件に合う求人が見つからない)

 ウェブサイトを見ても、中途採用の条件には、前職の継続年数などが書かれている。
 資格や実務経験、列挙されている内容は楓の持たないものばかりだ。詰んだ。
 職業案内所にも行ってみたけれど、一年未満で仕事を辞めた人間への風当たりは強く、なかなかよい求人がないのが現状だった。

(次は異業種に転職したいな、あんな生活はもう嫌だし)

 と思っているのだが、案内されるのは似たような環境の同業他社ばかりなのであった。

(勢いで退職届を出してしまったけど、仕事を続けていた方がよかったかな)

 今頃になって、後悔が襲ってくる。

(いや、あのまま働き続けるのは無理! 過ぎてしまったことは、どうしようもない。とりあえず、次だ)

 貯金は少しだけあるけれど、すぐに底をつきてしまう。家賃が払えなくなるのは恐怖だった。
 地元に戻るという選択もあるが、楓の実家付近に仕事はない。寂れた地域なのだ。
 転職サイトのチェックを終えると、昼の十二時になっていた。

(お腹、空いたかも。久々にカレーが食べたいな)

 あのあと、なんとなく洋燈堂に足を運んでいなかったが、そろそろ店の味が恋しい。
 少し悩んだ末、楓は洋燈堂へ向かうことにした。

 昼過ぎの駅前には、外回りのサラリーマンやベビーカーを押す子連れの母親、買い物目的のお年寄りがちらほら見かけられる。
 自分だけが社会の流れに取り残されているような、妙な寂しさを感じてしまった。
 人のいない静かな通りを抜けると、洋燈堂が見えてきた。正面に大きなバイクが止まっている。

(お客さんかな?)

 錆びた階段を上ると、いつも通りメニューが置かれていた。

 <月曜日>
 本日のカレー(赤いチキンのカレー)

 この間のメニューと変わっている。
 曜日ごとに内容を変えているわけではないのかもしれない。

(月が変わったから、そのせいかな) 

 扉越しでも香る、カレーのスパイスの匂い。
 以前の食欲がなかった日々でも、ここの料理だけは食べられた。それが不思議だ。
 扉を開くと、調理中のお兄さんと目が合う。

「あ……いらっしゃいませ!」

 目をぱっちり開けた彼が、急にふわりと頬を緩める。破壊的な笑顔。

(ちょっと、心臓に悪いな)

 一番奥のカウンターには、楓の他にもう一人先客がいた。
 黒の革ジャン着た、ガタイがよくて強面の男性だ。
 彼から立ちのぼる、ただならぬ威圧感に気圧され、楓は離れた手前の席に座ってお兄さんに注文した。

「カレーと、アイスチャイください」

 以前頼んだ、この店のチャイが気に入ったのだ。
 また飲みたくて、スーパーでインスタントのチャイを買ったけれど、甘いだけで全然チャイの味ではなかった。
 あの緑色や茶色のスパイスと木の皮、すりおろした生姜が必要なのだ、きっと。
 作り方を盗み見られないかと思い、楓はキッチンをのぞき込む。
 ちょうど、男性客のカレーができあがったところみたいだ。

「はい、田中さん。赤いチキンのカレーの甘口スペシャルと蜂蜜増し増しラッシーです」

 思わず、耳を疑った。

(甘口スペシャル、なんじゃそりゃ? そんなメニューあるの?)

 しかも、それを頼んでいるのは、めちゃくちゃ強面の男性だ。似合わない。
 男性客は満足そうに頷くと、甘口スペシャルを無言で食べ始めた。一見、普通のカレーに見えるけれど、甘いのだろうか?
 前に注文したスープカレーは、中辛くらいだったと思う。
 そうしているうちに、お兄さんは楓の分のカレーも持ってきてくれた。

(しまった! 甘口スペシャルに気を取られて、チャイの作り方を見逃してしまった!)

 赤いカレーは食欲をそそる香りで、ジューシーそうな鶏もも肉が乗っている。
 よく炒めたタマネギも食べるのが楽しみだ。パラパラとパクチーが振りかけられている。

「いただきます」

 まずは一口、カレーとご飯を口へ運ぶ。ふわりとスパイスやトマトの香りが口全体に広がった。
 お皿にはサブジも置かれている。そういう盛り付けのようだ。
 全部をまぜて食べてみると、濃厚な赤いカレーとサブジの酸味が合わさって、絶妙な味わいになる。楓は無言でカレーを頬張り、完食した。
 チャイも、もちろん味わって飲み干す。

(これこれ、この味だよ。この味が飲みたかったんだよ!)

 楓がチャイを楽しんでいる間に、男性客はお金を置いて店を出て行った。
 ギャップが、すごかった……
 自分も会計をしようと楓が立ち上がると、お兄さんが話しかけてくる。

「体調は、もう大丈夫なんですか?」
「あ、はい。この間は、本当にお世話になりました。今は食欲も戻りました」
「今日は、会社はお休みですか?」
「……っ!」

 思わず、楓は息を飲み込んでしまう。
 しかし、お兄さんには迷惑をかけてしまったので、その後の経過も報告しておいた方がいいと思い直した。

「えっと、退職しました。今はニートで求職中です……」

 気まずさに俯いて、セルフサービスの水を口にした。何度飲んでも、カラカラと口の中が乾いていく。
 けれど、お兄さんはいつもの表情、すなわち笑顔のままだ。

「それは、よかったです」
「え……?」

 予想外の答えが返ってきて、楓は固まった。「なにも辞めなくても」と言われるか、「そうですか」と返答に困り言葉に詰まられるか、そんな感じだと予想していたのだ。

「体力的に厳しいお仕事ではないかと感じていました。体を壊してしまったら、元も子もありません……って、あまり無責任なことを口に出してはいけませんね。一人暮らしということですし、家賃の問題もあるでしょうし」
「おっしゃるとおりです。早く仕事を決めないといけないんです」

 いつもの不思議な音楽が流れる店内で、お兄さんは、チャイをもう一杯サービスしてくれた。
 そして、ついでにおかしな提案を口にした。

「思ったのですが、ここで働けばよいのではないでしょうか」
「はい?」
「働き手募集中です」

 お客がいないのに!?
 ……という言葉をなんとか飲み込んだ楓は、「ですが」と言葉を濁す。

「一階なら、部屋が空いていますよ? 従業員になってくださるなら、タダでお貸しできます」

 倉庫で寝泊まりするの?
 ……という言葉も飲み込んだ。
 楓は、言いたいことを押さえ込むのが得意なのだ。小心者ともいう。
 そんな葛藤を知ってか知らずか、お兄さんは話を続ける。

「手前は倉庫ですが、奥に部屋があるんです。かつては祖父が暮らしていましたが、今は空き家状態で。ちなみに、僕は三階に住んでいます。店を出したばかりで軌道に乗れておらず、正社員の採用ではないのですが。次の仕事が見つかるまでのつなぎに、どうでしょう?」

 確かに、転職が絶望的に上手くいかない今、彼の提案は悪い話ではない。
 聞くと、一階の部屋には風呂やトイレが完備されているという。鍵も新しいものを取り付けてくれるそうだ。
 キッチンだけは二階だが、仕事のついでにお兄さんがまかないを作ってくれるとのこと。

(破格の条件だ)

 魅力的な提案に、楓の心は揺れ動いた。

「この店は、かつては祖父が営むバーだったんです。彼が亡くなったあと、僕が継ぎました。カレー屋としてですが。家賃がいらないので、なんとか経営できています。お給料は、お支払いできます」
「それだと、申し訳なさ過ぎるというか」
「これも、何かのご縁です!」
「……えっと、それじゃあ、考えておきます」

 と、お兄さんの勢いに押された楓は、その場で答えたのだが。
 翌日、事態は予想しない方向に進んでしまった。
 マンションのポストで、不吉なお知らせを発見してしまったのある。

「えっ、立ち退き!?」

 そこには、「オーナーさんが部屋に戻ってくるので、立ち退いて欲しい」という旨の手紙が入っていた。
 もともと楓の部屋に住んでいたオーナーさんは、転勤のため部屋を他人に貸し出すことにしたのだ。そして、賃貸物件となった部屋に、上京した楓が住み始めた。
 少しの間、この地を離れていたオーナーさんだが、また帰ることになったらしい。

 立ち退きの期限は、一週間後に迫っている。
 運悪くポストの上部に手紙が挟まっていたため、発見が遅れたのだ。

(絶望……!)

 規定の立ち退き料はもらえるが、これから住む家がないのは困る。
 新しく部屋を契約するには、敷金や礼金や手数料が高いという問題が立ちはだかっていた。
 だが、今の楓には、そんな問題を一発で解決できる方法がある。
 カレー屋での住み込アルバイトだ。

(早めに次の仕事が見つかれば、なんとかなるかも)

 無理矢理前向きに考えながら、楓は慌てて引っ越し業者を探す。
 他に選択肢はない。楓はカレー屋でのバイトを決めた。
 
 ※
 
 その日は朝から雨が降っていた。

「え、えっと。天野あまの楓です。これから、よろしくお願いします」

 灰色の空の下、引っ越し作業を手伝ってくれたお兄さんに、礼儀正しく挨拶する。

(大家兼、雇い主だし。駅で体調を崩したときの恩人だし)

 お兄さんは、雨に濡れてしまっているのに「気にしないで」と楓を気遣ってくれる。いい人過ぎだ。

「僕は賀来からい染といいます。これから、よろしくね」

 男性と同じ建物に住むことを少し心配していたけれど、お兄さん――染さんに関していえば、全く問題なさそうだった。
 新しい部屋は、日当たりが微妙だけれど、家具や家電は揃っているし、綺麗に掃除されている。
 染さんが、準備してくれたのだ。

「棚とか、テーブルは古くてすみません。自由に買い換えてくださっていいですから」
「いいえ、そのまま使わせていただきます。家具はプラスチック製の収納ボックス二つと、折りたたみ式のちゃぶ台と、ベッドくらいしかないので。ありがたいです」

 冷蔵庫などはマンションに備え付けられていたし、テレビは元々持っていない。
 建物の裏に小さな庭があり、洗濯物はそこに干せるようになっていた。

「何かあれば、上にいますので言ってください。店の奥に階段があって、その上が僕の部屋なので」

 一階から三階へ行くには、店を経由しなくてはならない。染さんは、なんの躊躇いもなく、店のスペアキーを楓に渡す。どこの誰とも知れぬ人間を警戒しなくていいのだろうか。
 引っ越しが一段落したところで、染さんは楓を二階の店舗へ呼んだ。

「少し、休憩しましょう。飲み物を淹れます」
「はい……」
「チャイでいいですか?」

 毎回頼んでいたドリンクを覚えてくれている。

「う、嬉しいです、チャイが好きなので。あの、作るところを、見せてもらえませんか?」
「構いませんけど」

 不思議そうな顔をする染さんに、楓は疑問に思っていたことを話してみた。

「実は、家でインスタントのチャイを飲んだのですが。お店のものと味が全然違ったんです。甘い紅茶にシナモン風の香りを無理矢理入れた感じで、あまりおいしくありませんでした」
「他のスパイスを入れていないか、入れていても香りが弱かったのかもしれませんね」

 染さんが手招きしてくれたので、楓はキッチンの中へ足を踏み入れた。
 カラフルなタイルの壁と、ヴィンテージ調の棚が並ぶ、おしゃれな空間だ。
 変なポスターや置物は、キッチンに置いていないらしい。

「この店で出すチャイはマサラチャイと呼ばれるもので、主に四種類のスパイスを使っています。植民地時代のインド発祥の紅茶ですが、昔は高級な茶葉が全部イギリスへ渡ってしまい、インドで庶民が飲めるのは商品にならない苦い紅茶ばかりだったそうです。それをおいしく飲めるように工夫したのがチャイの起源だそうで……」

 カレー屋をしているだけあって、彼は物知りだ。
 楓の目の前に、三つの瓶が並べられる。中には、緑色と茶色とスパイス、くるんと巻かれた木の皮が詰められていた。瓶の横には生姜がちょこんと置かれている。

「瓶の中にあるものは、なんですか?」
「カルダモン、クローブ、シナモンです。見るのは初めてですか?」
「はい、普段使うスパイスは、胡椒くらいなので」
「チャイに胡椒を入れるのもいいですね、味が引き立ちそうで」

 染さんは、瓶の中からいくつかスパイスを取り出して笑った。

「緑色のスパイス――カルダモンは、スパイスの女王と言われているんです。香りが爽やかで、リラックス効果もある。チャイにすると、甘みを引き立ててくれますよ。中にある種の香りが強いので、殻を割って使っています」

 渡されたカルダモンの匂いを嗅いでみる。スッキリ清涼感のある香りがした。

「続いて、茶色のクローブですが、こちらは漢方としても有名です。丁子と呼ばれていますね。独特な香りと苦みを持つスパイスです」
「もう一つの巻いた木の皮は……」
「シナモンスティックですね。こちらも甘みを引き立ててくれるスパイスです。他にカシアという名のシナモンも存在するのですが、この店でチャイに使うのは、こちらの丸く巻いたシナモンスティックです」
「聞いたことはありましたが、実物を見るのは初めてです。ツルツルしていますね」
「木の外側の上質な樹皮でできていて、あの形になるまで毎日巻き癖を付けるそうですよ」

 染さんは棚から、シナモンスティックとは別の木の皮を出して楓に渡した。

「匂いを嗅いでみてください」
「……あれ、シナモンの香り」

 けれど、シナモンスティックとは違い、ゴツゴツした木の皮を剥いだそのままの形をしている。

「これがカシアです。香りが強く、シナモンより安めです。僕は甘いものにはシナモンを、塩味のするものにはカシアを使っています」

 カシアは初めて聞いた。
 チャイニーズシナモンと呼ばれ、中華料理には欠かせない存在なのだとか。

「これらとすりおろした生姜を鍋に入れて、お湯で少し煮立てます」

 お湯が沸騰すると、スパイスの濃厚な香りが立ちのぼり始めた。顔を近づけるとむせそうだ。
 そこに、染さんは丸まった茶葉を投入する。

「アッサムCTCという茶葉です」
「シー、ティー?」
「紅茶の製法です。ミルクに合うアッサム紅茶の茶葉を押しつぶして裂いて丸めて作ってあります。細かい茶葉なので、短時間で濃い紅茶を淹れることができます」

 ティーパック紅茶か粉末紅茶しか使わない楓は、染さんの説明を夢中で聞いた。
 しばらくして、彼は大量の牛乳を鍋に流し込む。薄茶色のおいしそうなチャイの色になった。

「こうやって、チャイを作っていたんですね。市販の粉じゃ、この味は出ないかも」

 鍋の火を止めた染さんは、スパイスを漉してチャイを淹れてくれた。
 シロップを少し入れると甘くおいしい味になる、ホッとする飲み物だ。
 温かいチャイだけれど、秋の肌寒い日にはちょうどいい。

 窓の外では、しとしとと雨がまだ降り続いていた。
 これから寒くなるだろうし、そろそろアイスからホットに飲み物を移行する時期だろう。
 暖かいカップを持ちながら、楓は染さんの方を向いて告げる。

「お仕事、頑張りますね」
「そう気負わずに」

 緩い感じに微笑む染さんからは、彼が本当に仕事が好きなのだということが伝わってくる。

(どうなるかはわからないけれど、家を提供してもらった以上、精一杯働こう!)

 チャイを飲み終えた楓は、改めて強く決意したのだった。
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