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2:<月曜日> サブジとタンドリーチキン
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カレーのおいしい店、洋燈堂を訪れてから一週間が経った。
あれから数日間、以前のように体調がおかしくなることはなく、楓は会社に通い続けている。
相変わらずの精神的にきつい日々でも、同僚の若菜と一緒に食べるランチだけが息抜きの時間だ。
ランチといっても、内容は毎度コンビニおにぎりなのだけれど。
「ねえねえ、楓。毎日休憩室でおにぎりかパンだし、久々にお店に行かない? ずっと会社にいると、息が詰まっちゃう」
「そうだね。毎日だとお金が足りないけど、たまになら」
二人で入れそうな、近くの店をスマホのアプリで探してみる。
「あ、ここのイタリアンの店、よかったんだけど……定休日か」
店を検索する楓のスマホを見て、若菜もため息を吐いた。
「どうしよっか~」
何気なくつぶやく若菜の言葉に、予想外の方向から返事が飛んできた。
「馬鹿か! 他の店を探せばいいだけだろ! そんな簡単なこともわからないのかよ!」
驚いて声のする方に顔を向けると、同じ課の先輩社員が数人、笑いながら横を通っていった。会話を聞かれていたらしい。
吐き捨てるように言いたいことを言って、彼らは去っていく。
楓と若菜は気まずさに口をつぐんだ。
若菜は目的がわからずに「どうしよっか~」と、口にしたわけではない。「行きたかった店が定休日なら、代わりにどこの店に行こうか」と伝えたかっただけ。
それなのに、いきなり投げつけられた尖った言葉は、新入社員たちに対する当てこすりだ。
ここでは、誰も彼もが常にイライラしている。
「大丈夫だよ、若菜。いつもの八つ当たりだよ」
「うん、わかっているよ。平気だから」
そう口にした若菜が会社に来なくなったのは、翌日のことだった。退職するそうだ。
仲のよかった最後の同僚がいなくなり、お昼の時間が心細い。
夜にかかってきた電話越しに謝られたけれど、楓には彼女を慰めることしかできなかった。「頑張って会社に残ろうよ!」とは言えなかった。
そうしてまた、淡々と日々が過ぎて月曜になった。普通に起き上がれるけれど、体が重い。
着替えて鞄を抱え、この日も朝食を口にしないまま、始業時刻の数時間前にマンションを出る。
少しでも仕事を片付けないと、終電までに帰れなくなるからだ。
(早く駅に行かなきゃ。電車に乗って、会社へ……)
視界が揺れ、頭に靄がかかったように思考がまとまらない。
早足でロータリー抜けて、駅の入り口までやってきたが、急に息が苦しくなった。
思わず鞄を置いて、その場にしゃがみ込む。
(急いで改札を通らなきゃ、電車が来ちゃう!)
次の電車が到着するまでの十五分を、無駄にするわけにはいかない。
入り口の隅で蹲る楓の前を通り過ぎ、駅の中に吸い込まれていく人々。
ときおり、不思議そうな目で楓を見る人もいたが、声をかけることもない。
変に心配されると気まずいので、その方が助かった。
(ちょっと、気分が悪いだけ。すぐに治る)
地面に両手をついて、立ち上がろうと踏ん張ると、目の前に影が落ちた。
「大丈夫ですか?」
上を向けば、見覚えのあるお兄さんが、心配そうな顔で立っているのが目に入る。
(カレー屋さんの人?)
会社以外で話す人間はいないので、楓は彼を覚えていた。
それより驚いたのは、相手が楓を忘れていなかったことだ。
(一度訪れただけの、何の変哲もない客を覚えてくれているなんて)
慌てて立とうとすると、お兄さんに止められた。
「待って。倒れると大変ですので、僕につかまってください」
「いいえ、少し休んだら平気ですので」
「おうちの方に連絡しましょうか?」
「私は一人暮らしなんです。実家は遠くて……あの、お構いなく」
一度会っただけの相手に、迷惑をかけるわけにはいかない。
楓は彼の申し出を辞退した。
けれど、お兄さんは今の言葉を聞いていなかったみたいで、楓を担ぐ体勢に入っている。
「その、本当に、問題ないですから」
「近くに車を止めてあります。気にしなくていいですよ」
断ったにもかかわらず、楓はお兄さんの車で病院へ連れて行かれてしまった。
比較的駅に近い、小さめの休日診療所で診断された結果は、疲労と栄養失調。
精神的な問題もあるかもしれないということだった。
(お医者さんには、「ゆっくり療養してください」なんて言われたけど、今日も会社を休んでしまったし。これ以上の欠勤は痛いな)
点滴を打ってもらい、しばらく横になっていると、体の不調はなくなった。
動けなくなっていたのが嘘みたいだ。
会計を済ませ、お兄さんにお礼を言って帰ろうとしたのだが、そのタイミングで盛大にお腹の音が鳴ってしまった。時計を見ると、もう十時を回っている。
楓は驚いて彼に謝った。
「ごめんなさい。お、お店があるのに。こんなことに、付き合わせてしまって」
焦っていると、お兄さんは「まだ間に合うから、気にしないで」と笑って言った。
「それよりも、お腹がすいているなら、これをどうぞ。待っている間に、一度店に戻ったんです」
お兄さんは、二つのタッパーを楓に渡す。
「これは、お料理ですか。えっと……」
「たくさん作ったので、よかったら、食べてください。野菜が入っていますから」
一人暮らしでの不摂生な生活がバレてしまった。
彼の厚意を無駄にはできず、おとなしくお礼を言ってタッパーを受け取る。実際、ありがたい。
帰りは念のため、呼んでもらったタクシーで家まで戻った。出費が地味に痛かった。
家に着いてから、楓はお兄さんにもらったタッパーを開けた。中にはいい香りのおかずが詰まっている。
一つ目はカレー色の野菜炒め、そしてタンドリーチキン。
インド料理に詳しくないが、タンドリーチキンの存在は、なんとなく知っている。
二つ目のタッパーには、黄色のライスが詰められている。まるで、お弁当みたいだ。
楓は、さっそく遅めの昼食にする。まずは野菜から食べてみた。
(野菜は、レンコン、ブロッコリー、キャベツ。少し酸っぱい)
ほどよく酸味が感じられ、けれどもスパイシーで不思議な味だ。さっぱりとしていて食べやすい。
もう一つのタンドリーチキンはコクがあって、しっかり味がついている。
(あ、これって、合わせればおいしいかも)
楓は、ご飯とタンドリーチキン、そして野菜を混ぜてみた。
(やっぱり、よく合う。食が進む)
あっという間に、楓は料理を完食してしまった。栄養失調で弱っていたのが嘘みたいだ。
それでも、いつものようにはいかないので、部屋で休むことにした。
(お兄さんにタッパーを返しに行かなきゃ)
グルグル考えているうちに、楓は深い眠りに落ちていった。
※
目覚めると夕方になっていたので、楓は慌ててタッパーを洗って出かける準備をする。
明日からはまた会社なので、次にいつタッパーを返しに行けるか、わからないのだ。
親切にしてもらったのに、借りパクはできない。
駅前のスーパー内にあるケーキ屋で焼き菓子セットを買い、カレー屋へ向かった。
建物の前まで来ると、二つのランプの明かりが灯っている。もう営業しているようだ。
錆びた階段を上って店内へ入ると、お兄さんは会計を終えたグループ客を送り出すところだった。
けれど、他に客はおらず、店は静かだ。
お兄さんは楓を見ると、驚いた表情を浮かべる。
「体調がよくないのに、無理しちゃ駄目ですよ。何しに来たんですか!?」
「これを、お返ししに……その、会社が始まったら、次にいつここへ来られるか、わからなかったので」
ついでに、菓子折りも渡しておく。
「いつでもいいのに、ありがとうございます。しんどいのに気を遣わないでください」
タッパーを受け取ったお兄さんは、棚にそれを片付けると、楓を座席に案内した。
立ったままよりも座った方が体に優しいと判断したらしい。
「あの、おいしかったです。タンドリーチキンとご飯……それから野菜炒めも。重ね重ね、ありがとうございました」
「あれはサブジというインド料理で、野菜を炒めてから蒸して作ります。カレーの付け合わせにしていることが多いですね」
「サブジ? 少し酸味のある料理ですね」
「作り手によって味は異なりますが、僕の場合は、あとでレモンを入れるので酸味を感じたのだと思います」
「タンドリーチキンやご飯と混ぜて食べても、おいしかったです。変な食べ方ですけど」
すると、なぜか彼は嬉しそうな顔になる。
「ええ、カレーの付け合わせとして出している料理ですから。混ぜるという食べ方は正しいんですよ。今回は汁物を控えたのでタンドリーチキンでしたが、カレーにサブジを混ぜて食べることも多いです」
「タンドリーチキンも、おいしかったですよ」
「それはよかったです。タンドリーチキンは北インドの料理で、もともとタンドールという円筒状の窯で焼かれるので、この名がついているのです。うちの店では扱っていませんが、ナンもタンドールに貼り付けて焼くんですよ。僕もいつか、本物のタンドールが欲しい」
タンドールの中の温度は、三百五十度から四百度にもなるそうだ。
料理を語るお兄さんは、この日も絶好調だった。
タンドリーチキンは、家庭でも作れる易しい料理だという。
手羽元や手羽中などを使い、調味料やスパイス、プレーンヨーグルトとあえて焼くだけ。
ちなみに、骨のない部分を用いるときはチキンティッカと呼ばれ、タンドリーチキンから名前が変わるらしい。
「野菜料理の話に戻りますが、サブジの他に、ライタという料理も素敵ですよ。こちらも作り方は簡単で、野菜とヨーグルトと塩とスパイスを混ぜるだけ」
「ヨーグルト、意外と万能なんですね。そういえば、さっき、北インドと話されていましたが、他にもインド料理があるんですか?」
「いい質問ですね! 同じインドでも場所によって気候が違うので、料理自体も変わってくるのです。例えば北インド料理は、乳製品やナッツのオイルを使用しており、油分が多く濃厚です。ナンやチャパティで食べます。対する南インド料理は、ココナッツミルクや米を用います。東インド料理はマスタードオイルを使い、魚が多め。西インド料理は、野菜と乳製品が多めです。ざっくり分けた感じですが」
「面白いですねえ」
俄然、インド料理に興味が湧いてきた楓だった。もちろん、作る方ではなく、食べる方だけれど。
お兄さんとの会話は、楽しいし安心できた。
彼は「明日も会社を休んだ方がいい」と楓に言ったけれど、これ以上欠勤するつもりはない。
明日はきちんと仕事に出ようと決めた。
※
翌日は体調も悪化せず、楓は会社に出勤できた。
ただ、会社はますます居心地の悪い場所に変わっている。
同僚の抜けた穴は大きい。そして、また休んでしまったので肩身が狭い。
後ろの席から、先輩社員の愚痴が聞こえてくる。
「役立たずのくせに、連休なんていいご身分だよな。そんなに嫌なら、さっさと辞めろよ」
「本当だな。そんなので居座られても、こっちが迷惑だっつーの」
思わず、楓は振り返って謝罪した。
「すみませんでした。今後は、休まないよう体調に気をつけます」
けれど、先輩社員たちはさらに不機嫌な表情になる。
「誰もお前に話しかけていないだろ。しゃべっている暇があったら、仕事しろよ、のろま!」
「……っ、すみません」
俯きがちに作業へ戻る。昼も休まず仕事を続け、作業が終わったのは終電を過ぎた時刻だった。
上司や先輩社員は、既に帰っている。楓も電子ロックをかけて会社を後にした。
何もないのに、涙が止まらない。もう限界かもしれないと思った。
――そうして数日後、楓は退職届を提出した。
あれから数日間、以前のように体調がおかしくなることはなく、楓は会社に通い続けている。
相変わらずの精神的にきつい日々でも、同僚の若菜と一緒に食べるランチだけが息抜きの時間だ。
ランチといっても、内容は毎度コンビニおにぎりなのだけれど。
「ねえねえ、楓。毎日休憩室でおにぎりかパンだし、久々にお店に行かない? ずっと会社にいると、息が詰まっちゃう」
「そうだね。毎日だとお金が足りないけど、たまになら」
二人で入れそうな、近くの店をスマホのアプリで探してみる。
「あ、ここのイタリアンの店、よかったんだけど……定休日か」
店を検索する楓のスマホを見て、若菜もため息を吐いた。
「どうしよっか~」
何気なくつぶやく若菜の言葉に、予想外の方向から返事が飛んできた。
「馬鹿か! 他の店を探せばいいだけだろ! そんな簡単なこともわからないのかよ!」
驚いて声のする方に顔を向けると、同じ課の先輩社員が数人、笑いながら横を通っていった。会話を聞かれていたらしい。
吐き捨てるように言いたいことを言って、彼らは去っていく。
楓と若菜は気まずさに口をつぐんだ。
若菜は目的がわからずに「どうしよっか~」と、口にしたわけではない。「行きたかった店が定休日なら、代わりにどこの店に行こうか」と伝えたかっただけ。
それなのに、いきなり投げつけられた尖った言葉は、新入社員たちに対する当てこすりだ。
ここでは、誰も彼もが常にイライラしている。
「大丈夫だよ、若菜。いつもの八つ当たりだよ」
「うん、わかっているよ。平気だから」
そう口にした若菜が会社に来なくなったのは、翌日のことだった。退職するそうだ。
仲のよかった最後の同僚がいなくなり、お昼の時間が心細い。
夜にかかってきた電話越しに謝られたけれど、楓には彼女を慰めることしかできなかった。「頑張って会社に残ろうよ!」とは言えなかった。
そうしてまた、淡々と日々が過ぎて月曜になった。普通に起き上がれるけれど、体が重い。
着替えて鞄を抱え、この日も朝食を口にしないまま、始業時刻の数時間前にマンションを出る。
少しでも仕事を片付けないと、終電までに帰れなくなるからだ。
(早く駅に行かなきゃ。電車に乗って、会社へ……)
視界が揺れ、頭に靄がかかったように思考がまとまらない。
早足でロータリー抜けて、駅の入り口までやってきたが、急に息が苦しくなった。
思わず鞄を置いて、その場にしゃがみ込む。
(急いで改札を通らなきゃ、電車が来ちゃう!)
次の電車が到着するまでの十五分を、無駄にするわけにはいかない。
入り口の隅で蹲る楓の前を通り過ぎ、駅の中に吸い込まれていく人々。
ときおり、不思議そうな目で楓を見る人もいたが、声をかけることもない。
変に心配されると気まずいので、その方が助かった。
(ちょっと、気分が悪いだけ。すぐに治る)
地面に両手をついて、立ち上がろうと踏ん張ると、目の前に影が落ちた。
「大丈夫ですか?」
上を向けば、見覚えのあるお兄さんが、心配そうな顔で立っているのが目に入る。
(カレー屋さんの人?)
会社以外で話す人間はいないので、楓は彼を覚えていた。
それより驚いたのは、相手が楓を忘れていなかったことだ。
(一度訪れただけの、何の変哲もない客を覚えてくれているなんて)
慌てて立とうとすると、お兄さんに止められた。
「待って。倒れると大変ですので、僕につかまってください」
「いいえ、少し休んだら平気ですので」
「おうちの方に連絡しましょうか?」
「私は一人暮らしなんです。実家は遠くて……あの、お構いなく」
一度会っただけの相手に、迷惑をかけるわけにはいかない。
楓は彼の申し出を辞退した。
けれど、お兄さんは今の言葉を聞いていなかったみたいで、楓を担ぐ体勢に入っている。
「その、本当に、問題ないですから」
「近くに車を止めてあります。気にしなくていいですよ」
断ったにもかかわらず、楓はお兄さんの車で病院へ連れて行かれてしまった。
比較的駅に近い、小さめの休日診療所で診断された結果は、疲労と栄養失調。
精神的な問題もあるかもしれないということだった。
(お医者さんには、「ゆっくり療養してください」なんて言われたけど、今日も会社を休んでしまったし。これ以上の欠勤は痛いな)
点滴を打ってもらい、しばらく横になっていると、体の不調はなくなった。
動けなくなっていたのが嘘みたいだ。
会計を済ませ、お兄さんにお礼を言って帰ろうとしたのだが、そのタイミングで盛大にお腹の音が鳴ってしまった。時計を見ると、もう十時を回っている。
楓は驚いて彼に謝った。
「ごめんなさい。お、お店があるのに。こんなことに、付き合わせてしまって」
焦っていると、お兄さんは「まだ間に合うから、気にしないで」と笑って言った。
「それよりも、お腹がすいているなら、これをどうぞ。待っている間に、一度店に戻ったんです」
お兄さんは、二つのタッパーを楓に渡す。
「これは、お料理ですか。えっと……」
「たくさん作ったので、よかったら、食べてください。野菜が入っていますから」
一人暮らしでの不摂生な生活がバレてしまった。
彼の厚意を無駄にはできず、おとなしくお礼を言ってタッパーを受け取る。実際、ありがたい。
帰りは念のため、呼んでもらったタクシーで家まで戻った。出費が地味に痛かった。
家に着いてから、楓はお兄さんにもらったタッパーを開けた。中にはいい香りのおかずが詰まっている。
一つ目はカレー色の野菜炒め、そしてタンドリーチキン。
インド料理に詳しくないが、タンドリーチキンの存在は、なんとなく知っている。
二つ目のタッパーには、黄色のライスが詰められている。まるで、お弁当みたいだ。
楓は、さっそく遅めの昼食にする。まずは野菜から食べてみた。
(野菜は、レンコン、ブロッコリー、キャベツ。少し酸っぱい)
ほどよく酸味が感じられ、けれどもスパイシーで不思議な味だ。さっぱりとしていて食べやすい。
もう一つのタンドリーチキンはコクがあって、しっかり味がついている。
(あ、これって、合わせればおいしいかも)
楓は、ご飯とタンドリーチキン、そして野菜を混ぜてみた。
(やっぱり、よく合う。食が進む)
あっという間に、楓は料理を完食してしまった。栄養失調で弱っていたのが嘘みたいだ。
それでも、いつものようにはいかないので、部屋で休むことにした。
(お兄さんにタッパーを返しに行かなきゃ)
グルグル考えているうちに、楓は深い眠りに落ちていった。
※
目覚めると夕方になっていたので、楓は慌ててタッパーを洗って出かける準備をする。
明日からはまた会社なので、次にいつタッパーを返しに行けるか、わからないのだ。
親切にしてもらったのに、借りパクはできない。
駅前のスーパー内にあるケーキ屋で焼き菓子セットを買い、カレー屋へ向かった。
建物の前まで来ると、二つのランプの明かりが灯っている。もう営業しているようだ。
錆びた階段を上って店内へ入ると、お兄さんは会計を終えたグループ客を送り出すところだった。
けれど、他に客はおらず、店は静かだ。
お兄さんは楓を見ると、驚いた表情を浮かべる。
「体調がよくないのに、無理しちゃ駄目ですよ。何しに来たんですか!?」
「これを、お返ししに……その、会社が始まったら、次にいつここへ来られるか、わからなかったので」
ついでに、菓子折りも渡しておく。
「いつでもいいのに、ありがとうございます。しんどいのに気を遣わないでください」
タッパーを受け取ったお兄さんは、棚にそれを片付けると、楓を座席に案内した。
立ったままよりも座った方が体に優しいと判断したらしい。
「あの、おいしかったです。タンドリーチキンとご飯……それから野菜炒めも。重ね重ね、ありがとうございました」
「あれはサブジというインド料理で、野菜を炒めてから蒸して作ります。カレーの付け合わせにしていることが多いですね」
「サブジ? 少し酸味のある料理ですね」
「作り手によって味は異なりますが、僕の場合は、あとでレモンを入れるので酸味を感じたのだと思います」
「タンドリーチキンやご飯と混ぜて食べても、おいしかったです。変な食べ方ですけど」
すると、なぜか彼は嬉しそうな顔になる。
「ええ、カレーの付け合わせとして出している料理ですから。混ぜるという食べ方は正しいんですよ。今回は汁物を控えたのでタンドリーチキンでしたが、カレーにサブジを混ぜて食べることも多いです」
「タンドリーチキンも、おいしかったですよ」
「それはよかったです。タンドリーチキンは北インドの料理で、もともとタンドールという円筒状の窯で焼かれるので、この名がついているのです。うちの店では扱っていませんが、ナンもタンドールに貼り付けて焼くんですよ。僕もいつか、本物のタンドールが欲しい」
タンドールの中の温度は、三百五十度から四百度にもなるそうだ。
料理を語るお兄さんは、この日も絶好調だった。
タンドリーチキンは、家庭でも作れる易しい料理だという。
手羽元や手羽中などを使い、調味料やスパイス、プレーンヨーグルトとあえて焼くだけ。
ちなみに、骨のない部分を用いるときはチキンティッカと呼ばれ、タンドリーチキンから名前が変わるらしい。
「野菜料理の話に戻りますが、サブジの他に、ライタという料理も素敵ですよ。こちらも作り方は簡単で、野菜とヨーグルトと塩とスパイスを混ぜるだけ」
「ヨーグルト、意外と万能なんですね。そういえば、さっき、北インドと話されていましたが、他にもインド料理があるんですか?」
「いい質問ですね! 同じインドでも場所によって気候が違うので、料理自体も変わってくるのです。例えば北インド料理は、乳製品やナッツのオイルを使用しており、油分が多く濃厚です。ナンやチャパティで食べます。対する南インド料理は、ココナッツミルクや米を用います。東インド料理はマスタードオイルを使い、魚が多め。西インド料理は、野菜と乳製品が多めです。ざっくり分けた感じですが」
「面白いですねえ」
俄然、インド料理に興味が湧いてきた楓だった。もちろん、作る方ではなく、食べる方だけれど。
お兄さんとの会話は、楽しいし安心できた。
彼は「明日も会社を休んだ方がいい」と楓に言ったけれど、これ以上欠勤するつもりはない。
明日はきちんと仕事に出ようと決めた。
※
翌日は体調も悪化せず、楓は会社に出勤できた。
ただ、会社はますます居心地の悪い場所に変わっている。
同僚の抜けた穴は大きい。そして、また休んでしまったので肩身が狭い。
後ろの席から、先輩社員の愚痴が聞こえてくる。
「役立たずのくせに、連休なんていいご身分だよな。そんなに嫌なら、さっさと辞めろよ」
「本当だな。そんなので居座られても、こっちが迷惑だっつーの」
思わず、楓は振り返って謝罪した。
「すみませんでした。今後は、休まないよう体調に気をつけます」
けれど、先輩社員たちはさらに不機嫌な表情になる。
「誰もお前に話しかけていないだろ。しゃべっている暇があったら、仕事しろよ、のろま!」
「……っ、すみません」
俯きがちに作業へ戻る。昼も休まず仕事を続け、作業が終わったのは終電を過ぎた時刻だった。
上司や先輩社員は、既に帰っている。楓も電子ロックをかけて会社を後にした。
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