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1:<月曜日> 野菜とチキンのスープカレー

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 消えかけの電灯に照らされた薄暗い帰り道を、楓はとぼとぼと進んでいく。
 終電を過ぎた田舎駅には誰もおらず、歩いているのは自分だけだ。
 安いスーツにスカート、ストッキングに黒のパンプスという、いかにも新入社員という出で立ちが、闇の中で妙に浮いて見えた。
 
 楓は働き始めて半年の新社会人だ。今の季節は秋。
 けれど、仕事のことで早くも暗澹たる気分に陥っている。

(私、なんで、こんな時間に夜道を歩いているんだろう)

 わかっている。就職活動に失敗したからだ。
 元々おとなしい楓は、社交的ではないし、優秀で要領がいいわけでもない。
 むしろ、人見知りやコミュ症や陰キャと揶揄される性格だった。
 なかなか採用されないのは必然である。

 就職活動で企業から求められるのは、明るく要領がよく、コミュニケーション能力に長けた人物。
 つまり、楓と正反対。
 その場しのぎで「コミュニケーションが得意です」などと嘯いても、面接官にはしっかりと見抜かれている。書類審査はクリアできるけれど、いつも面接で落とされた。

 そうして数ヶ月間、死に物狂いで就活戦線をくぐり抜け、大量採用の会社にギリギリ滑り込んだ。
 秋も過ぎた頃、ようやく手に入れたシステムエンジニアの内定。他の企業はすべて落ちてしまった。
 なんとか受かった会社で働いているわけだが、大量採用には理由があった。
 いくら新人を採用しても、それ以上に人が辞めてしまうのだ。おかげで現場はいつもギリギリで回っており、新人研修に時間を割く余裕もない。
 それが、楓が働き始めた会社の姿だった。

 研修では新人マナーなどの簡単なパソコン動画を見ただけで、楓は即現場に回された。
 けれど、そんな動画で仕事のなんたるかがわかるはずもない。
 楓は意欲に燃えた期待の新人などではなく、ただエスカレーターに乗って流されるまま会社に入っただけの凡人なので。

 当然、仕事をするに当たって、近くの先輩社員や上司に質問しなければならないのだが、殺伐とした現場は質問などできる雰囲気ではなかった。
 忙しい先輩社員たちの「全力拒否オーラ」にもめげず、調べてもわからない箇所を尋ねると、帰ってくるのは「自分で調べろ」という突き放した言葉と舌打ち。
 自分では、どうにもならないから聞いているというのに。泣けてくる。

 必然的に作業は遅くなり、残業もザラという状態になるのに時間は掛からなかった。
 もちろん、残業代など出るはずがない。自分の仕事速度が遅いから駄目なのに、わざわざ残業申請を主張する勇気は持てない。
 次第に居心地も悪くなり、毎日が苦痛との戦いになり始めている。

 必死であがいているうちに、同期入社の仲間たちは一人、また一人と辞めていった。
 この冷ややかな牢獄のような環境に耐えきれなくなったのだろう。
 逃げた仲間をうらやましいと思ってしまう自分を嫌悪しつつ、楓は一人暮らしをしているマンションへ帰る。

 六畳の狭いワンルームマンションの一室が、今の楓の城だ。
 フローリングの床の上には、脱ぎ捨てた衣類が散らばっている。休日の普段着や、アイロン掛け待ちのシャツなどだ。シンクには、カップラーメンの空容器やビールの缶が所狭しと並べられていた。まごうことなき汚部屋である。
 新たな缶を冷蔵庫から取り出し開けた楓は、その中身をぐいっと飲み干した。嫌な記憶は酔って寝て忘れるに限る。
 すでに、時計は午前二時を指していた。

 翌朝、目覚めた楓は異変に気がついた。
 布団から出ようとすると、体が全く起こせないのだ。腕も足先も動かせるのに、起き上がろうとすると腹に力が入らない。本当にしゃれにならない事態だった。

 しばらく粘っても体はびくともせず、時間だけが過ぎていく。
 このままでは出勤時間に間に合いそうにないため、とりあえず手を伸ばしてスマホを取り、会社に連絡する。布団から出られないなどと正直に言うわけにもいかないので、風邪だと告げた。ズル休みだ。
 欠席の連絡を入れると、ふっと体が軽くなった。

(ああ、今日は会社に行かなくていいんだ)

 一日だけでも会社を休める。それだけで、心が重圧から解放されていく。
 気づけば体に力が入るようになっており、ベッドから起き上がることができた。

「一体、なんだったの……?」

 原因はわからないが、今日は会社に行かなくていい。
 気持ちが落ち着いた楓は、駅まで出かけることにした。
 ズル休みをした上での外出に罪悪感を覚えるけれど、久々にゆっくり外の空気を吸いたい。

 穏やかな秋の気候を感じつつ、マンションの自動ドアを出る。もうすでに、時刻は十時を過ぎていた。
 楓の住んでいる夕日町は、職場から八駅離れた小さなベッドタウンだ。駅前には薬局と居酒屋、スーパーマーケットと美容室が並んでいる。
 心ときめく場所ではないものの、必要最低限の店は揃っている町だった。

 着の身着のまま駅前まで来てしまったが、取り立てて用事はないので、いつも通らない道を散歩してみる。
 ときおりすれ違うスーツ姿の人々に対し、「サボリでごめんなさい」と、申し訳なさを感じながら、楓は人通りの少ない路地裏へ逃げ込んだ。

 朝ご飯を食べないまま外に出てしまったので、今頃になって空腹に気づく。
 自分は抜けている、いつもそうだ。
 仕事での失敗を思い返しては、ため息を吐いた。
 そんなときだ。曲がり角の向こうから、とてもいい香りが漂ってきたのは。
 温かで刺激的な、食欲をそそるスパイスの香りだった。

(この匂いは、カレーかな?)

 そういえば、最近コンビニのパンとおにぎり、カップラーメンしか口にしていない。
 疲れすぎていて、きちんとしたものを食べようという気が起こらないのだ。
 ふらふらと、匂いにつられるように歩いていくと、さらに人のいない狭い路地に迷い込む。
 正面に小さな三階建ての建物が見えた。

 一階は倉庫のようで、古いシャッターが閉まっている。
 壁の側面には、錆びた鉄の階段が貼り付くように設置されていた。あまりにも細い階段なので、見落としてしまいそうだ。
 その上には、人が二人乗れる程度の狭い踊り場と、緑色の暖簾が掛かったドアがある。
 暖簾の両サイドには、異国風の洋燈が取り付けられていた。

(お店かな?)

 好奇心に駆られ、恐る恐る階段に足を置いて前へ進む。
 ステップが小さく傾斜のきつい階段を上りきり、楓はドアの前に立った。
 横の壁には、メニューの書かれた黒板が立てかけられている。

「洋燈堂? やっぱり、お店みたい」

 黒板にはシンプルに一つのメニューが載っている。

 <月曜日>
 本日のカレー(野菜とチキンのスープカレー)

 どうやら、メニューは一つだけのようだ。
 階段の踊り場で、しげしげとメニューを眺めていると、すぐ横でドアが開いた。

「いらっしゃいませ」
「……っ!?」

 現れたのは、カレー屋の男性店員だ。楓より、少し年上だろうか。

(垂れ目で人のよさそうな、優しそうなお兄さんだけど)

 想定外の出来事に、楓はとっさに固まってしまう。コミュ症のよくない癖だ。
 相手を嫌っているわけではない。けれど、他人が怖くて、何を言っていいかわからなくて、話すのを躊躇してしまう。不意打ちだとなおさらだ。

 会社で働き始めてからは、特にそれが酷くなった。話しかけて、冷たい目で見られて、拒否されて、あからさまにため息を吐かれて。
 まるで、自身の心臓を鈍器で殴りつけられるような感覚に包まれる。
 もちろん、仕事だから、それでも会話しなければならないのだが。

 会話中に、ぐるぐると考えの渦にとらわれる。楓のよくない癖、その二。
 けれど、お兄さんは気にしていないようで、ただ微笑んでいた。相手が気分を害さなくて、ほっとする。

「開店前ですけど、準備はできていますので。よかったら、中へどうぞ」

 黒板を見ると、開店時間は十一時のようだ。空きっ腹には魅力的な提案。

「あ、う、それじゃあ。ありがとうございます」

 どもりつつ、店内に足を踏み入れる。が……
 
「……っっ!?」

 引きつった顔で、楓は店内を見渡した。
 というのも、そこが原色まみれの異空間だったからだ。
 カラフルなタイル、異国情緒溢れすぎる小さな旗の群れ。謎の仏像や寺院ポスター、曼荼羅模様の飾りに木彫りの象の置物。そして、謎の怪しい音楽。

(かと思えば、日本の風景写真も貼られていたり)

 優しそうなお兄さんにつられたけれど、入る店を間違えたかもしれない。早くも後悔が楓を襲った。
 それでも、今さら出て行けないので店の奥に進む。
 カウンターが六席ほどの、小さな店だった。
 キッチンの奥の棚に、たくさんのスパイスが並んでいる。こっそり数えると、三十種類ほどあった。
 飾りなのか、天上から唐辛子や生姜も吊されている。
 緊張したまま、楓は一番手前の席に座った。

 カウンターテーブルに、小さなメニューが立てかけられている。「本日のカレー」の他に、飲み物が書かれているようだ。
 チャイ(アイス・ホット)、ラッシー、マンゴージュース、ライムソーダ、バターミルク、キングフィッシャー(ビール)などなど。

「ええと、カレーとアイスチャイをください」

 遠慮がちに注文すれば、「かしこまりました。チャイは、いつ頃お出ししましょうか?」と、優しげな声が返ってくる。お兄さんの雰囲気は、安心できた。

「一緒でお願いします」

 笑顔で返事したお兄さんは、早速調理を始める。
 楓の席からは、キッチンの様子が少しだけ見えた。もとになるスープは、もうできているようだ。
 いくつかのスパイスを棚から取り出したお兄さんは、それらで手際よくカレーを作っていく。野菜は素揚げしており、大きなチキンレッグはトロトロになるよう煮込んであった。
 じっと工程を見ていると、お兄さんが嬉しそうな顔をした。

「カレーに興味があるの?」
「あ、いえ、いろんなスパイスを混ぜていて、面白いなと思って……」

 カレーをあらかた作り終え、今度はチャイ作りを始めたお兄さんは、棚からまたスパイスを取り出す。
 緑色で豆粒サイズのスパイスを割ったものと、茶色の小さなスパイス、何かの木の皮、すりおろした生姜をまとめてお湯を沸かせた鍋に放り込んだ。豪快だ。
 しばらくして、茶葉とミルクを鍋に投入している。

 チャイを煮立てる間に、お兄さんはカレーを盛り付けし始めた。
 細長い黄色く染まったライスと、完成したスープカレーが運ばれてくる。サラサラしたスープは、いい匂いだ。
 黄色いライスの上には小さく切ったレモンが添えられている。最後のほうで絞り、風味を変えるものらしい。
 そして、冷やしたチャイもテーブルに置かれた。

「いただきます」

 スプーンでライスをすくって、スープカレーをしみこませて口へ運ぶと、絶妙な旨みが舌の上に広がった。

「おいしい……」

 こんなに素敵なカレーを食べたのは、初めてだ。
 いつも市販のレトルトカレーしか食べない楓が「おいしい」と言っても、説得力は皆無だが、初めての感覚のカレーだった。揚げた野菜や茹でたウズラの卵も合っている。
 そして、よく冷えたチャイも、甘過ぎずコクがあって飲みやすい。
 あっという間に、楓はスープカレーを完食した。

「ごちそうさまでした、おいしかったです」

 食器を片付けに来たお兄さんに、楓は思わず声をかけてしまった。自分から店員さんに話しかけるなんて初めてだ。

「素敵な食べっぷりで、僕も嬉しかったです」

 笑顔で返され、少し恥ずかしくなる。

「普段は、あまりたくさん食べるほうではないんですけど、いつものカレーと違って、いい香りがして。胃もたれもないし、いつの間にか完食していました」
「もしかして、小麦を使っていないからかな。市販のカレーには、油脂や小麦粉が入っていることが多いんです。日本のカレーはイギリス風だから」

 カレーの話に突然イギリスが出て来たので、楓は不思議に思い瞬きした。
 そんな楓を見て、お兄さんはまた微笑んでいる。

「日本のカレーの大もとは、インドで作られるカレーです。それを、イギリス人が自国に持ち帰って女王に献上したのが始まりだと言われています。その後、イギリス国内で油脂や小麦粉を加えたカレーが紹介されて、イギリスのカレーが完成しました。カレーを料理しやすいよう、彼らは、あらかじめスパイスをすりつぶして調合したカレー粉なるものを作りだし、それが日本に渡った。そうして、日本国内で固形のカレールーやレトルトカレーに進化していったんです」

 唐突にカレーの歴史を語り始めるお兄さんだが、楓は真剣にそれを聞いていた。

(面白い。同じカレーでも、全然違うんだ)

 先ほどのカレーなら、最近食欲のない楓でも口にしやすいかもしれない。

「あの、さっき食べたカレーはインドのものですか?」

 質問すると、お兄さんは首を横に振る。

「スープカレーは札幌発祥です。起源は薬膳スープで、漢方薬とスパイスを使ったものだそうです。今ではいろいろなスープカレーが全国各地にありますよ」
「そうなんですね」
「この店では、様々な国のカレーを勝手にアレンジして提供していますので、よかったら、また食べに来てください。開店したばかりだから、まだお客さんが少なくて」

 確かにお客が少ない。もう十一時を過ぎたというのに、カウンターにいるのは楓一人だ。

(こんなにおいしいのに、たぶん場所が悪いんだ)

 わかりにくい路地の奥、急な階段の上。不親切極まりない立地だ。
 どうしてこんな場所に店を出してしまったのだろう。もっと目立つ場所なら開店してすぐ人気になり、行列ができていたかもしれないのに。
 楓は、この店の先行きが心配になった。
 せっかく素敵な店なので、潰れて欲しくない。

「また、来ます!」

 珍しく、楓は熱意のこもった声で返事した。
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