織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

文字の大きさ
上 下
100 / 100
第四章 蛟竜雲雨

二十二

しおりを挟む
 怒涛に降る豪雨の幕を、まるで一迅の太刀のように切り裂きながら信長は進んだ。迷わずに進むことができるのは備わっていた土地勘の所為でもあるが、何より、ただ一つの分かりやすい目印を目指したからだった。
 沓掛の峠には、文字通り頭一つ抜けた巨大な楠がある。大の大人が二、三人と手を繋いでやっとその幹を囲めるかどうかというそれは、この日、雲で低くなった天へ架けられた梯子のように聳えていた。それ自体、自らの存在を厳として誇示するかのように、折り重なる風雨にその巨体を揺らしながら。桶狭間山はこの楠の峠道まで行かず、途上をを南に折れたところにあるのだ。
 太子ヶ根と呼ばれるところまで来て、織田軍は制止した。嵐はいよいよ最高潮に達し、信長は「からだを冷やすな」「火薬を濡らすな」などと兵たちに細かく指示した。
 その時である。沓掛峠の楠が、風雨に耐えかねたか、はたまた、落雷にでも打たれたか、ゆっくりと東へ向かって降り倒された。まるで、信長軍を案内することが自分の役目の終えたとでも言うようだった。さらに、驚いたことには、その倒れた方角というのが桶狭間山を示しているようにすら見える。
「熱田大明神の加護に違いない。我らは神軍だッ」
 開口一番、唇を切りながら利家が叫んだ。「その通りだ」と一斉に奮い立った。あまりのことに、根拠薄弱な迷信を嫌う信長ですら数奇な偶然に季忠を想った。
 桶狭間山へ登りかけたときには、嵐の勢いが収まりかけていた。もう迷うこともなかった。元より、軍勢の通れるような開けた道は多くなく、ぬかるんだ斜面を進むに至っておのずと道は限られていた。確実に、少しずつ、互いに手を貸し合いながら敵に迫った。山頂が近くなると鬱蒼とした木々が開けて空が見えた。二度と日の光が差し込まないかのように思われていたあの分厚い黒雲も、その遥か南は破れており、空の青が覗いていた。
――雨が、上がるな――
 気付けば、雷も、風も、音はすでに止んでいた。
 不意に、山頂から人の声が聞こえた。織田軍は皆それが敵であることを直覚し、示し合わせたように息を殺して、槍をギュッと握りしめた。声は、何やら宴会のようだが、節がある。謡っているのだ。
 一歩一歩を踏みしめるように、織田軍は尾根の斜面に隠れながら敵にじりじりと接近する。声の方から鳥たちが一斉に羽ばたき、織田軍の頭上を飛び回った。雨がもう止んでいた。雲間から光が差して辺りを照らして行く。それを見た敵の足軽らは、木陰から次々に顔を出し「えらい嵐だった」「難儀な日だった」とか、もう、気でいるらしい。「晴れた、晴れたぞ」と同輩を手招きし、やや広い台地のうえに談笑している。彼らの視線は、揃って爽快な天へと向けられている。泥水にまみれた地を見る者など皆無である。だから、気付かなかった。落ちくぼんだ山の斜面の影に、薄汚れた甲冑を身にまとった野犬の群れが牙を剥いていることに。
「火蓋を切れ――、撃て」
 織田軍の鉄砲隊が一益の合図で斉射した。笑い合っていた者たちが全員ぱったりと倒れた。
 再び鳥たちが一切に羽ばたいた。

「そら、かかれッ」

 信長の命令一下、滞留する鉄砲の黒煙の中を可成率いる槍隊が駆けて行く。
 今川軍は雨宿りに戦列を乱していた。中には槍を手放し小便をしている者まで居た。織田軍が雪崩れ込むと、彼らはまるで状況を飲み込めないままに次々と首を落とした。兵力ではまだわずかに今川が優勢のはずだが、そんなことはもう関係がなかった。彼らは悪戯に辺りをウロウロと逃げ惑うばかりで、組織だった抵抗が出来ていない。揉みくちゃになったら、まず、誰が敵で誰が味方か分からない。甲冑の背や腰には識別の印を付けているのだが、折からの嵐で汚れてしまってよく見えない。今川軍の兵たちは、とにかく、自分に斬りかかって来る者を相手取るより他になく、疑心暗鬼に陥った者はところ構わず槍を振るって同志討ちを頻発させた。
 ところが、織田軍は違うらしい。何処を見ても、敵一人を相手に二人以上で組みかかっている。一人が火花を散らして敵と斬り結ぶうち、もう一人が側背から、胸を突く、羽交い絞めにする、首を打ち落とす。そうやって切り伏せたら「サ、次はアイツをやるぞ」と、仲間同士が阿吽の呼吸でさらなる敵に襲いかかる。倒した敵兵は置き晒しだ。
「分捕るな」と信長の厳命を受けているから、生きているか、死んでいるか、すら確認しない。動けなくなった敵兵なんか放っておいて差支えないのだ。そうして、首を獲らなくていいなら、何も一対一サシの勝負に拘る理由もない。とにかく時間をかけずに敵を無力化し、一刻も早く義元へ迫ることだけが、織田軍の目的のすべてだった。

 総崩れで逃げ去る今川軍を見て、信長は叫ぶ。
「輿だッ。義元は輿に乗っているぞ。腰を探せッ」
 信長自ら下馬して槍を振るう信長の姿に、織田軍はほとんど熱狂して突き進む。
 よく通る信長の大音声は陣幕の奥の義元にも聞こえた。
「輿を打ち捨てよッ――」
 義元は即座に状況を解した。塗輿は哀れにも桶狭間山の斜面から蹴落とされてゴロゴロ転がり、義元はそれを見届けることもなく馬に跳び乗り、逃走した。馬に揺られながら、義元は押し寄せる屈辱を何度もかみ殺す。今は悔恨している暇などは何処にもないはずだが、それでも考えずにはいられなかった。
『何だ、これは。何が起きている。一体、どうして、こうなった。直盛は破れたのか?』
 噛みしめる唇から血が滲む。白粉の塗られた高貴な顔も、獣じみた武士の面構えに変わって行った。

 本陣跡の近くの斜面を転がった塗輿は、中途で斜めに突き出た大木の幹に引っかかっていた。
 降り注ぐ日の光に漆を煌々と輝かせたそれはすぐに可成に見つけられた。
「義元は輿を捨てて逃げたぞッ。探せ、決して逃がすなッ」
 可成は十文字槍で陣幕を切り裂き、消えた義元一行を探して四方に散る。
 信長は焦ってはいなかった。
 桶狭間山が易々と降りられるような場所ではないということを、義元よりもよく知っていたからだ。
 周囲の深田を堀の代替として正面から真っすぐに来る敵を迎え撃つにはあつらえ向きだが、一度懐に入られたなら逃亡に適さない最悪の陣地となり果てる。馬など使えたものではない。丘陵続きで、まず、どの方角へ進めば降りられるようになっているのか分からない。東海道へ出られないかと何となく南東へ行くが、どういうわけか、今度は上り坂になっていて、一向に降りられる気配がない。そのうえ、山頂を除けば、至るところに灌木が群生し見通しが効かない。苛立たし気に手で掻き分けながら進んだなら、そこへ唐突に広大な沼地や深田が広がっているといった按配なのだ。思い返して、ただ一つの確かな道筋は元きた道を戻ることだ。当然、そんなことは出来やしない。そのただ一つの確かな道から、信長軍がやってくるのだ。狭い斜面から馬は引っ切り無しに滑落し、義元とおよそ三〇〇の旗本たちは徒歩で道なき道を進むしかなかなくなり、織田軍に補足される。
「居たぞッ。あれが義元の旗本だッ。あれにかかれッ」
 今川義元の首と聞いて織田の若武者たちは先を競って襲いかかった。
 義元はいよいよ最後の望みにすべてを賭した。
「尾張の弱兵、何する者ぞッ。直に別働隊が彼奴らの背後を突くであろうッ。迎え討て、持ち堪えよッ――」
 高根山に展開する直盛隊が急行し駆け付けたなら、織田軍の背後を取り、形勢はひっくり返るだろう。空が晴れてからのこの騒ぎに直盛が気がついていないということはあり得ない。
――それまでを持ち堪えてみせる。こんなところで、殺られてたまるものか――
 義元は自ら左文字を抜いた。采配の如くに振り上げ、追いすがってくる織田勢に押し返さんと奮戦する。
 一度目は優勢に打ち勝ち、隙を見てさらに南東へ逃げる。二度目に追いつかれたときは押し込まれながらも、上手く姿を晦ました。ところが、三度目、四度目となるともう続かなかった。血みどろになりながら怯むことなく襲ってくる鬼のような織田の武者を、今川の兵たちは恐怖し始めた。義元と共に漆山の山頂から眺めたあの丸根砦の佐久間盛重と同じ気狂いが次から次へと飛び掛かって来るのだから、堪らない。五度目には、ついに三〇〇居たはずの旗本は五十にまで人数を減らし、ついに義元自ら剣を振るわねばならぬほどに追い詰められた。
「オノレ。尾張の野犬風情がッ」
 信長の奇襲を受けた時点で義元本隊は瓦解していた。逃亡を即断した義元はここまで何とか逃げ果せたが、逆を言えば、それ故に、三〇〇〇の兵隊をも同時に手放してしまった。義元の監視がなければ「命大事」と我先に逃亡する者もあったことだろう。結果、彼を懸命に守らんとするのは手塩にかけて育てた旗本三〇〇であり、元より命の覚悟を決めて突撃してきた二〇〇〇の兵とは量質ともに完全なる敗北を喫していたのだ。
「かかれッ、義元の息の根を止めよッ」
 乱戦、乱戦、乱戦。義元も今は一介の兵となり、名も知らぬ織田の若武者と斬り結ばなければならない。後々に思い返すことがあったなら、この屈辱だけでも義元は憤死したことだろう。義元は、迫りくる敵兵の長槍をすんでのところで避け、退き際にその膝口を斬りつけた。
「織田のわっぱがッ。今川を舐めでないわッ――」
 そう息巻いた途端、背後から脇腹に槍を受けた。思わず佩刀を取り落としたところ、新手の兵がうえから馬乗りに抑えつけられる。首にグイと脇差を押し当てられるが、これにも義元は屈さなかった。まるでこの世の者とは思えぬ目付きで敵を睨み付けると、ヴヴヴと野犬の唸り声をあげ、その親指に食らいついて噛みちぎった。とろとろ流れ出る敵の血にまみれながら、どたばた暴れ回る。
 なりふり構わぬ義元の反撃に苦悶させられるのは織田の若武者・名を毛利新介良勝もうりしんすけよしかつと言ったが、古くから信長の小姓として仕え、誰より肝が据わっていた。
――指は痛いが、それは。ここで義元を逃してしまえば、その方が、この先も私はずっと痛い――
 吹き出る冷汗を気力で押し留め、冷静さをしかと取り戻した。脇差の柄を振り下ろし、駄々っ子のように身をよじらんとする義元の顔面をガツンと殴りつけて昏倒させ、そのまま一挙に首を押し切った。
 泥と血で判別の難しい首だったが、信長はそれをしかと義元と認めて「良し」と満足気に良勝の背をひっ叩いた。

 直盛隊が高根山から取って帰して駆け付けたのはそれからほどなくした頃だった。
 敵は六〇〇〇の大軍で、形勢不利と思われたが、信長は迷いなく正面から堂々と迎え討つ。
――ここで焦って退いては駄目だ――
 戦場で一度敵と向かい合ったら、無事に退くことは容易ではない。義元を打ち破った戦の原則を、今度は自軍に重ね合わせる。兵数は遥かに劣っていたが負ける気はしなかった。信長には分かっていた。義元本隊を敗走した今川兵が直盛に「今川義元討死」の報を伝えること、そして、その瞬間に敵は一切の統率を失わざるを得ないことを。
「悉く討ち取れッ」
 井伊直盛は不幸だったかもしれない。なまじ残っていた忠義心で桶狭間山まで駆けつけたが、織田軍と交戦した後に、最も悪いタイミングで義元討死の事実を知った。逃げようにもこの山に退路は少ない。敵が崩れたのを知った信長は、「銘々、好きに手柄を稼げ」と討ち捨ての命すら撤回した。威勢有り余る若武者たちの餌食となって、直盛は桶狭間にその命を散らしたのである。

 義元の首を天に高らかと掲げ、織田軍は勝ち鬨を挙げた。
 勝鬨に紛れ、信長は「見たか、見たか」と叫んだ。それは、一体、誰へ対する誇示だっただろう。天へ旅立った二人の父親、追腹を割いた老臣か、はたまた、自分の行く手に立ち塞がった親類縁者の数々か。さらには、これより戦国乱世に立ち塞がるであろう化物じみた同業者たちへの宣戦布告だったのかもしれない。
 沸きに沸いた織田軍は、さらに、
「このまま大高へ攻めかけ、一挙に落としてしまいましょう」
「その次は鳴海でござる。尾張から今川を追い出してくれる」
「イヤ、それよりも、熱田の舟を並べる服部党を討たねばッ」
 などと、各々が唾を飛ばしながら信長に進言した。
 どれもがきっと不可能ではなかったことだろう。だが、信長はそのうちの一つしか聞き入れなかった。
 それは、遅ればせながら泥だらけでひょっこり現れた恒興の言である。
「義元をもう討ったのだから、今日のところはこれに満足して帰りましょうや」
「アア。そうしよう」
 来るときと同じかそれ以上の速さで来た道を駆け抜けた。
 気付けば日が落ちかけていた。夕焼けは、漂う雲の輪郭を金色の稲妻のように染め上げ、清洲へ向かう信長軍の掲げた槍をきらめかせた。
――これは果たして夕焼けだろうか。それとも、朝焼けだろうか――
 信長には判別が付かないような気がした。
 あれほど倒したくて堪らなかった義元を討ち取った、今日の勝利の先に、信長はまだ何も見えていなかった。それでも『明日から何をすれば良いのか』なんて不安はなかった。何故なら、すでにこの瞬間から、新たな大きな流れが蠢き出す、そんな息吹を感じ取っていたからかもしれない。

――

 義元が桶狭間に散った同時刻、熱田の港にも小さな戦勝が祝われていた。
「信長軍たあ出張らっとるんじゃないんか。ウソ言われたわ、ワシ」
 服部友貞は熱田港から沖へ離れて、命からがら、吐き捨てるように呟いた。
 義元の要請に応えて合力し、大高城への兵糧入れを成し遂げた後、服部党は熱田港の接収を企図した。織田軍が善照寺砦へ向かったのを見て、もぬけの殻となった中心地・熱田で略奪を働く算段だったのだ。
 しかし、そのアテは大きく外れてしまう。
「火付けの輩がおる。焦らず、ぜんぶ捕まえい」
『港の人家から煙が上がったら、混乱に乗じて町へ押し入る』
 友貞の手筈はまったく阻止されてしまう。手に手に武器を取った五〇〇の町人が自警団さながらに港を巡検していて、放火など働く隙がない。配置にしても、手際にしても、イヤに巧みで無駄がない。それもそのはずだろう、熱田の町民たちをを統率して采配を振るったのは、織田随一の猛将・柴田権六勝家なのだから。
 
 織田軍が中島砦へ向かう折、信長は逃亡し始めた町民たちを斟酌した。
「オレが義元に負けたら、残してきた女房、子どもがいよいよ危ないってとこだろう。勝家。キサマ、付いて行って熱田を守ってやれ」
「何を申されるッ――ここまで来て、某のみ戦に加わらぬなどッ」
 顔を真っ赤にして反発する勝家に信長は笑いながら、
「黙れ。稲生原でオレに盾突いたバツだ。今日は熱田を守ってくれ。そうしたなら、謀叛の件をチャラにしよう」
 信長が言った「」という言葉を勝家は信じた。この大将は死なない、とそう信じた。
 
 町民たちは必死に戦った。信長の手駒となって無謀な戦に死ぬのは御免だが、自分の家族を守るために槍を取ることはやぶさかではない。それも、勝家のおかげで面白いように勝てるものだから、途中からは妙な勇気が湧いてきた。「アレは追わんでいい」と勝家が言う者さえ必死に追い立て町から追い出し、ついに、服部党は熱田の町に一切の手出しが出来ず終い、海上に並べた十数艘の舟は、何の戦闘も行うことなく、雲の子を散らしたようにてんでばらばらに荷之上へと帰還して行った。
「お侍さん、サアサ、お飲みくだせえ」
「アンタみてえな下っ端でも、こんなに強えのが居るってこたあ、織田信長さまはやっぱ強いのかね」
「下っ端――」
 思えば一万余の軍勢に立ち向かう本隊をただ一人離れて町の面倒を見る役回り。下っ端だと思われても仕方はない。勝家は振舞われた酒を一口煽り、『オレに盾突いたバツだ』という信長の言葉に思わず笑った。
「アア、つよい。我らの殿様は、織田信長はつよい。いずれ天下を統べるかもしれぬぞ」
「アハハ。大袈裟なお侍さんだッ」
 その時、鳴海方面から海沿いを駆けて来る織田軍の姿が見えた。
 義元を討ち獲る大勝利の報せを聞き、熱田の町民たちはまるで掌を返して喜びあがった。「信長さまよ、わたしらも戦いましたよ」などと死闘の疲れも知らずに褒めそやしたが、信長は「そうか、そうか」なんて、いちいち芯から喜びながら、飲めないはずの酒もいくらか飲んだ。

――

 一方は夕刻の大高城。松平元康の元に、一人の使者が来訪していた。少なくとも客人という扱いは受けていない様子で、周囲を元康の配下にぐるりと囲まれ、今にも斬り殺されてしまいそうな、ただならぬ雰囲気の中に座していた。
 男は冷や汗をかきながらも、微笑を湛えて口を開いた。
「ずいぶんななさりようだ。私はあなたの伯父である水野信元さまの使者として参ったのだと、先刻申し上げたつもりですがね」
「これは伯父上という人間を考えればこその対応だ。織田に与しながら使者を送るとは、何事か。降伏の嘆願に参られたのか」
 丸根砦の戦勝が未だ武士の魂を昂らせているのか、元康の口ぶりは辛辣だったが、これを受けて男は大笑いした。
「ハハハ。イヤイヤ、歯切れがいい。信元さまとは、似ているような似ていないような。知恵が回る、戦争は強い、何より、家臣にも、マア――慕われている。しかし、もう少し、物事を広く考えなくちゃアなりませんね。おっと、これは信元さまの伝言です。元康さまには『心して聞いてもらいたい』と、そう仰っておりました」
「こう見えて気の長い方ではない。回りくどい言い方をするな」
「失礼失礼。なにぶん、私が聞いても驚愕のお話でしたので、つい。しかし、肝の据わった元康殿には無用でしたな。それでは、ハッキリと申し上げましょう。本日、未の刻、今川義元が桶狭間山にて織田軍に討ち取られました」
 松平家臣団は対して二通りに態度を現した。あまりの虚説、無礼極まる物言いに憤慨する者、もしくは、荒唐無稽が過ぎるあまりに吹き出してしまう者、の二通り。ところが、元康だけはにわかに緊張し、徐に立ち上がると、今度は、太刀を抜いて自ら使者に迫った。
「虚言であれば命はないぞ。もう少し、詳しくお話しいただきたい」

 松平元康はこの後、織田の追手が来るのを警戒して夜半になってから大高城を脱出する。大樹寺を経て父祖伝来の地・岡崎城へ押し入り、これを奪い取って独立を果たす。一年の後には織田信長と同盟を結ぶが、清洲同盟と呼ばれるそれは、以後、信長が京・本能寺に果てるまで長く続くこととなる。

――

 信長は日入りの前に清洲城へ辿り着いた。
 帰蝶は帰ってきた信長を見たが、まるで戦の勝利などには触れなかった。
「ずいぶん汚い恰好だこと」
 ただ帰ってきただけの信長を、いつものように迎えた。
「綺麗だったことがあったかね、オレが」
「そういえば、ないわね」
「そうだろう」
 ほどなく女中たちが総出で餅やら湯漬けやらを給仕した。男たちは泥だらけのまま曲輪に転がり、それを次から次へと頬張った。
 桶狭間から清洲へ至る帰途に、信長は、帰るということがこれほど楽しみな日はなかった。『家とは、睨み付けて蹴り付けてやるものであり、帰って来なくていいなら二度と帰ってきたくない』、そんなかつての信長だったが、この日は違っていた。珍しい武器や菓子を買ったり、義元のような大名をこの手に討ち獲ったり、堪能な芸を身に着けたり、いずれにしても、いの一番に気心の知れた者たちに自慢したい。それだけが、信長の楽しみのすべてだった。

――アア。オレは、「オレ」なんてものは、意外と何処にもいないのかもしれんな、きっと――

 永禄三年(一五六〇年)桶狭間の戦いがここに終結する。駿府の大名・今川義元は、味方の籠る大高城救出を目的に駿府を出立し、一万余の大軍でこれを見事に成し遂げるも、撤退途上、織田信長の軍勢に襲撃され討死を遂げた。
 義元を討った信長は、ところが、東国には興味を示さない。早々に三河の松平元康と和議を結び、その後は、ひたすら個人の関心事を追いかけた。領国拡大というような大それた野望も、すぐには思いつかなかった。「鉄砲がもっとたくさん欲しい」だとか「海のある港がもっと欲しい」だとか「城をあっちへ移そう」だとか、そんなことばかりを、帰蝶や恒興に語って聞かせた。それを可成や一益が窘めることもあった。
「公方さまからの文を見られたでしょうが。これからはもう遊びで済みませんぞ。もう少し、真面目にやったらどうです」
 そう口を酸っぱくして言うのだが、その度に、信長は実に楽しそうに居直り、こう言うのだった。
「遊びさ、死ぬまでの。オレは遊びにはいつも真剣さ」
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

みんなの感想(2件)

斑鳩陽菜
2023.10.13 斑鳩陽菜

 はじめまして。斑鳩陽菜と申します。
 おお!奇遇にも、私も織田信長の若き日の小説【天下布武~必勝! 桶狭間】を執筆中です。
 資料がなくて大変ですが。
 はたして信長は、本当にうつけだったのか。
 これから楽しみにしております。
 機会がございましたら、当方にも足をお運びくださいませ

藪から犬
2023.10.14 藪から犬

お目通しいただきありがとうございます。織田信長は桶狭間に至るまでのこの青春時代が最も綱渡りで面白いと思っています。ぜひ、拝読させていただきますね。

解除
かずさのすけ

坂口安吾を彷彿とさせますね。

藪から犬
2023.10.14 藪から犬

感想への返信方法がまるで分からず、一年越しの返信です。お目通しいただきありがとうございます。ネタ元、バレバレでお恥ずかしい限りですが、習作と思って見逃してやってくださいませ。

解除

あなたにおすすめの小説

白狼 白起伝

松井暁彦
歴史・時代
時は戦国時代。 秦・魏・韓・趙・斉・楚・燕の七国が幾星霜の戦乱を乗り越え、大国と化し、互いに喰らう混沌の世。 一条の光も地上に降り注がない戦乱の世に、一人の勇者が生まれ落ちる。 彼の名は白起《はくき》。後に趙との大戦ー。長平の戦いで二十四万もの人間を生き埋めにし、中国史上、非道の限りを尽くした称される男である。 しかし、天下の極悪人、白起には知られざる一面が隠されている。彼は秦の将として、誰よりも泰平の世を渇望した。史実では語られなかった、魔将白起の物語が紡がれる。   イラスト提供 mist様      

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

お鍋の方

国香
歴史・時代
織田信長の妻・濃姫が恋敵? 茜さす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや君が袖振る 紫草の匂へる妹を憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋ひめやも 出会いは永禄2(1559)年初春。 古歌で知られる蒲生野の。 桜の川のほとり、桜の城。 そこに、一人の少女が住んでいた。 ──小倉鍋── 少女のお鍋が出会ったのは、上洛する織田信長。 ───────────── 織田信長の側室・お鍋の方の物語。 ヒロインの出自等、諸説あり、考えれば考えるほど、調べれば調べるほど謎なので、作者の妄想で書いて行きます。 通説とは違っていますので、あらかじめご了承頂きたく、お願い申し上げます。

戦争はただ冷酷に

航空戦艦信濃
歴史・時代
 1900年代、日露戦争の英雄達によって帝国陸海軍の教育は大きな変革を遂げた。戦術だけでなく戦略的な視点で、すべては偉大なる皇国の為に、徹底的に敵を叩き潰すための教育が行われた。その為なら、武士道を捨てることだって厭わない…  1931年、満州の荒野からこの教育の成果が世界に示される。

御稜威の光  =天地に響け、無辜の咆吼=

城闕崇華研究所(呼称は「えねこ」でヨロ
歴史・時代
そこにある列強は、もはや列強ではなかった。大日本帝国という王道国家のみが覇権国など鼻で笑う王道を敷く形で存在し、多くの白人種はその罪を問われ、この世から放逐された。 いわゆる、「日月神判」である。 結果的にドイツ第三帝国やイタリア王国といった諸同盟国家――すなわち枢軸国欧州本部――の全てが、大日本帝国が戦勝国となる前に降伏してしまったから起きたことであるが、それは結果的に大日本帝国による平和――それはすなわち読者世界における偽りの差別撤廃ではなく、人種等の差別が本当に存在しない世界といえた――へ、すなわち白人種を断罪して世界を作り直す、否、世界を作り始める作業を完遂するために必須の条件であったと言える。 そして、大日本帝国はその作業を、決して覇権国などという驕慢な概念ではなく、王道を敷き、楽園を作り、五族協和の理念の元、本当に金城湯池をこの世に出現させるための、すなわち義務として行った。無論、その最大の障害は白人種と、それを支援していた亜細亜の裏切り者共であったが、それはもはや亡い。 人類史最大の総決算が終結した今、大日本帝国を筆頭国家とした金城湯池の遊星は遂に、その端緒に立った。 本日は、その「総決算」を大日本帝国が如何にして完遂し、諸民族に平和を振る舞ったかを記述したいと思う。 城闕崇華研究所所長

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

櫻雨-ゆすらあめ-

弓束しげる
歴史・時代
新選組隊士・斎藤一の生涯を、自分なりにもぐもぐ咀嚼して書きたかったお話。 ※史実を基にしたフィクションです。実在の人物、団体、事件とは関わりありません。 ※敢えて時代考証を無視しているところが多数あります。 ※歴史小説、ではなく、オリジナルキャラを交えた歴史キャラ文芸小説です。  筆者の商業デビュー前に自サイトで連載していた同人作です。  色々思うところはありますが、今読み返しても普通に自分が好きだな、と思ったのでちまちま移行・連載していきます。  現在は1週間ごとくらいで更新していけたらと思っています(毎週土曜18:50更新)  めちゃくちゃ長い大河小説です。 ※カクヨム・小説家になろうでも連載しています。 ▼参考文献(敬称略/順不同) 『新選組展2022 図録』京都府京都文化博物館・福島県立博物館 『新撰組顛末記』著・永倉新八(新人物往来社) 『新人物往来社編 新選組史料集コンパクト版』(新人物往来社) 『定本 新撰組史録』著・平尾道雄(新人物往来社) 『新選組流山顛末記』著・松下英治(新人物往来社) 『新選組戦場日記 永倉新八「浪士文久報国記事」を読む』著・木村幸比古(PHP研究所) 『新選組日記 永倉新八日記・島田魁日記を読む』著・木村幸比古(PHP研究所) 『新選組全史 天誅VS.志士狩りの幕末』著・木村幸比古(講談社) 『会津戦争全史』著・星亮一(講談社) 『会津落城 戊辰戦争最大の悲劇』著・星亮一(中央公論新社) 『新選組全隊士徹底ガイド』著・前田政記(河出書房新社) 『新選組 敗者の歴史はどう歪められたのか』著・大野敏明(実業之日本社) 『孝明天皇と「一会桑」』著・家近良樹(文藝春秋) 『新訂 会津歴史年表』会津史学会 『幕末維新新選組』新選社 『週刊 真説歴史の道 2010年12/7号 土方歳三 蝦夷共和国への道』小学館 『週刊 真説歴史の道 2010年12/14号 松平容保 会津戦争と下北移封』小学館 『新選組組長 斎藤一』著・菊地明(PHP研究所) 『新選組副長助勤 斎藤一』著・赤間倭子(学習研究社) 『燃えよ剣』著・司馬遼太郎(新潮社) 『壬生義士伝』著・浅田次郎(文藝春秋)

池田恒興

竹井ゴールド
歴史・時代
 織田信長の乳兄弟の池田恒興の生涯の名場面だけを描く。  独断と偏見と創作、年齢不詳は都合良く解釈がかなりあります。  温かい眼で見守って下さい。  不定期掲載です。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。