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第四章 蛟竜雲雨
十九
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「膳を出せ」
信長は立ったまま湯漬けをかき込む。板縁の冷たさが足を伝って心臓まで上がってくるようだ。味が分からないどころか、今、自分が腹ごしらえをしていることさえも、頭の端から漏れていくように忘れた。
「法螺貝を吹け。具足を持て」
命令を紡ぐ。自分の声が頭のなかに幾度も反響している。あの黒ずんだ柱の仲間になったかのように、信長は自分が物であるかのように感じていた。ただ一切が生と死ののっぴきならない一幕へと突き進んでいる。この状況に酔わずにいるだけで彼は精一杯だった。いつものように戦へ出掛けるには、信長は、これまであまりにも今川義元に想いを傾けて来た。
戦貝が鈍く鳴っている。
――聞けば、音色と呼べるような代物ではないな――
考えているうちに太鼓が続く。こちらは快音である。酩酊している人間にとってはさぞやかましいことだろう。
信長は甲冑に身を包むと、冷えた空気を切り裂くように歩み出して厩へ向かった。目についた栗毛の馬に跨る。
背後にはぴったりと五騎の小姓衆が着いてきていた。彼らは厳粛として一言も話さない。互いに示し合わせたかのような揃った轡の音だけがどこまでも規則的に続いている。主従六騎は一迅の風の如く走った。小便に起きた酔っ払いが、清洲の街角からこれを見たのだが『ハテ、今のは何だったかな』と、それが武者であることにすら気付けない。よしんば、その者が酔っていなかったのだとしても『ハテ、今のは馬はなんだろかな。どこへ行くかね』と感じることが精いっぱいに違いない。まさか、一万余の大軍との戦争に向かうなどとは思いも寄らない。
南に一散、熱田神宮までを駆け抜けて、信長は、ようやくそこで馬を繋いだ。
熱田大明神に手を合わせる。風が吹いて潮の香を運んでくる。信長は他人と比べて信心は薄い。だからこそ、祈る楽しさにむしろ敏感だった。
『私に祈るようだから、ダメ』
その存在すら忘れていた女の言葉を思い返した。今更ながら、一人心の中で反駁を試みた。
――何かをやりつくしたら、もう、あとは祈るしかないものさ。わからんかな――
祈ることが出来る。それは彼にとっては幸せなことだった。人事を尽くして天命を待つ。天に祈ることに対する引け目の無さが、そのまま、自らの絶え間ない鍛錬の証だと考えることができた。
ぽつりぽつりと遅れて加わる雑兵たちが二〇〇近くまで増えていたが、信長はそれを数えることもしなかった。一人境内を巡り、東側・眺望の最も良い上知我間の社まで来て、眼前に大海原を捉える。半島にのっぺりと膨らんだ笠寺の台地の向こうには、鳴海城とそれを囲む砦群が見えた。
霞んだ空のかなたに、龍のような黒煙が一筋、さらに、その奥に、ひょろひょろ細長い土煙がいくらかの束になって登っていた。鷲津、丸根の位置であることは言うまでもない。両砦はすでに陥落したらしい。その時、ちょうどその光景を裏付ける注進がもたらされた。
「丸根砦・佐久間盛重さまお討死。また、鷲津砦は全焼しました。秀敏さまは行方も知れませぬが、恐らくは、もう――」
使者の顔を見ることもなく、信長は、ただ立ち昇る煙を眺めているだけだった。
報告を終えて走り去る使者とすれ違うように秀貞が現れ、信長に語りかける。その声色はやけに明るかった。
「感服しました。味方の砦を見殺し、義元に戦勝という名の美酒を振舞われたか。これで、強引に隙をつくろうというのですな。常人には考えも及ばぬことです。いうなればつくられた奇襲。奇策――、イヤ、捨て石にされた砦を思えば、禁じ手という方が正しいでしょう。昨夜、軍議と称して家臣一同を集めたのは敵に通じている者を夜分まで引き留めておくためですかな。作戦の詳細を語らなかったことにも合点が行きました。なるほど、これは語れない」
秀貞の口ぶりは嫌味ではなかった。むしろ、心酔に近い。彼は、自分だけが信長の作戦に気付いた――と、実際は思い込んでいるに過ぎないが――ことだけが、ただただ嬉しかったのだ。判じ物を解いた童子のような幼さで、信長に褒めてもらいたいような幼稚な佇まいであるが、信長はそれを否定はしなかった。
『敵が攻め寄せたら、適当に戦ってから砦を明け渡せ。キサマらの守る砦を落とさせる。いいな』
信長は鷲津・丸根砦にそう命じていた。ところが、結果は玉砕を示していた。織田秀敏は灼熱にその身を焦がし、佐久間盛重は野原を血で染め上げた。どちらも、真っ向から敵に対し、そして、死んだ。
信長の胸には、素直な感傷と、それをねじ伏せるかのよう冷えた計算が去来した。
――仲間の死の哀しみが、もう消えていく。乱世とは、オレのような鬼の住むべきところかな――
その紛うことなき玉砕の最期により、信長が構想する義元本隊の撤退誘引はさらに盤石になったといえた。両砦が死力を振り絞って戦ったとあれば、――今川軍の疲弊は、信長の想定以上となるだろう。
信長はそれを悔いる訳にはいかない。自分の立てた作戦が順調に進んでいる以上、流れる涙も所詮は嘘だ。
『地獄で、待っていろ』
そう天に唱えることしか出来やしない。
卯の刻の伊勢湾は満潮である。熱田から鳴海へは内陸を東へぐるりと回るしかない。もし、潮が引いていたら、下の近道を使えるところだが、そうはいかなかった。
「潮目に合わせて攻撃を仕掛けてきたか。義元、やれやれ抜かりのない男だな」
いつの間にか加わった一益が馬上で苦笑をたたえている。
古鳴海から赤塚の地を越えて、鳴海城を囲う丹下砦までやってきた。既に、いつ敵軍に補足されてもおかしくはない距離である。その間にも、清洲からぞろぞろと兵たちが参集していた。軍勢はいよいよ一〇〇〇を超えた。
「ろくな軍議もしてないってのに、よく集まるものだなア」
恒興がまだ眠い眼をこすりながら、つい軽薄を言った。
「殿は「国境で一戦交えたい」と話されたろう。場所は皆に知れていた。戦う気がある者は銘々勝手に集まるだろう」
可成が武者震いを噛み殺すように答えた。
善照寺砦では、城将として置かれていた佐久間信盛が信長を迎えた。
「丸根・鷲津の両砦はすでに陥落。義元は漆山に陣を敷き、後詰として現れるはずの殿を待つかのようでござる」
信長はここに来て初めて背後に向き直る。かの漆山は中島砦を挟んでその向こうに目前だった。
大音声で軍勢を整列させ、ここに始めて義元追撃の策を語った。
「いいか。これはオレから仕掛けた戦だ。大高城を囲む四つの砦を落とした義元は、すでにこの戦に勝ったと思い込んでいる。断言してやろう。義元は必ず撤退する。我らはこれを逃さぬよう追い討ちをかける。難しくはないぞ。いかなる大軍だろうとも、攻め気をなくした敵など恐れるに足らん。この戦で、今川の主力を叩き、尾張国かき弾き出してやるのだ」
『緒戦を完勝し、圧倒的優位の今川軍が退却する』
信長の言を信じ切ることができた者はそう多くない。当たり前だ。信長ですら、その策を道三から貰い受けたときには、にわかには信じられなかった心理の死角を突いているのだ。
だが、信長だけが確信している。
――思えば、義元とはそういう男だ。奴は欲をかかない。小さな綻びすら許さない。その完璧。その潔癖。あらゆるものを持ったまま生まれてきたという、その矜持が、今日のオマエの動きを定めている。
太原雪斎が死に、オマエはずいぶん寂しかったろう、尾張の大うつけを相手取るために一万余の大軍を率いてきた。人々はこう言うのだろう。『どうやら義元に油断はない』。だが、オマエは、油断しなかったわけじゃない。できなかったのだ。用意周到な奸計で未然にすべての敵を無力化してきたオマエは、泥にまみれる戦争を知らない。天が支配する本物の賭場に立つことは、オレよりも、ずっと怖いはずだ――
「完全勝利を得ようとするオマエは、この機会を逃さない。必ず退却する。そして、それこそが命取りなんだ」
義元本人よりも義元を知っているとでもいうような傲岸さを押し殺し、信長は目をきゅっも見開いた。
ところが、――
「モ、申し上げますッ――」
「来たな。キサマら、兜の緒を締めろ!」
斥候からの報告が信長の期待を打ち砕く。
「義元本隊が山頂に、漆山の山頂にありません。おそらく、すでに撤退を開始していたものと思われますが、――」
握りしめた兜の緒がだらりと垂れた。信長の全身を悪寒が走った。この数秒の間にも勝利がみるみる遠のいていく事実が、信長のからだを直接に襲っていた。
――居ない?――
信長は一片の曇りもなく義元の撤退を読み切っていた。丸根・鷲津砦の奮戦も相まって、義元は信長の狙いが追い討ちにあるなどとは見抜けてはいない。しかしながら、その迅速さは、信長の理解を越えていた。義元本隊はすでに漆山を降りて本陣を移し、東方の拠点・沓掛城までの撤退を開始していた。
地面が沼へ変わっていくように、足が踏み出せない。
――追いつけない? 一体、どうすればいい?――
勝つには、今からすぐにでも突撃をかけるべきかもしれない。このままでは、本当に、味方の砦を潰されただけの大敗北を喫してしまう。信長は、無意識の底で義元を舐めていた。『いくら今川が大軍を擁していようとも、自分は絶え間ない骨肉の戦争を生き抜いてきたのだ』。緻密な策略の中にわずかに生じた、それは、黴の如き慢心だった。
「オノレッ」
信長は繁茂する灌木に太刀を薙いだ。
朝焼けに帰蝶と戯れたのが遠い日のことのように思われた。いつの間にか空に、あの丸根砦の黒煙がいっぱいに広がったかのような暗雲が立ち込めていた。風が、冷たい。
――やられてしまった。どうした? 何を、いつ、見逃した? 気負いがあったのだろうか?――
自省の念が沸いて出る。今はそんなことを考えている場合ではない。そんなことすら、信長をして忘れさせつつあるほどの焦りが濁流のように押し寄せる。組み立てられた作戦、囮となった仲間の犠牲、そして何より、これまでの信長の人生のすべて反骨精神が、いま、この瞬間、水泡に帰そうとしていた。
汗な、涙か、雨か、天より落ちた一滴が信長の兜をコツンと打った、その時である。
誰の耳にも意味のわからない妙な注進が入った。
「前線の中島砦より、千秋季忠殿率いる部隊が出撃したとのことにございますッ――」
信長は立ったまま湯漬けをかき込む。板縁の冷たさが足を伝って心臓まで上がってくるようだ。味が分からないどころか、今、自分が腹ごしらえをしていることさえも、頭の端から漏れていくように忘れた。
「法螺貝を吹け。具足を持て」
命令を紡ぐ。自分の声が頭のなかに幾度も反響している。あの黒ずんだ柱の仲間になったかのように、信長は自分が物であるかのように感じていた。ただ一切が生と死ののっぴきならない一幕へと突き進んでいる。この状況に酔わずにいるだけで彼は精一杯だった。いつものように戦へ出掛けるには、信長は、これまであまりにも今川義元に想いを傾けて来た。
戦貝が鈍く鳴っている。
――聞けば、音色と呼べるような代物ではないな――
考えているうちに太鼓が続く。こちらは快音である。酩酊している人間にとってはさぞやかましいことだろう。
信長は甲冑に身を包むと、冷えた空気を切り裂くように歩み出して厩へ向かった。目についた栗毛の馬に跨る。
背後にはぴったりと五騎の小姓衆が着いてきていた。彼らは厳粛として一言も話さない。互いに示し合わせたかのような揃った轡の音だけがどこまでも規則的に続いている。主従六騎は一迅の風の如く走った。小便に起きた酔っ払いが、清洲の街角からこれを見たのだが『ハテ、今のは何だったかな』と、それが武者であることにすら気付けない。よしんば、その者が酔っていなかったのだとしても『ハテ、今のは馬はなんだろかな。どこへ行くかね』と感じることが精いっぱいに違いない。まさか、一万余の大軍との戦争に向かうなどとは思いも寄らない。
南に一散、熱田神宮までを駆け抜けて、信長は、ようやくそこで馬を繋いだ。
熱田大明神に手を合わせる。風が吹いて潮の香を運んでくる。信長は他人と比べて信心は薄い。だからこそ、祈る楽しさにむしろ敏感だった。
『私に祈るようだから、ダメ』
その存在すら忘れていた女の言葉を思い返した。今更ながら、一人心の中で反駁を試みた。
――何かをやりつくしたら、もう、あとは祈るしかないものさ。わからんかな――
祈ることが出来る。それは彼にとっては幸せなことだった。人事を尽くして天命を待つ。天に祈ることに対する引け目の無さが、そのまま、自らの絶え間ない鍛錬の証だと考えることができた。
ぽつりぽつりと遅れて加わる雑兵たちが二〇〇近くまで増えていたが、信長はそれを数えることもしなかった。一人境内を巡り、東側・眺望の最も良い上知我間の社まで来て、眼前に大海原を捉える。半島にのっぺりと膨らんだ笠寺の台地の向こうには、鳴海城とそれを囲む砦群が見えた。
霞んだ空のかなたに、龍のような黒煙が一筋、さらに、その奥に、ひょろひょろ細長い土煙がいくらかの束になって登っていた。鷲津、丸根の位置であることは言うまでもない。両砦はすでに陥落したらしい。その時、ちょうどその光景を裏付ける注進がもたらされた。
「丸根砦・佐久間盛重さまお討死。また、鷲津砦は全焼しました。秀敏さまは行方も知れませぬが、恐らくは、もう――」
使者の顔を見ることもなく、信長は、ただ立ち昇る煙を眺めているだけだった。
報告を終えて走り去る使者とすれ違うように秀貞が現れ、信長に語りかける。その声色はやけに明るかった。
「感服しました。味方の砦を見殺し、義元に戦勝という名の美酒を振舞われたか。これで、強引に隙をつくろうというのですな。常人には考えも及ばぬことです。いうなればつくられた奇襲。奇策――、イヤ、捨て石にされた砦を思えば、禁じ手という方が正しいでしょう。昨夜、軍議と称して家臣一同を集めたのは敵に通じている者を夜分まで引き留めておくためですかな。作戦の詳細を語らなかったことにも合点が行きました。なるほど、これは語れない」
秀貞の口ぶりは嫌味ではなかった。むしろ、心酔に近い。彼は、自分だけが信長の作戦に気付いた――と、実際は思い込んでいるに過ぎないが――ことだけが、ただただ嬉しかったのだ。判じ物を解いた童子のような幼さで、信長に褒めてもらいたいような幼稚な佇まいであるが、信長はそれを否定はしなかった。
『敵が攻め寄せたら、適当に戦ってから砦を明け渡せ。キサマらの守る砦を落とさせる。いいな』
信長は鷲津・丸根砦にそう命じていた。ところが、結果は玉砕を示していた。織田秀敏は灼熱にその身を焦がし、佐久間盛重は野原を血で染め上げた。どちらも、真っ向から敵に対し、そして、死んだ。
信長の胸には、素直な感傷と、それをねじ伏せるかのよう冷えた計算が去来した。
――仲間の死の哀しみが、もう消えていく。乱世とは、オレのような鬼の住むべきところかな――
その紛うことなき玉砕の最期により、信長が構想する義元本隊の撤退誘引はさらに盤石になったといえた。両砦が死力を振り絞って戦ったとあれば、――今川軍の疲弊は、信長の想定以上となるだろう。
信長はそれを悔いる訳にはいかない。自分の立てた作戦が順調に進んでいる以上、流れる涙も所詮は嘘だ。
『地獄で、待っていろ』
そう天に唱えることしか出来やしない。
卯の刻の伊勢湾は満潮である。熱田から鳴海へは内陸を東へぐるりと回るしかない。もし、潮が引いていたら、下の近道を使えるところだが、そうはいかなかった。
「潮目に合わせて攻撃を仕掛けてきたか。義元、やれやれ抜かりのない男だな」
いつの間にか加わった一益が馬上で苦笑をたたえている。
古鳴海から赤塚の地を越えて、鳴海城を囲う丹下砦までやってきた。既に、いつ敵軍に補足されてもおかしくはない距離である。その間にも、清洲からぞろぞろと兵たちが参集していた。軍勢はいよいよ一〇〇〇を超えた。
「ろくな軍議もしてないってのに、よく集まるものだなア」
恒興がまだ眠い眼をこすりながら、つい軽薄を言った。
「殿は「国境で一戦交えたい」と話されたろう。場所は皆に知れていた。戦う気がある者は銘々勝手に集まるだろう」
可成が武者震いを噛み殺すように答えた。
善照寺砦では、城将として置かれていた佐久間信盛が信長を迎えた。
「丸根・鷲津の両砦はすでに陥落。義元は漆山に陣を敷き、後詰として現れるはずの殿を待つかのようでござる」
信長はここに来て初めて背後に向き直る。かの漆山は中島砦を挟んでその向こうに目前だった。
大音声で軍勢を整列させ、ここに始めて義元追撃の策を語った。
「いいか。これはオレから仕掛けた戦だ。大高城を囲む四つの砦を落とした義元は、すでにこの戦に勝ったと思い込んでいる。断言してやろう。義元は必ず撤退する。我らはこれを逃さぬよう追い討ちをかける。難しくはないぞ。いかなる大軍だろうとも、攻め気をなくした敵など恐れるに足らん。この戦で、今川の主力を叩き、尾張国かき弾き出してやるのだ」
『緒戦を完勝し、圧倒的優位の今川軍が退却する』
信長の言を信じ切ることができた者はそう多くない。当たり前だ。信長ですら、その策を道三から貰い受けたときには、にわかには信じられなかった心理の死角を突いているのだ。
だが、信長だけが確信している。
――思えば、義元とはそういう男だ。奴は欲をかかない。小さな綻びすら許さない。その完璧。その潔癖。あらゆるものを持ったまま生まれてきたという、その矜持が、今日のオマエの動きを定めている。
太原雪斎が死に、オマエはずいぶん寂しかったろう、尾張の大うつけを相手取るために一万余の大軍を率いてきた。人々はこう言うのだろう。『どうやら義元に油断はない』。だが、オマエは、油断しなかったわけじゃない。できなかったのだ。用意周到な奸計で未然にすべての敵を無力化してきたオマエは、泥にまみれる戦争を知らない。天が支配する本物の賭場に立つことは、オレよりも、ずっと怖いはずだ――
「完全勝利を得ようとするオマエは、この機会を逃さない。必ず退却する。そして、それこそが命取りなんだ」
義元本人よりも義元を知っているとでもいうような傲岸さを押し殺し、信長は目をきゅっも見開いた。
ところが、――
「モ、申し上げますッ――」
「来たな。キサマら、兜の緒を締めろ!」
斥候からの報告が信長の期待を打ち砕く。
「義元本隊が山頂に、漆山の山頂にありません。おそらく、すでに撤退を開始していたものと思われますが、――」
握りしめた兜の緒がだらりと垂れた。信長の全身を悪寒が走った。この数秒の間にも勝利がみるみる遠のいていく事実が、信長のからだを直接に襲っていた。
――居ない?――
信長は一片の曇りもなく義元の撤退を読み切っていた。丸根・鷲津砦の奮戦も相まって、義元は信長の狙いが追い討ちにあるなどとは見抜けてはいない。しかしながら、その迅速さは、信長の理解を越えていた。義元本隊はすでに漆山を降りて本陣を移し、東方の拠点・沓掛城までの撤退を開始していた。
地面が沼へ変わっていくように、足が踏み出せない。
――追いつけない? 一体、どうすればいい?――
勝つには、今からすぐにでも突撃をかけるべきかもしれない。このままでは、本当に、味方の砦を潰されただけの大敗北を喫してしまう。信長は、無意識の底で義元を舐めていた。『いくら今川が大軍を擁していようとも、自分は絶え間ない骨肉の戦争を生き抜いてきたのだ』。緻密な策略の中にわずかに生じた、それは、黴の如き慢心だった。
「オノレッ」
信長は繁茂する灌木に太刀を薙いだ。
朝焼けに帰蝶と戯れたのが遠い日のことのように思われた。いつの間にか空に、あの丸根砦の黒煙がいっぱいに広がったかのような暗雲が立ち込めていた。風が、冷たい。
――やられてしまった。どうした? 何を、いつ、見逃した? 気負いがあったのだろうか?――
自省の念が沸いて出る。今はそんなことを考えている場合ではない。そんなことすら、信長をして忘れさせつつあるほどの焦りが濁流のように押し寄せる。組み立てられた作戦、囮となった仲間の犠牲、そして何より、これまでの信長の人生のすべて反骨精神が、いま、この瞬間、水泡に帰そうとしていた。
汗な、涙か、雨か、天より落ちた一滴が信長の兜をコツンと打った、その時である。
誰の耳にも意味のわからない妙な注進が入った。
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