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第四章 蛟竜雲雨
十八
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五月十九日早暁、まだ薄暗い部屋のなかで信長は目を覚ました。
障子の向こう側から小さな影が告げた。
「鷲津、丸根の両砦から報告があがりました。大高城より敵が出撃し、すでに砦が攻められている由にございます」
その声で起こされたのか、それよりも前に既に目覚めていたのか、信長は自分でもわからなかった。
「来たな」
傍らに帰蝶が眠っている。安らかな寝顔が、死んでいるように見えた。信長は、今までにないほどその顔に近づき、薄く淡泊な唇を見た。祈るように目を閉じる。
一杯の水を飲み切り、かすかな声で呟いた。
「人間五十年――」
その声に、段々に節がついていく。
「――下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。ひとたび生を得て、滅せぬもののあるべきか」
逸る気を落ち着かせるように、信長は、幸若舞・敦盛を舞った。そして、冷えた床に足を踏み出し、始まった戦争に静かに思いを馳せる。
――
「加納口に押し寄せた我が父・織田信秀の軍勢を、舅殿はいかにして完膚なきまでの返り討ちにしたのでしょうか。後学のために、それをなるべく詳細にお聞かせ願いたいのです」
桶狭間の戦いより七年前のこと、義父・道三と聖徳寺で会見したとき、信長は最後にそう訊ねた。
寡兵の道三が、自らの父を見事に打ち破った加納口の戦い。その秘密を知りたかった。実父が醜態を晒した戦について、好奇心だけを滾らせニコニコしている信長は、まるで親戚随一のヤンチャ坊主のように道三の目には映った。
「ウワハハ。改まって何を言うかと思えば、それを、この私に説かせようというかね」
帰蝶が輿入れして和議が整ったとはいえ、日は浅い。いつ何がどうなるかわかりやしない乱世の隣国同士のこと、本当に知りたいことを素直に訊ねるなどというのは、率直に言って舐めている。知りたいことがあるなら、あらゆる手練手管を使って、その相手から奪い取らなければならないのが鉄則である。
「よかろう」
ところが、道三は快諾した。ウソをつくのは、野暮だと思った。
信長は実父の惨敗を認めて教えを乞うた。これに安易なウソで答えれば、傷つくのは道三の梟雄としての矜持だろう。優秀な忍者を用いて敵から情報を盗み取るのが技術なら、相手の心根を読んで隙を突くことも技術である。蛇の懐に飛び込むために有効な武器は、その毒牙を突き立てる気にもならないほど真っすぐな信頼なのだと、信長は本能的に知っていたのかもしれない。
「だがね、大した話はないよ。私は、逃げて行くご尊父の軍勢を追い討っただけよ」
喉から手か出るほどに知りたかった話のはずだが、信長は肩透かしを食らって目を丸くした。道三は自分を煙に巻こうとしているのか、とそう考え、飲めない酒を気休めに一口あおってから問い直した。
「妙なことを申される。父の軍勢は緒戦を制し、加納の町を焼いた。舅殿はいかにこれを挽回したのか。私が訊ねているのはそこです。ところが、勝勢の敵を追い討った、と舅殿はそう仰る?」
「さよう。追い戦ほど勝ちやすいものは無いね。また、退き戦ほど難しいものも、これまた無い」
「滅茶苦茶を言われる。禅問答をしたいのではないのですがね。追い戦とは、すでに打ち負かした敵に対して行われるものだ」
信長は呆れたように吐き捨てたが、今度は道三の方が目を丸くして、まるでキョトンとした顔で返答した。
「ウウン。そんなことはないよ。信長殿は、何故、そうお思いになられるか?」
さて、信長はここに来てようやく道三が冗談を言っているのではないのだと気が付いた。
「逃げて行く敵を討つのは易しい。それが分かっている。ならば、まずは勝たずとも、敵が退いて行くのを待って、そこで一勝負を賭ければ良い」
「その敵は、優勢でありながら何故逃げるのです?」
「何故と言ったってね。どれだけ強大な軍勢だろうとも、人間だよ。腹が減る。眠くなる。国許に残してきた、女、子どもの夢を見る。槍を振るいながら、飯が食えるかね。鉄砲を撃ちながら、眠れるかね。そんな敵がもし居たら、それは人間じゃないと思って諦めもつくというものだが、どうも、私の見てきた限りでは、乱世の鬼にもそれはないようだ。皆、いつかは何処かへ帰っていく」
追撃戦こそ楽な戦だから、勝ちたかったら敵を退かせろ。仮にこれだけ聞いたなら、一体、誰が嘲笑わないだろうか。信長はそれを信じ切ることができなかったが、しかし、その語り口には大いなる親しみを覚えた。常識そのものに疑問を投げかけ、実証しようという態度が好きだった。自分に通じていると思った。道三の語ることが真っ赤なウソだとしても、良いとさえ思った。
「ぶつかり合ったら終いだと思った。けれども、あのてんでバラバラの兵隊たちに稲葉山を落とされるとも、一向思わなかった。辛抱していれば、いずれ退いて行くに違いない。なら、貝のように蓋を閉じ、飯を食って、よく眠り、力をつけ、その時を待とうと思った。疲弊し、攻め気を失くした敵など、いくら居ようとも怖くない。やられっぱなしでは焼かれた村に悪いので、その背中を一発くらい殴ってやらねばならんと考えた。あとは運さ。それだけさ、ね」
それだけのことが勝敗を決した。日没の迫るなかで、引き揚げて行く織田軍の背後を道三は一気呵成に襲った。指揮官が一人また一人と討たれ、織田軍は暗闇のなかで敵味方を判じる術もなかった。組織だった抵抗の一つもすることができず、瞬く間に総崩れに陥った。
「結果だけ見たら圧勝かもしれない。けれども、あの戦いはそれだけのことなのだよ。ほかには何もない。家臣たちは、マアここにいる何人かもそうだ、掌を返して私を褒めそやしたな。『奇跡の大勝利』、『鬼謀』、『奇襲』。何を言おうとも勝手だが)、マ、戦とは、それだけのことで決するものなのだ」
――
「変な唄」
信長の背後から帰蝶が声をかけた。
「起きていたのか」
「起こされたのよ」
帰蝶は半身を起こしただけで、夜着を引き寄せて寝床を出る気がないらしい。
「その後は、どう続くの」
「さあ」
「さあって」
「ここしか知らないんだ。ここだけ好きなんだ」
すこし開いている障子の外に、透き通った晴れやかな空が見えた。鳥が鳴いている。信長はこういう朝早くに鷹狩に行くのなどと言い出すのだ。帰蝶は回顧していた。見えるもの、聞こえるものには、戦争の気配など何処にもありはしなかった。ただ、目の前の男からのみ死が匂っていた。
「勝てそうですか」
「どう思う」
「私に分かるわけないでしょ」
「勘でいいんだ」
「じゃあ、――ダメね」
「何故だね」
「私に祈るようだから、ダメ」
「唄う前に起きていたな」
帰蝶はいかなる作戦も聞かされてはいない。聞いても仕方がない。どうしようもない。信長が死んだら自分という人間も死ぬだろうとも思えたし、存外、新たな伴侶を得て思いがけない違う人生を送るのかもしれない、とも考えた。どちらでもいいのだ。
ふと信長が自分を見つめていることに気付き、帰蝶は機先を制して話した。
「なに?」
「いいや。何でもない」
信長は威圧されたのかもしれない。
道三の死によってすでに斎藤とは手が切れている。帰蝶との間には子どもがないし、今更生まれても困るから、夫婦の契りも交わさないままになっている。互いにそれほど嫌いでもなかったが、一度、互いを無二の友人にしてしまった手前、男女の興は冷めている。それを再び掘り起こすような術を、信長も、帰蝶も、知らないし、知る必要もなかった。
信長は、帰蝶という女におよそ人格というものを認めていない。彼女に何を求め、何を与えれば良いか、いつまでも分からない。時折、ふらりと現れて二、三話すだけの精巧な鏡のように扱った。
帰蝶も、また、そうだった。相手に何を訊ねられようとも、皮相の見解だけを弄んで答えた。その淡泊な関係が物珍しく、これを一般のものに堕してしまうことを心の何処かできっと嫌がっていた。
「だがね。やるべきことをやったら、後は祈るしかないものだよ」
信長には、帰蝶が狐狸妖怪の類ではないかと思われるときがあった。他の女とまるで違うのだ。それでいて、今日のような日には、何も目的なくただそこにあるだけのこの生命に、ひどく欲情させられた。信長は反転してこう思う。
『イヤ、この女だけが、この世のなかにある女という生物なのではないか』
二人はいつまでも観念のなかを遊んた。竹馬の友のように近く、また、生者と死者のように隔たれていた。そこに身体の触れないことが、ふしぎな絆を結んでいるように思えた。彼女の世界に触れるとき、信長はどうして世界が現実だけで構成されなければならないのか、と問わずにはいられなかった。
――父の死をオレに語らなかったこの女は、オレが死んでも生きて行くのだ。これが強さでなくて、何だろう。この強さが、美しさでなくて何だろう――
そう思った瞬間に、信長は帰蝶の目の下に夥しいクマがあることを見た。
すべてが打ち砕かれてしまった。
信長は倒れるようにして帰蝶を抱き寄せ、口付けした。拒まれるとも、受け入れられるとも、なかった。欲情が川のように流れた。
『このまま、この胸に飛び込み、からだのすり減るまで淫欲に遊び、他に類を見ぬほどの暗愚の侍として後世にその名を残すというのも、それほど悪くはない』
そんな短い夢が、唇を泳いでいた。
「勝って来るよ」
「どうだか。だって、死に行く人のようなことをしたわ」
山々からの朝焼けが、眠そうな帰蝶の目に差して、キラキラと輝いていた。
信長はくるっと踵を返して寝所の戸を開け放ち、何か強い力に突き放されるように、その場を去った。
戦貝が吹かれ、束の間の静寂が破られていく。城内が騒がしくなってきたが、何故だか、帰蝶には、死の匂いは遠ざかっているような気がした。先刻の時間だけが、生と死のすべてであるように思われた。微睡むように目を閉じ、手を合わせた。何に祈るということではない。むしろ、天に、自らの言葉にならない思いを与えるとでもいうような心地だった。
「わたしが待つただ一人のひと。ノブナガ。織田、信長」
障子の向こう側から小さな影が告げた。
「鷲津、丸根の両砦から報告があがりました。大高城より敵が出撃し、すでに砦が攻められている由にございます」
その声で起こされたのか、それよりも前に既に目覚めていたのか、信長は自分でもわからなかった。
「来たな」
傍らに帰蝶が眠っている。安らかな寝顔が、死んでいるように見えた。信長は、今までにないほどその顔に近づき、薄く淡泊な唇を見た。祈るように目を閉じる。
一杯の水を飲み切り、かすかな声で呟いた。
「人間五十年――」
その声に、段々に節がついていく。
「――下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。ひとたび生を得て、滅せぬもののあるべきか」
逸る気を落ち着かせるように、信長は、幸若舞・敦盛を舞った。そして、冷えた床に足を踏み出し、始まった戦争に静かに思いを馳せる。
――
「加納口に押し寄せた我が父・織田信秀の軍勢を、舅殿はいかにして完膚なきまでの返り討ちにしたのでしょうか。後学のために、それをなるべく詳細にお聞かせ願いたいのです」
桶狭間の戦いより七年前のこと、義父・道三と聖徳寺で会見したとき、信長は最後にそう訊ねた。
寡兵の道三が、自らの父を見事に打ち破った加納口の戦い。その秘密を知りたかった。実父が醜態を晒した戦について、好奇心だけを滾らせニコニコしている信長は、まるで親戚随一のヤンチャ坊主のように道三の目には映った。
「ウワハハ。改まって何を言うかと思えば、それを、この私に説かせようというかね」
帰蝶が輿入れして和議が整ったとはいえ、日は浅い。いつ何がどうなるかわかりやしない乱世の隣国同士のこと、本当に知りたいことを素直に訊ねるなどというのは、率直に言って舐めている。知りたいことがあるなら、あらゆる手練手管を使って、その相手から奪い取らなければならないのが鉄則である。
「よかろう」
ところが、道三は快諾した。ウソをつくのは、野暮だと思った。
信長は実父の惨敗を認めて教えを乞うた。これに安易なウソで答えれば、傷つくのは道三の梟雄としての矜持だろう。優秀な忍者を用いて敵から情報を盗み取るのが技術なら、相手の心根を読んで隙を突くことも技術である。蛇の懐に飛び込むために有効な武器は、その毒牙を突き立てる気にもならないほど真っすぐな信頼なのだと、信長は本能的に知っていたのかもしれない。
「だがね、大した話はないよ。私は、逃げて行くご尊父の軍勢を追い討っただけよ」
喉から手か出るほどに知りたかった話のはずだが、信長は肩透かしを食らって目を丸くした。道三は自分を煙に巻こうとしているのか、とそう考え、飲めない酒を気休めに一口あおってから問い直した。
「妙なことを申される。父の軍勢は緒戦を制し、加納の町を焼いた。舅殿はいかにこれを挽回したのか。私が訊ねているのはそこです。ところが、勝勢の敵を追い討った、と舅殿はそう仰る?」
「さよう。追い戦ほど勝ちやすいものは無いね。また、退き戦ほど難しいものも、これまた無い」
「滅茶苦茶を言われる。禅問答をしたいのではないのですがね。追い戦とは、すでに打ち負かした敵に対して行われるものだ」
信長は呆れたように吐き捨てたが、今度は道三の方が目を丸くして、まるでキョトンとした顔で返答した。
「ウウン。そんなことはないよ。信長殿は、何故、そうお思いになられるか?」
さて、信長はここに来てようやく道三が冗談を言っているのではないのだと気が付いた。
「逃げて行く敵を討つのは易しい。それが分かっている。ならば、まずは勝たずとも、敵が退いて行くのを待って、そこで一勝負を賭ければ良い」
「その敵は、優勢でありながら何故逃げるのです?」
「何故と言ったってね。どれだけ強大な軍勢だろうとも、人間だよ。腹が減る。眠くなる。国許に残してきた、女、子どもの夢を見る。槍を振るいながら、飯が食えるかね。鉄砲を撃ちながら、眠れるかね。そんな敵がもし居たら、それは人間じゃないと思って諦めもつくというものだが、どうも、私の見てきた限りでは、乱世の鬼にもそれはないようだ。皆、いつかは何処かへ帰っていく」
追撃戦こそ楽な戦だから、勝ちたかったら敵を退かせろ。仮にこれだけ聞いたなら、一体、誰が嘲笑わないだろうか。信長はそれを信じ切ることができなかったが、しかし、その語り口には大いなる親しみを覚えた。常識そのものに疑問を投げかけ、実証しようという態度が好きだった。自分に通じていると思った。道三の語ることが真っ赤なウソだとしても、良いとさえ思った。
「ぶつかり合ったら終いだと思った。けれども、あのてんでバラバラの兵隊たちに稲葉山を落とされるとも、一向思わなかった。辛抱していれば、いずれ退いて行くに違いない。なら、貝のように蓋を閉じ、飯を食って、よく眠り、力をつけ、その時を待とうと思った。疲弊し、攻め気を失くした敵など、いくら居ようとも怖くない。やられっぱなしでは焼かれた村に悪いので、その背中を一発くらい殴ってやらねばならんと考えた。あとは運さ。それだけさ、ね」
それだけのことが勝敗を決した。日没の迫るなかで、引き揚げて行く織田軍の背後を道三は一気呵成に襲った。指揮官が一人また一人と討たれ、織田軍は暗闇のなかで敵味方を判じる術もなかった。組織だった抵抗の一つもすることができず、瞬く間に総崩れに陥った。
「結果だけ見たら圧勝かもしれない。けれども、あの戦いはそれだけのことなのだよ。ほかには何もない。家臣たちは、マアここにいる何人かもそうだ、掌を返して私を褒めそやしたな。『奇跡の大勝利』、『鬼謀』、『奇襲』。何を言おうとも勝手だが)、マ、戦とは、それだけのことで決するものなのだ」
――
「変な唄」
信長の背後から帰蝶が声をかけた。
「起きていたのか」
「起こされたのよ」
帰蝶は半身を起こしただけで、夜着を引き寄せて寝床を出る気がないらしい。
「その後は、どう続くの」
「さあ」
「さあって」
「ここしか知らないんだ。ここだけ好きなんだ」
すこし開いている障子の外に、透き通った晴れやかな空が見えた。鳥が鳴いている。信長はこういう朝早くに鷹狩に行くのなどと言い出すのだ。帰蝶は回顧していた。見えるもの、聞こえるものには、戦争の気配など何処にもありはしなかった。ただ、目の前の男からのみ死が匂っていた。
「勝てそうですか」
「どう思う」
「私に分かるわけないでしょ」
「勘でいいんだ」
「じゃあ、――ダメね」
「何故だね」
「私に祈るようだから、ダメ」
「唄う前に起きていたな」
帰蝶はいかなる作戦も聞かされてはいない。聞いても仕方がない。どうしようもない。信長が死んだら自分という人間も死ぬだろうとも思えたし、存外、新たな伴侶を得て思いがけない違う人生を送るのかもしれない、とも考えた。どちらでもいいのだ。
ふと信長が自分を見つめていることに気付き、帰蝶は機先を制して話した。
「なに?」
「いいや。何でもない」
信長は威圧されたのかもしれない。
道三の死によってすでに斎藤とは手が切れている。帰蝶との間には子どもがないし、今更生まれても困るから、夫婦の契りも交わさないままになっている。互いにそれほど嫌いでもなかったが、一度、互いを無二の友人にしてしまった手前、男女の興は冷めている。それを再び掘り起こすような術を、信長も、帰蝶も、知らないし、知る必要もなかった。
信長は、帰蝶という女におよそ人格というものを認めていない。彼女に何を求め、何を与えれば良いか、いつまでも分からない。時折、ふらりと現れて二、三話すだけの精巧な鏡のように扱った。
帰蝶も、また、そうだった。相手に何を訊ねられようとも、皮相の見解だけを弄んで答えた。その淡泊な関係が物珍しく、これを一般のものに堕してしまうことを心の何処かできっと嫌がっていた。
「だがね。やるべきことをやったら、後は祈るしかないものだよ」
信長には、帰蝶が狐狸妖怪の類ではないかと思われるときがあった。他の女とまるで違うのだ。それでいて、今日のような日には、何も目的なくただそこにあるだけのこの生命に、ひどく欲情させられた。信長は反転してこう思う。
『イヤ、この女だけが、この世のなかにある女という生物なのではないか』
二人はいつまでも観念のなかを遊んた。竹馬の友のように近く、また、生者と死者のように隔たれていた。そこに身体の触れないことが、ふしぎな絆を結んでいるように思えた。彼女の世界に触れるとき、信長はどうして世界が現実だけで構成されなければならないのか、と問わずにはいられなかった。
――父の死をオレに語らなかったこの女は、オレが死んでも生きて行くのだ。これが強さでなくて、何だろう。この強さが、美しさでなくて何だろう――
そう思った瞬間に、信長は帰蝶の目の下に夥しいクマがあることを見た。
すべてが打ち砕かれてしまった。
信長は倒れるようにして帰蝶を抱き寄せ、口付けした。拒まれるとも、受け入れられるとも、なかった。欲情が川のように流れた。
『このまま、この胸に飛び込み、からだのすり減るまで淫欲に遊び、他に類を見ぬほどの暗愚の侍として後世にその名を残すというのも、それほど悪くはない』
そんな短い夢が、唇を泳いでいた。
「勝って来るよ」
「どうだか。だって、死に行く人のようなことをしたわ」
山々からの朝焼けが、眠そうな帰蝶の目に差して、キラキラと輝いていた。
信長はくるっと踵を返して寝所の戸を開け放ち、何か強い力に突き放されるように、その場を去った。
戦貝が吹かれ、束の間の静寂が破られていく。城内が騒がしくなってきたが、何故だか、帰蝶には、死の匂いは遠ざかっているような気がした。先刻の時間だけが、生と死のすべてであるように思われた。微睡むように目を閉じ、手を合わせた。何に祈るということではない。むしろ、天に、自らの言葉にならない思いを与えるとでもいうような心地だった。
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