織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第四章 蛟竜雲雨

十七

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 時を少し遡り、今川軍が池鯉鮒城から大高への行軍途上にあった五月十八日の清洲城のことである。
『今川軍一万余が尾三国境を目指して進軍中にございます。正光寺、氷上の砦は戦わずして退却したため、敵は今日の夜更けにも動くことでしょう』
『丸根・鷲津の両砦へ攻めかけ、その隙に潮の干満に合わせ海路より兵糧を入れる作戦とのこと。敵にしてみればこれより確実なやり様はない。間違いないことでしょう』
 鷲津砦の織田秀敏、丸根砦の佐久間盛重から、信長はそう報せを受けていた。しかし、これは何も彼のみが知るところではなかった。人の口に戸は立てられない。義元率いる一万の軍勢が駿府を出立したときよりすでに、人を伝ってその侵攻は衆目の知るところだった。義元は、武威と権威の双方をふんだんにまき散らしながら行軍していたのだから。
 信長は珍しく軍議と称して諸将を清洲城に呼びつけた。彼らの多くはすでに気が逸り、信長が広間に姿を現したときには、そこにひしめき合って、やれ「籠城だ」、やれ「和睦の使者を立てるべきだ」、などと喧々諤々の議論を戦わせていた。
「殿だ。殿が来られたぞッ」
 怒号の飛び交っていた一座は、信長が来るや一度だけしんと静まりかえりはしたものの、一つ呼吸を置いて、津波のように、今度は信長その人に向けて押し寄せる。
「今川軍にどう対されるおつもりかッ」
「敵は義元自らが率いる一万余の軍勢と聞いております」
「イヤ、ワシの聞いた話では二万とも、三万とも――」
「まともに戦っては勝ち目はありませんな。ここは一度、」
 この調子が止まらない。まだ、信長はただの一言も発していないというのに。彼らは、信長の指示を仰ぐような口ぶりではあるが、その実、本心から聞こうとはしていなかった。それは、言葉という衣をまとわせて放たれているに過ぎない、ただの彼らの身体の内から沸き起こる不安そのものだったのだ。
「静かな奴は、静かだな」
 信長は自嘲して、部屋の端にじっとしている者たちをちらと見た。
 滝川一益、森可成らは姿勢を正しているのみで、一向に口を開く素振りもない。廊下に面した末席には林秀貞や柴田勝家の姿もあった。彼らは、喧騒の落ち着くのを待っているかのように沈黙していた。落ち着き払っている訳はない。今川勢の襲来に自らの明日を懸念しない訳でもない。だが、それ以上に、織田信長という人物を知る者たちであった。この大将の麾下にあっては、思い付きの具申など何の意味も成さぬことを、知っていた。
「信長。下知をくれ」
 やがて理性的な声が喧騒をまとめあげて信長に詰め寄った。
「兄上」
 信広である。
「正光寺砦の佐治為景、氷上砦の水野信元。彼奴らは戦わずして退いたそうだな。今川に内応しているという風聞もある。無い話ではないだろう。佐治も、水野も、所詮は知多に拠る者たちであるなら、己の保身のために我らを裏切ろうとも驚きはない。お前のあては外れたようではないか」
「そうなら、どうなさる。再び私に取って代わろうと?」
「そのようなことを、申しているのではないッ」
 信広は瞬間的に火のような顔色になって信長を叱責した。
「確認させてはもらおう。彼我の兵力差を見れば、野戦に勝ちの目はないことは争えぬだろう。だが、ここに来て今川への臣従などはもってのほか。かくなるうえは家中一丸となって城に籠り、耐え抜くのみだ。敵は駿府から遠征している大軍だ、敵地にそう何日も陣を構えていられるとは思えん。退いていくのを今は待つのだ」
 信広の意見はその場を荘厳な静けさで包み込んだ。それは、声を荒げていた者たちの凡その総意らしかった。信長は困ったように頭をぽりぽり掻いた。そして、その場のすべての者たちに向けて方針を短く告げた。
「オレは、義元と、是非とも国境で一戦交えたいと思っている」
「ならぬ」
 信広は即座に言い返した。まるで信長の言葉を予測していたかのように。
 それ以上言葉を介さずにただ向かい合う両者の沈黙を破り、何処からともなく声がした。
「義元はいまだ三河すら治めきれはおりませぬ。この尾張を一時に攻め取ることなど出来はしない。敵は、殿を挑発しているのでござる」
 かつて家中に多く聞き馴染んだ、しかし、ここ数年は久しく聞かれてこなかったしわがれ声。
「勝家か」
 突然の思いがけない人物からの援護に信広は目を丸くした。
「ホウ。柴田権六は一万の大軍に好き勝手させろ、と。兄上も同感かな」
「一時は領土を奪われることもあろう。だが、それはせいぜいが大高・鳴海の一帯だけだ。彼奴らとて遠征などそうそう出来るものではない。後でいくらでも取り返す機会は巡ってくる。勝家が言う通り、これは罠かもしれぬのだ。そうだ、兼ねてより敵はお前の好戦的な性質を知っている。お前を戦場に釣りだすために、義元は自ら軍を率いてきたのではないか?――」
 信長は微笑を湛えていた。信広は義弟に揶揄われているように感じたのか、「何が可笑しい」と苛立たし気に問うたが、しかし、信長はこぼれる笑みを禁じえなかった。嘲笑ではなかった。かつて自らに背いた庶兄・織田信広が、そして、柴田勝家が、家の危機に面した都合であるとはいえ、正面から意見してきたことが、自分でも考えつかないほどうれしかったのだ。しかし、穏やかな口ぶりで、信長は一切の譲歩をしなかった。
「大遠征など、そうそう出来るものではない。その通りだ。だからこそ、これは好機なのだ、兄上、勝家。義元に敗北の泥をつけてやるための、千載一遇の好機」
「今川は殿を煽り、戦場に引きずり出さんとしております。出て来るよう仕向けている。某にはそう思えて仕方ありませぬ」
「いいや、これはオレが仕掛けた戦争なのさ」
 信広も、勝家も、数泊言葉を失った。信長の言うことをそのままの意味で理解すれば、今川勢一万余の大軍を好き好んで招き寄せたということだ。前提が揺らいでいく。何から聞けば良いのか分からないうちに、
「それは、どういう――」
「どうも、喋りすぎたな。オイ」
 信長が唐突に拍を打った。いつから何処で控えていたのか、長秀や恒興たちが小姓や女中に指示を飛ばして次々に酒や肴を運び込んでくる。
「武士の集まりが寂しくてはいけないな。軍議はお開きだ。好きにやるといい」
 そう言って、信長は広間を後にした。
「信長、待て。まだ、話は――」

 酒を煽ろうとも、まともな者であればあるほど酔うことなどできなかった。明日に自分の命が失われるかもしれないのだ。一方で、軽薄な者たちは出鱈目に酔い潰れた。もう、信長の戦に付き合う気がないからである。
「家の滅ぶときは、家主の知恵の鏡も曇るものだ」
 誰かがそんな風に信長を腐した。その不忠を真っ向から叱りつける根拠を持っている者も居なかった。酒宴は夜が更けるまで続けられたが、直に信長から退出の許可が出て、一人また一人と帰途についた。明日、死ぬかもしれないというにはあまりにも呑気な前夜だった。
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