89 / 100
第四章 蛟竜雲雨
十一
しおりを挟む
「殿、背後より軍勢がッ。緒川城は水野の手勢に間違いありません」
「伯父上、ようやくだな。反転し石カ瀬川に布陣しよう」
昨年(弘治四年)に初陣の勝利を収めた松平元康は、すでに今川麾下における三河制圧の主力だった。
義元は、知多半島に寄る水野信元・信近の兄弟に兼ねてから対今川の方針に関する軋轢があると知っていた。村木砦築城の際には刈谷城の信近に人を遣わせ、これを暗黙させた。そして、いよいよ兄弟は織田方と今川方に分かたれる。信近は、岡崎から大高へと再三の兵糧入れに向かう元康の軍勢を素通りさせ、もはやそれ隠そうともしない。
信元は実弟の裏切りに業を煮やしながらも、すぐさま自ら迎撃した。領内を流れる石加瀬川を挟んで小競り合いを繰り返したが一向に勝敗は決しなかった。優勢なのは元康である。ところが、信元の軍勢は、これがやる気があるのか無いのか、のらりくらりとしているだけで、大勝負に出て来ない。
「ただ悪戯に時間をかけて兵を減らしているようにしか見えぬな。我が伯父ながら、だらしない用兵だ」
元康は唇を噛み、敵の歯切れの悪さにすこし苛立っていた。
「殿を慮っておられるのではないですかな。我らは身内ですからな。向こうは、思うように力が出せずにいるのでは」
「そうだろうか」
家臣の言い分もまったくあり得ないことではないが元康は納得しなかった。
――私は伯父上と直に会ったことはない。けれども、信長と共にあの村木砦を襲ったひとだろう。私が実の甥だからと、それだけで怯むような玉には思えぬ――
「けれど、もし、伯父上がお前の言うように加減をしてくれているのだとしたら儲けものだよ。こちらは加減などする気はないのだから、此度の渡河で一気に敵を切り崩してくれる」
この若い当主は、その口調や外見の穏やかさとは裏腹に豪胆である。戦略は緻密だが、一度戦場へ出たならまるで命を捨てたような戦い方を死ぬまで続ける。家臣でさえ底冷えのするような独特の諦観を、十六にして既に備えていた。
覚悟を決めた松平勢は一挙に信元を打ち破る。緒川城へと退却していく敵を尚も追撃したが、しかし、思ったほどの戦火は上げられなかった。信元の軍勢の逃げ足が恐ろしく速かったからだ。
「逃げ腰の兵ばかりだ。こんな体たらくじゃ、このまま緒川城を包囲し攻め落としてしまうぞ、伯父上。いつ信長が現れぬとも限らない。その前に決着を、――」
その時、元康は自ら号令をかけながら、その言い分が妙であることにふと気がついた。
――いつ信長が現れぬとも? ――
石カ瀬川を挟んだ衝突は、すでに野営を二日している。長期戦だった。この場所で戦端が開かれたことは清洲の信長に伝わっているはずである。「その前に」ではない。真に元康が考えなければならなかったのは、「信長が現れない理由」の方だったのである。
――
同時刻、三河北部の要・寺部城を囲む支城はすでに火の海と化していた。
京から清洲へ帰城したおよそ二か月後の四月初旬、信長は三河北部の梅ケ坪城を強襲した。
「狭間を狙い撃てッ。敵に顔を出させるなァ」
鉄砲隊を率いるは滝川一益。見事に統率された撃ち手が横隊に並んで間断ない射撃を浴びせ敵を城へ押し込むと、その隙を突いて、森可成率いる歩兵部隊が城門に突っかけこれを打ち破る。かつて信長が村木砦で用いた攻城戦術は、すでに体系化されつつあった。
三河から尾張へと侵攻しようとするとき、敵が通り得る道は、実は、二通りがあった。
一つは言うまでもなく鎌倉街道(現在の東海道)。海岸沿いに鳴海を抜け、北上し熱田に至る道だ。弾正忠家が信長へ代替わりするよりも前から、織田と今川はこの線上で長く競り合ってきた歴史がある。今は亡き山口父子が鳴海城・大高城を義元に献じたのは、それが尾張侵攻の橋頭保となることを知悉していたからに他ならない。
ところが、尾張へ攻め入ることのできる道は、もう一つあるのだ。三河北部、元康が初陣にて陥落せしめたかの寺部城から山間部を北西に進み、尾張東部の岩崎へと至る道である。かつて岩崎・藤島の丹羽一族が起こした内紛に信長が介入したのも、この地が義元の息がかかった者の手に落ちることを強く懸念したためである。
信長はそのもう一つの経路を今こそ封殺しておくべきだと考えた。
「これだけの弾薬があれば丸三日は好きに戦えるな」
梅坪城に大打撃を与えた信長は、次いで加治屋の村を、また、翌日には退却しながら伊保城に攻めかけ、さらに北方にある八草城にまで突っかけた。いずれの城も即刻の落城だけは免れたが、高橋郡と呼ばれる近辺の一帯は、もはや自力で復興できるような風体ではなくなってしまった。堺で手に入れた豊富な種子島と弾薬が、この電光石火の攻城を可能にしたのである。
「梅ケ坪は、今に落とせたのではないですか。せっかく水野さまに松平の小僧を惹き付けて置いていただきましたのに」
一益は上機嫌。城攻めの功労者はこの男である。
「これだけ焼いてしまったら、どうせろくに治められんからな。今はいいよ。奴らを通れなくしておくだけで十分だ」
今川勢がこの山間の狭路から尾張に迫る芽を完全に潰すこと。信長の狙いは端から一つだった。
清洲の民衆は歓呼の声で信長の凱旋を迎えた。尾三国境での紛争は織田に優位に進んでいる。国内は富んでいた。ところが、馬上から民草に笑いかける信長の上下の歯は小刻みに震えカチカチと小さな音を立てていた。馬のせいではない。知っていたのだ。此度の自分の攻勢が、
――尾三国境地帯の紛争は、いよいよ元康一人の手に終える代物ではないな――
と、義元に知らしめるであろうことを。
「伯父上、ようやくだな。反転し石カ瀬川に布陣しよう」
昨年(弘治四年)に初陣の勝利を収めた松平元康は、すでに今川麾下における三河制圧の主力だった。
義元は、知多半島に寄る水野信元・信近の兄弟に兼ねてから対今川の方針に関する軋轢があると知っていた。村木砦築城の際には刈谷城の信近に人を遣わせ、これを暗黙させた。そして、いよいよ兄弟は織田方と今川方に分かたれる。信近は、岡崎から大高へと再三の兵糧入れに向かう元康の軍勢を素通りさせ、もはやそれ隠そうともしない。
信元は実弟の裏切りに業を煮やしながらも、すぐさま自ら迎撃した。領内を流れる石加瀬川を挟んで小競り合いを繰り返したが一向に勝敗は決しなかった。優勢なのは元康である。ところが、信元の軍勢は、これがやる気があるのか無いのか、のらりくらりとしているだけで、大勝負に出て来ない。
「ただ悪戯に時間をかけて兵を減らしているようにしか見えぬな。我が伯父ながら、だらしない用兵だ」
元康は唇を噛み、敵の歯切れの悪さにすこし苛立っていた。
「殿を慮っておられるのではないですかな。我らは身内ですからな。向こうは、思うように力が出せずにいるのでは」
「そうだろうか」
家臣の言い分もまったくあり得ないことではないが元康は納得しなかった。
――私は伯父上と直に会ったことはない。けれども、信長と共にあの村木砦を襲ったひとだろう。私が実の甥だからと、それだけで怯むような玉には思えぬ――
「けれど、もし、伯父上がお前の言うように加減をしてくれているのだとしたら儲けものだよ。こちらは加減などする気はないのだから、此度の渡河で一気に敵を切り崩してくれる」
この若い当主は、その口調や外見の穏やかさとは裏腹に豪胆である。戦略は緻密だが、一度戦場へ出たならまるで命を捨てたような戦い方を死ぬまで続ける。家臣でさえ底冷えのするような独特の諦観を、十六にして既に備えていた。
覚悟を決めた松平勢は一挙に信元を打ち破る。緒川城へと退却していく敵を尚も追撃したが、しかし、思ったほどの戦火は上げられなかった。信元の軍勢の逃げ足が恐ろしく速かったからだ。
「逃げ腰の兵ばかりだ。こんな体たらくじゃ、このまま緒川城を包囲し攻め落としてしまうぞ、伯父上。いつ信長が現れぬとも限らない。その前に決着を、――」
その時、元康は自ら号令をかけながら、その言い分が妙であることにふと気がついた。
――いつ信長が現れぬとも? ――
石カ瀬川を挟んだ衝突は、すでに野営を二日している。長期戦だった。この場所で戦端が開かれたことは清洲の信長に伝わっているはずである。「その前に」ではない。真に元康が考えなければならなかったのは、「信長が現れない理由」の方だったのである。
――
同時刻、三河北部の要・寺部城を囲む支城はすでに火の海と化していた。
京から清洲へ帰城したおよそ二か月後の四月初旬、信長は三河北部の梅ケ坪城を強襲した。
「狭間を狙い撃てッ。敵に顔を出させるなァ」
鉄砲隊を率いるは滝川一益。見事に統率された撃ち手が横隊に並んで間断ない射撃を浴びせ敵を城へ押し込むと、その隙を突いて、森可成率いる歩兵部隊が城門に突っかけこれを打ち破る。かつて信長が村木砦で用いた攻城戦術は、すでに体系化されつつあった。
三河から尾張へと侵攻しようとするとき、敵が通り得る道は、実は、二通りがあった。
一つは言うまでもなく鎌倉街道(現在の東海道)。海岸沿いに鳴海を抜け、北上し熱田に至る道だ。弾正忠家が信長へ代替わりするよりも前から、織田と今川はこの線上で長く競り合ってきた歴史がある。今は亡き山口父子が鳴海城・大高城を義元に献じたのは、それが尾張侵攻の橋頭保となることを知悉していたからに他ならない。
ところが、尾張へ攻め入ることのできる道は、もう一つあるのだ。三河北部、元康が初陣にて陥落せしめたかの寺部城から山間部を北西に進み、尾張東部の岩崎へと至る道である。かつて岩崎・藤島の丹羽一族が起こした内紛に信長が介入したのも、この地が義元の息がかかった者の手に落ちることを強く懸念したためである。
信長はそのもう一つの経路を今こそ封殺しておくべきだと考えた。
「これだけの弾薬があれば丸三日は好きに戦えるな」
梅坪城に大打撃を与えた信長は、次いで加治屋の村を、また、翌日には退却しながら伊保城に攻めかけ、さらに北方にある八草城にまで突っかけた。いずれの城も即刻の落城だけは免れたが、高橋郡と呼ばれる近辺の一帯は、もはや自力で復興できるような風体ではなくなってしまった。堺で手に入れた豊富な種子島と弾薬が、この電光石火の攻城を可能にしたのである。
「梅ケ坪は、今に落とせたのではないですか。せっかく水野さまに松平の小僧を惹き付けて置いていただきましたのに」
一益は上機嫌。城攻めの功労者はこの男である。
「これだけ焼いてしまったら、どうせろくに治められんからな。今はいいよ。奴らを通れなくしておくだけで十分だ」
今川勢がこの山間の狭路から尾張に迫る芽を完全に潰すこと。信長の狙いは端から一つだった。
清洲の民衆は歓呼の声で信長の凱旋を迎えた。尾三国境での紛争は織田に優位に進んでいる。国内は富んでいた。ところが、馬上から民草に笑いかける信長の上下の歯は小刻みに震えカチカチと小さな音を立てていた。馬のせいではない。知っていたのだ。此度の自分の攻勢が、
――尾三国境地帯の紛争は、いよいよ元康一人の手に終える代物ではないな――
と、義元に知らしめるであろうことを。
1
お気に入りに追加
13
あなたにおすすめの小説
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。
岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
16世紀のオデュッセイア
尾方佐羽
歴史・時代
【第12章を週1回程度更新します】世界の海が人と船で結ばれていく16世紀の遥かな旅の物語です。
12章では16世紀後半のヨーロッパが舞台になります。
※このお話は史実を参考にしたフィクションです。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる