織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

文字の大きさ
上 下
87 / 100
第四章 蛟竜雲雨

しおりを挟む
 港に停泊している舟は、どれも信長が清洲の船大工につくらせた軍船よりもはるかに大きかった。それも一つじゃない。軒を連ねて信長たちの眼前を塞ぎ、広く南蛮にまで通じているはずの広大な海をすっかり覆い隠している。一体、これほど巨大な舟が軍用でないことがあるだろうか、と一行の誰もが舌を巻いた。
 一方で町に目を転じてみれば、活気のあることは、まず、庶民の顔つきが違っている。清洲を歩けば忽ちに道を譲られる信長一行だが、当然ながら、ここでは誰も特別視してくれない。後ろから走ってきた男が不意に恒興に肩をどんとぶつける。「てめえ」と反射的に振り返り睨みつける恒興だが、男の姿はもうそこにはない。再び向き直ると「堪忍、堪忍」などと声を上げながら、もう十間先ほどは離れていただろうか、呆然とする視界のなかにやがて姿も見えなくなった。
「これがさかいか――。信じられませんな。まるで乱世ではないかのような」
 可成は驚きのあまり苦笑せざるを得なかった。誰も彼もが賑やかに笑い合っている。可成は、昨日も、今日も、槍の鍛錬を欠かさなったが、そんな武士の矜持そのものがここでは嘲笑されているかのようにすら思われた。それほどまでに血の匂いが遠い。
「どうですかな。何も血が流れるばかりが戦ではありますまい」
 鼻が利くのは一益だった。彼の目配せした先には大柄な南蛮の南蛮人の宣教師が居た。何やら白く長い髭を蓄えた品のある商人と鋭い視線を交わらせ、もうずっと長いこと商談に没頭している風である。
「金だ。ここでは、金こそが最も強力な法だと知っているのだ。彼奴らに言わせれば『殺し合いなどしている場合ではない』というところだろうな。だが、あまり田舎者扱いされるのも癪じゃないか」
 信長は予め用意しておいた深紅の直垂に着替え、金銀飾りの太刀を差した。信長だけではない。供廻の者たちも皆、目を刺すような色彩に早着替えした。どこかの旅芸人の一座の風采で、それだけでも耳目を集めたが、これが嘲笑の対象とならないのだから、またまた不思議の町だった。
 信長の趣味嗜好は幼い頃とそれほど変わっていない。もしも、清洲で同じ格好をしたなら、『また、うつけの殿さまが何かやっているな』と揶揄かいを受けたことだろうが、しかし、都会というものは、意外にこういった田舎者の頑張りを笑わない。誰も彼もが一期一会の競争に走り回っている世界だから、はみ出し者などはもう見飽きている。それが、いかなる動機、いかなる品性から出でたものであっても、とりあえず、抜きん出る者には一目を置くというような大らかさがあった。
 信長はそんな堺の心性が気に入ったのだろうか、鉄砲を五〇〇丁注文した。すると、今度はそれが人伝てに話題を呼んんでくる。「「織田信長とかいう奇天烈な侍がいるらしい」などと、尾張の大うつけは堺の町に滞在したわずか数日の間に小さな人気を博すに至る。
「それにしても、五〇〇丁とは恐れ入った。尾張の織田上総介信長ね。覚えておこう、などと上から目線で言いたいところやが、あない勝手されたら、まず以てこっちが忘れられんわ」
 約十年の後に、信長は日ノ本一の軍事都市であるこの堺を手中に収めることになるが、一体、著名な商人たちの内の幾名がそれを予期できたことだろう。
「殿。あまり遊ぶと京で足りなくなりませんか。大丈夫ですか」
「アハハ。金は使いたいときに使うのが一番だ。明日死ぬかも知れんのだからね」

――

「織田信長の命も、ここまでよ」
 近江・守山もりやまを抜けてさらに東、対岸に比叡山ひえいざんを望む琵琶湖びわこの渡しに、三十名ほどの団体の船客がある。年端のいかぬ童などまで身を繕って羽振りは良いように見えるのだが、どうも、行楽と呼ぶには極めて口数の少ない一行だった。
 それもそのはず、彼らこそが、美濃のから信長暗殺の命を背負って京を目指す刺客の一団だった。頭目は六人の名のある侍らしいが、かかる大事にあまり緊張を募らせているためか、ほかの客が同船しているというのにも関わらず、度々「織田信長はもう京に入っただろうか――」などとカタギらしからぬ話をしている。
 美濃は、道三が長良川に死んでから、その娘婿である尾張の織田信長と戦争続きだ。未だ決着がつく気配は見えない。織田は三河・今川と、斎藤は北近江・浅井とそれぞれ戦いながら、尾濃国境では片手間の小競り合いに終始するばかりだったから、それも仕方がないことだった。
 しかし、
『その仇敵との戦争にも今に決着が付けられることだろう。そして、それは俺たちの手によって成されるのだ』
 三十人ほどいる一団の誰も彼もが鼻息荒く思っていたことだろう。もし、信長の暗殺が成功したのなら主からの手柄は並ではない。そう考えれば考えるほど、高揚も、不安も、並ではあり得なかった。

 ところが、そんな刺客らの考えなどまったく及ばぬところ、尾張国から一足遅れて信長たちの待つ京へと赴く一人の男が、数奇なことに、この同じ舟に乗り合わせていた。名を丹羽兵蔵ひょうぞうという。かつて清洲城攻略の謀略を信長と共に企んだあの那古野弥五郎の配下の若侍なのだが、彼は、尾張国に大事がないか信長への定時連絡の任務を負って、今まさに一路・京都を目指しているところであった。信長率いる五〇〇の軍勢が美濃を通過することは無理だけれども、兵蔵ただ一人なら身分を隠してここまで何の苦労もなかったのである。
 兵蔵は、一団のただならぬ雰囲気を早くから感じ取ってなるべく目立たないように口を噤んでいたのだが、連中の方は、自分たちの沈黙があまりにピリピリひた空気を醸し出していたのでそれが自分でイヤになったのだろう、何と、たまたま側に座っていた兵蔵に軽薄な口ぶりで声をかけてきた。
「オイ。アンタは何処の国の人だい」
 兵蔵は視線を覆うように深く被っていた笠を少しだけ上げ、
「ヘエ。三河の者です」
 と嘯いた。
「三河かい。そうかい。それはいい。尾張を通ってきただろう」
「ヘエ。通ってきやしたが、それが何か」
 話しかけられてしまったら仕方がない。怪しまれぬよう、兵蔵はなるべく尾張や信長に関する事柄に深入りせず適当にあしらうより他はないと考えを固めていたが、
「清洲の町を通っただろう。どんな風だったか。何か、いつもと違うようなことはなかったか」
 向こうの方から聞いてきた。こうなってしまうと変に避けようとする方が不自然だ。次第に、兵蔵の方も一団の素性が気になってきたものだから、少しばかり勇気を出してカマをかけてみた。
「ヘエ。清洲は、そうですな、お変わりないように思いましたが。知っていますか、あそこは織田信長という、大層気性が荒いと三河でも噂の殿さまが治める町で、今日び美濃とも戦争続きと聞いておりましたものですから、イヤ、ここまで来るにはずいぶん肝を潰しましたがね――」
 何を言わせようという計算もないが、ただ信長の名を出してみて反応を待った。すると、兵蔵の口ぶりがあまりに剽軽だったからだろうか、はたまた、自らの拵えた深刻な空気が途端に打ち破られたからかもしれない、一団は思い出したかのように破顔して、口が緩むこと。甚だしかった
「ハハ。心配するようなことはあるまい。信長なぞには、別段、大した取締もできないだろうから、堂々と通り抜けてくれば良いのですよ。それに、美濃との戦というのも、もしかすると、アナタの帰る頃には終わっているかもしれんよ」
 舟を降りてからも互いに京へ向かう道のりは同じだから随分話したが、兵蔵はいよいよ彼らを不審に思った。本来なら、一刻も早く主君の元へ駆けて行くのが普通だが、兵蔵は、どうにも目の前の一団が気になって仕方がなかった。道草は弥五郎に叱られるかもしれないなどと考えつつも、一団の後をつけ、彼らの宿泊所のすぐ近くに自らも宿を取ってこれを見張った。ところへ、兵蔵は、昼間の船上ですこし遊んでやった小利口そうな童が居たことを思い起こし、夜な夜な、これにひっそりと話しかけ、まるで何も知らぬ振りしてちょっと訊ねてみる。
「君たちの一行はいったいこれから湯治にでも行かれるのだろうか。ここからなら、有馬の辺りか、どうだろう」
 すると、兵蔵のことをすっかり三河者だと信じ込んでいる童は、快調に、まるで自慢するかのようにはっきりと答えた。
「湯治だなんて、違いますよ。彼らは、上洛した織田信長を成敗するという大事を果たさんとする美濃の勇士であります。事が成ったなら、尾張との戦も終わるかもしれません。あなたの帰り道が楽になるというのは、そういう訳なのです」
 いよいよ大事も大事で、兵蔵はその一団から目を離す訳にはいかなくなった。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。

岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した 若き日の滝川一益と滝川義太夫、 尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として 天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽
歴史・時代
【第12章を週1回程度更新します】世界の海が人と船で結ばれていく16世紀の遥かな旅の物語です。 12章では16世紀後半のヨーロッパが舞台になります。 ※このお話は史実を参考にしたフィクションです。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

処理中です...