織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第四章 蛟竜雲雨

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「ご準備はよろしいですかな」
 甲冑に身を包んだ壮年の武士が厳かに告げると、左右に列座する重臣たちに囲まれて、中央の床几に腰かける青年は「ウン」と短く答えた。

「ではこれより、此度の大高おおだかに際しての評定を行いまする」

 弘治四年(一五五八念)二月、松平家の正当な後継者が郷里・岡崎の土を踏んだ。松平竹千代改め松平元康もとやすである。天文十六年(一五四七)年より尾張へ渡り、次いで駿府へと移送され、実に十年余に及ぶ人質生活を送っていた彼がいよいよ父祖伝来の領地に降り立った。
 けれども、領主不在の岡崎を守ってきた松平の重臣たちにとって、元康とは、果たして諸手を挙げて歓迎される存在だったろうか? 
 広忠が暗殺の憂き目に合い、元康が駿府へ留め置かれた後、岡崎はすべて今川が接収した。松平家譜代の侍たちは今川の陪臣に凋落した。彼らにとっては、織田だろうが、今川だろうが、どちらにしても自分たちを抑圧する強国の支配者に他ならなかった。元康の祖父である清康の代に、あと一歩で三河統一というところまで漕ぎつけた栄光があるために、彼らの屈辱は一入身に沁みていただろう。
 そんな彼らにとって、再び元康に仕えて働く日の訪れは、念願でありながらも、同時に一つの懸念を孕んでいた。自分たちが従うべき松平元康とは、その名に刻まれた偏諱が示すように、あくまでも義元の一配下として赴任されてくるからだ。そして、「大高城への兵糧入れ」とは、まさに、松平の今川への忠誠を試すかのような危険且つ、象徴的な任務であった。

 弘治三年頃、尾張国で蠢動する信長への謀叛に呼応するかのように、鳴海城の山口教継・教吉父子が動いた。子・教吉が織田方の沓掛くつかけ城を調略で掌握すると、父・教継は勢いに任せて隣接する大高城を力攻めに陥落させた。一見すれば、尾張東部の織田方を切り崩す大手柄だが、これに対する信長の対応は恐ろしく早いものだった。
 信長は大高城が奪われるや瞬く間に鳴海と大高の間に付城を築いて両城の連絡を遮断したのである。これにより大高城は早くも兵糧不足に陥った。調略で奪った城と異なり、攻め取った城では領主が挿げ替わってしまう。大高の領民は突如として新領主を騙る山口らに、おいそれとは年貢を治めなかったのである。
 さて、大高を見殺しにできない以上、かくなるうえは陸路で三河方面より兵糧を運び入れるほかない。その白羽の矢が岡崎に立つのは当然だが、城の北には、未だ信長と結んで反今川の戦線を維持する寺部てらべ梅ケ坪うめがつぼ拳母ころも広瀬ひろせといった織田方の四城が睨みを利かせていた。兵糧入れはこの敵城の監視の目を掻い潜らなければならない。

「今日の行軍は取りやめるべきでしょう。我々の出した斥候の言うことには、北の敵城にはこのところ織田信長自らが在城し、兵らの気負うこと日増しに強まっていると聞き及んでおります」
 松平への忠義はあっても、今川への忠義はさほどではない。そのうえ、『山口後継なぞ織田の郎党が日和見で今川についただけの侍じゃないか。そんな奴らの尻ぬぐいのために、自分たちが身を粉にして働く道理が一体どこにあるというのだろう』と、岡崎の地侍たちが気乗りしないのは当然だった。
 しかしながら、一方では、元康と共に駿府で義元の手厚い庇護に預かってきた者たちも居る。
「いいや、あまり時をかけては義元さまのご期待を裏切ることになりましょう。確かに拙者の使った物見からも、織田信長が来ているらしい、という話は上がっておりますがね。しかし、この際、信長が居ようが居まいがさほど関係はござらん。所詮、奴らは義元さまに盾突くためだけに手を結んだ烏合の衆です。殿の元、我らが一丸となれば、向かうところ何を恐れることがありましょうや」
 彼らは今川の権勢を良く知っている。岡崎に残された者たちとは反対に、今川への滅私奉公こそが松平の生き延びる唯一の道だと心得ていた。
「口を開けば、義元さま、義元さま……、我らは松平家に仕える武士であるッ」
 元康は駿府にて元服し、翌年には今川一門衆である関口氏の姫(後・築山つきやま殿)と婚姻した。とうとう今川の親類衆にその名を連ねたのだ。人質と呼ぶにはその身に余りある好待遇だが、しかし、裏を返せば、それは今川の支配体制に組み込まれたことを意味していた。
「駿府を蔑ろにしては、岡崎ここを守れぬのだッ。駿府へ足を運んだこともない貴殿らには分からぬだろうが――」
 評定は紛糾を極め、もはやそれは戦略を練る場ではなくなっていた。家中の方向性を巡って食い違う政治的対立の席に堕した。怒号の飛び交うなかで、やがて一人の老臣が気弱に囁いた。
「殿、いかがなさいましょうか――?」
 誰もが元康をまじまじと見た。が、実際に、その問いに対する主君の答えを期待した者は多くなかった。忠義の心がないわけではない。いや、むしろ、有り余っていた。だからこそ、弱冠の当主に向かいあっては、期待よりも不安が多く彼らの心を占めていた。
『もし、このが道を誤ろうものなら、自分がそれを正し、一廉の大将へと導いてやらねばなるまい』
 そんな気負いが各人の胸に宿って気炎を吐かせていた。
 しかしながら、松平家臣団のそんなはあっという間に打ち砕かれることとなる。
「ウン。そうだな。まずは、寺部城の外郭に火を放とうと思っている」
 かすかな笑みをこぼしながら元康は颯爽と呟いた。誰もがキョトンとして言葉を失った。脈絡がわからない。
「と、殿、此度は大高城の兵糧入れであり、その、城攻めではございませんので、――」
「どうせ三城がこちらの動向を見張っているなら、コソ泥のように大高へ向かっても無駄だ。気取られてしまうよ。それなら、いっそ、こちらから敵へ突っかけてみたい。寺部城を放火してやろう。すると、敵方はどうすると思うか。きっと急いで兵を出して来よう。もしかしたら、周囲の城からも後詰の兵を出すかもしれない。そうなったら、ウン、おもしろい」
「一体、何がどのように――おもしろいのでしょうか?」
 間の抜けた問いを別段嘲ることもなく、元康は明快に答える。
「これは陽動だからさ。敵の目が引き付けられたら、その間に大高へ兵糧を入れてしまえ。陽動の出来が良ければ、兵糧入れ自体の方には武者はそれほど要らぬだろう」
 まるで六韜三略りくとうさんりゃくでも諳んじるかのような口調に、その場の誰もがただ言葉を失うばかりだった。一拍、二泊と遅れてようやく内容を解すが、そこに至っては誰も反論を持ち合わせていなかった。敵の監視が抜けられなければ、こちら側から戦いを起こし、それを陽動にすれば良い。論旨は明快で、鮮やかだった。
 いがみ合っていた家臣たちは、、元康に乗せられた。堂々たるその姿を目の当たりにし、彼らは、知らず知らずのうちに同じことを感じていたからだ。

――

 冬の乾いた山村に火柱が立ち、金色の吹雪が宙に舞った。寺部城主・鱸重辰すずきしげたつは肝を潰しながらも、すぐに応戦の構えを見せた。怯みはしない。油断もない。矢作川を挟んだ対岸の梅ケ坪城から援軍を乞い、共に松平勢を押し返した。三河における反今川戦線の中核を担う自負が、その戦いざまに現れていた。けれども、この戦が敵の陽動であるなどという視野はすでにまったく失われていた。激しく燃え盛る炎は彼らの目を晦まし、その影を蠢く一群を完全に抹消させた。
 空が白む頃にはすべてが終わっていた。重辰はとうに撤収した松平勢の幻を追い回しながら、村々の火消しに奔走していた。おそらくは未だ松平勢の真意を捉えられてはいないことだろう。大高からの帰路を馬で駆ける元康に、家臣たちは競い合うかのように褒めそやしたが、元康はそれらを適当にあしらいながら、物思いに耽っていた。「勝ち戦にしては浮かない顔だ」と、傍らの男はそう思ったが、そうではなかった。元康は、まだ戦を終えてはいなかった。

「やはり、織田信長は来ていない」

「何故、そう思われますかな」
「進むも退くも、行軍があんまり遅すぎるよ。これが相手ならお屋形さまも随分楽をできるだろう。だのに、斥候たちは、皆、な。これは、どういうことだろう」
「まさか、我々が虚報を掴まされたと?――」
「ウン。すると、織田信長が居ると我らに思わせておきたい敵には、今、戦の準備がないと見える」
 元康は再び軍を率いて寺部城に襲い掛かった。目論見通り、寺部城には信長はおろか主だった織田の部将も詰めてはいなかった。敵城は、逆に、清洲城の信長と連絡が滞ってしまっていたのである。そのために虚勢を張って今川方の攻勢を押し留めようとしたのが、裏目に出た。浅知恵は元康の慧眼を欺くに至らず、却って、城攻めのお墨付きを与えてしまった。
「重辰の籠る寺部城は敵方の要だけれども、一挙にここを落として楽をしようなどと思っては駄目だ。たとえ偶然でも周囲の城々がそれなりに連携して後詰に来るなら、ひとたまりもない。まずは枝葉を刈り取り、その後に根を断つ」
 寺部城の危機を察した周囲の諸城はすぐに後詰を出した。すると松平勢は手際よく退いて行く。それに合わせて敵勢までが退いたら、日を置いてまた放火に勤しんだ。これを繰り返すうち、次第に、松平勢を追ってくる敵の足並みが揃わなくなってきた。
「梅ケ坪の兵らの足が止まってきたぞ。それッ、かかれッ」
 元康の合図で一気呵成に攻めかかる。元康の策は寺部城救援に駆け付けた支城の軍兵を翻弄し、各個撃破することだった。さらに、それだけには終わらない。敗走する敵兵への追撃をあえて緩めては城へと追いやり、城方が負傷した兵たちを収容しようと門を開かせた一瞬の隙を突いて自軍の兵を雪崩れ込ませた。ほどなく織田方に同心した三河の四城は、もっとも北に位置する広瀬城を除き元康の手により陥落、鱸重辰は降伏した。

――

 任を終えて駿府へ戻っていく元康の背中を眺め、岡崎の譜代衆は涙を流した。けれども、それは悲しみによるものではなかった。
「幼き頃よりあまりに辛い期間を過ごされたが故に、その将としての器はいかがなるかと思っていたが、我らは何と愚かな心配をしていたことだろう。あの方は、まるで、清康さまの生き写しのようだ――」

 寺部城攻めの顛末を自らの口から直接に伝えるため、元康は駿府の今川館を訪れたが、義元はすでにその働きを伝え聞いて戦勝祝いの席まで設けていた。
「さても、元康よ。の感想を聞かせてもらおうか」
「岡崎の者たちの期待に応えることが出来、ひとまずは安堵しているというのが正直なところですが、――浄土の雪斎殿を楽しませて差し上げるには今一歩というところかと」
 義元は満足のあまり自らの太刀をその場で元康に取らせたうえで、さらに、岡崎の松平旧領を一部返還するという異例の恩賞を与えた。
 寺部城の戦いを契機に、弘治年間より続く三河忩劇と呼ばれた一連の反今川の争乱はきっぱりと止んだ。それを見届けたかのように、義元は、同年のうちに家督、つまりは駿河国を嫡男・氏真へと譲り、自らは、三河国の安定的統治に本腰を入れ始めた。まるで、元康と共に尾張侵攻の下準備を進めるかのように、それは、実に、たのしそうな顔つきで。
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