織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第三章 血路

三十二

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 同年九月、尚も包囲が続けられる岩倉城はすでに意気消沈の体だったが、それにしてはどういうわけだかこれが不思議と未だ落城を免れていた。勝勢を確かにしながらも信長軍の攻勢はどこか消極的で、決定力に欠けていたのである。
「何でも、岩倉が落ちないのは信長さまご自身が戦場に立たなくなったからだそうだぜ」
 清洲の町民たちにとっても信長の戦争は他人事ではない。領主の戦争の勝敗が自らの生活の盛衰に直結するからだ。だからこそ、時には、彼らを介し与太話や流言が豊かに飛び交って戦局をも左右する事態すら起き得るのである。
 ひと月が過ぎ、十月になっても、まだ、城は落ちなかった。
 信長不在の噂はいよいよそれに留まらず、一つのまことしやかな事実として尾張の隅々まで浸透して行くに至った。
「どうやら信長さまが城に籠りきりなのは大病を患って床に伏せっておられるからだそうだ」
「馬鹿言え。毎日川に入って一度も風邪すらひかなかったようなお方だぜ?」
「いいや、だからこそよ。もうここ二月になるだろうか、信長さまのお姿を誰も見てねえって話さ。あの殿さまがこうも外へ出られないというのは、病でもなければ説明がつかんだろうて」
 長期戦を強いられている信長軍の指揮は日に日に下がり始めていた。信長がそれを何の理由もなく指を加えて見ているということは考え難いことだった。
「病というのは本当かもしれないな。が理由なく城にじっとしていられるわけはないからな」
「もう少し、念入りに調べる必要があろうかとは思いますが」
「何か、良い方法があるかな」
 蔵人はにやりと涼しい笑みをつくって、主君に対し得意に策を語った。
「御母上にもう一働きいただきましょう」
 信勝の実母であるところの土田御前を清洲へ登らせ、信長の容態の真偽を見分させるという企みだった。土田御前は信勝が頼むと二つ返事で承諾した。ちょうど謹慎を解いた勝家が居たのでこれを母の共に付け、清洲へ向かわた。すると、母が言うことにも、勝家が言うことにも、どうやら信長の大病が事実らしいことがすぐに分かった。
「昔の姿は見る影もない。頬はこけ落ち、血の気が引き、もう幾何かのお命かもわかりませぬ」
 信勝はいよいよ雀躍とした。歯を見せて笑いたい気持ちを抑えつけて、無理やりに哀れむような表情を作る。芝居をする程度の余裕が彼に戻って来ていた。
「信長は、あなたに見舞いに来てほしいとしきりに申しておりました。争い合ったのももう過去のことなのですから、どうか、あの不幸な子を見舞ってやってはくれまいか。は顔だけは信秀さまによく似ているのです。どうも私は、死に行くあの人を再び見ているかのようで、もう、気の毒で、気の毒で」
 土田御前はわざとらしいほどの涙を流し、信勝にも清洲へ顔を出すよう哀願した。病で死に行くだけの信長を哀れに思う気持ちと、自らが溺愛する信勝がようやく日の目を見るかもしれないという期待とが、ない交ぜになった涙であった。けれども彼女は、それが矛盾することすらほとんど理解していなかった。
「お先短いお命だという話は噂に聞いていたが、そこまでひどいか。けれども、勝家、あの兄上が今わの際に私の顔などを果たして見たがるのかな。私にはどうにも妙な話に思えるが」
「失礼を承知で申し上げますが、信長さまが最も気にかけているのは、信勝さまではなく、先年に生まれたばかりの奇妙丸さまのことと存じます」
 勝家曰く、信長は自らの没後、奇妙丸に家督を継がせる腹積もりだという。しかし、これが元服するまでにはまだ十余年の歳月を経なければならない。統一間近とはいえ未だ隣国に曲者がひしめいている尾張国にあっては、もし、いま信長が死んだなら、赤ん坊の奇妙丸が弾正忠家の後継者という地位を貫き通すのは至難の業だろう。それは誰の目にも明らかだった。
「なるほどね。つまり兄上さまは私に奇妙丸の後見を頼もうとしているということか。ハハハ。虫が良いにもほどがあるが、合点はいった」
 信勝は想像力たくましく、すでに信長亡き後の世界を夢想し心を躍らせていた。どれだけ恨めしく思っていた相手でも、近いうちに死ぬのだと分かったら、ふしぎなことにあらゆる苛立ちも霧消していくらしい。
 それがたとえ本人にとって耐え難い事実であろうとも、織田信勝は織田信長の実弟なのだ。たかだか見舞ごときを頑なに断ったなどという風聞が一度立てば、威名に傷がつく。そうなれば、後に段に際しても、無用な不都合が生じるかもしれない。
「相分かった。近いうちに清洲へ参じると兄上に伝えておけ、勝家」
「承知。それでは、清洲へのお供はこの勝家が仕りまする」
「待たれよ。私を差し置いてあなたごときが信勝さまの供をするとは一体どういう了見か。柴田殿、あなたはすでに信勝さまの信を失っているということをお忘れのようだ」
 しばらく成り行きを見守っていただけの蔵人が溜まりかねて横槍を入れた。
 蔵人にはどこか腑に落ちない。僅か三か月ほど前まで殆ど絶望に近かった信勝の前途が、みるみるうちに希望を取り戻していく。僥倖なのである。それは良いことに違いはないはずなのだが、津々木蔵人という策略家はこうした事態の展開にどうも策略の匂いを嗅いだらしい。
「これは失礼した。津々木殿の仰る通り、某はすでに信勝さまに見限られた身でありましたな。恥ずかしながら、つい汚名返上への欲が出たようだ。お許しください」
「心にもないことをッ、この、――」
 だが、それも匂いまでのこと。自分の胸騒ぎが何を意味するかすらまだ理解できていない。勝家に遜られると、もう、言えることがない。
「アハハ。蔵人よ。許してやってくれないか。よもやお前がこの髭大将を妬む日が来ようとはな。この男は私に盾突いたことを悔やみ焦っているのだろう。供回りでも何でもやって、かつての立場に返り咲きたいと思うのも無理はなかろう。健気なことじゃないか」
「私は、イヤ、その――」
 蔵人のの真意が信勝に理解されることは永遠にない。何故なら、それはかつての勝家の忠義が一向に信勝に理解されなかったことと、まったく同様の事象だからである。信勝はすでに自らが理想とする現実しか受け入れることができなかった。
 永禄元年(一五五八年)十一月二日、蔵人を末森城の留守居役に残して、信勝と勝家は清洲城へ参上した。
 木枯らしの吹きすさぶ寒い秋晴れの日の昼下がりであった。
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