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第三章 血路
三十
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改元された翌・永禄元年(一五五八年)七月十二日、信長軍は浮野の地にて岩倉衆と激突した。
信広の謀叛未遂を最後に、表立って信長に敵対する国内の同族勢力は岩倉城の織田信安のみとなっていたが、彼らに信長との決戦に及ぶ覚悟があったかというと、これは甚だ怪しいものがある。いや、少なくとも、そうした気概を持ち合わせた瞬間はあったのだろう。道三の死に際して、高政や信勝と気脈を通じ反信長戦線の一翼を担った働きにはそれが感じられる。ところが、そうこうしているうちに、信勝軍は稲生原で大敗、ほどなく信長に降伏してしまった。高政も領国にかかりきりで尾張まで大遠征を行うような余裕はなくなった。要するに、岩倉衆はただ降伏し損ねたならず者の集団のようになっていたのである。
そんな煮え切らない立ち回りが家臣団にまで亀裂を生む。信安は自らの嫡男・信賢によって岩倉城より追放されてしまう。この期に及んでの内紛など、信長から見れば隙以外の何物でもなかった。
「橋本一巴さま、お討死。なれども、お味方、敵の首級千を上げての大勝利にございます」
「一巴は鉄砲を担いで逝ったか。本望だろうな。今まで世話になった」
信長は、幼い頃より自身の鉄砲の師匠を務めた重臣・橋本一巴を欠きながらも、浮野の戦いに大勝した。
「犬山勢が思ったよりも役に立ちましたね」
「彼の地は美濃にも近い。信清がこのまま味方でいてくれたらいいのだがね」
ごくわずかな側近しか信頼して用いなかった信長に、この一年の間で変化が訪れていた。信長は、岩倉城を攻略するにあたり、小折の生駒成宗を味方につけた後、さらに、犬山城の織田信清(信秀の弟・信康の嫡男。信長の従弟にあたる)に対し実姉をあてがって自陣に引き込み、此度の戦において援軍を出させた。
「使えるものは何でも使うさ。今川に、斎藤に勝つためには尾張を平定したとしても足りないくらいなんだ」
一時こそ四面楚歌に追い込まれた信長だったが、稲生原での勝利を機に、それを跳ねのけたことで逆に勢いがついた。信長に恨みを持つ者はなお多く居たが、民衆からの信望は日増しに厚くなっていった。元来の「うつけ」の評が強ければば強いほど、彼らの目には、信長がまるで天に守られているかのように見えた。
「織田の殿さまァ、今日は先日のお礼でございまさ」
昨年には、津島五ケ村の老人たちが清洲へわざわざ赴いて信長のために踊りを披露したという。信長は恒興たちに茶を淹れさせて御老公を大いにもてなした。快い風流踊りは、領主とそこに住む民衆との間を取り持ち、わずかな間、夏の暑苦しさを忘れさせる。
信長はそんな平和のなか、生駒の娘に男子を産ませた。
「濃姫さまはきっと殿の夜伽の任から解放されてせいせいしているのじゃないですか。良いことをしましたね」
「サア、どうだかな。そんな任は与えてないがね。でも、帰蝶はアレで何を考えているかわからんから、帰ったら刺されるかもしれんね」
「赤ん坊の顔は見ましたか。似ていますか、あなたに」
「あんな皺くちゃの猿みたいなのはまだ人間じゃない。だが、ときどき、じっとオレを睨んできやがるな。子どもってのは、どうも奇妙なもんだ」
その呟きのままに「奇妙丸」と名付けられた赤子は、いずれ、天下五畿内を治める織田政権のすべてを信長から移譲される織田信忠その人である。
「あの織田信長が子をなしたか。こいつァとんでもない大うつけになるかもしれん」
「イヤイヤ、生駒のお方さまというのは聡明な女性らしい。赤ん坊の方はどうもすでに父親より知恵が深いという話があるぜ」
田園に汗する野次馬たちは、かつて、信秀の死に際して「新しい殿様になるのは果たして、信長か、信勝か」などとまことしやかに好き勝手な放言をした者たちとまったく同じ顔ぶれだけれども、それだけに、ブレがない。奇妙丸の生誕に興味関心を隠さない彼らは、つまり、尾張の支配者が織田信長だと暗に認めているに等しい。哀しいことに、織田勘十郎信勝という「よくできた弟」の話など、もう誰も口にしなかった。関心がないからだ。
信長軍に破れた岩倉衆は城に押し込められ、籠城を余儀なくされた。希望はない。信長軍の包囲は、まるで土木工事か何かをするように、軽快に、粛々と進められていった。外壁の外には二重、三重の逆茂木が配され、信長直属の警備兵が交代で朝晩ひっきり無しに見張っている。そこには鼠一匹這い出る隙間もない。
かつては清洲衆と競い、尾張の上四郡を領した岩倉織田氏に、滅亡の時が近づいてきていた。そして、それは弾正忠家が尾張統一に王手をかけたことをも示している。
家督を継いでから国内外の敵と戦に明け暮れ、実に足掛け七年。信長、二十五歳の夏のことだった。
信広の謀叛未遂を最後に、表立って信長に敵対する国内の同族勢力は岩倉城の織田信安のみとなっていたが、彼らに信長との決戦に及ぶ覚悟があったかというと、これは甚だ怪しいものがある。いや、少なくとも、そうした気概を持ち合わせた瞬間はあったのだろう。道三の死に際して、高政や信勝と気脈を通じ反信長戦線の一翼を担った働きにはそれが感じられる。ところが、そうこうしているうちに、信勝軍は稲生原で大敗、ほどなく信長に降伏してしまった。高政も領国にかかりきりで尾張まで大遠征を行うような余裕はなくなった。要するに、岩倉衆はただ降伏し損ねたならず者の集団のようになっていたのである。
そんな煮え切らない立ち回りが家臣団にまで亀裂を生む。信安は自らの嫡男・信賢によって岩倉城より追放されてしまう。この期に及んでの内紛など、信長から見れば隙以外の何物でもなかった。
「橋本一巴さま、お討死。なれども、お味方、敵の首級千を上げての大勝利にございます」
「一巴は鉄砲を担いで逝ったか。本望だろうな。今まで世話になった」
信長は、幼い頃より自身の鉄砲の師匠を務めた重臣・橋本一巴を欠きながらも、浮野の戦いに大勝した。
「犬山勢が思ったよりも役に立ちましたね」
「彼の地は美濃にも近い。信清がこのまま味方でいてくれたらいいのだがね」
ごくわずかな側近しか信頼して用いなかった信長に、この一年の間で変化が訪れていた。信長は、岩倉城を攻略するにあたり、小折の生駒成宗を味方につけた後、さらに、犬山城の織田信清(信秀の弟・信康の嫡男。信長の従弟にあたる)に対し実姉をあてがって自陣に引き込み、此度の戦において援軍を出させた。
「使えるものは何でも使うさ。今川に、斎藤に勝つためには尾張を平定したとしても足りないくらいなんだ」
一時こそ四面楚歌に追い込まれた信長だったが、稲生原での勝利を機に、それを跳ねのけたことで逆に勢いがついた。信長に恨みを持つ者はなお多く居たが、民衆からの信望は日増しに厚くなっていった。元来の「うつけ」の評が強ければば強いほど、彼らの目には、信長がまるで天に守られているかのように見えた。
「織田の殿さまァ、今日は先日のお礼でございまさ」
昨年には、津島五ケ村の老人たちが清洲へわざわざ赴いて信長のために踊りを披露したという。信長は恒興たちに茶を淹れさせて御老公を大いにもてなした。快い風流踊りは、領主とそこに住む民衆との間を取り持ち、わずかな間、夏の暑苦しさを忘れさせる。
信長はそんな平和のなか、生駒の娘に男子を産ませた。
「濃姫さまはきっと殿の夜伽の任から解放されてせいせいしているのじゃないですか。良いことをしましたね」
「サア、どうだかな。そんな任は与えてないがね。でも、帰蝶はアレで何を考えているかわからんから、帰ったら刺されるかもしれんね」
「赤ん坊の顔は見ましたか。似ていますか、あなたに」
「あんな皺くちゃの猿みたいなのはまだ人間じゃない。だが、ときどき、じっとオレを睨んできやがるな。子どもってのは、どうも奇妙なもんだ」
その呟きのままに「奇妙丸」と名付けられた赤子は、いずれ、天下五畿内を治める織田政権のすべてを信長から移譲される織田信忠その人である。
「あの織田信長が子をなしたか。こいつァとんでもない大うつけになるかもしれん」
「イヤイヤ、生駒のお方さまというのは聡明な女性らしい。赤ん坊の方はどうもすでに父親より知恵が深いという話があるぜ」
田園に汗する野次馬たちは、かつて、信秀の死に際して「新しい殿様になるのは果たして、信長か、信勝か」などとまことしやかに好き勝手な放言をした者たちとまったく同じ顔ぶれだけれども、それだけに、ブレがない。奇妙丸の生誕に興味関心を隠さない彼らは、つまり、尾張の支配者が織田信長だと暗に認めているに等しい。哀しいことに、織田勘十郎信勝という「よくできた弟」の話など、もう誰も口にしなかった。関心がないからだ。
信長軍に破れた岩倉衆は城に押し込められ、籠城を余儀なくされた。希望はない。信長軍の包囲は、まるで土木工事か何かをするように、軽快に、粛々と進められていった。外壁の外には二重、三重の逆茂木が配され、信長直属の警備兵が交代で朝晩ひっきり無しに見張っている。そこには鼠一匹這い出る隙間もない。
かつては清洲衆と競い、尾張の上四郡を領した岩倉織田氏に、滅亡の時が近づいてきていた。そして、それは弾正忠家が尾張統一に王手をかけたことをも示している。
家督を継いでから国内外の敵と戦に明け暮れ、実に足掛け七年。信長、二十五歳の夏のことだった。
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