織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

文字の大きさ
上 下
75 / 100
第三章 血路

三十

しおりを挟む
 改元された翌・永禄えいろく元年(一五五八年)七月十二日、信長軍は浮野うきのの地にて岩倉衆と激突した。
 信広の謀叛未遂を最後に、表立って信長に敵対する国内の同族勢力は岩倉城の織田信安のみとなっていたが、彼らに信長との決戦に及ぶ覚悟があったかというと、これは甚だ怪しいものがある。いや、少なくとも、そうした気概を持ち合わせた瞬間はあったのだろう。道三の死に際して、高政や信勝と気脈を通じ反信長戦線の一翼を担った働きにはそれが感じられる。ところが、そうこうしているうちに、信勝軍は稲生原で大敗、ほどなく信長に降伏してしまった。高政も領国にかかりきりで尾張まで大遠征を行うような余裕はなくなった。要するに、岩倉衆はただ降伏し損ねたならず者の集団のようになっていたのである。
 そんな煮え切らない立ち回りが家臣団にまで亀裂を生む。信安は自らの嫡男・信賢のぶかたによって岩倉城より追放されてしまう。この期に及んでの内紛など、信長から見れば隙以外の何物でもなかった。
「橋本一巴いっぱさま、お討死。なれども、お味方、敵の首級千を上げての大勝利にございます」
「一巴は鉄砲を担いで逝ったか。本望だろうな。今まで世話になった」
 信長は、幼い頃より自身の鉄砲の師匠を務めた重臣・橋本一巴を欠きながらも、浮野の戦いに大勝した。
「犬山勢が思ったよりも役に立ちましたね」
「彼の地は美濃にも近い。信清のぶきよがこのまま味方でいてくれたらいいのだがね」
 ごくわずかな側近しか信頼して用いなかった信長に、この一年の間で変化が訪れていた。信長は、岩倉城を攻略するにあたり、小折の生駒成宗を味方につけた後、さらに、犬山城の織田信清(信秀の弟・信康の嫡男。信長の従弟にあたる)に対し実姉をあてがって自陣に引き込み、此度の戦において援軍を出させた。
「使えるものは何でも使うさ。今川に、斎藤に勝つためには尾張を平定したとしても足りないくらいなんだ」

 一時こそ四面楚歌に追い込まれた信長だったが、稲生原での勝利を機に、それを跳ねのけたことで逆に勢いがついた。信長に恨みを持つ者はなお多く居たが、民衆からの信望は日増しに厚くなっていった。元来の「うつけ」の評が強ければば強いほど、彼らの目には、信長がまるで天に守られているかのように見えた。
「織田の殿さまァ、今日は先日のお礼でございまさ」
 昨年には、津島五ケ村の老人たちが清洲へわざわざ赴いて信長のために踊りを披露したという。信長は恒興たちに茶を淹れさせて御老公を大いにもてなした。快い風流ふりゅう踊りは、領主とそこに住む民衆との間を取り持ち、わずかな間、夏の暑苦しさを忘れさせる。
 信長はそんな平和のなか、生駒の娘に男子を産ませた。
「濃姫さまはきっと殿の夜伽の任から解放されてせいせいしているのじゃないですか。良いことをしましたね」
「サア、どうだかな。そんな任は与えてないがね。でも、帰蝶はアレで何を考えているかわからんから、帰ったら刺されるかもしれんね」
「赤ん坊の顔は見ましたか。似ていますか、あなたに」
「あんな皺くちゃの猿みたいなのはまだ人間じゃない。だが、ときどき、じっとオレを睨んできやがるな。子どもってのは、どうも奇妙なもんだ」
 その呟きのままに「奇妙丸きみょうまる」と名付けられた赤子は、いずれ、天下五畿内を治める織田政権のすべてを信長から移譲される織田信忠のぶただその人である。
「あの織田信長が子をなしたか。こいつァとんでもない大うつけになるかもしれん」
「イヤイヤ、生駒のお方さまというのは聡明な女性らしい。赤ん坊の方はどうもすでに父親より知恵が深いという話があるぜ」
 田園に汗する野次馬たちは、かつて、信秀の死に際して「新しい殿様になるのは果たして、信長か、信勝か」などとまことしやかに好き勝手な放言をした者たちとまったく同じ顔ぶれだけれども、それだけに、がない。奇妙丸の生誕に興味関心を隠さない彼らは、つまり、尾張の支配者が織田信長だと暗に認めているに等しい。哀しいことに、織田勘十郎信勝という「よくできた弟」の話など、もう誰も口にしなかった。関心がないからだ。

 信長軍に破れた岩倉衆は城に押し込められ、籠城を余儀なくされた。希望はない。信長軍の包囲は、まるで土木工事か何かをするように、軽快に、粛々と進められていった。外壁の外には二重、三重の逆茂木が配され、信長直属の警備兵が交代で朝晩ひっきり無しに見張っている。そこには鼠一匹這い出る隙間もない。
 かつては清洲衆と競い、尾張の上四郡を領した岩倉織田氏に、滅亡の時が近づいてきていた。そして、それは弾正忠家が尾張統一に王手をかけたことをも示している。
 家督を継いでから国内外の敵と戦に明け暮れ、実に足掛け七年。信長、二十五歳の夏のことだった。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。

岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した 若き日の滝川一益と滝川義太夫、 尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として 天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽
歴史・時代
【第12章を週1回程度更新します】世界の海が人と船で結ばれていく16世紀の遥かな旅の物語です。 12章では16世紀後半のヨーロッパが舞台になります。 ※このお話は史実を参考にしたフィクションです。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

処理中です...