織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

文字の大きさ
上 下
72 / 100
第三章 血路

二十七

しおりを挟む
 年が明けた弘治三年(一五五七年)、真冬ながら雪でなく雨のしとしとと降るしずかな夕暮れのことだった。
 安食あじき村は福徳ふくとくの百姓・又左衛門またざえもんは、佐々成宗さっさなりむねの居城・比良ひら城下から村への帰路を急いでいた。突然の雨だから笠など持ち合わせていない。
 比良城の東には南北に長く伸びる土堤がある。これのさらに東の外側の芦原をグルリとまわるようにして村へ向かうのが又左衛門の常の道だ。堤の内側を通ってしまえば最も早いが、近隣の者たちは近づかない。堤の西には「あまが池」と呼ばれる大池があり、そこには恐ろしい大蛇が住んでいるという言い伝えがあったからだ。
 又左衛門とてこの地で育った手前、そんな話は親兄弟から耳にタコができるほど聞いてよく知っているが、今日に限っては寒雨に耐えられない。すこしだけ考えた挙句に近道をすることにした。
 あまが池に差し掛かる。池は大地に多量の墨をにじませたかのようにぼんやり闇にとけて広がっていた。
『この道は早え。これなら、晴れた日だってここを通るのがいいわ』
 そんなことを思ったときだった。
 今の今まで気がつかなかったが、唐突に、目の前に巨大な丸太のような影が横たわっていた。一抱え以上もあり、小走りで軽々と飛び越えることのできる大きさではない。又左衛門がよくよく目をこらして近づく。すると、何ということだろう、その丸太らしき影はずずっと土のうえを動いたのである。
――生きている!――
 は堤の外から堤の内側へ、つまりは、堤の外側からあまが池へと向かっている中途らしい。又左衛門は恐ろしくなって身をかがめる。その音を聞いたのか、瞬間、まさに池に入水しようとそれはゆっくりと首を持ちあげて又左衛門の方を向いた。
 顔は鹿のようであった。真っ赤な目と舌が光輝いて点滅している。
 又左衛門はこれ以上先へ進めず、元来た道を一散に引き返した。震えるのは寒さのためか、それとも、恐怖のためか? 大野木おおのぎというところで宿をとり、その日は村へ帰れなかったという。
「あまが池の大蛇の言い伝えは本当だった」
 と、噂はしきりに広まるかに見えた。

――

 時を同じくして、もう一つの風説が立っていた。
 あまが池に隣接する比良城の佐々成宗に信長への謀叛の準備があるという話である。成宗の次男・孫介まごすけは信長に付き従い、稲生原の戦いで討死を遂げたが、孫介を討った勝家を信長が赦免したので、そのことを恨んでいるという筋である。
「呆れた噂だな。根も葉もないことだ」
 信長は一蹴したが、主従の信頼関係など大衆には分からない。そこへ大蛇の噂が軽薄に絡み合う。
『あまが池の大蛇の噂話は、成宗殿が信長公を自らの城に来させぬように流したものらしい』
 いつしか尾ひれがつき、成宗の謀叛はまことしやかに囁かれるようになっていた。
 尚も一笑に付して差し支えのない信長であったが、馬鹿な噂をのさばらせておいて碌な結末を迎えなかった過去もある。もはや、信長は、一人のうつけとして放っておかれない存在だった。そうして、気を緩めれば何処からともなく魔手が伸びてくる立場にあることを、信長自らが既によく知っていたとも言えよう。

蛇替じゃがえをしよう。近隣の村々に触れを出して百姓たちを集めておけ。あまが池の大蛇とやらを探し出してやるよ」

 信長は又左衛門の話を聞いて、それから大蛇を捕まえる算段を付けた。近隣の五、六の村々の男たちに向けて水を汲み上げられる道具を持って集まるように命じておき、数百の人間で、朝から一斉にあまが池の水を掻き出しにかかった。昼になる頃には池の水は七割方減った。当初は怯えながら池に入っていた百姓の子どもたちも、これには拍子抜けした様子である。どう見たって又左衛門の話すような化物じみた大きさの蛇が潜める余地はもはや残っていない。
「ははん。さては織田信長の威光に恐れをなして、大蛇の奴ア、逃げちまったようですなア、皆の衆」
 恒興がわざとらしい口ぶりで見物人たちを盛り上げる。目撃者の又左衛門ですら、自分が見たものは幻だったのだろうか、と狐に摘まれたようにキョトンとしていた。大蛇の噂など、もはや消滅したも同然だったが、
「ひょっとすると、又左衛門の話が大げさにすぎるのかもしれないな。一抱えは居ないだろうが、もう少し小ぶりな奴が居ないか、見てきてやろう」
 信長は颯爽と着物を脱ぎ去り、褌一丁になると、脇差を口にかっと咥えて、水位の減った池のなかへと飛び込んだ。これにはさすがに、皆々、アッという声をあげたが、やがてしばしの水中探索を終えた信長が、首だけをぷかと水面に突き出して「居らんぞ」と呟くと辺りは喝采に包まれた。
 齢二十三、今川・斎藤といった猛者たちと斬り結び、実弟との決戦を制した織田信長だが、昔から知る者にとっては何も変わらないうつけの殿さまに見えたことだろう。
 信長は池から上がって、傍らの土手に座って休んでいた一人の百姓に声をかけた。
「オイ。そこのキサマ。さっき見ていたが、泳ぎがなかなかに上手いな。この脇差をやるから、オレの代わりにもう一度潜って来い」
「へえ。確かに泳ぎは得手ですが、しかし、信長さまが見られたなら、良いのではないですかい。いったい、何故、そのような――」
「もし、オレが臆病者の殿さまなら、うっかり大蛇と鉢合わせていたとしても「居なかった」とホラを吹くかもしれないぜ。だから、この地に暮らすキサマたちのその目でしかと確かめてくるのだよ」
 そう命じて男を潜らせると、いよいよ一分の隙もなく大蛇の存在を抹殺した。
 以後、人々はこの日の盛況を思い出しながら、むしろ好んでこの池の側を通るようになったという。それに伴い、成宗の謀叛の噂もほどなく消えた。まるですべてがマヤカシだったかのように。

――

 さて、あまが池から清洲へ帰る道すがらのこと、聴衆のなか、一際、小汚い恰好をした一人の男が信長たちの後ろを付いてくる。
 恒興は気味悪く思い、
「やい。何だ、テメエは。たたっ斬るぞ」
 とやや大仰に脅しつけたが、男はそれには答えず、信長に向かって粛々と語りかけた。
「怪しい男が居ましたが、取り逃がしました。申し訳ございません」
「バカヤロウ、誰に口聞いてやがんだ。それに、怪しいのはテメエだってんだ――、」
 とそう言いながら、その声にはどこか聞き覚えのある恒興だった。
 男は深く被っていた笠をとり顔を見せる。長秀であった。
「アッ! おまえッ。まったく、信長さま、また私に内緒で何かやりましたね」
 恒興の狼狽に、信長はもう興味を示すことがない。
「又左衛門という男がウソをついているようには見えなかったろう。アレの話に便乗し、オレと佐々成宗を離間させようとした小ぶりな蛇が居るようだ」
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。

岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した 若き日の滝川一益と滝川義太夫、 尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として 天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽
歴史・時代
【第12章を週1回程度更新します】世界の海が人と船で結ばれていく16世紀の遥かな旅の物語です。 12章では16世紀後半のヨーロッパが舞台になります。 ※このお話は史実を参考にしたフィクションです。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

処理中です...