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第三章 血路
二十六
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信長が勝家を借りると言い出したとき、信勝と蔵人の主従二人は失笑した。
「おおかた、勝家を信盛のように自分の元へと引き込み、私に再び妙な気を起こさせないようにしようというところだろう。それとも、何かこちらの情報を聞き出すつもりなのかもしれないな」
快活に、信勝は口元をゆるませながら語り出す。
「信長は実際のところ我らの対応に窮していると見える。裏を返せば、柴田勝家が未だ怖いのさ」
奇妙なことに、信長の思いつきの要求は曲解されて信勝の心を慰めた。
「稲生原で負けた大将が信長さまはそれほど欲しいのですかね」
「確かに負けはしたが、信長にとってまぐれあたりだというのには違いがない。同じ戦争をもう一度したとしたなら、勝てる保証は何処にもない。兄上さまはそのことが分かっているのかもしれないな。とすると、存外、うつけじゃないぞ。フフ」
勝家をただ一人残してと末森へ帰っていく道すがら、彼らはすでに緩み切っていた。まだ、清洲の町から半里も離れていないのだから、何処に信長の手の者が潜んでいるかもしれない。命が助かったという事実は、彼ら自身にさえ自覚できないほどに二人に安堵をもたらしたらしい。
「殺されるのかもしれませんがね」
蔵人は冷たい声で言った。この男は信勝のなかで勝家の評価が快復しかけていることに納得がいかない。
「殺すつもりなら黙ってやるに限る。わざわざあんなことを言えば、勝家の石頭とて警戒するだろう。むしろ、あの石頭が信長を殺してしまうかもしれんね。そのときは、稲生原の敗戦を水に流してやるのもやぶさかではない」
口ではそう言いながらも、信勝は勝家にそんな働きは期待していなかった。
信長と勝家では、稲生原で殺し合った大将同士である。
『いつ寝首を掻かれぬとも限らぬ相手を、そう簡単に自由にするはずがない』
そう決めつけていた。
ところが、――
「オイ。何をしている。さっさと取りに行けェ」
信勝の命令で勝家は走った。風を切るたびに真冬の空気が額にぶつかる。稲生原で負った傷はもうすっかり治っているにも関わらず、なぜだかひりひりとするようなのは気のせいか。ちょうどそれの降り立ったところまで辿り着くと、枯れてなお丈の長く繁茂したガマか何かを掻き分け、その下に、得物を捕まえてじっとしている鷹を見つける。鋭い爪によってすでに引き裂かれて痙攣して息も絶え絶えな野ウサギを彼から引き剥がして、高く掲げる。
「ヨウシ。見かけの割に足が速いじゃないか、柴田勝家」
血と汗を拭い、勝家は白い息を吐く。
信勝たちが想像したような勝家への対応を、信長はおよそ何もしなかった。ただ、休む暇なくさまざまな場所へ勝家を連れ出しては扱き使うだけだった。
――自分はいったい、何をしているのだろう?――
清洲への帰路に勝家はいつもそれを考えた。
自らに背を向けて目の前を馬に揺られている信長は呆れるほど無防備だった。その姿を見るたびに、勝家は否応なく信勝の望みを思い出す。
『殺せる、今なら。武器など無くとも、背後から飛びついてあの細い首を一捻りにしてやれば終わる』
しかし、それは虚しい妄想だった。
『その時は、自分もこの世を去るだろう。後ろを付いて歩く利家たちが自分を斬り捨てることに時間はかからない。自分と信長が消えて、その先はどうなるのだろう。信長の子分たちは末森城を襲うかもしれない。遺された軍勢で果たしてそれを押し返せるだろうか。何より、骨を折ってくださった御前さまに申し訳が立たぬ』
いつも同じことをグルグルと考え、一つの袋小路の結論に辿り着いてしまう。
『やはり、詰め腹を切って、信勝さまのお心を、野望を断つよりほかに平穏はない』
勝家の腫れぼったい目は、死を決めた漆黒に淀み、その決行を今か今かと待っている。
しかし、年の瀬の、何の変哲もないこの鷹狩の帰路において、勝家は、大岩のように動くはずがなかったはずの自らの運命を揺さぶる出来事に直面してしまう。
清洲の北西、海東郡は大屋という村に通りかかったときのことである。まだ、昼時だというのに、村は酔っ払いの喧嘩の如き喧騒に包まれ、また、それよりは物々しい様相を呈していた。諍いは二つの派閥に分かれ、ある者は武器を取り出してている。
「オイ、武器を収めよ。織田上総介信長である。何事があった?」
信長はいち早くそれに気づくや、誰よりも早く馬を駆けて喧騒に割り込んで仔細を訊ねた。
争いの発端は、大屋村の甚兵衛という庄屋の男と、その隣の一色村の左介という侍との間に巻き起こった事件であった。彼らは長い間親しく知己の間柄だったのが、ある夜、何を思ったか、左介は甚兵衛の留守を狙って彼の家に盗みに入った。偶然、起きていた甚兵衛の女房がこれに気付き、女の身でありながら何と左介の太刀を取り上げてこれを撃退したという。家に帰った甚兵衛はあまりのことに狼狽えながらも、清洲の守護・斯波義親の奉行所へ左介の蛮行を訴えた。深夜の事件だったとはいえ、甚兵衛の宅から逃げ行く左介の姿は多くの者らに目撃されており、裁定は誰の目にも明らかなように見えた。
ところが、左介は意外な物言いでこの裁判に臨むに至る。
「ナルホド、私を裁くというのならそれはいいが、私は池田恒興さまの配下なり。かの稲生原の戦いで信長さまの背後を守った忠義の士よ。拙者を罰しようと言うのなら、まず、池田さまに申し伝えることになろう。もしかすると、織田信長さまのお耳にまで入るかもしれぬぞ」
左介は大上段に構えてそう宣った。
奉行衆の面々は守護の配下ではあるものの、その義親が未だ信長の庇護の元にあるのだから、万に一つも信長の恨みを買う訳にはいかない。仕方がないので奉行衆はここに「鉄火起請」というものを持ち出して、事態の収拾を試みた。高温に焼かせた鉄斧を諍いの当事者たちにつかませて、それを神棚まで運び届けた方の言い分を正とするという、戦国の世の最も苛烈な神判である。
山王社の神前で身を清めた後、はじめに甚兵衛が行った。甚兵衛はいまだ火を生じている鉄斧を掴み、両の掌を血に爛れさせながらも、見事にそれを成し遂げて見せた。続いて左介が取り掛かろうとするが、その斧にはどうにも焼かれた形跡が見られない。熱されたという割に、斧は変色すらしておらず、寒風のなかにわずかほどの煙すら生じていない。これは妙だ、と疑った甚兵衛は「一つ、その斧が私が運んだときと同じように焼かれているか、試させてもらおう」と申し出た。すると、奉行衆も左介たちもにわかに狼狽し、斧を取り上げて隠してしまい、意地でも甚兵衛には渡さない。ついには武器などを手にとっての大騒動となっていたということである。
さて、この一件を知った信長はしばらくの間考えていたが、
「もし、末森の城下で同じことが起きたなら、キサマはどう裁くか」
あえて勝家に訊ねた。
「目の前で今一度、火起請をさせ、この目で見定めまする」
突然のことに面食らいながらも、勝家は当たり障りのなく回答した。
「なるほど。オレとはすこし違うな」
信長はそう呟くと馬から颯爽と降りて鶴の一声、
「オイ。左介という者の代わりに、このオレが起請を引き受けようじゃないか。そうして、もし、オレが神棚までしかと斧を運び届けたときは、左介の無罪が天に証明されよう。サア、奉行衆の面々よ。そこなる甚兵衛が運んだときとまったく同じように鉄斧をしかと焼け」
何と、信長は左介の身代わりを自ら買って出たのである。
「お待ちくださいませ、織田信長さま。これは私と左介の紛争でありますから、――」
予想だにしない権力者の登場に甚兵衛は堪らず口を挟むが、
「黙れ。この領地はオレの領地だ。そこで起こった諍いをどのように裁こうとも、すべてオレの裁量次第。さあ左介よ。斧を寄越せ」
「ははあ」
左介は頭を垂れながら信長に鉄斧を差し出し、一方で地面に向けてほくそ笑んだ。信長自らが行う以上は、池田一党にとって不名誉なことが起きる余地など何処にもないばかりか、その裁定については誰も文句は言えまい。
『俺の無罪は決まったようなものだ』
鉄斧が運ばれてくると、それは先刻、左介が運ぼうとしたまるで焼けていない鉄斧だった。
左介は信長に媚びるような目配せをしてから、「さァ、信長さまの起請である」とわざとらしく声を張った。
信長は「良し」と言い、それを鷲づかみにした。「オオ」というわざとらしい声を左介が漏らす。先刻、すでに鬼気迫る甚兵衛の起請を見ていた観衆たちにとって、眼前で執り行われている不正は明らかだった。
――とんだ茶番だ――
勝家はつまらなさそうにそれを見ていたが、――
ところが、鉄斧を掴んだ信長は神前へは歩き出さなかった。代わりに、すでに自らの最期を悟って無念の表情を固める甚兵衛の元へと歩み寄って、斧の持ち手を甚兵衛の首にぎゅうと押し付けてみせた。
「どうだ、熱いか?」
甚兵衛は何が何やら分からぬまま、しかし、もう死の覚悟が決まっていたからか、
「いいえッ。ちょうど、人間の屁と同じぐらいの温みですな」
物怖じせずにそう答えた。
「アハハ。そうだろう。キサマは斧を運び、その両手を爛れさせたようだが、この斧はといえばどれだけ押し付けてもキサマの首を焼く気配はないらしい。これはいったいどういうことだろうなア、左介。オレはたしかに、『甚兵衛が運んだときとまったく同じように焼け』と命じたはずだが。奉行衆の面々は、オレの命に逆らったということかな」
左介は未だ何が起こったのか分からないといった風だが、それでも顔色を見る見る蒼くし、しどろもどろになりながら、
「サさ、逆らうなどと、滅相もないことです。す全ては、神仏のご加護によるものでしょうッ」
「アハハ。とんだ加護があったものだな。そのような軽薄な神仏なら、人々の信仰は集められまい。火起請など何の意味も持たぬだろう。だが、そうではないな。よいか、皆の者。この奉行たちはいついかなるときも強者の意に沿うように仕事をする忠義者のようだ。これでは、オレが来る前にいったい何が起きていたのか、それは神仏の裁断を待つに及ばぬほど明白じゃないか。オレはいまここに道理というのを示そう。勝家ッ」
勝家はハッと信長の意を汲んで左介を羽交い絞めに押さえつける。
すると、見物していた恒興が後ろからそろそろ出てきた太刀を抜く。
「池田さまッ、一色村の左介でございますッ。どうかお慈悲を、――」
「オイ、お前、仮にも私の配下だというのなら、もうすこし、信長さまのことを知っておくべきだよ」
そう言って果物でも切るかのように左介を成敗した。
信長は両手に大火傷を負った甚兵衛と彼の家族の面倒を村の者たちで見るよう言いつけてその場を後にした。
勝家はその夜、眠ることが出来なかった。
平時においてあれほど腑抜けた恰好と言動の信長が、まるで、あの相論の場では一軍を率いる大将に変貌した。勝家は大屋村で左介の血にまみれながら、稲生原の戦場を駆け回る信長の姿を想起せざるを得なかった。
「サテ、明日からは末森へ戻るといい」
あくる日、信長は勝家にそう告げた。
務めは終わったようである。勝家は遂に、暗殺も、調略もされることがなかった。
「殿、一体、なぜ某をこのような――」
信長の真意が皆目分からない勝家が去り際にそう訊ねると、信長は
「腹を切って死のうとしている人間の目は、よく知っているのだよ」
と、だけ答えた。
「おおかた、勝家を信盛のように自分の元へと引き込み、私に再び妙な気を起こさせないようにしようというところだろう。それとも、何かこちらの情報を聞き出すつもりなのかもしれないな」
快活に、信勝は口元をゆるませながら語り出す。
「信長は実際のところ我らの対応に窮していると見える。裏を返せば、柴田勝家が未だ怖いのさ」
奇妙なことに、信長の思いつきの要求は曲解されて信勝の心を慰めた。
「稲生原で負けた大将が信長さまはそれほど欲しいのですかね」
「確かに負けはしたが、信長にとってまぐれあたりだというのには違いがない。同じ戦争をもう一度したとしたなら、勝てる保証は何処にもない。兄上さまはそのことが分かっているのかもしれないな。とすると、存外、うつけじゃないぞ。フフ」
勝家をただ一人残してと末森へ帰っていく道すがら、彼らはすでに緩み切っていた。まだ、清洲の町から半里も離れていないのだから、何処に信長の手の者が潜んでいるかもしれない。命が助かったという事実は、彼ら自身にさえ自覚できないほどに二人に安堵をもたらしたらしい。
「殺されるのかもしれませんがね」
蔵人は冷たい声で言った。この男は信勝のなかで勝家の評価が快復しかけていることに納得がいかない。
「殺すつもりなら黙ってやるに限る。わざわざあんなことを言えば、勝家の石頭とて警戒するだろう。むしろ、あの石頭が信長を殺してしまうかもしれんね。そのときは、稲生原の敗戦を水に流してやるのもやぶさかではない」
口ではそう言いながらも、信勝は勝家にそんな働きは期待していなかった。
信長と勝家では、稲生原で殺し合った大将同士である。
『いつ寝首を掻かれぬとも限らぬ相手を、そう簡単に自由にするはずがない』
そう決めつけていた。
ところが、――
「オイ。何をしている。さっさと取りに行けェ」
信勝の命令で勝家は走った。風を切るたびに真冬の空気が額にぶつかる。稲生原で負った傷はもうすっかり治っているにも関わらず、なぜだかひりひりとするようなのは気のせいか。ちょうどそれの降り立ったところまで辿り着くと、枯れてなお丈の長く繁茂したガマか何かを掻き分け、その下に、得物を捕まえてじっとしている鷹を見つける。鋭い爪によってすでに引き裂かれて痙攣して息も絶え絶えな野ウサギを彼から引き剥がして、高く掲げる。
「ヨウシ。見かけの割に足が速いじゃないか、柴田勝家」
血と汗を拭い、勝家は白い息を吐く。
信勝たちが想像したような勝家への対応を、信長はおよそ何もしなかった。ただ、休む暇なくさまざまな場所へ勝家を連れ出しては扱き使うだけだった。
――自分はいったい、何をしているのだろう?――
清洲への帰路に勝家はいつもそれを考えた。
自らに背を向けて目の前を馬に揺られている信長は呆れるほど無防備だった。その姿を見るたびに、勝家は否応なく信勝の望みを思い出す。
『殺せる、今なら。武器など無くとも、背後から飛びついてあの細い首を一捻りにしてやれば終わる』
しかし、それは虚しい妄想だった。
『その時は、自分もこの世を去るだろう。後ろを付いて歩く利家たちが自分を斬り捨てることに時間はかからない。自分と信長が消えて、その先はどうなるのだろう。信長の子分たちは末森城を襲うかもしれない。遺された軍勢で果たしてそれを押し返せるだろうか。何より、骨を折ってくださった御前さまに申し訳が立たぬ』
いつも同じことをグルグルと考え、一つの袋小路の結論に辿り着いてしまう。
『やはり、詰め腹を切って、信勝さまのお心を、野望を断つよりほかに平穏はない』
勝家の腫れぼったい目は、死を決めた漆黒に淀み、その決行を今か今かと待っている。
しかし、年の瀬の、何の変哲もないこの鷹狩の帰路において、勝家は、大岩のように動くはずがなかったはずの自らの運命を揺さぶる出来事に直面してしまう。
清洲の北西、海東郡は大屋という村に通りかかったときのことである。まだ、昼時だというのに、村は酔っ払いの喧嘩の如き喧騒に包まれ、また、それよりは物々しい様相を呈していた。諍いは二つの派閥に分かれ、ある者は武器を取り出してている。
「オイ、武器を収めよ。織田上総介信長である。何事があった?」
信長はいち早くそれに気づくや、誰よりも早く馬を駆けて喧騒に割り込んで仔細を訊ねた。
争いの発端は、大屋村の甚兵衛という庄屋の男と、その隣の一色村の左介という侍との間に巻き起こった事件であった。彼らは長い間親しく知己の間柄だったのが、ある夜、何を思ったか、左介は甚兵衛の留守を狙って彼の家に盗みに入った。偶然、起きていた甚兵衛の女房がこれに気付き、女の身でありながら何と左介の太刀を取り上げてこれを撃退したという。家に帰った甚兵衛はあまりのことに狼狽えながらも、清洲の守護・斯波義親の奉行所へ左介の蛮行を訴えた。深夜の事件だったとはいえ、甚兵衛の宅から逃げ行く左介の姿は多くの者らに目撃されており、裁定は誰の目にも明らかなように見えた。
ところが、左介は意外な物言いでこの裁判に臨むに至る。
「ナルホド、私を裁くというのならそれはいいが、私は池田恒興さまの配下なり。かの稲生原の戦いで信長さまの背後を守った忠義の士よ。拙者を罰しようと言うのなら、まず、池田さまに申し伝えることになろう。もしかすると、織田信長さまのお耳にまで入るかもしれぬぞ」
左介は大上段に構えてそう宣った。
奉行衆の面々は守護の配下ではあるものの、その義親が未だ信長の庇護の元にあるのだから、万に一つも信長の恨みを買う訳にはいかない。仕方がないので奉行衆はここに「鉄火起請」というものを持ち出して、事態の収拾を試みた。高温に焼かせた鉄斧を諍いの当事者たちにつかませて、それを神棚まで運び届けた方の言い分を正とするという、戦国の世の最も苛烈な神判である。
山王社の神前で身を清めた後、はじめに甚兵衛が行った。甚兵衛はいまだ火を生じている鉄斧を掴み、両の掌を血に爛れさせながらも、見事にそれを成し遂げて見せた。続いて左介が取り掛かろうとするが、その斧にはどうにも焼かれた形跡が見られない。熱されたという割に、斧は変色すらしておらず、寒風のなかにわずかほどの煙すら生じていない。これは妙だ、と疑った甚兵衛は「一つ、その斧が私が運んだときと同じように焼かれているか、試させてもらおう」と申し出た。すると、奉行衆も左介たちもにわかに狼狽し、斧を取り上げて隠してしまい、意地でも甚兵衛には渡さない。ついには武器などを手にとっての大騒動となっていたということである。
さて、この一件を知った信長はしばらくの間考えていたが、
「もし、末森の城下で同じことが起きたなら、キサマはどう裁くか」
あえて勝家に訊ねた。
「目の前で今一度、火起請をさせ、この目で見定めまする」
突然のことに面食らいながらも、勝家は当たり障りのなく回答した。
「なるほど。オレとはすこし違うな」
信長はそう呟くと馬から颯爽と降りて鶴の一声、
「オイ。左介という者の代わりに、このオレが起請を引き受けようじゃないか。そうして、もし、オレが神棚までしかと斧を運び届けたときは、左介の無罪が天に証明されよう。サア、奉行衆の面々よ。そこなる甚兵衛が運んだときとまったく同じように鉄斧をしかと焼け」
何と、信長は左介の身代わりを自ら買って出たのである。
「お待ちくださいませ、織田信長さま。これは私と左介の紛争でありますから、――」
予想だにしない権力者の登場に甚兵衛は堪らず口を挟むが、
「黙れ。この領地はオレの領地だ。そこで起こった諍いをどのように裁こうとも、すべてオレの裁量次第。さあ左介よ。斧を寄越せ」
「ははあ」
左介は頭を垂れながら信長に鉄斧を差し出し、一方で地面に向けてほくそ笑んだ。信長自らが行う以上は、池田一党にとって不名誉なことが起きる余地など何処にもないばかりか、その裁定については誰も文句は言えまい。
『俺の無罪は決まったようなものだ』
鉄斧が運ばれてくると、それは先刻、左介が運ぼうとしたまるで焼けていない鉄斧だった。
左介は信長に媚びるような目配せをしてから、「さァ、信長さまの起請である」とわざとらしく声を張った。
信長は「良し」と言い、それを鷲づかみにした。「オオ」というわざとらしい声を左介が漏らす。先刻、すでに鬼気迫る甚兵衛の起請を見ていた観衆たちにとって、眼前で執り行われている不正は明らかだった。
――とんだ茶番だ――
勝家はつまらなさそうにそれを見ていたが、――
ところが、鉄斧を掴んだ信長は神前へは歩き出さなかった。代わりに、すでに自らの最期を悟って無念の表情を固める甚兵衛の元へと歩み寄って、斧の持ち手を甚兵衛の首にぎゅうと押し付けてみせた。
「どうだ、熱いか?」
甚兵衛は何が何やら分からぬまま、しかし、もう死の覚悟が決まっていたからか、
「いいえッ。ちょうど、人間の屁と同じぐらいの温みですな」
物怖じせずにそう答えた。
「アハハ。そうだろう。キサマは斧を運び、その両手を爛れさせたようだが、この斧はといえばどれだけ押し付けてもキサマの首を焼く気配はないらしい。これはいったいどういうことだろうなア、左介。オレはたしかに、『甚兵衛が運んだときとまったく同じように焼け』と命じたはずだが。奉行衆の面々は、オレの命に逆らったということかな」
左介は未だ何が起こったのか分からないといった風だが、それでも顔色を見る見る蒼くし、しどろもどろになりながら、
「サさ、逆らうなどと、滅相もないことです。す全ては、神仏のご加護によるものでしょうッ」
「アハハ。とんだ加護があったものだな。そのような軽薄な神仏なら、人々の信仰は集められまい。火起請など何の意味も持たぬだろう。だが、そうではないな。よいか、皆の者。この奉行たちはいついかなるときも強者の意に沿うように仕事をする忠義者のようだ。これでは、オレが来る前にいったい何が起きていたのか、それは神仏の裁断を待つに及ばぬほど明白じゃないか。オレはいまここに道理というのを示そう。勝家ッ」
勝家はハッと信長の意を汲んで左介を羽交い絞めに押さえつける。
すると、見物していた恒興が後ろからそろそろ出てきた太刀を抜く。
「池田さまッ、一色村の左介でございますッ。どうかお慈悲を、――」
「オイ、お前、仮にも私の配下だというのなら、もうすこし、信長さまのことを知っておくべきだよ」
そう言って果物でも切るかのように左介を成敗した。
信長は両手に大火傷を負った甚兵衛と彼の家族の面倒を村の者たちで見るよう言いつけてその場を後にした。
勝家はその夜、眠ることが出来なかった。
平時においてあれほど腑抜けた恰好と言動の信長が、まるで、あの相論の場では一軍を率いる大将に変貌した。勝家は大屋村で左介の血にまみれながら、稲生原の戦場を駆け回る信長の姿を想起せざるを得なかった。
「サテ、明日からは末森へ戻るといい」
あくる日、信長は勝家にそう告げた。
務めは終わったようである。勝家は遂に、暗殺も、調略もされることがなかった。
「殿、一体、なぜ某をこのような――」
信長の真意が皆目分からない勝家が去り際にそう訊ねると、信長は
「腹を切って死のうとしている人間の目は、よく知っているのだよ」
と、だけ答えた。
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