織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第三章 血路

二十三

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 那古野城の様子が慌ただしくなっているという情報を受け、信長は跳び起きる。
 深更だったが、すぐさま自ら大雨のなかを於多井川まで駆け抜けた。兵たちは銘々が勝手に信長に追いすがり、川岸に着く頃には七〇〇余りの軍勢となった。
「アハハハ、よし、ここなら渡れるぞ」
 予め調べさせておいた川の最も浅いところにザブザブと入水しながら快活に笑う。傍目にはそれが激流だったとしても恐れはない。緒川城救援のために荒れ狂う海を共に渡った彼らにとっては、自らの前を行くうつけの殿様だけが道しるべだった。

 中州に浮かぶように築かれた名塚砦に着くと、信長は「大義」と信盛を褒め湛えた。そして、わずかばかりの軍議を開いた後、空が白み始めないうちに夜陰に紛れてもう一つの川を越える。川べりに存する稲生いのう村の西のはずれより、さらに六・七段退いた雑木林の繁る地に布陣した。
 やがて雨が上がりの夜明けと共に霧が立ち込めて、信長軍の姿をまったく覆い隠している。

 馬の刻、雲間から覗いた太陽が燦燦と稲生の地に降り注ぐ。
 信長軍は朝霧に濡れた兜をキラキラ光らせながら、まず、稲生村の東に名塚砦を向いていた柴田勢に襲い掛かった。
 敵勢はわかりやすく浮足だった。押し寄せる信長勢の槍は三間半。この常識外れの長槍との手合わせの心得がある兵など、勝家が信勝から借り受けた兵の中には居なかった。
「かような竿竹がいつまでも振り回せるものか。組み付けッ」
 勝家は怒号を鳴らして兵たちの狼狽を鎮める。長槍の利は、一重に、間合いが長いことその一点に尽きる。密着されては文字通り無用の長物と化してしまうに決まっているが、しかし、乱戦に転じると、信長勢は何の未練もなくその長槍をポイと捨て去った。各々得意の得物を手に、まるで猿のように跳びはね、身軽なことこの上ない。
――よく動きやがる。虚仮威こけおどしではないナ――
 経験と呼ばれるものは、長期間の熟考の蓄積が可能にする思考の省略である。
『次に相手がどう動くか? まず足を払ってくるのか、それとも直接に首を刀で狙いにくるのか?』
 そういった一寸先の未来を、敵の一挙手一投足から瞬時に判断して動くことこそが、歴戦の武士たちが戦場で生き残るために磨いてきた人殺しの職人技なのだ。しかし、それは、あくまでも自分と相手の間にある一定の流儀が共有されているという前提に立っている。例えば、聞いたことも、見たこともない戦術で襲って来る敵に対して、経験はときに無力であり得る。
 この戦いがそうだ。徹夜で渡河を敢行してなお有り余る元気を暴力としてぶつけにくる信長勢と、それに翻弄される柴田勢。両者は、さながら、遊びたい盛りの子どもと、それに付き合わされる老人のようにすら見えた。
 しかし、勝家は乱戦のさなか、ふとある事実に思い至る。
――信長の兵が、嫌に少ない――
 織田信長という男が七〇〇ほどの自らの遊び仲間を率いてのみあらゆる戦に対処してきたことを尾張で知らぬ者は居ない。ところが、この一大決戦に限って、眼前に対峙した信長軍の兵力はどう見積もっても五〇〇がせいぜいだ。勝家はその理由に即座に当たりをつけることが出来た。
――なるほど、林勢に対するためにいくらか兵を割いたな。やはり信長は兵法を知らぬうつけ者か――
 孫子曰く、寡兵を以て敵に対するためには敵の兵力を分散させ、各個撃破を狙うのが肝要である。信長はその反対をやっているのだと勝家は解した。
 勝家は、無精ひげを揺すり、喉が潰れんばかりの大声で叫ぶ。
「敵は少ない兵を分けているぞ。お前たち一人ひとりがきちんと敵兵を一人討つだけでも、我らの勝ちぞ」
 そうして敵の密集するなかへ飛び込み、信長方の山田やまだ某という足軽大将の首を自ら討ち獲ってみせた。
「者ども、柴田さまに続けッ。今に林勢が駆け付けるだろうッ」
 柴田勢は息を吹き返し、往時の強さを発揮し始めた。信長のもとで一重に熾烈な戦いを生き抜いてきた前途有望な若い侍が次々に討たれ、押し込まれていく。虫のようにもがいて動かなくなるその一人ひとりが、失うに惜しい一騎当千の兵であり、信長の友だった。
――浮足だった柴田勢を一挙に片付ける気でいたが、自惚れが過ぎたか。オレは、柴田勝家を甘く見ていたようだ。アア、済まぬ――
 信長はわずか内省したが、だからこそ、すでにもう一つの勝機を見つけられる。
「ようし、オレに構わず、あの髭大将に総出でかかれッ」
 戦は敵の大将を倒せば勝ちだ。深いように見えてその決着はあまりにも単純である。信長は乾坤一擲の策に出る。自らの身を守る兵を、一門衆や可成を筆頭とするわずか四十名ほどに限定し、他のすべての兵を、飛び出してきた勝家ただ一人に向けて集中的に突撃させたのである。
――どの道、この戦に勝たねば、オレは死ぬのだからな――
 迫りくる敵を前に信長は自ら槍をとって戦った。
『どちらが先に、大将を討ち取るか?』
 すでに勝敗は天運に委ねられていたが、斬り結ぶなか、勝家は不意にとある疑問に囚われてしまう。
――オカシイ。なぜ林勢は現れぬ?――
 すでに開戦からおよそ一刻近い時間が経過していたにも関わらず、林勢が駆け付ける様子は一向にない。もし、彼らの兵七〇〇が合わさっていたなら、信長相手にこれほどの苦戦を強いられるわけはなかった。
 一つの間違いも許されない乱戦のなかに、その疑問が勝家の闘気をわずかに削いだ。
「シマッタッ」
 勝家は背後から接近した槍兵の一撃を脳天に食らってフラフラとよろめいた。すかさず、まだ若い信長の小姓が走り寄り、今度は首を目掛けて太刀を薙ぐ。すんでのところで勝家はこれを躱すが、刀身が額を掠めたらしい。鮮血が激しく舞った。
「オノレッ。なぜだ、なぜ林勢は現れない?」
 血があふれ、視界が徐々に閉ざされていく。
――

 稲生の開戦からやや時を遡って寅の刻。
 斥候を束ねて昨日から川東の状況を探っていた長秀が信長の待つ名塚砦に戻って来て告げた。
「すでに那古野から出陣した林道具率いる兵七〇〇が砦南東の丘陵に布陣しています。また、末森から出陣した柴田勝家率いる兵一〇〇〇は、稲生村の東のはずれに布陣したようです。いずれも、この砦を向いております。夜明けと共に攻めてくること疑いありません。いかがいたしましょうか」
 長秀への返答は、その後、すぐに開かれた評定において、主だった部将たちに信長の口から伝えられることとなる。
「川を渡河した後は兵を二手に分ける。南の林道具と、東の柴田勝家、これに同時に対する」
「いけません。我らおよそ七〇〇に対する敵方の総勢は一七〇〇ほどと聞いています。元より数に劣るにも関わらず、さらに兵を分散させたのでは敵方を悦ばせるだけでしょう。まずは、兵力の拮抗する林勢を、全軍を以て叩くほかありますまい」
 可成が忌憚のない物言いできっぱりと言い放った。
「オレも昨日まではそう考えていたが、ここへ来て考えが変わった。はじめに攻めるべきは、柴田勢だ」
「何故ですか」
「弟と、林秀貞が戦場に出て来ていないからだ」
 可成は怪訝な表情を隠せない。
「仰っている意味が、わかりませぬな」
「先に道具を攻めれば、勝家はすぐに飛んできてオレたちの背後を襲うに違いない。だが、その逆はないのだ。先に勝家を攻めれば、道具はそれを見過ごしてくれるだろう」
「どういうことです?」
 ニヤつく信長に代わって、割って答えたのは信盛である。
「道具は、柴田の地位にとって代わる皮算用をしているから、でしょうかな」
「その通り。柴田勝家はともかく、アレは弟への忠義で動いているわけではなかろう。ただ、自らが家中でのし上がるためだけにこの戦に出てきていると見て間違いない。あの男にとっては、ただオレを討ち取っても足りないわけだ。自分の目の上のたん瘤である林秀貞、柴田勝家、この二人をきちんと失脚させなければ、奴の望みは成就しない。つまり、林道具にとっての最も都合が良いのは、柴田が討死した後、このオレを自らの手で討ち獲ることだ」
「そのためには、援軍に駆け付ける頃合いを見計らうと?」
「そうだ。あまりに早く駆け付けちゃあ、勝家の手伝いをするだけに終わる。もし、秀貞や弟の目があったなら、そんな大それたことはしないかもしれんが、今日はどうだ、たまたま奴に指図の出来る者たちが居ないな。道具が勝家に死んでほしいと考えているなら、それは、今この時しかない」
「しかしながら、そうだとするなら、全軍を以て柴田勢を攻めてはいかがです? 何故、道具に対するための兵を残されるのか」
「オレたちと柴田勢が開戦したら、道具はその趨勢を見守る。丘の上からなら、よおく見えるはずだ。だが、もし、オレたちが勝家を圧倒し始めたら、奴はどうすると思うかね。その時は、勝家が敗走する前に急いで丘を駆け下りるだろう」
「まさか」
「そうだ、しかし、これを間に合わせない。そのためのの兵を二〇〇ほど、林勢の布陣した丘から北へ降った麓に伏せるよ。いまは暗くて見えんだろうが、あそこは深く広い雑木林さ」
 すべては信長の仮説に過ぎない。一つでも考え違いがあれば忽ちに瓦解する作戦だ。それに、この作戦には、最も苛烈な問題点が未だ残っていることを可成はすでに看破していた。
「殿のお考えはよく分かりましたが、それは、もはや兵力の分散ではありませんな。林勢を防ぐために配置された兵は、いわばただの囮でござる」
「そうだ」
 信長は間髪を入れずあっさりと返答した。
 雨脚が弱まってきていた。秋の虫がいくらか鳴き始める程度にはもう止んでいる。つくられたばかりの馬場の心地が気に入らないのか、馬が不機嫌に嘶くのが遠くに聞こえた。あらゆる命が挙って駆け込んだかのような静寂の形である。
「心配性だなア、森殿は。なに、アナタが美濃で演じた大立ち回りに比べれば、ずっと楽なもんですよ、きっと」
 素っ頓狂な声がそれを断ち切った。
 恒興が自らの首をほぐすようにとんとん叩きながら言うと、
「敵は七〇〇、こちらは二〇〇。マア、三倍という訳ですが、一人当たり三人討ち取ればだいたい勝ちです。軽いもんです」
 利家が引き取って続け、
「ならばせめて、この可成めをお遣わしください。彼らだけでは、――」
「森殿、お情け誠に痛み入りますが、それ以上は我らへの侮辱になりましょう。私たちはあなたの子どもじゃないのですから」
 そう、長秀が結んだ。
 信長と彼らの間には、すでに事前に話が付いているようだった。
 可成とて、無論、この人選の意味を理解している。端から二〇〇という寡兵で林勢の足止めを行うなら、決して逃亡を図らない不屈の兵士が適任である。いや、そうでなければ成り立たない。だからこそ、恒興たちを、最も信頼する配下をあえて死地に差し向けるのだ。
「我々、すでに殿と生きるほかの道はござらん。殿が生きるなら生き、死ぬなら死ぬのです。さあ、今日も殺し殺され」
 可成はそれ以上、彼らに発すべき言葉を持たなかった。

――

 額を止血しながら、勝家は千鳥足で少しずつ退いて行く。
 これを逃す信長ではなかった。勝家が負傷した事実を確認すると、先ほどの意趣返しでもするように、自ら戦場の中央に駆け込み割れんばかりの大音声で敵兵を一喝した。
「者ども、聞け。キサマらは何のためにオレと戦う? 何のためにオレの仲間を殺す? オレはオレの仲間のために、これからキサマをなぶり殺すつもりである。だが、キサマらは一体誰のために戦っているのだか、実はわからんな。よく考えるが良い。キサマらの頭領は何処にいて何をしているのだ? 誰がキサマらを守ってくれるのだ? 勘十郎信勝は、兄を怖がって戦場に出て来ないらしい。すこしばかり気骨のある大将・柴田勝家も、すでに負傷して退いていく。林勢も至っては、もはや城へ帰ったのかもしれないな。それでも、なお、キサマらは命を懸けてオレに刃を向けるというのかね。だったら、仕方がない。それほどの馬鹿者には、もはや一切の加減は出来ぬッ」
 信長は怒鳴りながら、その目に涙を湛えていた。この瞬間にも、恒興たちが屍と化しているかもしれないのだ。
 すると、不思議なことが起こる。近場の柴田勢、十数人あまりが、一斉にその首を転がしてしまった。信長の発した大音声に思わず注意を逸らした彼らの隙を付近の信長勢が見逃さなかった。
「いまだァッ! さあ、殺せッ」
 信長は自ら抜刀して走り始めた。その怒鳴り声が幾度となく響くたび、首が一つ、また一つと、草木を折って転がって行く。やがてすっかり怯えた柴田勢から、ついにいくらか逃亡が始まる。それを押し留めるべく声を枯らすのが勝家の役目であるが彼はすでに意識を保ちながら後退するだけで精一杯だ。
 尾張国内で「信長とはどういう男か」と聞くと、ある百姓はそのだらしない歩き方に腹を抱えて笑ったものだと述べ、また、ある刀鍛冶はその水練の巧みさを河童のようだと褒めそやし、また、さらにある商人は、あの甲高いサルのような下賤な声のせいで大事な客が逃げたことがある、と憎々しげに語ってみせた。評価の良否はともかくとして、誰もが各々の生活に立脚した、各々の言葉で、織田信長を語ることができた。一方で、弟・信勝の評判を聞くと、およそ第一に、「品行方正なお方ですよ」と口を揃えてくるものの、そして、二言目にはこう続く。
『それに比べ、あの大うつけの信長ときたら、――』
 末森城での信勝の演説は無駄ではなかっただろう。理路整然としていたかもしれない。それは、まるで幾重にも張り巡らされた堀のように、柴田勢のなかに少なからずいた百姓たちの不安を埋めたことは確かである。しかし、何よりも、信勝不在の事実と、今まさに眼前に泥だらけで刀を振り回す信長の姿とを、彼らは比較せざるを得なかった。信長がうつけ、信勝が利口、そんな評判は知っているが、いざ戦場に立ったなら全く関係がなかった。命を捨てて向かってくる信長と、彼の仲間たちを目の当たりにするとき、柴田勢の兵のほとんどはその戦意を折られてしまったのである。
「逃げる雑魚は追うなッ。柴田の首だけ狙うのだッ。獲った首は数えずとも良い。これだけ殿が戦場に出て来ているのだから、お前たちの活躍を見逃されることなど決してないだろう。安心して切り倒し、先へ、先へ進めェ」
 可成は兵たちを鼓舞しながら、得意の十文字槍を自在に薙ぎ払う。十、二十と敵を斬り伏せては退却していく勝家に幾度も肉薄した。恒興たちの覚悟に応えるには、総大将の首を獲らなければ面目が立たない、とそう考えていた。
 ついに柴田勢は総崩れに追い込まれて敗走した。
 信長はその様子を見逃さず、すぐさま次の檄を飛ばす。
「深追い無用ッ。まだ終わりじゃないぞ。南へ向かって、オレたちを生かしてくれた仲間を一人でも多く救うのだ。それを成して初めて勝ちなのだッ」

――

 林秀貞の出馬を阻止したのは、何を隠そう道具であった。
 那古野城で信長たちの暗殺を完遂出来なかった秀貞は、主君へ謀叛する決意を固め直して名塚砦攻めに参陣のつもりでいたが、しかし、道具からすればもはや兄の出しゃばりは迷惑千万だった。周辺勢力の調略にのみその顔がいくらか必要だったのであり、この先は、信長を討つまでひたすら戦争だけだ。元より槍働きの不得手な兄の出る幕などない、そう決めつけていた。あまつさえ、後々、信勝が信長に勝利した折には、どさくさに紛れて兄から家督を奪い取ろうとさえ道具は夢想していた。
「ええい、小癪な山猿どもがァッ」
 ところが、その野望も困難を極めている。
 信長の予感はピタリと当たった。
 はじめ信長軍と柴田軍に高見の見物を決め込んでいた道具だが、いつどちらの首が飛ぶか知れない乱戦に突入するやにわかに慌てて丘を降り始めた。信長の首が飛べば、いよいよ自分は何のために出陣したのだか分からない。信長軍はその焦りに付け込む用意をすでに終えている。
 丘陵の麓から中腹に至るまでに連なった広大な雑木林のなかを、林勢は一列縦隊で駆け下りていく。折より息を潜めていた恒興たちがそこへ一斉に襲いかかったのである。麓に木々を切り倒して道を塞ぎ、中腹より矢、投石の雨霰を見舞う。隙を見せれば組み付いて首を獲り、追いかけられたなら逃げて隠れる。恒興たちには最も手慣れた戦術の一つだった。
「奴らの狙いは我々の足を止めることだなッ。野郎ども、周囲の者が倒れても手を貸す必要はないぞ。一刻も早く丘を降り、信長を殺しに行くことだけを考えろ」
 道具は背後から討ち掛ける弓隊には目もくれずに一散に駆け出した。
「退くな、退くな、こいつらを通すんじゃないぞォ」
 麓には利家たちが構えていたが、覚悟を決めた林勢七〇〇の攻撃を正面からは受け切ることは出来ない。
「野良犬らしい姑息な戦術だ。目にもの見せてくれるわッ。弓隊、放てッ」
 矢の雨が降り注ぎ、利家の顔面にも一本の矢が命中した。急所をわずかに逸れてはいたものの、右目の下の頬骨に深々と突き刺さっている。利家はウウとわずか呻いたが、しかし、それだけだった。自分を射た弓兵を追いかけ回し、押し倒してその首を討ち獲り、高々と掲げて仲間たちに示した。
「死んだ奴らはもっと苦しかったことだろう。私はまだ、生きている。生きているのだ。お前たちも同じだぜ。それは、まだやることがあるということなんだ。いまに殿が勝家を倒してやって来る。私は、生きているうちは、諦めないぞッ」
 返り血に咽びながら、繰り返し、繰り返し涙声を上げ続けた。
 始めは恒興たちの健気な戦いぶりを嘲笑していた道具だったが、次第に、そう笑ってもいられない様相を呈してきた。灌木の陰から顔出す兵たちの数は、どう見積もっても多くはないはずなのに、殺しても殺してもキリがない。
「クソッ、キチガイどもめ。何故一向に逃げ出さぬ」
 寡兵で足止めの工作をするというところまでは、まだ道具の理解を越えてはいなかったことだろう。しかし、それが見破られ、もはや、正面から戦って生き残る見込みがないというときに、なぜ、向かって来るのか、それが道具には分からない。キリがないと感じたのは、そのほとんどが討死を遂げていたからである。
「グワアアー!」
 付近に転がっていた瀕死の兵隊が起き上がって縋りつき、武器も持たないまま、道具に噛みついた。苛正し気に振り払い、首をはねて蹴飛ばした。ところが、次は、腕や足を矢で射貫かれ、全身から血を吹きだし、もう死ぬことがほとんど決まっているような風体の兵が、刀を振り回して迫って来た。近づけぬように槍で坂を突き落としてやった。
「何なのだ、こいつらはッ。死にたがりのキチガイめが」
 自らの立身出世を第一とする道具にはその徹頭徹尾が理解不能だった。
「だが、貴様らの親分もすぐに送ってやらァな。ワハハ」
 道具はついに丘を降って開けた稲生原に着陣を果たした。今こそは、あらゆる鬱憤を信長目掛けてぶちまけてやるときだと、舌なめずりしながら、息を整えていたが、

「出たぞ。林勢だ、かかれェッ!」

 稲生原より急行した信長本隊が、林勢を休む暇もなく押し寄せた。
「なにッ、クソッ、勝家の馬鹿野郎は何をしていやがるッ」
 元より勝家が敗走の憂き目に合ったのは、道具が自らその救援を遅延させたことに由来するのだが、その事も忘れるほどに狼狽えている。
――落ち着くのだ。信長の兵はずっと少ない。何を恐れる必要があるのか。むしろ、あつらえ向きッ。時間は喰ったが、こちらは、まだそれほど多く兵を討たれたわけではない。そのうえ、勝家が退いたなら、信長の首級はすでに私の手中に転がり込んだようなもの。そうだ、すべては上手く行っているぞ――
 然り、信長勢も勝家との激闘の後であるから兵数は二〇〇も居なかっただろう。
 道具は自らを振るい立たせ、戦いに臨もうと気を引き締めるのだが、その時、傍らの兵が「おっかあァ」と悲鳴を上げて逃げ出すのを目にしてしまう。
「オイッ、貴様ァ、なぜ逃げるかァッ」
 道具はそれを捉えて刺し殺したが、憂さは一向に晴れない。どころか苛立ちが強くなっていくばかりである。逃亡する兵は増える一方だった。
「逃げるでないッ、逃げるなァッ。数ではこちらは圧倒しているのだぞ、戦いさえすればいずれ勝てるのだ。何故それが分からんか、ボンクラどもが」
 末端の兵に大将と同じ視座はない。兵数で勝っているから優勢だと考えるのは、所詮は采配を振るう者の理屈に過ぎない。
 信長軍の救援に恒興たちも息を吹き返す。もはや死に体ではあったが、再び兵をまとめ上げて林勢の背後から挟撃を画策した。
 道具はいよいよ信長軍の血気盛んな若武者の腕を切り落として、後ずさりする。考えるより先に熟年の勘が『退くなら、今』と告げていた。自分は負けていない。負けていないが、臆病な兵隊どもが逃げ出している。このまま戦えば、いつか信長の兵を下回ってしまうかもしれない。
――逃げれば戦は負けだが、死ななければ次がある、か――
 長く仕えてきた信秀の哲学が彼のなかにもしかと宿っていたのである。
「ウウゥウ、退けッ、退け、退けェッ――」
 屈辱を死に物狂いでかみ殺し、ついに退却を開始する。退き戦こそがもっとも兵を失う機であることは、古今東西の兵法家に聞くまでもなく論を待たない。うつけと蔑んできた織田信長に敗北し、さらに、追撃まで受けるという道具の腸の煮え様は想像に難くない。彼はその憎悪を拳に押し込めて手綱を握り、まさに愛馬に跨らんとしたところだったが、その時、道具の退却にいち早く気がついた信長軍の口中杉若ぐちゅうすぎわかなる青年が、こう叫んだ。
「オーイ、美作が逃げるぞ、兄が居なければ何もできぬ臆病者が、逃げて行くぞッ」
 杉若は何か策を持ってこれを言い放ったわけではなかった。それは、彼が言わなくとも他の誰かの口から飛び出そうな、安直で、軽薄な、戦国の世にありふれた挑発の一つに過ぎない。
 しかし、この一声が、すでに長時間の戦闘で神経をすり減らしていた道具の理性を吹き飛ばした。
「誰が臆病者だッ。あのガキを逃がすなッ」
 道具は蔵にかけた足を下ろし、踵を返して杉若への自ら突撃する。
 思いがけない大将首との対峙に杉若は意気込んで応戦した。二人は取っ組み合い、まだ雨にぬかるんだ草原をごろごろと転がった。道具はすでに息も切れ切れだったが、腐っても弾正忠家を生き抜いてきた男であるから、若輩の兵を一人組み伏せるぐらいのことは訳はない。
「童が。いずれ親族まで根絶やしにしてくれるわ」
 脇差を抜き、杉若の首に押し当てようというまさにその時、
「どけェ、どけェ、どけェ! 殿が通るぞッ」
 戦場にあって一際に緊張感を欠いた素っ頓狂な声が起こる。
 道具は思わず顔を上げた。まっすぐに馬で駆けてくる茶筅髷の侍が見える。
「信、長――か?」
 もはや杉若など気にかけなかった。ただ起き上がれぬように頭を力いっぱい踏みつけてやり、立ち上がって信長に向かって駆け出した。
――逃げずに、正解だった!――
 弾む呼吸を整え、道具は笑みをこぼす。信長自ら斬り込んでくるのは僥倖という他ない。願ってもない一騎打ちである。弱卒がいくら逃げ出そうとも、敵の大将さえ討ち獲ったなら、あらゆる問題は帳消しだ。勝家の逃した手柄を手に入れて、末森城への凱旋も叶うことだろう。これだから戦は、良い。
――兄にも、勝家にも、もう二度と大きな顔はさせぬぞッ――
 道具の願いのすべてが、信長の首一つに収斂されていた。
 迫りくる信長が下馬する瞬間の隙を狙い、重たい一撃を食らわせようと自らの長槍を上段に構えて待ち受けた。
――サア、来い、信長、馬を降りろ。打ち伏せてくれようッ――
 グングン近づいてくる信長を見据え、間合いを図るが、
「馬鹿なッ。なぜ降りぬッ?」
 信長は馬を降りぬまま、道具に突っ込んだ。騎乗したままの速力を利用して、道具の顔を力いっぱい蹴りつける。
 道具は兜を飛ばし、鼻血を吹きだしながら再びゴロゴロと草原を転がった。もはや全身が泥だらけで、兜もないから、傍目には雑兵と変わらぬ外見だったが、その血走った目の執念だけが彼であることを如実に物語っていた。
 まだ馬の制止しないうちに、信長はまるでカエルのように跳びはねると、およそ三間ほどは空を舞っただろうか、そのまま、伏せっている道具の上にのし掛かった。
「グウッ。この、トンチキがァ」
 道具は余力を振り絞り付近に転がっていた脇差を右の手で掴み取る。信長の首にそれを突き立てんと試みるのだが、しかし、どういう訳だか腕に力が入らない。ただ、ブルブルと震えて、ついには脇差を取り落としてしまった。
「何故だッ、お、オイッ、何故だ動け、動かんかッ」
 彼の右腕は答えない。代わりに、その腕の手首のから血が滲んで吹きだしていた。
 それは、かつて信光に負わされた古傷である。
「しまいだ、林美作守道具」
 信長は脇差を押し付けて、容赦なくその首を落とした。

――

 夕刻、血に染まった稲生原を橙色の西日が照らしている。
「勝ちましたな」
 返り血でまるで誰だか分からないヘンテコな姿の可成が現れて語りかけたが、
「これが、勝ちかよ」
 死肉を目当てに烏の群れが和気あいあいと餌を探して闊歩する原っぱに立ち、信長は寂しそうに笑うだけだった。
「殿が生きておられる。だから、勝ちです」
「そうか。お前がそういうなら、そうということにしておくよ」
 泥と汗と血と涙でグズグズになった身体を川で洗いながら、信長軍はゆっくりと清洲城へと帰って行った。
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