織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第三章 血路

二十二

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 同年八月二十三日の夜半、勝家は息せき切って末森城を訪れた。下社城より手勢五〇〇余を率いての参陣である。
 ところが、信盛の敵対を耳にしても信勝は思いのほか鷹揚だった。
 雨に煙る石庭、その暗闇に浸る蹲踞つくばいからあふれ出る雨水がどこへともなく流れていくのを眺めて呟く。
「むしろ、よかった」
「ハ?」
「命乞いをする者を殺したとあっては外聞も良くなかっただろうが、しかし、砦を築いて籠っている敵など殺して何の不足もない。そうだろう」
「は、はあ。ご言い分、尤もですが、――」
「膿を出し切った、そう思えば良いのですよ。柴田殿」
 信勝に食い下がろうとする勝家に蔵人が脇から口を挟む。
――織田信長との戦争に如何にして勝つか?――
 勝家の頭にはこの考えしかないが、信勝らはそうではなかった。彼らの懸念は、その後にあるのだ。筋目を侵して家督を簒奪するに当たり、国外の干渉を極力避けながら再び弾正忠家を一枚岩にまとめ上げるという大仕事に、もう今から目が向いていた。『信長との戦など、すでに勝ったもの』と決めているらしい。
「柴田勝家よ。お前を名塚砦攻めの総大将に任じよう。お前の引き連れてきた五〇〇の兵に加え、この末森城の兵さらに五〇〇を貸し付ける。ただちに出撃し名塚の砦を叩き潰して来い」
「某が、総大将にございますか?」
「そうだ。何の不服があるか」
「恐れながら、信勝さま御自らのご出馬を何卒――」
 食い気味に、蔵人が「無礼者」とわざとらしい声を張り上げた。
 勝家はその青白い顔を一瞥したが、もはやこの男の物言いについては馬耳東風すると決めている。
――自分は言うべきことを言うのみ。やるべきことを、やるのみ――
 ただその一念を念仏のように心中に唱えて、自らに浴びせられる剣呑な視線などには一顧も与えない。
「この雨だ。於多井川は水かさが増え、すでに人の渡れる有様ではない。信長の後詰軍がやって来られない今のうちに砦を叩く。それがお前の策だろう。違うか」
「仰る通りです」
「であれば、私の出陣は相成らぬ」
「何故ですか」
「家というのが戦だけではまわらぬものだからさ。ただ一つの小さな砦を落とすためだけに、佐久間のごとき小物に灸を据えるに当たって私自らが奔走するようでは家中に示しがつかぬ。信長が出て来ない戦になると決まっているのなら、尚のこと。物事には格というものがある」
「まだ、信長が来ぬと決まったわけでは――」
「じゃあ、何か。お前の立てた策には穴があり、信長が現れるというのか」
「そういうわけではございませぬが、」
「だったら、ひとまずは私の言う通りに砦を落として来い。まずはそれからだ。良いな」
 勝家としては是が非でも信勝を総大将に奉じて戦を起こしたい。篠木三郷での挑発行為が功を奏し、せっかく信長自らが対決姿勢をあらわにしてくれている段まで来たのだから、これを真っ向から蹴散らし、武で以て家督の正統性を主張するより有効な手段は無いのである。乱世とは所詮力の時代だ。狡猾な権謀術数を巡らせたすえに権力を握ろうとも、武威がなければ人は遍く従わないだろう、と勝家は肌で知っていた。
「どうした、変事がないぞ。わかったのか?」
「ハ、ハア。わかりました」
 わからなかった。
 しかし、一方で、わからないものに対して反論するための言葉も彼は持ち合わせてはいなかった。

 太鼓の音が響き、法螺貝が鳴る。普段は静謐で趣のある末森の屋敷が、珍しく喧騒に包まれていた。女中たちが何事かと囃し立てながら、行ったり来たりしている。勝家はそれらの一切を見ることなく、しずかに目を閉じ、兵が集結するのを待っていた。
 やがて一〇〇〇余の兵隊が軒を並べると、信勝が徐に前へと進み出て芝居がかった口調で滔々と語り始めた。
「兄上が名塚の地にせっせと砦を築いているらしい。私はそれを、何故だろう、と不思議に思う。なるほど我々は篠木三郷の地を接収したが、もし、兄上に、私と真っ向から対峙する勇気があるなら、三郷の地を奪い返せば良いではないか。しかし、そうはしなかった。あの男がやったことと言えば、清洲へ迫らんとする我が方を何とか食い止めようと、ささやかな砦を築いただけだ。三郷でも、名塚でも、我々は攻勢である。
 卑屈な砦など、一日で陥落させてしまえ。折からの大雨で於多井川は増水しているな。これでは渡河がままならなず、後詰の軍を砦にたどり着けぬであろう。しかし、兄上にとっては、それでよかったのかもしれない。もし、怖気づいたが故に出て来られなかったのだとしても、『川が渡れなかったのだ』と言えばいい」
 蔵人の笑い声を皮切りに、兵たちの間にもまばらに声が漏れ始めた。沈痛な面持ちで雨に打たれていた一人ひとりの表情に、やや赤みが差し始めている。
「お前たちが負ける理由など、何処にもない。
 もし、敵の後詰軍が現れたとしても、川を馬鹿のように泳いできた彼奴らにお前たちとまともに切り結ぶ力が残っていると思うか。兄上が率いる兵は、せいぜい七〇〇程度が頭打ちだといことは、お前たちもよく知っていよう。対する我らはどうだ。今ここに居る者だけで一〇〇〇余、そのうえ、那古野から林勢七〇〇がすでに合流の手筈を整えている。お前たちは、一五〇〇を越える軍勢で小さな砦を落としに行くだけのことだ。何処に不安があろうか」
 雨は少しずつ霧雨に変わってきた。
「しかしながら、立身出世の大志を抱く者は、いまこの戦いで武功を上げねばなるまい。なぜなら、名塚砦を攻め落としたとあれば、いよいよ兄上には降伏の道しか残らないからだ。美濃も、岩倉も、清洲の背後を脅かしている。織田信長の味方は何処にもいない。後詰の期待がない籠城の結末など火を見るより明らかだろう。清洲城は、もはや死を待つだけの城となり果てた。
 私はこの弾正忠家を、兄・信長に代わって建て直す。その時、我が軍の中核をなすのは、今日、誰よりも勇敢に砦へ乗り込んでいくお前たち中の誰かに他ならない。尾張一の猛将・柴田権六勝家の元、各々がこの一戦で鬼神の如き働きを私に見せよ」
 弱まった雨を天へ押し返すかの如き鬨の声が轟いた。
 兵たちの熱が冷めやらぬうちに勝家は怒涛の出撃を開始する。

 先駆ける勝家の心は颯爽としていた。信勝の演説に感銘したからではなかった。雨に滲んで舞い上がった青臭い草の匂いと、何処からともなく顔に吹き付けた野火の煙が、混ざり合って鼻を刺激する。御託の入り込む余地のない、ただ人と人がぶつかって死に行くだけの、さっぱりとした戦気が彼の心をこの上なく静かにさせていた。叶わなかった信勝の出馬、いけ好かない蔵人の罵倒、信盛という友の離反といった、先刻まで勝家を捉えていたすべてが、いまの彼の脳裏には一遍もよぎらない。
 雨に滑らぬよう、右腕に携えた三間の槍をぎゅっと握りしめる。
 柴田家は生来、大した身分の家柄ではない。どこの馬の骨かとも分からぬ尾張の小さな豪族を信秀が拾い上げた。財力を基盤に成り上がった信秀の元には、林秀貞や平手政秀のような吏僚や、佐久間信盛のように手広く器用に物事をこなすことのできる者たちがより多く取り上げられたが、勝家はそうではなかった。口はそれほど上手く回らないし、幼い時分より評判のギョロ目で衆道を糸口にした出生の道をも固く閉ざされていたからである。
 だからこそ、彼は諦めるのが早かった。槍を振るう自分の腕をチラリと見、他人よりもすこしばかり太いようだと気づくや、その他のことにはもう目映りしなかった。いつの間にか、勝家自身が信秀の最も頼りとする弾正忠家の槍となっていたのである。

 湿気の籠った秋のひんやりとした空気が、夜明けを告げる。霧にけぶる於多井川が眼前に広がるのを勝家の兵たちは見た。名塚砦はまるで雲のうえに浮かんでいるかのようで、その全容を未だはっきりとは見せていなかった。
 勝家は足を止めて、那古野から合流する手筈の林勢を待っていたが、
「霧が晴れたら総攻撃を仕掛ける。いまは数より時が肝要」
 そう兵たちを鼓舞しながら、突撃の準備を進めていた。 
 自分の振り下ろす槍が、薙ぎ払う太刀が、尾張国の趨勢をそのまま大きく変える。そう思うと、今日が初めての戦だという百姓の兵卒までも心は満たされるようだった。この呑気を責めるには値しない。そうすることで、彼らは初めて眼前の死の恐怖を自らの身体から引き離すことができるのだから。
 しかし、そんな健気な心術を吹き飛ばし、再び彼らに心に不安を注ぎ込むに十分な現実が霧の間から覗かれる。
「まさかッ、――」
 そよ風が吹くと、名塚砦から於太井川を渡河したまさに岸辺の稲生原いのうはらに軍勢が姿を現した。朱色に揃えられた武具の数々が日の光を受けてチラチラと、遠方の勝家の目にもはっきりと分かるほど煌めていた。
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