織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第三章 血路

二十

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「ナベ!」

 篠原は、客先から会社に帰る途中で、連絡を受けて病院に駆けつけた。

「篠原さん」
「どういうことだ!」
「それよりも、客先には?」
「それよりもだと!」
「篠原さん。貴方は営業でしょ?」
「あぁそうだ。だがな、その前に人間だ!ナベ。説明しろ」

 真辺は、淡々と感情を殺した声で、倉橋の死が過労死である事。そして、苦しんだ様子がない事を説明した。

「篠原さん」
「なんだ」
「俺が、俺が居たからですかね?」
「なに?」
「俺が、居たから、倉橋さんは・・・」
「ナ・・・ベ・・・。お前?」

 篠原は、この時点で真辺の異常に気がついた。
 真辺の足元に、赤い物が溜まっている。

「え?なんですか?」
「ナベ!お前。誰か居ないか?医者を呼んできてくれ!」
「誰もいませんよ。帰しましたからね。あぁ高橋だけは会社に向かわせました」
「それはいい。わかった。ナベ。もう、わかった」
「いえ、説明が終わっていません。篠原さん。倉橋さんは、俺の代わりに、アイツらのように俺の代わりに」
「違う。真辺!ナベ!おい、医者!」

「篠原さん。うるさいですよ。病院では静かにしてください」

 篠原は、真辺が握っている手を開かせる。
 爪が手のひらに食い込んでそこから血が流れている。

「篠原さん。気持ち悪いですよ。休暇は2日ですよね。あっそうか、倉橋さんが居ないから、俺が代わりに明日行きますね」
「ナベ。黙れ!」

 真辺が座って、寄りかかっていると思っていた、壁にも拳の跡がある。
 反対側の手がだらりと垂れている。そこからも血が垂れている。手が握れないのだろう。

 医者が異変を感じて駆け寄ってきた。

 その担当医が見た、真辺の状態は異常の一言で済ます事ができる状態を越えていた。

 右手は、篠原が開かせたからかろうじて手のひらの裂傷で終わっている。
 左手は、壁を殴り続けたのだろう。骨が折れているのが見ただけで解る。医者が確認した所では、折れた状態ではあるが、見た目よりひどい状態ではないという。レントゲンでの確認は必要にはなるが単純骨折ではないかと言われた。拳部分の皮膚が壁にこすられて、ひどい状態になっている。頭も壁に打ち付けたのだろう、耳から血が流れている。多分鼓膜が破れているのかもしれないという事だ。

 着ていたスーツも血で汚れている。

「篠原さん。倉橋さんのご家族は?」
「あいつは天涯孤独だ」
「そうなのですか?俺と一緒ですね」
「え?ナベ?」

 医者が真辺を処置室につれていく。
 手の消毒とレントゲンを撮影するという事だ。明日、精密検査をしなければならないだろうという事だ。

「困ります。俺、客先に事情説明しないと・・・、だから大丈夫ですので帰ります」
「ナベ!大丈夫じゃない。倉橋さんはもう仕事ができない。あの仕事が好きだった人が・・・だ!お前まで居なくなるつもりか!頼む。頼むから、倉橋さんの代役はできないだろう。お前の代わりも無理だ。でもな。お前たち開発者にできない事を俺ならできる。あの仕事を、俺に任せてもらえないか?」

 真辺は少しだけ考えて、篠原の顔を見てつぶやくような声で言葉を綴った。

「え?篠原さんがケツを持ってくれるのですか?」
「あぁそうだ。倉橋さんと真辺。お前の後始末を俺が付けてくる。頼む、たまにはカッコつけさせてくれよ。狙っている娘が居るからな」

 ここで、真辺は篠原をまじまじとみてから、にっこりと笑った。

「どこの娘ですか?しょうがないですね。いいですよ。倉橋さんも、俺も少し疲れました。休んでいいですか?先輩?」

 照れ隠しなのだろう、真辺が自分の事を、先輩と呼んだ。
 真辺が篠原を先輩と呼ぶのは、プライベートな時で本当に真辺が疲れている時だけだという事を篠原は認識していた。

「あぁ休め。会社には俺から報告しておく、医者のいう事を聞けよ。仕事に出ようとするなよ?」
「はい。はい。寝ていいですか?少し疲れました。篠原さん。篠原さんは、奴らのように、俺を残して居なくなる・・・ことは・・・ないですよね?」

 篠原は、真辺が意識を失うように寝た事を確認して、後のことを医者にまかせて、病院を出た。

 これからの事を考えると、頭が痛い。これが『頭痛が痛い』という状況なのだろう。

 社外への対応はそれほど難しくない。
 もともと、倉橋の部隊はサポートなのだ。撤退しても大きな問題にはならない。会社の損害は皆無だ。中断を言われた時点で、精算の約束を取り付けている。
 この二日間。正確には、土日を入れると4日間で、綺麗な撤退を行う必要があるだけだ。

 この時に、篠原の頭の中には『撤退』の文字以外存在しなかった。

『篠原です』
『どうだ?』
『倉橋は過労死です。真辺もしばらく使えません』
『そうか・・・。他のメンバーは?』
『会っていませんが、今から訪ねたいと思います。車使っていいですか?』
『そうだな。時間が時間だから、そうしてくれ』
『ありがとうございます。もしかしたら、所在がわからない者が出るかもしれません』
『わかった。ピックアップを始める』
『お願いします』
『篠原。何人残ると思う?』
『わかりません。わかりませんが、真辺だけは残します。俺の感でよければ、そちらに向かった高橋は残ると思いますが、現場に出られるかはわかりません。会社にも何人か来ていますよね?』
『あぁ泣き崩れた高橋と5名ほどが来ている』
『ありがとうございます。多分、その5名と真辺だけだと思います。俺は、引き止めませんよ?』
『そうだな。それがいいだろうな』
『部署を変えるのはOKですよね?』
『問題ない。掛け合っておく』
『頼みます』
『篠原はどうする?』
『真辺たちを、ナベを守ります』
『具体的には』
『知り合いに新聞記者が居ます』
『・・・。わかった、俺とお前だけにしておけよ』
『はい。できれば、俺だけになるようにします』
『SIerは売っていいからな』
『それは売りがいがありますよ』

 篠原は、電話を切った。
 タバコを辞めたのが間違いだったと思ってしまっている。

「(こんな時に一服できればいいのだろうけどな)」

 篠原と電話の相手が考えていた通り、倉橋の部下だった者たちの大半が辞めるといい出した。篠原は、引き止めないといいながら、一度会社に来るようにだけ伝えた。高橋と他5名は、条件付きだが残留の意思を示していた。
 条件は、真辺が倉橋の部署を引き継ぐことだ。ずるい感情も有ったのかもしれない。死んでしまった上司の右腕であった、真辺も会社を辞めると思っていたのだ、それほど彼らには、真辺の憔悴しきった姿が印象深く残ってしまっていた。

 『この人は心が死んでしまった』そう思っていたのだ。IT業界に長く居る人間なら、1人や2人や3人や4人くらいは心が死んでしまった人や複数の心を持ってしまった人を見てきている。6人は、真辺もそっちに旅立ってしまったと思っていた。

 篠原は、6人以外にも会って話を聞いた。
 公園によらずに帰った者にも話を聞きに行った。公園によらなかった者の多くは違う部署への移動を希望していた。

 すでに時刻は、深夜と呼ばれる時間になっていた。
「悪いな」
「それで?」
「あぁ会社の人間が1人過労死した」
「え?なんで私にそれを?」

 篠原が呼び出したのは、地元の後輩で後の篠原夫人になる女性だ。
 大手新聞社に勤めていて、社会部の記者をしている。

「守りたい奴が居る。俺が矢面に立つから、奴に奴らに矛先が向かないようにしたい」
「それほどの事なのですか?」
「わからないから、お前に話をしている」

 女性は少し考えてから、上司に連絡したいと言った。
 篠原が了承したのを確認して、近くの電話から上司のデスクに連絡した。すぐに連絡がついて、上司はすぐに篠原を連れて新聞社に来いと言ってきた。篠原が了承したので、篠原の車で新聞社に向かった。

「篠原さんですか?」
「はい。貴方は?」
「失礼しました」

 お互いに名刺を出して名乗り合う。

「それで何が有ったのですか?」
「話すのは構いません。そのかわり、俺以外への取材はしないと約束してください」
「・・・。わかりました。でも、他所の事までは約束できません」
「できませんか?」

 篠原とデスクのにらみ合いが続く。

「ふぅ・・・。怖い人ですね」
「営業ですから」
「わかりました。大手と雑誌社の数社だけですよ」
「十分です」
「でも、先にネタを教えてください。それが条件です」
「わかりました」

 篠原は、勤務表のコピーや資料を見せながら始まりから説明した。
 過労死した倉橋の勤務表は、基準労働時間144時間を大幅に上回る勤務時間5133時間だ。残業だけでも369時間にもなっている。

「篠原さん。嘘ですよね?」
「おっしゃっている意味がわかりません」
「人がここまで働けるのですか?2月ですよ?」
「えぇそうですね。昼休みや食事の時間も含まれていますから、28日×2時間くらいは引いてください」
「それでも、ですよ?」
「そうですね。これが2人と、あとは時間は半分ですが20名くらいです」
「おかしいですよ!?」
「そうですね。異常ですね」
「・・・。篠原さん。解っていますか?過労死を認定する時間は、150時間を超えれば十分に認定されますよ」
「えぇそうですね。でも、倉橋と真辺はこれを3ヶ月近くこなしています」
「3ヶ月・・・ですか?失礼ながらご家族は?」
「できると思いますか?」

 2人の間で沈黙が流れる。

「ふぅ・・・。わかりました、これがIT業界で行われている事なのですね」
「そうとも言えますし、違うとも言えます」
「え?」
「説明が難しいのですが・・・あっそうだ。ナベ。あっ真辺のセリフなのですけどね」
「えぇ」
「『システムが止まって困るのは使っている末端の人間で上層部じゃない』というのがあるのですよ」
「??」
「わからないですよね」
「申し訳ない」
「新聞社でも、システムは導入されていますよね?」
「えぇ必要ないと思っていても、いつの間にかパソコンを使って書類を作ったり、記事の入力をして、入稿したりしていますね」
「ですよね。そのパソコンが止まったら困るのは誰ですか?」
「使っている俺たちだな」
「そうですよね。でも、システム会社や運営会社には上層部が文句をいいますよね?」
「そうですね。俺たちが直接いう事は無いですね」
「なぜですか?」
「他の業務がありますから、なんとか違う方法を考えますね」
「その部分ですね。ナベや倉橋が言っているのは、本当に『困る』のは。文句を言っている上層部じゃなくて、末端で働いている人たちで、その働いている人たちの業務を邪魔しないように、その人たちが働いていない時に、システム屋が直す」
「あっそれで・・・」
「えぇ倉橋や真辺は特殊な人間ですが、彼らだけが特別というわけではないのです」

 それから篠原は、大手出版社の記者が集まるのを部屋で待っていた。
 持ち込んだ新聞社がスクープとして朝刊に記事を間に合わせる。他社や雑誌社は、それの追従記事として詳細な情報や状況をわかりやすく説明した記事を夕刊や翌日の朝刊に載せる事になった。

 残業300時間オーバーは流石にインパクトがでかい。
 新聞社や雑誌社は、スケープゴートにされた中間会社や諸悪の根源にされそうになっているSIerに取材の申し込みをしている。篠原も、中間会社が嫌いなので、そちらは無視する事にして、SIerの担当に何度も何度も連絡を取っている。
 新聞社の取材が来て、『倉橋と真辺の勤務表がバレた』と、いう内容をFAXで伝えている。
 善後策を考える必要があるが、1社は朝刊に記事が掲載するだろうと伝えている。

 落とし所は、完全撤退だが、倉橋も真辺も病院に迷惑がかかるのを嫌うだろう。
 SIerから中断になったと連絡を受けている、その理由も倉橋と真辺の提案を全面的に採用する事になったからだ。しかし、2人を稼働させることはできない。1人は物理的に、もう1人は心情的に・・・。
 篠原が、現場に張り付く事で納得させようと考えていた。

 陽が照らす街並みの中を疲れ切った表情で篠原はSIerに向かっている。安全面を考えて車は、新聞記者の後輩に預けた。
 呼び出しというよりも、悲鳴に近い懇談だった。

 朝から、マスコミの取材申し込みが来ていたのだ。
 篠原や会社は、倉橋の事が解ってから、SIerに何度も連絡を入れている。向こうの担当は中断が決まって、部下たちを連れて飲みに行っていた。
 FAXやメールでの連絡をしていた。会社にも連絡をして、緊急な要件があると言って、伝言を頼んだ。
 会社でも人を待機して連絡が来るのを待っていた。倉橋の部下6名も会社に残って、連絡待ちをしてくれていた。

 それらの事が、マスコミに捲れて火に油を注いだ形になってしまった。
 子会社いじめ、外注いじめの図式が出来上がってしまったのだ。

 病院のシステムは、篠原が上手く立ち回って、真辺たちの会社が元請けになる事で決着した。
 運営から全部を担当する事になったのだが、真辺たちの会社規模では難しいために、SIerに協力を求める事になる。病院の開業まで1ヶ月。倉橋と真辺の提案にかかれていた、使える機能だけをリリースして、それ以外はバージョンアップで対応する。

 これで、病院は無事開業する事ができた。
 SIerはこの件で大幅な赤字を作った。病院の開業までに必要だった人員と一回目のバージョンアップまでの3ヶ月間の人件費は、全部SIerの手出しとなったからだ。他にも、関連会社からの賠償請求などへの対応が必要になっている。パッケージ導入を決めた事で、パッケージの導入費用もそれに上乗せされている。病院は一切の妥協を許さない状況だった。
 篠原は、潰れないギリギリの金額を聞き出して、病院に支払いをお願いしたのだ。

---
「篠原さん」
「ナベ。もういいのか?」
「えぇ大丈夫です。病院は?」
「大丈夫だ」
「よかったです。それで、俺どのくらい寝ていました?」
「4日だな」
「そうですか・・・月曜日から仕事に出ないとダメですね。次の現場は?」
「安心しろ、用意してやる」
「ありがとうございます。働いていないと疲れちゃいますね」
「そうだな。でも、会社からの命令で、お前と部署の人間は、しばらくは保養所に行ってもらう」
「保養所?そんな物有るのですか?」
「お前な・・・会社の施設くらい覚えておけよ?」
「ははは・・・。そうですか、倉橋さんの事が、マスコミにバレた・・・のですね?」

 篠原は何も告げないで、6名の名前と真辺の名前が書かれた。
 保養所の申請許諾書と保養所までの地図を投げて渡した。
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