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第三章 血路
八
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織田信次は信長の叔父であり、亡き信光の弟にあたる。
清洲城の奪取によって信光の本拠が那古野城へ移された後、それまで信光が城主を務めた守山城にはこの信次が据えられた。
清洲衆との戦いに信次の手柄があったわけではない。であるなら、と他の戦に目を転じてみても特別な功績はない。林秀貞をして「あんな凡庸な男に先を越されるとは」と屈辱せしめたこの男、能力も、人柄も、何処をとってもまったく見事な平々凡々であった。
弾正忠家当主である織田信秀を長兄に持ち、次兄には忠義の良将である信康、三兄には智勇兼備の信光が列していた。これだけの人材が目の上にズラリと並んでいれば、たまさかやる気を出してみても、育たない。勝ち戦に臨んでは手柄を兄たちにとられつくし、負け戦に臨んではその優秀な兄たちの総力を以て及ばない状況なのだから、信次がひょいと出て行って大した働きができるはずもなかった。
時は無為に流れ去り、信秀が死に、信康もすでに亡く、信光もこの世を去った。勝幡城からその身を起こして弾正忠家隆盛の礎を築いた織田信定の種から生まれた男子は、既に自分一人であった。上にはうつけの甥がいるだけだ。
信次とて人並みの野心を持たないではなかったが、出鼻は信光の死によってすでに挫かれていた。何とも後味の悪い不慮の死。いかに凡庸な信次といえども、兄が何らかの政争に巻き込まれて消されたのだということぐらい察しがつく。こうなったら、もう余計なことはしないことだ。
『信長と信勝がいがみ合っていようが、自分には関係ないことさ。両者が共倒れでもした日には家督を拾ってやらんこともないが、余計なことをしでかして兄のように殺されたのでは堪らない』
元が五男、守山を貰って不足もなかったのである。
事件が起きたのは天文二十四年の六月二十六日、信光の死からおよそ半年後のことである。
梅雨の晴れ間。この蒸し暑い日に、信次は突然に思い付き、若侍を伴って庄内の大河へ川狩に出かけた。
第一が気晴らしだが、それだけでもなかった。
聞くところによると、守山の領民らは長く在住していた信光の顔はよく見知っていても、この地に移ってまだ一年ほどである信次の顔は未だ朧気だという話であったから、顔見せも兼ねて町を練り歩いてやろうという魂胆があった。
川狩は盛況だった。冷たい水が暑さに気持ちいい。
一行はいつの間にやら酒をあおりながらの小さな宴会の様相を呈していた。
「ふう。と、ドッコイショ」
手ごろな岩に腰かけ、水を飲む。空を見上げて小休止。良い気分。
するとその時、川の土手の上を一騎の騎馬武者が駆けていくのが見えた。
「何だァ、アイツは」
大して深く考えずに放言した。
川狩の触れはそこかしこに出しているから、この近辺に住みながらそれを知らぬ者など何処にもいないはずで、要するに、騎馬武者は信次一行を土手の上から見下ろし、挨拶も、あまつさえ下馬すらせずに、素知らぬ顔で通り過ぎようとした不逞の輩に他ならない。
野心など捨てたと言ってはみても、舐められていいということはない。それとこれとは話が別だ。
そんな信次の心境を忖度し名乗りを上げたのが家中随一の弓の使い手・洲賀才蔵なる侍。
「殿、私めにお任せくだされ」
土手の上へと駆けあがると、軽快な手つきで矢を番えた。
不届き者を射ようというのであるが、ここに来て信次は妙な胸騒ぎがした。
「ン、才蔵や、ちょっと待て」
慌てて声をかけたが間に合わない。皆すこしく酩酊しており、耳もいくらか遠くなっている。
放たれた矢は快晴の空に吸い込まれ、きれいな孤を描いた。
――マア、当たらんだろうが、――
信次だけでなく、矢を射た才蔵本人すらそう思っていた。
騎馬武者はすでに遠ざかって小さくなり、いかに弓の才蔵の腕前といっても、これを射止めるのは針の糸を通すような業だ。
――馬の尻にでも当たるか、そうでなくとも、驚いて逃げていけばいいわな。さすれば殿の面目も守れるだろう――
半ば威嚇の射撃だったが、ところが、一拍置いて、武者は馬からゴロンと転げ落ちる。
当たったらしい。馬の方は元気なもので、驚き風に嘶いてから、遮二無二走って消えてしまった。人間の方は落馬したきりピクリともしない。
酔っ払いらは才蔵の神業を肴にさらに酒をあおったが、信次だけがただ一人、土手へ這いあがって、武者の方へとバタバタ駆けていく。
武者の顔を見たとき、嫌な予感が杞憂でなかったことがはっきりする。
水に濡れた袖口からゾゾゾと寒気が駆けのぼって、汗が噴き出る。
死体の顔は白粉を塗ったように純白であった。死んでいるからではなく、元々雪のように美しい顔なのだと信次は知っている。腰には金銀をあしらった脇差を差し、何やら複雑な模様の施された上等な狩衣を召していた。
どこの馬の骨とも知れない武者ではあり得ない気品。
「ヒ、秀孝さまッ――」
織田信秀が晩年に産ませた最後の嫡子・織田秀孝その人に相違がなかった。信長、信勝の同母弟であり、年少ではあるがいずれ弾正忠家を背負って立つはずの人間である。
矢はうなじから喉仏をきれいに貫いていた。即死で、蘇生の見込みはない。
やがて若侍たちも遅れて駆け付け、事態の深刻さを知ると一様に狼狽し始めた。宴会の雰囲気などもうどこにもありやしない。
「申し訳ございませぬ。これより私は信長さまの元へ赴き、事の顛末を告げて参りますッ」
才蔵は開口一番の殊勝な物言い。悪いのはすべて自分だ、と主張して止まないが、あまりに急なことで、切腹の覚悟が定まらないのか、声は震えていた。
「ソ、そんな話があの信長に通るものか。もう奴に関わるなど御免だ。兄上のように殺されてしまうのは御免だッ」
信次は夢か現かも分からないといった表情、才蔵の言葉も聞こえていやしない。
足取り怪しいままに馬に跨ると、そのまま走り去り、ついに城へ戻るでもなく、その姿を尾張国から消してしまった。
清洲城の奪取によって信光の本拠が那古野城へ移された後、それまで信光が城主を務めた守山城にはこの信次が据えられた。
清洲衆との戦いに信次の手柄があったわけではない。であるなら、と他の戦に目を転じてみても特別な功績はない。林秀貞をして「あんな凡庸な男に先を越されるとは」と屈辱せしめたこの男、能力も、人柄も、何処をとってもまったく見事な平々凡々であった。
弾正忠家当主である織田信秀を長兄に持ち、次兄には忠義の良将である信康、三兄には智勇兼備の信光が列していた。これだけの人材が目の上にズラリと並んでいれば、たまさかやる気を出してみても、育たない。勝ち戦に臨んでは手柄を兄たちにとられつくし、負け戦に臨んではその優秀な兄たちの総力を以て及ばない状況なのだから、信次がひょいと出て行って大した働きができるはずもなかった。
時は無為に流れ去り、信秀が死に、信康もすでに亡く、信光もこの世を去った。勝幡城からその身を起こして弾正忠家隆盛の礎を築いた織田信定の種から生まれた男子は、既に自分一人であった。上にはうつけの甥がいるだけだ。
信次とて人並みの野心を持たないではなかったが、出鼻は信光の死によってすでに挫かれていた。何とも後味の悪い不慮の死。いかに凡庸な信次といえども、兄が何らかの政争に巻き込まれて消されたのだということぐらい察しがつく。こうなったら、もう余計なことはしないことだ。
『信長と信勝がいがみ合っていようが、自分には関係ないことさ。両者が共倒れでもした日には家督を拾ってやらんこともないが、余計なことをしでかして兄のように殺されたのでは堪らない』
元が五男、守山を貰って不足もなかったのである。
事件が起きたのは天文二十四年の六月二十六日、信光の死からおよそ半年後のことである。
梅雨の晴れ間。この蒸し暑い日に、信次は突然に思い付き、若侍を伴って庄内の大河へ川狩に出かけた。
第一が気晴らしだが、それだけでもなかった。
聞くところによると、守山の領民らは長く在住していた信光の顔はよく見知っていても、この地に移ってまだ一年ほどである信次の顔は未だ朧気だという話であったから、顔見せも兼ねて町を練り歩いてやろうという魂胆があった。
川狩は盛況だった。冷たい水が暑さに気持ちいい。
一行はいつの間にやら酒をあおりながらの小さな宴会の様相を呈していた。
「ふう。と、ドッコイショ」
手ごろな岩に腰かけ、水を飲む。空を見上げて小休止。良い気分。
するとその時、川の土手の上を一騎の騎馬武者が駆けていくのが見えた。
「何だァ、アイツは」
大して深く考えずに放言した。
川狩の触れはそこかしこに出しているから、この近辺に住みながらそれを知らぬ者など何処にもいないはずで、要するに、騎馬武者は信次一行を土手の上から見下ろし、挨拶も、あまつさえ下馬すらせずに、素知らぬ顔で通り過ぎようとした不逞の輩に他ならない。
野心など捨てたと言ってはみても、舐められていいということはない。それとこれとは話が別だ。
そんな信次の心境を忖度し名乗りを上げたのが家中随一の弓の使い手・洲賀才蔵なる侍。
「殿、私めにお任せくだされ」
土手の上へと駆けあがると、軽快な手つきで矢を番えた。
不届き者を射ようというのであるが、ここに来て信次は妙な胸騒ぎがした。
「ン、才蔵や、ちょっと待て」
慌てて声をかけたが間に合わない。皆すこしく酩酊しており、耳もいくらか遠くなっている。
放たれた矢は快晴の空に吸い込まれ、きれいな孤を描いた。
――マア、当たらんだろうが、――
信次だけでなく、矢を射た才蔵本人すらそう思っていた。
騎馬武者はすでに遠ざかって小さくなり、いかに弓の才蔵の腕前といっても、これを射止めるのは針の糸を通すような業だ。
――馬の尻にでも当たるか、そうでなくとも、驚いて逃げていけばいいわな。さすれば殿の面目も守れるだろう――
半ば威嚇の射撃だったが、ところが、一拍置いて、武者は馬からゴロンと転げ落ちる。
当たったらしい。馬の方は元気なもので、驚き風に嘶いてから、遮二無二走って消えてしまった。人間の方は落馬したきりピクリともしない。
酔っ払いらは才蔵の神業を肴にさらに酒をあおったが、信次だけがただ一人、土手へ這いあがって、武者の方へとバタバタ駆けていく。
武者の顔を見たとき、嫌な予感が杞憂でなかったことがはっきりする。
水に濡れた袖口からゾゾゾと寒気が駆けのぼって、汗が噴き出る。
死体の顔は白粉を塗ったように純白であった。死んでいるからではなく、元々雪のように美しい顔なのだと信次は知っている。腰には金銀をあしらった脇差を差し、何やら複雑な模様の施された上等な狩衣を召していた。
どこの馬の骨とも知れない武者ではあり得ない気品。
「ヒ、秀孝さまッ――」
織田信秀が晩年に産ませた最後の嫡子・織田秀孝その人に相違がなかった。信長、信勝の同母弟であり、年少ではあるがいずれ弾正忠家を背負って立つはずの人間である。
矢はうなじから喉仏をきれいに貫いていた。即死で、蘇生の見込みはない。
やがて若侍たちも遅れて駆け付け、事態の深刻さを知ると一様に狼狽し始めた。宴会の雰囲気などもうどこにもありやしない。
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才蔵は開口一番の殊勝な物言い。悪いのはすべて自分だ、と主張して止まないが、あまりに急なことで、切腹の覚悟が定まらないのか、声は震えていた。
「ソ、そんな話があの信長に通るものか。もう奴に関わるなど御免だ。兄上のように殺されてしまうのは御免だッ」
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