織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第三章 血路

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 信長は櫓に登り、柿を頬張りながら、南方に見える那古屋城の方角を眺めている。
「あの叔父上がねえ」
 織田信光謀叛の噂は恐るべき速度で巷間に広まり、清洲城の信長の元には、それを裏付けるような報せが方々からしきりに届けられるようになった。やれ城に武具の類が引っ切り無しに運び込まれているだとか、やれ夜ごと怪しげな男らが街道を見張っているだとか、やれ熱田の権益を横領するための下見に信光自身が毎日港へと出向いているだとか、その手の情報は枚挙に暇がない。
「ほらごらんなさい。私が言った通りになりましたね」
 帰蝶は得意満面に声をかけた。
 信光謀叛が事実だとすれば、信長と運命を共にするしかないこの女も窮地であるはずなのに、焦る様子はない。
 むしろどこか楽しそうですらある。
「他人の心とは移ろいやすいものだが、それだけに逆も然り、というやつさ。藪蛇に手を出さずに待っていれば叔父上も心を入れ替えるかもしれないぜ」
「あ、そう。だといいですねえ」
 信長には噂はどこか怪訝に感じられた。というよりも、釈然としないのだ。
――織田信光という男なら、このような杜撰な陰謀は企むまい。もっと、目から鼻へ抜けるような周到さがなければ、変だ――
 そう心底で感じ取っていたから。

――

 アア。ずっと私は迷っていたのだ。
 兄のようになりたいと願う私と、兄のようにはなれまいと諦める私が、ずいぶん長いことせめぎ合って来た。
 織田信秀という男は強かった。そのおかげで、私はいつも兄に。しかし、それでも、憧憬の根を絶やすには至らなかったらしい。
 兄上、なぜ、死んだ?
 目を逸らし続けてきたツケがまわってきたのだろう、「野心」などという手垢のついた言葉で表現されたくはないが、このが、私の背を押して憚らない。
 私は、私自身の心を知ることに努めた。思うことをただつらつらと、誰に見せるわけでもなく、ひたすらに書きつけた。

――岩倉衆を抱き込んで挙兵に及べば、清洲城を落とすことができるかもしれない。私は、弾正忠家の家督を簒奪する。大それたことである。
 しかしながら、そうした後は一体どうするというのだろう。末森城の信勝とも、戦うことになるだろうが、それを駿河の今川義元が、はたまた婿を殺された美濃の斎藤道三が、黙ってみている訳はない。やるなら、そこまで考えなければ、駄目だ。
 謀叛を成しても、その後が行き詰まっているのでは、これほど無様なことはない。今川と斎藤に、東西より食いちぎられて織田という家が尾張から消える。そうなれば、私はあの世で兄に嘲弄を受けるだろう。
 それを思えば、信長を助けてやり、今川との戦争に生涯を費やすのも恰好の悪い賭けではない。
 信長という甥っ子は、いかにも兄のように豪胆でありながら、一方で、薄氷を踏むような立場で家督を継いだ。これを殺しても、助けても、いずれにせよ、私の動きですべてが決するのだ――

 謀叛と忠義の天秤に揺れ動く信光の心を最後に決めたのは、林秀貞の暗躍だった。
 が書かれていたのは、の一部に過ぎず、ましてや岩倉衆に宛てられた密書の類などではなかった。ところが、まったく荒唐無稽の嘘八百という訳でもないから厄介だ。
 どうにも妙な沼に嵌って居心地が悪いところを、信光は意を決して居直ったのだ。

――果たして運命とは、およそこういうものなのだろう。行動とは、すべて自らの意志の通りに、すべて丹念に練られた計画の通りに順序立てられ、実現されていくようなものでは、きっとない。山上で童の蹴り落した小石が雪崩を伴って村を呑んでしまうように、こそ泥の手によって盗み出されたが、私に謀叛を決起させたとしても、是非のないことである。

『叔父上に二心がないのなら、登城して諸々の噂をオレに弁明してみせなさい。ついでに鷹狩でもしていくといい』

 信光は信長からの便りを一読したうえでそれを火に焚べた。文書はゆっくりと灰になり、宙に舞って見えなくなった。
「その噂とはのだがね」
 機はまさに熟している。

 ところが、そんな信光の心境に水を差すかのように、決起の寸前になって一人の男が那古野城を訪れた。
 林道具である。
 道具は孫八郎を案内に立てて自分を信光に引き合わせた。数名の兵を率いている。 
「なるほど。孫八郎、貴様だったか」
 信光は驚いた風もない。かかる一大事の前では些末事に過ぎないとでもいうかのよう。
 孫八郎の方では今更ながらバツが悪いらしい。兼ねての夫人との密通関係にまでやたらと引け目に思い、突然赤面して、そのまま俯いて押し黙ってしまった。
「信光殿はまったくを持たれたものだ」
「そうだろう。羨ましければそのままくれてやろう。美貌だけが取り柄の坂井孫八郎と、兄の陰に隠れてふんぞり返っているだけが取り柄の林道具では、存外、ウマが合うかもしれん」
 道具は青筋を浮き立たせながら言い返す。
「減らず口を。私の用向きは二つさ。一つは言伝だ。我らは今回の謀叛から手を引かせてもらう、というね。一向に登城する素振りを見せないアンタを訝しんで清洲城ではもう戦争の準備をしていやがる。いくらあの大タワケとはいえ、ここまで計略が漏れていては成功の見込みがないからね」
「それで」
「アア?」
 道具としては先の侮蔑の意趣返しだと言わんばかりに言い放ったものだから、信光の取り澄ました態度には意表を突かれた。
「やせ我慢の減らない御仁だな。アンタはもう終わっているのだよ。兄はいま清洲であなたの謀叛の証拠を信長にくれてやっているところよ」
「ほう。それでは、貴様らは信長の麾下に加わったということか」
「雌伏の時という奴だ。機を見る才がなければ乱世は渡っていけないということを信光殿はご存じないのかな」
「これ以上の機はないさ。今を逃す男は、ついぞ日の目を見られぬだろうなア」
「立場が分かっておられないようだ。信光殿。アンタ、いつまで上に居ると思っているのだね」
 突然、道具の手勢が信光を取り囲んだ。
 最も狼狽したのは孫八郎である。彼は道具から「信長への蜂起の詳細を、内密に信光殿に伝えたい」としか聞かされていなかったからだ。
 縋るように通具の方を見たが、瞬間、顔を蹴飛ばされた。
「織田信光、兄はいくらかあなたを買っていたようだが、今度の謀叛の体たらくを見ればそれはハッキリ勘違いだな。こんなのを側に置いていただけで失笑ものよ、主の奥方と密通するに飽き足らず、我が身かわいさに主の不利となるような泥棒を働き、挙句の果てには主を殺しに来た軍兵を疑いもせずに城内に招き入れたというのだから、大したものだ。何やらアンタのことが大層好きだったようだが、信長に勝るとも劣らない大馬鹿野郎だぜ」
 孫八郎はようやく自分が利用されただけだということに思い至り、自らの愚挙とあまりの悔しさに、床に爪を立てて涙を流した。
「わかるかい、信光。アンタとの密約が信長に知れるようなことがあってはいけないのさ。我らは、謀叛人・織田信光の尻尾を一早くつかんだ者として、此度の騒動の立役者となり、この那古野城を貰いうける。マア、安心して逝くといい。いずれにせよ信長は我らの手で討ってやるのだからね」
 信光は道具の語りなど既に聞く素振りもなく、自らを取り囲む兵らを、ひい、ふう、みい、よお、と数え、それを追えるとギロリとねめつけて、自ら刀に手をかけた。切り合う覚悟を決めた。
 四方から一斉に斬りかかれば男一人などいとも簡単に殺せることは道具らとて分かっているが、しかし、信光が、今川勢との戦にも恐れず先陣切って戦った百選錬磨の猛者であることもまた知っている。少しでも歩調の乱れた先走りをやらかしたなら、その慌て者だけは必ず斬殺されるのだ。
 そうして、誰もが動けないでいたその時である。
「キエエエッ!」
 突如、孫八郎が奇声をあげながら、背後から道具に襲いかかった。
 鍛錬されていない孫八郎の太刀筋は滅茶苦茶で、ほとんど童のチャンバラの如き不格好な軌道だったが、信光の気迫を前に孫八郎への警戒をまったく怠っていた道具の不意を、完全に突いた。
 切っ先が肩を掠める。細かい血飛沫が梅の花のようにわずか散った。
「キサマッ」
 動転した道具の一瞬の隙を、信光は見逃さない。先手からの剣戟を二、三度、慎重にいなしてから、身を低くかがめて、するするとその間を抜き去り、今まさに孫八郎に反撃の一撃をあびせんとしている道具の脳天を目掛けて斬りかかった。
 信光の一閃に対し、寸前のところで身を翻した道具、急所は免れたが、その右腕を切り裂かれる。
「ウウッ、何をしているか。こいつを早く殺さんかッ」
――今の一撃で仕留められなかったか。
 信光は遮二無二かかってきた最初の敵を斬り伏せたが、二人目に腕を切られ、三人目に足を切られた。
 すでに刀を握ることも、逃げるために走ることもできなくなった。ただふらふらとその場にうずくまるように倒れる。
 にじり寄る道具らの前に孫八郎が立ち塞がり、再びチャンバラで斬りかかるが、一度冷静さを取り戻した敵に成す術などはとうになかった。簡単に一刀の元に斬り伏せられ、孫八郎は血溜まりに倒れた。
 二人を見下ろして道具が呟く。この男とて夥しい出血だが、何か言い返さねば気がすまないと言ったように気迫だけで吐き捨てる。
「筋書きはこうさ。『信光夫人と密通していた坂井孫八郎は、その発覚を恐れて主を手にかけた。謀叛の噂などを流したのもこの者の仕業に違いない。それは、あわよくば織田信長の手によって主君が失脚させられることを狙ってのことだ』。ハハ、孫八郎の知恵足らずは衆人のよく知るところだ、とりわけ不思議にも思うまい」
 それも信光の耳には半分も聞こえてやしなかった。

 倒れている。向かい合って。孫八郎の顔がある。涙を流しているらしい。童の頃から、その頭の程度も、その顔の美しさも変わらない。死んでいるのか、生きているのか、信光には分からない。元来が色の白い男だった。

――坂井孫八郎などという、どうしようもない男を召し抱えたが、こやつこそが私の生き写しだったのかもしれないな。兄の顔色を窺い、甥の顔色を窺い、自らの心さえも覆い隠して戦ってきた。謀叛などというのは所詮は小癪な考えなのだ。だが、その小癪さを見つめ、下らぬことだと知りながらも自らを奮い立たせ、どうにかこうにかまだ見ぬ風景へと歩を進ませねば、人生とは、二度とその輝きを自信にもたらしてはくれぬのだ。
 一つ心残りがあるとするなら、信長と正面から斬り結ぶ機を得られぬことか――
『いずれにせよ信長は我らの手で討ってやるのだからね』
 道具の得意面を思い出して信光は苦笑した。
――信長が、キサマなどにやられるものかい――
「アア、私は信長に挑もうとしたのだ。兄上、いま、そちらへ――」
 道具の刀の切っ先が信光の首を貫き、その声を止めた。
 死してなお、胸のうちに何かを秘めたような神妙な顔つきだった。
「その斬られた頓馬と孫八郎の死体を持ってさっさとずらかるぞ。孫八郎は、そうだな、熱田の方へでも放っておけ」
 道具は人目につかぬよう那古野城を脱したうえ、「織田信光を殺した坂井某なる男が熱田の方へ逃げたらしい」という虚言を流布させた。

 清洲城で信光の死を知らされた信長は、突然のことに驚きながらも、すぐに、下手人とされる坂井孫八郎がの逃亡先だという熱田へ討伐隊を遣わして港を封鎖させた。海路から国外に逃亡するのを防ぐ措置だったが、そこで討伐隊の面々が見たのは、民家の裏の片隅で既に事切れている孫八郎の亡骸だった。
 那古野城の信光の屋敷に押し入ってみれば、なるほど、謀叛を示すらしい書付がほかにもいくらか見られたが、それとは反対に、いくら周辺を洗っても、それらが密書として誰々へ出されたという形跡が一向に見つからない。
 また、信光が権益を狙っていたという熱田ではその姿を目にしたものはいないというし、代わりに、古渡城の周辺でその姿が幾度か目撃されていたらしい。古渡城はすでに六年ほど前、信秀がまだ生きていた頃に廃城しており、今やただ草木の繁茂する閑散とした屋敷跡に過ぎず、ここへ来るべき合理的な理由は、およそ見つけられないように思えた。

「叔父上。あなたは一体、何を考えていたのですか」

 信長は狐につままれたような心地だった。
 だが、この騒動の顛末をまとめあげたのが秀貞だったことから、その真相にも、おおよそのアタリを付けるに至った。
「坂井孫八郎なる信光さま家臣の者のこと、よくは存じませぬが、どうも素行が良いとは言えない男だったようですな。信光さまの奥方であらせられる北のお方さまと密通の事実があったようで。そこで、こんなのはいかがです、此度の騒動の責をすべてこの男にかぶってもらうというのは。『夫人との密通関係が発覚することを恐れた孫八郎が、主君の失脚を望んで謀叛の流言を吹聴し、また、それがどうも上手く行きそうにないと見るや、とうとう主君を自らのその手にかけてしまった』、と、そんなところにしておくのです。孫八郎本人が死んでしまった以上、本当のところは我らにも分かりかねますが、あの信光さまが謀叛を企んでいたという事実は伏せておくのが賢明でしょう。でなければ、家中の動揺は必至かと」
 真実が二重、三重に蓋をされ、泥中深くに沈められていく。
「強引だな。そんな与太話を信じてくれる律儀者が果たしているかね」
「なに、こういったことは多少なりとも強引で結構なのです。誰の目にも確固たる真相が分からぬ以上は、この顛末がウソだと分かるものもまた居ないのです。丁寧に蓋をしてやることで、ひとはそれをものです」
 自らその始末を買って出たことからも、林兄弟が此度の騒動に一枚噛んでいることは、信長から見ても明白なのだが、それにしては、この男があまり得をしていないのは引っかかる。
――何かを企んではいいが、失敗したな。柄にもない忠実な働きぶりはその埋め合わせといったところか。心を入れ替えた振りをして、願わくば那古野城をオレからもらおうとでも考えているのか?――
「よかろう。好きにするがいい。貴様には褒美をやらねばならんかな」
「滅相もございません。我らは蟄居の身でございました故、此度はその汚名を返上する一心で働いたに過ぎませぬ」
 林兄弟が信光の謀叛の尻尾を掴み信長へ言上し、その後の始末に奔走したことは既に家中に知れ渡っている。謹慎の咎を受けていたとは言うものの、元を正せば信長の一番家老。信光亡き後、那古野城に収まるのが秀貞でないとすれば、そのほかの誰であろうとも、家中の人間は秀貞を不憫に思い心を寄せるかもしれない。だから、今回ばかりは、何も言わずとも那古野城が自らの手に転がり込んで来ざるを得ないと知ったうえで、秀貞は無欲を装っていたのだ。
 しかし、信長は秀貞のその計算を見抜いた。食わせ物であるはずの信光の杜撰な謀叛と、それに反比例するほど嫌に手際の良い秀貞の働きが、そう感じさせたのだ。
 そして、信長はいよいよ秀貞の理解を越えた発言をする。
「そうか。では、那古野城は捨ててしまうよ」
「ハ?」
「那古野城は廃城とする。叔父上の血の流れた不吉な城だ。清洲を得た今では、もはや必要のない場所さ」
 秀貞は眩暈を抑えるために、こめかみに指で押さえた。
 城を与えられれば良し、与えられなければ、家中の同情を得て反信長勢力の伸長に利すると、どちらにせよ、自分たちの都合に良く仕向けて行ける自信があったが、那古野城を廃城にして人事そのものを不問に付すなどという事態は予想し得なかった。信長がいまこの場で思いついたことか、はたまた、兼ねてより考慮されていた事柄の一つだったのか、秀貞にはそれを推理するほどの余裕もなかった。
 わざわざ信長の元に帰参する振りまでしたのに、目当ての那古野城は得られない。信光暗殺の実行部隊を務め自ら右腕を深く負傷させられた道具が、この信長の差配とそれを許した兄の不始末に激昂したことは言うまでもない。

 天文二十三年(一五五四年)の暮れ、雪がちらつく中で信光の葬儀はひっそりと行われた。
 自らの本心なるものに揺り動かされ、本性のすべてを開示するその前に命を落とした織田信光という男を悼むかのように。
 信光が治めていた領地は、そのほとんどがそのまま信長の直轄となったため、世間の呑気な人々は、
「これで信長さまも信光さまの領地を得たってんだから、幸いなことじゃあねェか」
 などと口々に噂したが、それは新たな大いなる骨肉の争いの、静かな幕開けに過ぎないのである。
 
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