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第二章 台風の目
十八
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聖徳寺の会見以後、正装姿の信長を目にした冨田の町人らの間から「どうやら、信長は今までうつけを装っていたらしいぞ」という噂が少しく広まったが、それもほんのわずかな間のことだった。噂を聞きつけた尾張の野次馬連中は挙って那古野へと信長見物に来たが、実物を目にすると元の木阿弥、いつも通りのうつけの殿様と一つも変わりがないから、
「やっぱりあのうつけが芝居だなんて、ありえないことだな」
などと勝手に失望して散開していった。
しかし、会見をきっかけに露骨に変化した者たちが、確かにに居た。それは信長の子分たちである。元より信長に忠誠を誓っている親衛隊だが、実際のところは武家の次男三男が多数おり、人並みの常識を備えた者も多いので、まいど百姓らにまで馬鹿にされているのではちょっと悔しいというのが本音。「うちの親分はスゴイんだぜ」と言ってやりたい気持ちがある。尤も信長当人にそうした気がないものだからその意向に従って彼らも手をこまねいていたわけだが、聖徳寺にて堂々たる立ち回りで斎藤利政と対等以上に渡り合う主君の姿を目の当たりにしたとき、それまで彼らの中に抑圧されてきた気持ちが噴出した。
彼らは「見たか」という気持ち。武士の誇りに背を伸ばし、自らもまた信長のような勇士足らんと胸を張って往来を闊歩するようになった。
当然、それを面白く受け取らない者も、一方には居る。
「近頃、信長の一派が町で大きい顔をするようになったというね」
実の兄を「信長」と言ってのけるこの男である。
「楽しくないですか」
「子ども扱いするな」
信勝の側に侍っているのは、津々木蔵人という若武者である。信勝よりも二、三歳上だろうか、信長と同じぐらいの年頃に見える。落ち着いて取り澄ました表情と白い肌は信勝とよく似ているところがあり、まるでこの男こそが信勝の実の兄であるかのように、少なくとも外見という観点では、信長と並ばせてみるよりもずっとそれらしいように見えるのだ。
近頃、信勝は何に置いても蔵人を呼び寄せるようになった。軍事の面では勝家・信盛らに未だ及ぶべくもないが、何より若い。歳の近い家臣を欲望したのは、まさしく信長一党に刺激されているに違いがないが、それを信勝が認めることなどは決してないというものだろう。
信勝は不貞腐れるように縁から庭へ出た。飼っている百舌鳥に餌をやり始める。餌はウサギか何かの獣肉を細切りにしたものらしい。
「驚きました。そのように小さな鳥が肉を食らうのですか。ふしぎな鳥だ」
主君がヘソを曲げてはバツが悪い。蔵人はこういった細やかな気遣いに長けている男である。
「早贄というのを知っているか。この百舌鳥という小さな鳥は、秋のうちに虫や蛙を捕まえて自分の縄張りの小枝などに突きさしておくのさ。なぜだと思うか」
「賢い鳥です。人間の漁師のように、干物をつくるのではありませんか」
「私も最近までそう思っていたが、春になっても一向に食べられることなく忘れさられたかのように干乾び朽ち果てている早贄が、どうやらいくらかあるのだ。これはいったいどういうことか」
「奇怪ですな。私には、お手上げです」
「肉を食らうこの鳥の眼を見るたびに、私は思うのだよ。こいつは、下等なものが自らの視界に入るのが我慢ならないのではないか、片端から殺めずにはいられないのではないか、とね」
フフと笑って餌をやる。
「冗談だよ」
未だ声変わりすら終えていないのではないかと思わせる不安定に高い声。差し込んだ日の光を受けた表情はいよいよ幼く、そして無邪気に見えた。蔵人はその笑顔の中に一抹の冷酷さを垣間見る。
『アア、この人も、織田信秀という種から生まれたのだった』
決して口にはしないものの、想起せずにはいられないのだった。
「それにしても、」
蔵人が返答に窮しているのを感じ取り、わずかながら配慮が生じたのか、信勝は話題を変えた。
「お前の話では「今に坂井大膳が泣きついてくるだろう」ということだったが、この分ではもうそれはないな。仮に来ても、迷惑千万だが」
「聖徳寺での信長との会見以後、斎藤利政が尾張へどこまで介入してくるか、動きが読めない……そういうことでしょうか」
「それもあるだろうが、そもそも彼奴らは萱津の地にてあのうつけに負けてしまった。信光叔父や勝家の手柄が大きかったのだとしても、「うつけに負けた」という事実は消えない。大膳というのは高慢な男だと聞いているから、さぞ屈辱だっただろう。その傷心を思うだけで酒が飲めそうだが、ともすれば、もう他人をあてにはできぬと見える」
「追い詰められて一層他人にすがるということも、あり得そうな話ですが……、」
「土壇場で他人にすがることのできる可愛げがあるなら、たかだか又守護代の身の上からここまで権力を一手に治めようなどとしない。そして、そうであれば、逆に、その責を負うこともなかったとも言える」
「自らの巻いた種ということだ、と」
「所詮は、古だぬきなのさ」
信勝のこの見解は、それほど深い考察から放たれたものではなかったが、時として直感というのが複雑な演算を省略してその結論に至ることがあるように、こと坂井大膳の心境についてはまったくピタリと言い当てていた。
萱津での敗戦、そして平手長政による信長暗殺の失敗。以降の清洲城では、守護代・織田信友およびそれを傀儡とする坂井大膳らの焦燥が目に見えて明らかになってきた。城に閉じこもり、夜な夜な身内ばかりで打倒信長の評定を続けるうち、鬱蒼とした空気は城内に溜まり沈殿し、尾張一に相違ない城館をまこと陰気な屋敷へ変えた。
そして、事ここに至り、いよいよ彼らの横暴に溜まりかねた者たちが現れる。尾張守護・斯波義統、清洲城本来の主であった。清洲織田氏に傀儡とされてきた積年の恨み骨髄に徹し、萱津での敗戦を好機と見るや、ついに守護代家から本来の実権を取り戻さんと静かな決意をその胸に固めていた。
「やっぱりあのうつけが芝居だなんて、ありえないことだな」
などと勝手に失望して散開していった。
しかし、会見をきっかけに露骨に変化した者たちが、確かにに居た。それは信長の子分たちである。元より信長に忠誠を誓っている親衛隊だが、実際のところは武家の次男三男が多数おり、人並みの常識を備えた者も多いので、まいど百姓らにまで馬鹿にされているのではちょっと悔しいというのが本音。「うちの親分はスゴイんだぜ」と言ってやりたい気持ちがある。尤も信長当人にそうした気がないものだからその意向に従って彼らも手をこまねいていたわけだが、聖徳寺にて堂々たる立ち回りで斎藤利政と対等以上に渡り合う主君の姿を目の当たりにしたとき、それまで彼らの中に抑圧されてきた気持ちが噴出した。
彼らは「見たか」という気持ち。武士の誇りに背を伸ばし、自らもまた信長のような勇士足らんと胸を張って往来を闊歩するようになった。
当然、それを面白く受け取らない者も、一方には居る。
「近頃、信長の一派が町で大きい顔をするようになったというね」
実の兄を「信長」と言ってのけるこの男である。
「楽しくないですか」
「子ども扱いするな」
信勝の側に侍っているのは、津々木蔵人という若武者である。信勝よりも二、三歳上だろうか、信長と同じぐらいの年頃に見える。落ち着いて取り澄ました表情と白い肌は信勝とよく似ているところがあり、まるでこの男こそが信勝の実の兄であるかのように、少なくとも外見という観点では、信長と並ばせてみるよりもずっとそれらしいように見えるのだ。
近頃、信勝は何に置いても蔵人を呼び寄せるようになった。軍事の面では勝家・信盛らに未だ及ぶべくもないが、何より若い。歳の近い家臣を欲望したのは、まさしく信長一党に刺激されているに違いがないが、それを信勝が認めることなどは決してないというものだろう。
信勝は不貞腐れるように縁から庭へ出た。飼っている百舌鳥に餌をやり始める。餌はウサギか何かの獣肉を細切りにしたものらしい。
「驚きました。そのように小さな鳥が肉を食らうのですか。ふしぎな鳥だ」
主君がヘソを曲げてはバツが悪い。蔵人はこういった細やかな気遣いに長けている男である。
「早贄というのを知っているか。この百舌鳥という小さな鳥は、秋のうちに虫や蛙を捕まえて自分の縄張りの小枝などに突きさしておくのさ。なぜだと思うか」
「賢い鳥です。人間の漁師のように、干物をつくるのではありませんか」
「私も最近までそう思っていたが、春になっても一向に食べられることなく忘れさられたかのように干乾び朽ち果てている早贄が、どうやらいくらかあるのだ。これはいったいどういうことか」
「奇怪ですな。私には、お手上げです」
「肉を食らうこの鳥の眼を見るたびに、私は思うのだよ。こいつは、下等なものが自らの視界に入るのが我慢ならないのではないか、片端から殺めずにはいられないのではないか、とね」
フフと笑って餌をやる。
「冗談だよ」
未だ声変わりすら終えていないのではないかと思わせる不安定に高い声。差し込んだ日の光を受けた表情はいよいよ幼く、そして無邪気に見えた。蔵人はその笑顔の中に一抹の冷酷さを垣間見る。
『アア、この人も、織田信秀という種から生まれたのだった』
決して口にはしないものの、想起せずにはいられないのだった。
「それにしても、」
蔵人が返答に窮しているのを感じ取り、わずかながら配慮が生じたのか、信勝は話題を変えた。
「お前の話では「今に坂井大膳が泣きついてくるだろう」ということだったが、この分ではもうそれはないな。仮に来ても、迷惑千万だが」
「聖徳寺での信長との会見以後、斎藤利政が尾張へどこまで介入してくるか、動きが読めない……そういうことでしょうか」
「それもあるだろうが、そもそも彼奴らは萱津の地にてあのうつけに負けてしまった。信光叔父や勝家の手柄が大きかったのだとしても、「うつけに負けた」という事実は消えない。大膳というのは高慢な男だと聞いているから、さぞ屈辱だっただろう。その傷心を思うだけで酒が飲めそうだが、ともすれば、もう他人をあてにはできぬと見える」
「追い詰められて一層他人にすがるということも、あり得そうな話ですが……、」
「土壇場で他人にすがることのできる可愛げがあるなら、たかだか又守護代の身の上からここまで権力を一手に治めようなどとしない。そして、そうであれば、逆に、その責を負うこともなかったとも言える」
「自らの巻いた種ということだ、と」
「所詮は、古だぬきなのさ」
信勝のこの見解は、それほど深い考察から放たれたものではなかったが、時として直感というのが複雑な演算を省略してその結論に至ることがあるように、こと坂井大膳の心境についてはまったくピタリと言い当てていた。
萱津での敗戦、そして平手長政による信長暗殺の失敗。以降の清洲城では、守護代・織田信友およびそれを傀儡とする坂井大膳らの焦燥が目に見えて明らかになってきた。城に閉じこもり、夜な夜な身内ばかりで打倒信長の評定を続けるうち、鬱蒼とした空気は城内に溜まり沈殿し、尾張一に相違ない城館をまこと陰気な屋敷へ変えた。
そして、事ここに至り、いよいよ彼らの横暴に溜まりかねた者たちが現れる。尾張守護・斯波義統、清洲城本来の主であった。清洲織田氏に傀儡とされてきた積年の恨み骨髄に徹し、萱津での敗戦を好機と見るや、ついに守護代家から本来の実権を取り戻さんと静かな決意をその胸に固めていた。
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