織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第二章 台風の目

十六

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 尾張国西部、那古野から西へ四里ほど行ったところに津島つしまという町がある。伊勢湾に開けた巨大な港で、また、牛頭天王を祀る大社を擁する門前町でもあり、尾張において清洲に次いで栄えている町である。
 弾正忠家がこの津島を手中に収めたのは、信長の祖父、つまりは信秀の父・信定のぶさだの頃。当時の信定が居城とした勝幡城は津島と目と鼻の先。先述の利得に目をつけた信定は、執拗にここを攻撃し、武力で支配、占領した。
 信秀の代になると、その利益はいよいよ軍事力へ収斂されていく。いよいよ破竹の勢いとなった弾正忠家の領地拡大に相乗して、津島もさらなる富を生み、町もますます栄えたが、しかし、権勢を強める弾正忠家に対し不満を覚える者が、津島衆の中にも確かにいた。
 筆頭が堀田道空ほったどうくうという男だった。そもそも津島は、津島衆と呼ばれる複数の豪商らが分立して自治していた土地であった。これを強行に支配したのだから、弾正忠家への反発はさもありなんといったところだが、道空に限ってはもう少し強かだった。「弾正忠家の軍事力そのものが津島の財力に依存しているというのに、なぜその津島が恭順一辺倒で接しなければならないのか」と、実に核心を突いた見解を持っていた。
 事あるごとに権益の交渉を吹っ掛けて来る道空をやがて目障りに思った信秀は、一族はそのままに、道空ひとりだけを尾張国から追放した。
 しかし、その道空を家臣として引き入れた者が隣国・美濃にいた。斎藤利政である。
 利政は道空から見聞きした弾正忠家の内情を武器に信秀との戦争を戦い抜いた。数年の後、信秀と利政の間で和睦が結ばれると、道空もまた、信秀より過去の罪を許され、尾張もとい堀田家への帰参を許可されたのだが、元々、多岐に秀でた道空である。その時には、すでに利政の相談役として重臣に類する立場に収まっていた。
「赦免については望外の沙汰なれど、もう私は商売をやる気はないのです。今更よそものの私が戻ってきても、一族に要らぬ争いを生むだけでしょう」
 と、そんなこをと言って遂に尾張へ戻らなかった。

 時は流れて天文二十二年(一五五三年)現在、信長と利政の会見が翌月に控えた三月半ば、道空は稲葉山城内を駆け回っていた。
 城の隅にある小部屋からしゃこしゃこと音がする。覗いて見れば、目当ての男が静かに茶を点てていた。
「このようなところにおられましたか……。また、政務を蔑ろにされて、……いつか大目玉を食らいますよ」
 道空が告げると、男は茶筅に注がれていた視線をゆっくりと上げて、道空の方を見た。
「つまらぬことは、したくない」
 虫も殺せないような柔和な顔立ち、白磁器を思わせるきめ細かい肌艶。そして、それらに到底不釣り合いなナマズのような頬髭を伸ばし、目元は、笑っているのだか怒っているのだか分からぬ、歪みとしか表現し得ない独特の表情を張り付かせている。この男こそ、斎藤利政その人である。
「近頃、稲葉いなば殿が頻繁に、それも隠れるように城を訪れておいでです、」
「あのデカブツと私を追い立てる悪だくみかな。家督など、別に、あげてもいいのだがね、」
「いけませんな。ご子息をそのように申しては」
「あれは、私の種ではないよ」
「またそんなご冗談を仰る。本気にする者がいたら何としますか」
 利政が言うデカブツとは、長子・高政たかまさの事である。帰蝶の兄だが、腹が違う。高政は正室・小見おみの方ではなく、深芳野みよしのという側室に産ませた子どもだった。
「私が言い出したことではないのだね。近頃、城下で百姓たちがそう言って遊んでいるらしい。『高政さまのご母堂は、そもそも土岐頼芸さまの愛妾だったそうだぞ。それを利政さまが貰い受けたはいいが、そのとき、既に腹の中には頼芸さまの種があったのだ』とマア、こういう筋書きだ。『利政さまがあのように小柄であるのに、高政さまが六尺五寸もの大男だというのは、どうやらそういうわけらしい』とね、どうだい」
「くだらぬのことです。田吾作どもは深芳野さまを見たことがありませんな。私とて、二、三度お目にしただけではありますが、それだけでも一度目にすれば二度と忘れやしない、婦人に珍しく非常な長躯であられましたな。何よりそれは殿が最もご存じのことではないですか」
「百姓というのは、私やお前と違って日がな汗みず垂らして働いているのだ。彼らのささやかな楽しみを見つけたら、そっとしておいてやらねばならんね。それまで取り上げようというのだから、お前ね、ひどいやつだな」
 そう言って利政は茶碗を道空に差し向けた。
 天文十八年(一五四九年)、尾張の織田信秀と同盟した斎藤利政は、それからほどなく、ついに旧主である土岐頼芸を美濃国から追放してしまった。一時は持ちつ持たれつといった按配に利用し合っていた間柄だが、信秀との抗争を終結させた利政にはもはや守護の権威など無用の長物だった。頼芸および彼と共に利政に細やかな抵抗を続けていた者たちは間もなく城を落とされた。仕方がないことだった。それまで彼らの後ろ盾となってくれていたのは、他でもない織田信秀だ。尾張からの援助が得られないのではもはや利政に対する術はなかった。
 利政は、そうしてようやく美濃一国を掌握したのだが、いかに乱世といえども、徹頭徹尾が下克上のやり方で貫かれていたから、悪評というのは根絶できない。どうにも尾を引いてしまうのだった。百姓たちに格別の悪気はないのだが、しかし、どこの国でも同じこと、持ち前の俗物根性でそれをからかってやろうという気が起きる。利政と高政の折り合いが近頃どうも悪いらしいという噂を聞きつけると、先述のような風聞をでっち上げた。
「しかし、高政が突っかかってくるようになったのは、事実だよ。とりわけ、那古野の婿殿との間に結ばれている和議が一等気に入らぬらしい」
 利政はニヤニヤしながら言った。道空は反応に窮した。道空自身、弾正忠家との同盟についてはすでに引き際ではないのかと懸念していたからである。
 出された茶を一杯飲み、
「お言葉ですが、織田信長はお世辞にも評判のいいとは言えない男です。高政さまがそのようにお考えになるのも無理はありますまい」
 信秀存命の時分ならいざ知らず、後を継いだのは例の大うつけだ。いつ今川が本腰を入れて攻めかかるか知れたものではないうえに、かの老臣・平手政秀はこの窮状に絶望して切腹したという話ではないか。
「だが、お前、さっきは百姓たちの評判を一笑に付したじゃないかね」
「それとこれとは話が別です。先の風聞なぞは、殿のお話によるところ、あくまで一部の不逞の輩が根拠なくそう言っているに過ぎませんでしょうが、織田信長がうつけだということは百姓から武士に至るまで皆が一様に申していることです。平手政秀の切腹こそが、その何よりの証ではないですか」
 道空はちょっと緊張した面持ちでふっと息をついた。
『これまでこの主の言うことに自分が異論を挟んだことなど、果たしてあっただろうか。心配なのだ。どういうわけだかこの人がやけに信長に入れ込んでいるらしいのは知っている。だが、何か信長を信じるべき根拠があるというのなら、是非聞かせてほしい。自分を説き伏せ、納得させてほしい』
 そんな期待が利政への反発を生んだのだ。
 しかし、利政は、そんな道空の心境を知ってか知らずか、肯定だか否定だか分からない溜息のような生返事をするばかりで、一向にはっきりとしたことを言わない。
 ここにきて道空は予定されている例の会見の動機にようやく気がついた。
「なるほどッ。それで直に会ってみようと、そういう訳でしたか。しかし、あまり期待などはしないことです」
「うん」
 童のような返事。実の息子との反目が妙な杞憂を生じさせているのか、道空の目に映る眼前の梟雄は、いつになく弱気に見えた。
「そうだ、帰蝶さまです、帰蝶さまは織田信長のことを何と言っておられるのですか」
 いかにも良いことを思いついたという風に訊ねる。
 道空が帰蝶を最後に見たのは、まさに輿入れの日であった。齢十四にして既に達観した風があり、あえて衒った言い方をするなら、父であるはずの利政よりももっと大人びて見えるような、神妙な風情があったことを、よく記憶していた。
 利政は思い出したかのように懐から一枚の文を取り出して、床に落とした。
 紙は皺が目立ち、何度も読み返したような跡があった。
「帰蝶が尾張から私に寄越したものだ」
 どうも初めからこの文を道空に見せようとしていたらしい。

『……信長は、京の名医にも治療できない、驚天動地のうつけ、……』
『……餅を平らげれば忽ち眠るあやかし「のぶなが」のことだから、……』
『……野犬の群れが仲間だと思って話しかけたというのが信長の、……』

「ワハハ。さすがは帰蝶さま。卓抜しておられますな。私などではとても思いつかぬ表現です」
「こんなのが、たくさんくるね」
「あの帰蝶さまがすぐ側で信長殿を見てそう言うのであれば、もはや間違いなどないではないですか」
「そうなのだけれどねえ」
 何も利政とて、信長を大人物だと主張したいわけでもないのだ。
『思えば織田信秀という男はつよかった。戦争が、ではない。生き方が図太く豪胆なのだ。あれほどの男を父に持つことには、同情をせざるを得ない。自分なら、いますぐ尾張から逃げ出したいところだ。
 平手政秀が死んだという話を聞いて、すぐに会おうと思った。信長が心配だったのか? イイヤ、もっと、私自身の道楽なのだ。
「それはうつけの恰好だ」と、皆に嘲笑われ、尚も改める気配がないのは何故だ? 自身の恥部を必死に隠そうとしながらも露呈するうつけなら、それは可愛いまことのうつけに他ならないが、この信長という男にはそういったところがない。うつけだと思われても良い。そんな感じだ、この男は。かわいくないじゃないか』
 期せずして、信長の生活態度そのものが、「悪逆非道」の誹りを受けながら美濃を生き抜いたこの男の琴線に触れていた。
 しかし、何よりも利政の心を強く打ったのは、帰蝶がしたためたそのたった一通の文の中に、織田信長への罵倒・誹謗・中傷の類が三つも四つも書いてあることだった。
「――たのしそうなんだよなア、こいつがまた、」
「は? 何か、おっしゃられましたか」
「いいや、何でもないよ、何でもない」
 利政はそれを道空に伝えなかった。言っても、これは伝わらないと考えた。ただ、利政にだけ、実の娘の、あの大人びた寡黙な女の嘘のようなはしゃぎようが、ありありと伝わってくるのだった。
『そうだ。私ももはや老いぼれなんだ。何でもない、何でもない』
 会見の日が、着々と近づいている。
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