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第二章 台風の目
十三
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張り詰めた冷たい空気が、城には満ちていた。ただ、何かの事後であるということだけが感じられる空気。それは、喧騒などという言葉に含められる賑やかしいものでは、到底あり得なかった。
平手政秀のこの直覚は、彼自身が乱世のなかで培ったものだろうか。それとも、この時の彼の精神が既にひどく切迫した状態にあったことが、そうした繊細な感覚を研ぎ澄ますことに寄与したのだろうか。
「遅かったな」
日の短い真冬でもまだ夕暮れとは言い難い、小鳥のさえずりさえも聞こえる、日中のことである。
信長の一団は、ただ黙って、平手がそこへ歩み寄ってくるのをじっと見ていた。信長自身もまた、同じだった。『縄目にかけられた息子を目の当たりにした平手が、その事実をどう解し、何と言うか? そして、どのような表情をするのか?』それを吟味しようとしている。そういった風である。
平手はできれば狼狽を隠したかったに違いない。相撲大会に駆け付けたときのこの男なら、そうできたかもしれない。だが、今日、もうこの老体には、それは無理な要求だった。フラリといまにも倒れそうなところを踏みとどまるのがやっとだった。辛うじて、ギと信長の方を見つめる力だけが残っている。睨んでいるとも言い換えられる力強さで、懸命に何かを堪えていた。
両者はすでに、口に出さずとも対決の様相を呈していた。
「聞かないのか、何事か、と」
「変ですな。アナタが何か悪戯をされるときは、なるべく私に分からぬよう、隠れてするものでした。だが、今日に限っては、この私を待っていたと見える」
「さすがは平手政秀。オレに最も長く仕えているだけのことはある」
「あなたの歳のほどとちょうど同じぐらいになりましょうな」
平手の軽快な皮肉が刺激したのだろう、
「キサマの息子が謀反を働いたぞ」
信長は軽快に横っ面をはたくように、また、あっさりと事実を言ってのけた。
平手は驚きのあまりに声を上げることすらままならなかった。ただ、ヒュウヒュウと隙間風に似た音が、その老人の喉から、信長にも聞こえるほどに鳴っていた。
相手のあらゆる感情の一切を意に介さないとでもいうように、信長は、事の顛末を淡々と語って聞かせた。坂井大膳と平手長政が密かに通じ、今日、織田信長の暗殺が決行されたこと。そして、信長方として清洲城に身を置いていた那古屋勝泰らに露見したことで、それが、まさに先刻失敗に終わったこと。
「馬鹿な、……。そのような話、」
『信じられない』と言いかけて平手は一度口を噤んだ。素直な気持ちをそのまま口にすれば、主君の告げたことを嘘だと決めつけることになるからだった。
「……証拠があるというのですか」
「ここにいる者らが、見ている」
目の前には、織田信長と、その取り巻きたちが突っ立っていた。あれほど町で馬鹿な姿をさらけ出していた者たちが、今は、ただ、寒風吹きすさぶ空の下、わずかにも身じろぎせずにいる。
平手は、自らの城のなかで、これほどの孤独を感じたことはかつてなかった。
「それは、……」
「オレに近しい者の言うことだけでは証拠にはならんと、そう言いたいのだろう。オイ」
動いたのは一団のなかで最も利発そうな顔をした少年・長秀である。
後ろ手に縄で縛られ、膝をつかされていた長政に歩みよると、彼がさせられていた目隠しの布を、何の感傷もなく取り去った。長政は、突然のことに体勢を崩してどちゃと地面にずっこけた。大の男が、自分よりも二回りほども歳下である少年に振り回される様は痛ましく、その外面の屈辱だけで、平手は今にも我を忘れて長秀に斬りかかってしまいそうな激情の波に襲われていた。
しかし、この大人の屈辱を、素朴な少年は知る由もない。彼の心の中にあるのは、信長への忠義と、そのために自分がなす曇りなき正義の心。長秀は太刀を抜いた。
「サテ、平手五郎右衛門長政よ。この場でブザマに首を刎ねられたくなければ、目の前にいる父に事実を伝えよ。政秀、この男が自ら白状したとあればキサマも信じられよう」
「何を……ッ」
「さあ長政、キサマが今日ここで何を行ったか、話して聞かせよ」
信長の言葉を合図に、長秀の向ける刃の切っ先が喉元にいよいよ迫ると、長政はいよいよ観念した形相で、父の方をまっすぐに見た。顔は涙やら泥やらで、踏みつぶされた柿のようにグチャグチャになっていた。今まさに命数が尽きようとしているという事実に、肉体の方が慌てて辻褄を合わせようとしたかのように、平手よりもさらに老け込んでいるようにすら見える。
「ワッ」
震えた声。途端、堰を切ったように、長政は叫び出した。
「ワッ、私は、何もやっていない。すべて、すべて信長さまの狂言にござる。わたしは、件の駿馬を献上するために、今日、信長さまを城へお招きしましたが、暗殺とは滅相もない。口に出すのも憚られることです。わたしが、そのようなことをするものですか。坂井大膳など、一切知らぬ。 事実無根にございます。命が惜しくて言うのではありません。私は、ここで、今から首を刎ねられる。それは、主君にこうも疎まれては、致し方なしです。信長さまに疎んじられるのは、一重に、身から出た錆ですが、しかし、謀反というのは、やっていない。ただ一人の父の前で、覚えのない濡れ衣を着せられたまま、それを受け入れて死んでいくわけにはまいりません」
その場にいた数人だけが聞くにしては過剰な大演説が、むなしく響く。
「ダ、そうだ。ずいぶん、オレの見たこととは違うな」
平手は息子の激情に絆されて、自らも涙した。下唇を噛みしめてそれを何とか押しとどめようとするが、止まらない。言葉にならない嗚咽が入り混じって、次から次へと沸いて出る。
平手はまだ知らなかった。長政の語ることが、真っ赤な嘘であること。そして、その嘘を、信長自身が長政を脅迫して喋らせているということを。
途端、平手は平伏した。
「何の真似だ」
「どうか、お目を、お覚ましください」
「なに」
信長は眉を顰めた。
「馬の件は、すでに以前より再三申し上げている通り、愚息が分別を弁えず大変な無礼を申しました。長政とてそれは深く反省するところです。それは、こやつと共に暮らしているこの私がハッキリと承知しています。しかし、尚も殿の怒りが収まらないというのであれば、致し方ありません。この上は、長政とて滞りなくお仕えすることがままなりませらぬ。廃嫡とするほかありますまい。しかし、気に入らぬ相手を排除するために、このような手管を使わなければならぬとあれば、先日も申し上げた通り、殿にこれ以上の成長は望めませぬぞ」
息子に負けず劣らずの大音声。血管が破れ、そのまま事切れてもおかしくないほどの絶叫だった。さすがは歴戦の武士だから、威厳のある野太い声だが、しかし、その内容のすべては、血のつながった息子の言を鵜呑みにし、信長の主張を虚言と決めつけたものだった。
「オレの言うことは嘘か、政秀」
「殿の怒りは誠でございましょう。しかしながら、この五郎衛門のことを最もよく知っているのは、私です。頑固者で、退くことが苦手で、しかし、決して主君に刃を向けようという男ではありません。親馬鹿だとお笑いになられますか。だが、どうしても、私には、どうしてもこやつが謀反を働くとは考えられないのです」
信長は、平手の帰城に当たり、「父に自らの無実を懸命に訴えろ」と長政を脅迫した。もし、平手が真に織田信長のことを信じていたなら、実の息子の主張でなく、主君の言を信じるはずだと考えたからだ。信長は平手の忠義を試した。
しかし結果は、信長の欲していた結論とは真逆となった。信長の元に残ったのは、ただ一つの事実だけだった。自らが最も信頼する、平手政秀という家臣でさえ、のっぴきならない身内の危機に際しては、主君を信じ切ることができない、一人の人間だったという一つの事実だけ。
「キサマは、うつけだ」
「そうかもしれませぬ。アナタをこんな風にしてしまったのは、傅役の私なのですから」
『そんなことを言っているのではない』と、信長は口に出せない。
「うつけがッ」
信長は平手を蹴り上げた。暴力で、平手の心が、判断が、今更変わるわけもなかったが、それでも、行き場のない怒りをぶつけずにいられなかった。
「何故、わからぬ? 何故、オレを信じぬ? オレが「兵を出せ」と言ったら、出せ。それが、キサマの、家臣の役目ではないか。オレは萱津で勝った! 坂井大膳を、清洲衆をやっつけたら、次は駿河の今川義元だ。どれも父上が成せなかったことだ。それをオレが、オレがこれから成そうと言うのだ。そのために、誰よりも力を振るうべきではないのか、キサマは」
「お許しください、」
平手はもう、そう言うだけだった。弁明もない。信長という男に対する諦念だけが表出していた。
『いつものように説教を垂れることも、皮肉を言うことも二度とないだろう』
信長には分かるのだった。
「お許しください、じゃないぞ。なぜオレを信じぬか、と聞いているのだ。キサマは、今からその理由を述べるべきだな。立て!」
だが、そうして平手の肩を掴んだとき、それがまさしく老人の骨でしかないというこ事実が、信長を深く刺し貫いた。
平手のからだは小刻みに震えていた。怒りや悲しみに打ち震えているのではなかった。現実の暴力に晒され、ただ、鷹の爪に引き裂かれた野ウサギが痙攣しているのと同じように、命の危機に瀕した身体が、ただ震えているだけだった。
「キサマは、オレを信じるべきだった」
信長は目の前の老人を突き飛ばし、懐から一枚の紙束を放った。
「こいつの身柄は那古屋城に預からせてもらう。それを読み、明日、那古野へ登城せよ、平手政秀」
信長は一刻も早くそこから立ち去りたかった。長政を連れ、仲間たちと共に志賀城を去った。
夜、平手は信長が置いていった紙束を恐る恐る見た。長政から大膳に宛てられた文だった。信長に近づくための手口、決行する部隊の顔触れ、そして、決行の日付までもが事細かに綴られていた。
「偽書では、ないか」
息子の筆跡を見間違うはずはなかった。主君を殺める陰謀の詳細が、達筆な、きれいな字で綴られている。筆使いもすべて、平手自身が教えたものだ。一しきり読み終えると、平手は寝所を出た。
「父上、どちらへ?」
中庭を歩いていた平手を、次男・久秀が渡から呼び止めた。
「ちょっと、蔵へ、な」
「何か、お手伝いいたしますか」
「イヤイヤ、私一人で十分だ。すぐに終わる」
「そうですか。そういえば、兄上の姿が見られないのですが、ご存じありませんか」
「ウン、イヤ、嗚呼、長政はもう寝たようだよ」
嘘を吐いた。
「何やら疲れていた様子だから、今日はもう起こさんでやってくれるか」
「そうでしたか。昼間、信長さまが兄上を訪ねて来られたと聞いていますから、ハハ、きっとそれですな」
平手は苦笑を見せながら、すこし止まった後、
「しかし、平手家は、あのお方に一心にお仕えしなければならぬ」
「当然のことにございます。信長さまを指して「うつけ」などと言う者がいますが、私は、信長さまは、いまに皆の度肝を抜くことをなさると、そう思っているのですよ」
「ホウ。なぜそう思う」
「以前、鷹狩をする信長さまの一向を見かけたことがあります。ちょうどその時、大きな猪が迷い込んだとかで、大騒動になっていたのですが、信長さまは付近の草むらが揺れるのを見ると、そこに自ら飛び込んで、一刀のもとに猪を斬り伏せてしまいました。後日、お会いした折、「何故配下の者にやらせなかったのか」とお尋ねしたとき、「ちょうど、オレにできたからやっただけだ。自分がやれば早いことを、他人にやらせる意味があるのか?」と、逆に私を問い詰められました。「それでは配下の面目が立ちませぬ」私が言うと、信長さまは、「では面目が立つよう、キサマらはオレよりもっと働くしかない」とだけ言って笑っておられました」
「そうか。殿がそのようなことを……」
「アッ、これはどうも足をお留めして申し訳ありませんでした」
「イヤ、いいのだ。ありがとうよ」
「えっ」
去り際の父の言葉を、久秀は聞き違えたかと思った。
そして、平手は蔵へと向かい、小さな歩幅で少しずつ闇の中へと消えた。
翌日、平手政秀が那古野城へ赴くことはなかった。天文二十二年(一五五二三年)閏一月十三日、よく晴れたうららかな、しかし、厳かに冷え切った冬の日に、織田弾正忠家に仕えた重臣・平手政秀は、誰の介錯もないままに、一人切腹して果てた。享年六十二歳。
平手政秀のこの直覚は、彼自身が乱世のなかで培ったものだろうか。それとも、この時の彼の精神が既にひどく切迫した状態にあったことが、そうした繊細な感覚を研ぎ澄ますことに寄与したのだろうか。
「遅かったな」
日の短い真冬でもまだ夕暮れとは言い難い、小鳥のさえずりさえも聞こえる、日中のことである。
信長の一団は、ただ黙って、平手がそこへ歩み寄ってくるのをじっと見ていた。信長自身もまた、同じだった。『縄目にかけられた息子を目の当たりにした平手が、その事実をどう解し、何と言うか? そして、どのような表情をするのか?』それを吟味しようとしている。そういった風である。
平手はできれば狼狽を隠したかったに違いない。相撲大会に駆け付けたときのこの男なら、そうできたかもしれない。だが、今日、もうこの老体には、それは無理な要求だった。フラリといまにも倒れそうなところを踏みとどまるのがやっとだった。辛うじて、ギと信長の方を見つめる力だけが残っている。睨んでいるとも言い換えられる力強さで、懸命に何かを堪えていた。
両者はすでに、口に出さずとも対決の様相を呈していた。
「聞かないのか、何事か、と」
「変ですな。アナタが何か悪戯をされるときは、なるべく私に分からぬよう、隠れてするものでした。だが、今日に限っては、この私を待っていたと見える」
「さすがは平手政秀。オレに最も長く仕えているだけのことはある」
「あなたの歳のほどとちょうど同じぐらいになりましょうな」
平手の軽快な皮肉が刺激したのだろう、
「キサマの息子が謀反を働いたぞ」
信長は軽快に横っ面をはたくように、また、あっさりと事実を言ってのけた。
平手は驚きのあまりに声を上げることすらままならなかった。ただ、ヒュウヒュウと隙間風に似た音が、その老人の喉から、信長にも聞こえるほどに鳴っていた。
相手のあらゆる感情の一切を意に介さないとでもいうように、信長は、事の顛末を淡々と語って聞かせた。坂井大膳と平手長政が密かに通じ、今日、織田信長の暗殺が決行されたこと。そして、信長方として清洲城に身を置いていた那古屋勝泰らに露見したことで、それが、まさに先刻失敗に終わったこと。
「馬鹿な、……。そのような話、」
『信じられない』と言いかけて平手は一度口を噤んだ。素直な気持ちをそのまま口にすれば、主君の告げたことを嘘だと決めつけることになるからだった。
「……証拠があるというのですか」
「ここにいる者らが、見ている」
目の前には、織田信長と、その取り巻きたちが突っ立っていた。あれほど町で馬鹿な姿をさらけ出していた者たちが、今は、ただ、寒風吹きすさぶ空の下、わずかにも身じろぎせずにいる。
平手は、自らの城のなかで、これほどの孤独を感じたことはかつてなかった。
「それは、……」
「オレに近しい者の言うことだけでは証拠にはならんと、そう言いたいのだろう。オイ」
動いたのは一団のなかで最も利発そうな顔をした少年・長秀である。
後ろ手に縄で縛られ、膝をつかされていた長政に歩みよると、彼がさせられていた目隠しの布を、何の感傷もなく取り去った。長政は、突然のことに体勢を崩してどちゃと地面にずっこけた。大の男が、自分よりも二回りほども歳下である少年に振り回される様は痛ましく、その外面の屈辱だけで、平手は今にも我を忘れて長秀に斬りかかってしまいそうな激情の波に襲われていた。
しかし、この大人の屈辱を、素朴な少年は知る由もない。彼の心の中にあるのは、信長への忠義と、そのために自分がなす曇りなき正義の心。長秀は太刀を抜いた。
「サテ、平手五郎右衛門長政よ。この場でブザマに首を刎ねられたくなければ、目の前にいる父に事実を伝えよ。政秀、この男が自ら白状したとあればキサマも信じられよう」
「何を……ッ」
「さあ長政、キサマが今日ここで何を行ったか、話して聞かせよ」
信長の言葉を合図に、長秀の向ける刃の切っ先が喉元にいよいよ迫ると、長政はいよいよ観念した形相で、父の方をまっすぐに見た。顔は涙やら泥やらで、踏みつぶされた柿のようにグチャグチャになっていた。今まさに命数が尽きようとしているという事実に、肉体の方が慌てて辻褄を合わせようとしたかのように、平手よりもさらに老け込んでいるようにすら見える。
「ワッ」
震えた声。途端、堰を切ったように、長政は叫び出した。
「ワッ、私は、何もやっていない。すべて、すべて信長さまの狂言にござる。わたしは、件の駿馬を献上するために、今日、信長さまを城へお招きしましたが、暗殺とは滅相もない。口に出すのも憚られることです。わたしが、そのようなことをするものですか。坂井大膳など、一切知らぬ。 事実無根にございます。命が惜しくて言うのではありません。私は、ここで、今から首を刎ねられる。それは、主君にこうも疎まれては、致し方なしです。信長さまに疎んじられるのは、一重に、身から出た錆ですが、しかし、謀反というのは、やっていない。ただ一人の父の前で、覚えのない濡れ衣を着せられたまま、それを受け入れて死んでいくわけにはまいりません」
その場にいた数人だけが聞くにしては過剰な大演説が、むなしく響く。
「ダ、そうだ。ずいぶん、オレの見たこととは違うな」
平手は息子の激情に絆されて、自らも涙した。下唇を噛みしめてそれを何とか押しとどめようとするが、止まらない。言葉にならない嗚咽が入り混じって、次から次へと沸いて出る。
平手はまだ知らなかった。長政の語ることが、真っ赤な嘘であること。そして、その嘘を、信長自身が長政を脅迫して喋らせているということを。
途端、平手は平伏した。
「何の真似だ」
「どうか、お目を、お覚ましください」
「なに」
信長は眉を顰めた。
「馬の件は、すでに以前より再三申し上げている通り、愚息が分別を弁えず大変な無礼を申しました。長政とてそれは深く反省するところです。それは、こやつと共に暮らしているこの私がハッキリと承知しています。しかし、尚も殿の怒りが収まらないというのであれば、致し方ありません。この上は、長政とて滞りなくお仕えすることがままなりませらぬ。廃嫡とするほかありますまい。しかし、気に入らぬ相手を排除するために、このような手管を使わなければならぬとあれば、先日も申し上げた通り、殿にこれ以上の成長は望めませぬぞ」
息子に負けず劣らずの大音声。血管が破れ、そのまま事切れてもおかしくないほどの絶叫だった。さすがは歴戦の武士だから、威厳のある野太い声だが、しかし、その内容のすべては、血のつながった息子の言を鵜呑みにし、信長の主張を虚言と決めつけたものだった。
「オレの言うことは嘘か、政秀」
「殿の怒りは誠でございましょう。しかしながら、この五郎衛門のことを最もよく知っているのは、私です。頑固者で、退くことが苦手で、しかし、決して主君に刃を向けようという男ではありません。親馬鹿だとお笑いになられますか。だが、どうしても、私には、どうしてもこやつが謀反を働くとは考えられないのです」
信長は、平手の帰城に当たり、「父に自らの無実を懸命に訴えろ」と長政を脅迫した。もし、平手が真に織田信長のことを信じていたなら、実の息子の主張でなく、主君の言を信じるはずだと考えたからだ。信長は平手の忠義を試した。
しかし結果は、信長の欲していた結論とは真逆となった。信長の元に残ったのは、ただ一つの事実だけだった。自らが最も信頼する、平手政秀という家臣でさえ、のっぴきならない身内の危機に際しては、主君を信じ切ることができない、一人の人間だったという一つの事実だけ。
「キサマは、うつけだ」
「そうかもしれませぬ。アナタをこんな風にしてしまったのは、傅役の私なのですから」
『そんなことを言っているのではない』と、信長は口に出せない。
「うつけがッ」
信長は平手を蹴り上げた。暴力で、平手の心が、判断が、今更変わるわけもなかったが、それでも、行き場のない怒りをぶつけずにいられなかった。
「何故、わからぬ? 何故、オレを信じぬ? オレが「兵を出せ」と言ったら、出せ。それが、キサマの、家臣の役目ではないか。オレは萱津で勝った! 坂井大膳を、清洲衆をやっつけたら、次は駿河の今川義元だ。どれも父上が成せなかったことだ。それをオレが、オレがこれから成そうと言うのだ。そのために、誰よりも力を振るうべきではないのか、キサマは」
「お許しください、」
平手はもう、そう言うだけだった。弁明もない。信長という男に対する諦念だけが表出していた。
『いつものように説教を垂れることも、皮肉を言うことも二度とないだろう』
信長には分かるのだった。
「お許しください、じゃないぞ。なぜオレを信じぬか、と聞いているのだ。キサマは、今からその理由を述べるべきだな。立て!」
だが、そうして平手の肩を掴んだとき、それがまさしく老人の骨でしかないというこ事実が、信長を深く刺し貫いた。
平手のからだは小刻みに震えていた。怒りや悲しみに打ち震えているのではなかった。現実の暴力に晒され、ただ、鷹の爪に引き裂かれた野ウサギが痙攣しているのと同じように、命の危機に瀕した身体が、ただ震えているだけだった。
「キサマは、オレを信じるべきだった」
信長は目の前の老人を突き飛ばし、懐から一枚の紙束を放った。
「こいつの身柄は那古屋城に預からせてもらう。それを読み、明日、那古野へ登城せよ、平手政秀」
信長は一刻も早くそこから立ち去りたかった。長政を連れ、仲間たちと共に志賀城を去った。
夜、平手は信長が置いていった紙束を恐る恐る見た。長政から大膳に宛てられた文だった。信長に近づくための手口、決行する部隊の顔触れ、そして、決行の日付までもが事細かに綴られていた。
「偽書では、ないか」
息子の筆跡を見間違うはずはなかった。主君を殺める陰謀の詳細が、達筆な、きれいな字で綴られている。筆使いもすべて、平手自身が教えたものだ。一しきり読み終えると、平手は寝所を出た。
「父上、どちらへ?」
中庭を歩いていた平手を、次男・久秀が渡から呼び止めた。
「ちょっと、蔵へ、な」
「何か、お手伝いいたしますか」
「イヤイヤ、私一人で十分だ。すぐに終わる」
「そうですか。そういえば、兄上の姿が見られないのですが、ご存じありませんか」
「ウン、イヤ、嗚呼、長政はもう寝たようだよ」
嘘を吐いた。
「何やら疲れていた様子だから、今日はもう起こさんでやってくれるか」
「そうでしたか。昼間、信長さまが兄上を訪ねて来られたと聞いていますから、ハハ、きっとそれですな」
平手は苦笑を見せながら、すこし止まった後、
「しかし、平手家は、あのお方に一心にお仕えしなければならぬ」
「当然のことにございます。信長さまを指して「うつけ」などと言う者がいますが、私は、信長さまは、いまに皆の度肝を抜くことをなさると、そう思っているのですよ」
「ホウ。なぜそう思う」
「以前、鷹狩をする信長さまの一向を見かけたことがあります。ちょうどその時、大きな猪が迷い込んだとかで、大騒動になっていたのですが、信長さまは付近の草むらが揺れるのを見ると、そこに自ら飛び込んで、一刀のもとに猪を斬り伏せてしまいました。後日、お会いした折、「何故配下の者にやらせなかったのか」とお尋ねしたとき、「ちょうど、オレにできたからやっただけだ。自分がやれば早いことを、他人にやらせる意味があるのか?」と、逆に私を問い詰められました。「それでは配下の面目が立ちませぬ」私が言うと、信長さまは、「では面目が立つよう、キサマらはオレよりもっと働くしかない」とだけ言って笑っておられました」
「そうか。殿がそのようなことを……」
「アッ、これはどうも足をお留めして申し訳ありませんでした」
「イヤ、いいのだ。ありがとうよ」
「えっ」
去り際の父の言葉を、久秀は聞き違えたかと思った。
そして、平手は蔵へと向かい、小さな歩幅で少しずつ闇の中へと消えた。
翌日、平手政秀が那古野城へ赴くことはなかった。天文二十二年(一五五二三年)閏一月十三日、よく晴れたうららかな、しかし、厳かに冷え切った冬の日に、織田弾正忠家に仕えた重臣・平手政秀は、誰の介錯もないままに、一人切腹して果てた。享年六十二歳。
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(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
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