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第二章 台風の目
八
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織田弾正忠家の家老・平手政秀には三人の息子がいた。長男・長政、次男・久秀、三男・汎秀という三名である。とりわけ長男の長政は、すでにこの頃、長じて壮年の武者となっており、弾正忠家の政務に多忙を極める父に代わって平手家を取り仕切っていた。
平手が末森城へ登城していたちょうどその時、信長は、平手の居城・志賀城を訪れた。
赤塚の戦いにおいて、今川勢と戦うにはどうしても兵が足らないことを痛感した信長は、舅である美濃の斎藤利政に援軍を乞うことを考え、その取次役を平手に依頼しに来たのだった。
「お久しゅうございます、信長さま。申し訳ありませんが、今日は父はおりません」
「留守か。なにもキサマが申し訳がるわけはなかろう。いきなりオレが来ただけだ。どこへ行った?」
信長は馬上から長政を見下ろして言った。
「それが、」
長政は父の行き先を知っていたし、その意図も概ね見当をつけていたから、
「弟の久秀と共に、鷹狩りへ行きました」
咄嗟にウソをついた。
「そうか。どの辺りへ行ったか、聞いているか」
言えばそのままそこへ駆けて行きそうな勢いの信長。
「いいえ、詳しく聞いておりません。用向きなら私がお聞きいたしましょうか」
「いや、政秀本人に話したいのだ」
「それは失礼しました。しかし、遠出するような口ぶりで話していましたので、当分戻らないのではないかと、」
「そうは言っても、狩りなら夜には戻るだろう。待たせてもらおうかな」
信長は頭をぽりぽり掻きながら、サッと馬から降りた。
「しかしながら、今日は下女も多くが暇をとっており、大したお構いもできませんので、……」
「帰れというのか?」
「そういうわけではありませんが、」
「気遣いは要らぬ。オレは好きにウロウロしているから、キサマも好きにしていればいいのだ。何事の邪魔もしやしない」
信長は長政の肩をポンと叩くと、「いや、久しぶりにきてみると、イヤなほど荘厳な屋敷だなア」などと軽口を叩き始めた。もう、居座る気である。
『このまま終日待たれたら、やがて嘘をついたことが露見してしまう』
弟が鷹狩へ出かけていることは事実だが、父子二人が揃って帰ってこなければ、話したことと食い違ってしまう。同時に、眼の前の男が、言い出したら聞かないということも、父・政秀の苦労を見るまでもなくよく知っていること。
そう長政が目を伏せた一瞬の隙に、信長の姿が消えた。まるで鳥か何かのように、一所にじっとしていない。慌てて探してみると、信長の姿は厩にあった。一頭の馬を前にして、立ち尽くしている。
「困ります。気性の荒いのもおりますので、信長さま、ここは」
「オイ、この栗毛の馬だな。政秀から聞いているぞ。兄の安城城が今川勢に攻められたとき、援軍に向かう平手政秀は、一散に駆け抜け、あまりの速さに配下を置き去りにしていったという。その時に乗っていたのがコイツというわけだ。今は息子に譲ったと聞いていたが、それはキサマのことか」
信長は爛々と目を輝かせて馬をじっと見ている。
「はい。おっしゃる通りでございます。お褒めに預かり、恐悦です」
「一度に何里まで走る」
「は……、?」
「この栗毛は、一度に何里まで走れるのか、と聞いている」
こと馬に関しては熱狂的な関心を寄せる信長だから、これしきのことは馬主なら当然に把握しているものだと思っているが、およそ一般的な質問ではない。
「アッ、いや、申し訳ありませんが、そのような乗り方はしたことがないので、……」
「そうか。オレには分かるが、この馬なら三里は楽に駆けるだろうな」
「ハア……そういうものですか……、」
長政は「こんな所にいても退屈でしょう、」などと言い、何とか信長を帰らせようと試みるが、当の本人は、「いやいや、さすがに良い馬がそろっているなア。何日だっていられるぞ」と、夢中でたまらない様子だから駄目だ。
と、その時、門の方で「兄上」と叫ぶ声がした。長政はすぐに気がついた。自分を呼ぶ弟・久秀の声だ。
『まさか、もう帰ってきたのか。鷹狩からこれほど早く帰る理由はないが』
声の方に出てみると、そこには紛うことなき弟の姿があった。足の内ももの当たりに鮮やかな包帯がしてある。よく見ると、それは破りとった羽織から即席に作ったものである。煤けたような汚れは、滲んだ血だろうか。怪我をしているらしい。
「いや、失敗。油断しました。野猪に脚をぱっくりやられましてね……」
「オイ。キサマが久秀だな。はやくきちんと手当してもらえ。政秀は一緒ではないのか?」
不意に、長政の背後から信長がニュッと顔を出し、久秀に声をかけた。長政があれやこれやと嘘のつじつま合わせを考えるよりも、それはずっと早かった。
「ア、これは殿、ご無沙汰にも関わらず情けない姿をお見せして面目次第もございません。ハテ、父は本日、末森城へ行っておりますが……?」
「久秀!」
長政が制止したときにはもう遅かった。
久秀も長政と歳のほど大して変わらず、すでに一端の大人だが、どこか素朴で、狩りと武芸に関心のほとんど置いているような侍だから、家中の情勢というのにはほとんど疎く、父親の今日の用向きが、信長排除に関する陰謀の一端に触れていることを、兄・長政のように察していなかった。
「末森に? オイ、どういうことだ、キサマ」
信長は振り返って長政に訊ねた。口調は強くも弱くもない。裏表なく訊ねただけなのだが、嘘を暴かれる側は、いつも相手がひどく恐ろしく見えるものである。
「ソ、そうでございました。父は、末森へ行かれました」
これほどしっかりと露呈しては言い訳の仕様もない。久秀の方はまだ状況が飲み込めない様子のままだが、やがて「それでは、御免……」と足を引きずりながら屋敷の中へと消えて行った。その背を睨みつける長政の姿を見て、信長は大方の事情を察した。
「なるほど、政秀が招かれているのは、オレに知らされていない集会か」
「モッ、申し訳ございません、どうかお許しをください」
長政は大粒の汗と涙まで零しながら平伏し頭を垂れたが、信長はもうそれには関心がなかった。
「父・平手政秀の、殿への忠義はまったく一点の曇りもないものです……、それは父の側にいる私が最もよく知っております」
「なにか勘違いしているようだな。政秀のことなどオレは問題にしていない。アレは自ら考える男だ。オレに秘密で末森へ行こうとも、考えあってのことに違いない」
「ソ、そうでございましたか。これはとんだ早とちりを、……。我ら平手一族、今後とも忠義一心に殿にお仕えする所存にございます。弾正忠家を治めるを殿を置いて他になく、殿のいかなる命にも背くことはございません」
都合の悪いところがあるという自覚がある者は、つい、余計なことをする。罪や恥、過ちといった事実をそのままに飲み込むに足る心の容量がないので、どうにかそれをなかったことにしようとして何かするのだが、それはを事実に即していないので大概が見るに堪えない有様となる。長政から信長へ向けられたこの美辞麗句が、まさにそれだと言える。最後の最後で、信長の勘気を静かに刺激してしまった。
「ウン、よくわかった。では忠義一心の手始めに、先ほどの栗毛をもらおう」
「ハッ……?」
長政は口をあんぐりと開いたまま。何を言われたのか、よく分からない。
「……あの、馬にございますか」
「そうだ」
慇懃無礼な者は、言葉や外見に長じる。身振り手振りを自在に動かし、豊潤な語彙を用いて、外面を飾る。彼らにとっては、時には、頭を地につけて平伏することも、涙を流し許しを乞うことも、抵抗がない。すべては道具だからである。嵐が過ぎ去ればケロっとして立ち直り、むしろ、その軽快な自らの心の動きを誇るということさえある。
信長にはよくわかっていた。栗毛の馬が、おそらく、長政が最も心血を注いでいるモノであるということを。わかっていてあえて無理難題を吹っ掛けた。時間も、金も、手間暇もかけなければ、あれほどの馬が育つものではない。それを差し出すということは、すなわち、長政が己の人生の一部を、そのまま信長へ差し出すということに他ならない。これは真に「忠義一心」でなければできない行いである。
「イヤ、アレは、フフ、そうですな。近頃は以前のような走りぶりができないでいますから……病を患っているのかもしれません。殿に献上するには不足しているだろうというのが、私がいま考えるところでありまして……、」
ふみ潰されて尚、絶命までの間に足を動かしている虫のような、あがきだった。
「そうか。であれば一刻も早く那古屋へ連れていくしかない。父の代より親交のある、京生まれの良い馬医者がいるのだ」
「ソ、そうなのですか。しかし、ですなア……、」
「連れていくぞ。良いな」
ここに至って長政はついに冷静さを失った。袖で汗をグイとぬぐうと、足を踏み鳴らして立ち上がり、厩の方へと戻っていく信長の前に立ちふさがった。
「いかなる命にても従うのではなかったか」
「あなた様は、我らがどんな思いでお仕えしているか、わかりますか」
「なに?」
「父が、いかにあなた様のことに心を痛めているかご存じか。妻を持てばマシになるだろうと期待して裏切られ、家督を継げばマシになるだろうと期待して裏切られ、……。父があなたを裏切ることはこの先もなかろうが、私どもが何度あなたに裏切られてきたか、わかりませんか。
この馬は、父から譲り受けたこの馬は、あなたにだけは差し上げられませんぞ。馬とは、武士に乗られてはじめてその真価を得るというもの。あなたは未だ武士ではない。礼も、義も、何も知らぬ大うつけの殿様ではないですか。武士でないあなた様に、馬は必要ではない。お引き取り願います」
啖呵を切られた信長はすこし驚いたように目を丸くした。
長政は言いたいことを言い尽くしたようで、「斬るなら斬れ」というように信長を睨んでいた。
「馬はもういい。平手が戻ったら、那古野へ来るよう伝えよ」
そう言い残すと、信長は乗ってきた馬に跨り、志賀城を後にした。
「何ということを。たしかに信長さまは困ったお人ではあるが、「武士ではない」などと……。しかし、命まではとられぬよう、私からも話してみるつもりだ。長政よ、くれぐれも早まったことだけはするではないぞ」
平手は息子にそう説いたが、長政は後悔と恐怖に溺れ、もはや何を言っても心ここに非ず、いまにも切腹してしまいそうな状態だった。
栗毛の馬を巡る一件については、信長自身から後日の沙汰も特になく、長政も処罰を受けることはなかった。しかし、悪いことには、目撃した志賀城兵から噂話が広まってしまった。織田信長の悪行を喧伝する類の尾ひれがつき、遂には「名馬の献上を断られた織田信長が、長政を逆恨みで手打ちにしようとしているらしい」というデタラメとなって長政の元に舞い戻り、彼を再び憂鬱の底に突き落とした。
信長が何か一つ行動を起こせば、必ず悪い風聞となって広まっていく。そういう状態に、すでに尾張はあった。
誰も彼もが彼の敵かに思われたが、しかし、「捨てる神あれば拾う神あり」とはよく言ったもので、決して数こそ多くはないが、彼を支持しようと蠢いている者というのも、少し居た。
筆頭が、信長の叔父・守山城主の織田信光である。
「信長め。言いよるわ。「兵を貸せ」とな」
赤塚の戦いからわずか四か月足らずの後、しばらくなりを潜めていた清洲衆がまたもや打倒・弾正忠家を掲げて蜂起した。信秀が死に、弾正忠家が混乱する中に「勝機あり」と見た坂井大膳による挙兵である。守護代の地位は、以前の織田達勝から嫡男・信友へと代替わりしていたが、若年の当主は大膳の言いなりに過ぎなかった。
天文二十一年(一五五二年)八月十五日、坂井大膳を筆頭とする清洲衆は、弾正忠家の一族衆の城である松葉城・深田城に押し入って瞬く間にこれを攻め取り、人質を掲げて信長に敵対した。
「今川はともかく、清州衆に舐められるのはずいぶん癪だ。ナア、そう思わんか」
信光に対面しているのは、佐久間信盛である。
この日、信盛は信光の要望により、山崎砦築城の詳細を話すために守山城へ登城していた。
「「貸せ」とはまた随分な、信長さまらしい言い様だ」
「フフ。気に留めるには値せんな。愛いではないか。放っておいたら死ぬんだ、コイツは。信盛よ、信長排斥の動きはつまらんよ。信勝の大人衆のお前だが、身の振り方は自分で決めた方が良い。元々が乱れた世なのだから、乱れに身を任せるのも風流だと思わんか」
「それは、私にはわかりかねますが、」
「いいや、わかっているから、貴様もここには居るのだよ。あれほど賭けるにオモシロイ男は探してもちょっと居ないぞ」
織田信光は、筋目から言えば当主になる目というのはおよそ無い。仮に信長が消えたとしても、家督は弟・信勝に行くだけ。何の得もない。だが、味方の少ない信長に付いたなら、勝ったときの取り分はより大きいものになるだろう。とどのつまりは、博徒の損得勘定の域を出てはいないが、より危険な方に身を賭すところに、これまで兄・織田信秀と共に乱世を切り抜けてきた息吹が宿っている。
「どれ、ちょっと信長を支えてみてやろうじゃないか」
平手が末森城へ登城していたちょうどその時、信長は、平手の居城・志賀城を訪れた。
赤塚の戦いにおいて、今川勢と戦うにはどうしても兵が足らないことを痛感した信長は、舅である美濃の斎藤利政に援軍を乞うことを考え、その取次役を平手に依頼しに来たのだった。
「お久しゅうございます、信長さま。申し訳ありませんが、今日は父はおりません」
「留守か。なにもキサマが申し訳がるわけはなかろう。いきなりオレが来ただけだ。どこへ行った?」
信長は馬上から長政を見下ろして言った。
「それが、」
長政は父の行き先を知っていたし、その意図も概ね見当をつけていたから、
「弟の久秀と共に、鷹狩りへ行きました」
咄嗟にウソをついた。
「そうか。どの辺りへ行ったか、聞いているか」
言えばそのままそこへ駆けて行きそうな勢いの信長。
「いいえ、詳しく聞いておりません。用向きなら私がお聞きいたしましょうか」
「いや、政秀本人に話したいのだ」
「それは失礼しました。しかし、遠出するような口ぶりで話していましたので、当分戻らないのではないかと、」
「そうは言っても、狩りなら夜には戻るだろう。待たせてもらおうかな」
信長は頭をぽりぽり掻きながら、サッと馬から降りた。
「しかしながら、今日は下女も多くが暇をとっており、大したお構いもできませんので、……」
「帰れというのか?」
「そういうわけではありませんが、」
「気遣いは要らぬ。オレは好きにウロウロしているから、キサマも好きにしていればいいのだ。何事の邪魔もしやしない」
信長は長政の肩をポンと叩くと、「いや、久しぶりにきてみると、イヤなほど荘厳な屋敷だなア」などと軽口を叩き始めた。もう、居座る気である。
『このまま終日待たれたら、やがて嘘をついたことが露見してしまう』
弟が鷹狩へ出かけていることは事実だが、父子二人が揃って帰ってこなければ、話したことと食い違ってしまう。同時に、眼の前の男が、言い出したら聞かないということも、父・政秀の苦労を見るまでもなくよく知っていること。
そう長政が目を伏せた一瞬の隙に、信長の姿が消えた。まるで鳥か何かのように、一所にじっとしていない。慌てて探してみると、信長の姿は厩にあった。一頭の馬を前にして、立ち尽くしている。
「困ります。気性の荒いのもおりますので、信長さま、ここは」
「オイ、この栗毛の馬だな。政秀から聞いているぞ。兄の安城城が今川勢に攻められたとき、援軍に向かう平手政秀は、一散に駆け抜け、あまりの速さに配下を置き去りにしていったという。その時に乗っていたのがコイツというわけだ。今は息子に譲ったと聞いていたが、それはキサマのことか」
信長は爛々と目を輝かせて馬をじっと見ている。
「はい。おっしゃる通りでございます。お褒めに預かり、恐悦です」
「一度に何里まで走る」
「は……、?」
「この栗毛は、一度に何里まで走れるのか、と聞いている」
こと馬に関しては熱狂的な関心を寄せる信長だから、これしきのことは馬主なら当然に把握しているものだと思っているが、およそ一般的な質問ではない。
「アッ、いや、申し訳ありませんが、そのような乗り方はしたことがないので、……」
「そうか。オレには分かるが、この馬なら三里は楽に駆けるだろうな」
「ハア……そういうものですか……、」
長政は「こんな所にいても退屈でしょう、」などと言い、何とか信長を帰らせようと試みるが、当の本人は、「いやいや、さすがに良い馬がそろっているなア。何日だっていられるぞ」と、夢中でたまらない様子だから駄目だ。
と、その時、門の方で「兄上」と叫ぶ声がした。長政はすぐに気がついた。自分を呼ぶ弟・久秀の声だ。
『まさか、もう帰ってきたのか。鷹狩からこれほど早く帰る理由はないが』
声の方に出てみると、そこには紛うことなき弟の姿があった。足の内ももの当たりに鮮やかな包帯がしてある。よく見ると、それは破りとった羽織から即席に作ったものである。煤けたような汚れは、滲んだ血だろうか。怪我をしているらしい。
「いや、失敗。油断しました。野猪に脚をぱっくりやられましてね……」
「オイ。キサマが久秀だな。はやくきちんと手当してもらえ。政秀は一緒ではないのか?」
不意に、長政の背後から信長がニュッと顔を出し、久秀に声をかけた。長政があれやこれやと嘘のつじつま合わせを考えるよりも、それはずっと早かった。
「ア、これは殿、ご無沙汰にも関わらず情けない姿をお見せして面目次第もございません。ハテ、父は本日、末森城へ行っておりますが……?」
「久秀!」
長政が制止したときにはもう遅かった。
久秀も長政と歳のほど大して変わらず、すでに一端の大人だが、どこか素朴で、狩りと武芸に関心のほとんど置いているような侍だから、家中の情勢というのにはほとんど疎く、父親の今日の用向きが、信長排除に関する陰謀の一端に触れていることを、兄・長政のように察していなかった。
「末森に? オイ、どういうことだ、キサマ」
信長は振り返って長政に訊ねた。口調は強くも弱くもない。裏表なく訊ねただけなのだが、嘘を暴かれる側は、いつも相手がひどく恐ろしく見えるものである。
「ソ、そうでございました。父は、末森へ行かれました」
これほどしっかりと露呈しては言い訳の仕様もない。久秀の方はまだ状況が飲み込めない様子のままだが、やがて「それでは、御免……」と足を引きずりながら屋敷の中へと消えて行った。その背を睨みつける長政の姿を見て、信長は大方の事情を察した。
「なるほど、政秀が招かれているのは、オレに知らされていない集会か」
「モッ、申し訳ございません、どうかお許しをください」
長政は大粒の汗と涙まで零しながら平伏し頭を垂れたが、信長はもうそれには関心がなかった。
「父・平手政秀の、殿への忠義はまったく一点の曇りもないものです……、それは父の側にいる私が最もよく知っております」
「なにか勘違いしているようだな。政秀のことなどオレは問題にしていない。アレは自ら考える男だ。オレに秘密で末森へ行こうとも、考えあってのことに違いない」
「ソ、そうでございましたか。これはとんだ早とちりを、……。我ら平手一族、今後とも忠義一心に殿にお仕えする所存にございます。弾正忠家を治めるを殿を置いて他になく、殿のいかなる命にも背くことはございません」
都合の悪いところがあるという自覚がある者は、つい、余計なことをする。罪や恥、過ちといった事実をそのままに飲み込むに足る心の容量がないので、どうにかそれをなかったことにしようとして何かするのだが、それはを事実に即していないので大概が見るに堪えない有様となる。長政から信長へ向けられたこの美辞麗句が、まさにそれだと言える。最後の最後で、信長の勘気を静かに刺激してしまった。
「ウン、よくわかった。では忠義一心の手始めに、先ほどの栗毛をもらおう」
「ハッ……?」
長政は口をあんぐりと開いたまま。何を言われたのか、よく分からない。
「……あの、馬にございますか」
「そうだ」
慇懃無礼な者は、言葉や外見に長じる。身振り手振りを自在に動かし、豊潤な語彙を用いて、外面を飾る。彼らにとっては、時には、頭を地につけて平伏することも、涙を流し許しを乞うことも、抵抗がない。すべては道具だからである。嵐が過ぎ去ればケロっとして立ち直り、むしろ、その軽快な自らの心の動きを誇るということさえある。
信長にはよくわかっていた。栗毛の馬が、おそらく、長政が最も心血を注いでいるモノであるということを。わかっていてあえて無理難題を吹っ掛けた。時間も、金も、手間暇もかけなければ、あれほどの馬が育つものではない。それを差し出すということは、すなわち、長政が己の人生の一部を、そのまま信長へ差し出すということに他ならない。これは真に「忠義一心」でなければできない行いである。
「イヤ、アレは、フフ、そうですな。近頃は以前のような走りぶりができないでいますから……病を患っているのかもしれません。殿に献上するには不足しているだろうというのが、私がいま考えるところでありまして……、」
ふみ潰されて尚、絶命までの間に足を動かしている虫のような、あがきだった。
「そうか。であれば一刻も早く那古屋へ連れていくしかない。父の代より親交のある、京生まれの良い馬医者がいるのだ」
「ソ、そうなのですか。しかし、ですなア……、」
「連れていくぞ。良いな」
ここに至って長政はついに冷静さを失った。袖で汗をグイとぬぐうと、足を踏み鳴らして立ち上がり、厩の方へと戻っていく信長の前に立ちふさがった。
「いかなる命にても従うのではなかったか」
「あなた様は、我らがどんな思いでお仕えしているか、わかりますか」
「なに?」
「父が、いかにあなた様のことに心を痛めているかご存じか。妻を持てばマシになるだろうと期待して裏切られ、家督を継げばマシになるだろうと期待して裏切られ、……。父があなたを裏切ることはこの先もなかろうが、私どもが何度あなたに裏切られてきたか、わかりませんか。
この馬は、父から譲り受けたこの馬は、あなたにだけは差し上げられませんぞ。馬とは、武士に乗られてはじめてその真価を得るというもの。あなたは未だ武士ではない。礼も、義も、何も知らぬ大うつけの殿様ではないですか。武士でないあなた様に、馬は必要ではない。お引き取り願います」
啖呵を切られた信長はすこし驚いたように目を丸くした。
長政は言いたいことを言い尽くしたようで、「斬るなら斬れ」というように信長を睨んでいた。
「馬はもういい。平手が戻ったら、那古野へ来るよう伝えよ」
そう言い残すと、信長は乗ってきた馬に跨り、志賀城を後にした。
「何ということを。たしかに信長さまは困ったお人ではあるが、「武士ではない」などと……。しかし、命まではとられぬよう、私からも話してみるつもりだ。長政よ、くれぐれも早まったことだけはするではないぞ」
平手は息子にそう説いたが、長政は後悔と恐怖に溺れ、もはや何を言っても心ここに非ず、いまにも切腹してしまいそうな状態だった。
栗毛の馬を巡る一件については、信長自身から後日の沙汰も特になく、長政も処罰を受けることはなかった。しかし、悪いことには、目撃した志賀城兵から噂話が広まってしまった。織田信長の悪行を喧伝する類の尾ひれがつき、遂には「名馬の献上を断られた織田信長が、長政を逆恨みで手打ちにしようとしているらしい」というデタラメとなって長政の元に舞い戻り、彼を再び憂鬱の底に突き落とした。
信長が何か一つ行動を起こせば、必ず悪い風聞となって広まっていく。そういう状態に、すでに尾張はあった。
誰も彼もが彼の敵かに思われたが、しかし、「捨てる神あれば拾う神あり」とはよく言ったもので、決して数こそ多くはないが、彼を支持しようと蠢いている者というのも、少し居た。
筆頭が、信長の叔父・守山城主の織田信光である。
「信長め。言いよるわ。「兵を貸せ」とな」
赤塚の戦いからわずか四か月足らずの後、しばらくなりを潜めていた清洲衆がまたもや打倒・弾正忠家を掲げて蜂起した。信秀が死に、弾正忠家が混乱する中に「勝機あり」と見た坂井大膳による挙兵である。守護代の地位は、以前の織田達勝から嫡男・信友へと代替わりしていたが、若年の当主は大膳の言いなりに過ぎなかった。
天文二十一年(一五五二年)八月十五日、坂井大膳を筆頭とする清洲衆は、弾正忠家の一族衆の城である松葉城・深田城に押し入って瞬く間にこれを攻め取り、人質を掲げて信長に敵対した。
「今川はともかく、清州衆に舐められるのはずいぶん癪だ。ナア、そう思わんか」
信光に対面しているのは、佐久間信盛である。
この日、信盛は信光の要望により、山崎砦築城の詳細を話すために守山城へ登城していた。
「「貸せ」とはまた随分な、信長さまらしい言い様だ」
「フフ。気に留めるには値せんな。愛いではないか。放っておいたら死ぬんだ、コイツは。信盛よ、信長排斥の動きはつまらんよ。信勝の大人衆のお前だが、身の振り方は自分で決めた方が良い。元々が乱れた世なのだから、乱れに身を任せるのも風流だと思わんか」
「それは、私にはわかりかねますが、」
「いいや、わかっているから、貴様もここには居るのだよ。あれほど賭けるにオモシロイ男は探してもちょっと居ないぞ」
織田信光は、筋目から言えば当主になる目というのはおよそ無い。仮に信長が消えたとしても、家督は弟・信勝に行くだけ。何の得もない。だが、味方の少ない信長に付いたなら、勝ったときの取り分はより大きいものになるだろう。とどのつまりは、博徒の損得勘定の域を出てはいないが、より危険な方に身を賭すところに、これまで兄・織田信秀と共に乱世を切り抜けてきた息吹が宿っている。
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颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
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