織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第二章 台風の目

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 守備兵の掲げる無数の松明によって輪郭が縁どられた砦は、山崎の村からすこし南東へ出張ったところに築かれていた。それは、まさに、笠寺砦・桜中村城の双方の首ねっこを掴むようにぴったり抑え込む位置に在る。
 教継は見開いた黒目を小刻みに震わせていた。震えは、徐々にからだ全体に波及して行き、危うく櫓から足を滑らせるところだったが、それはすんでのところで堪えた。
「ス、すぐに間者を走らせ、調べさせましょう」
 野太い声を精一杯に演出してみせたが、狼狽は明らかだった。
「いや、山口殿、それには及びません」
 元信は落ち着き払っていた。木像の如く微動だにしない。
「織田方の築いた付城に相違ない。調べるまでもないでしょう。イヤア、すっきりした」
 先ほどの宴席では仏頂面を崩さなかったこの男が、ようやく人間らしい笑みを少しだけこぼしている。
『こんな間近に付城を築かれては、この笠寺砦からは、そして、おそらくは北東の桜中村城からも出撃はできまい。そのうえ、鳴海城との連絡を断たれたならば、そのまま包囲されかねない。嫌にすんなりと笠寺まで入って来られたのはこういうカラクリだったか』
「フフ。こりゃあ、うつけ殿に一本とられましたな」
 元信は上機嫌。百戦錬磨のこの男は、この程度の危機に焦りはしないようである。むしろ、違和感の正体が腑に落ちたことに小気味良ささえ覚えていた。
 しかし、山口教継は穏やかではなかった。教継を襲ったのは激しい恥辱だった。味方を大きな危機に晒しかねない砦の存在に今この瞬間まで気付けなかったという事実が、彼の矜持を引き裂いた。「尾張侵攻の急先鋒」などと息子の前で偉そうに語った手前、その揺り戻しが如何ともし難い。さらに、自分が遅れをとった相手が「大うつけ」で評判の男だと思い起こせば、内々の逆上はいよいよひどいものだった。そんな教継の内心を知ってか知らずか、
「山口殿。かくなるうえは、あなたもお父上の居られる桜中村城へ入られるのが良いでしょう。このままでは、桜中村城が最も危ない」
 元信は助言を授けた。もはや元信を直視することすらままならない教継は、「そ、そうですな」とだけ言うと、逃げるように笠寺砦を出立し、桜中村城へと馬を駆けた。
「父上。山崎に砦が、」
「私もいま知ったところだ。迂闊であった。佐久間信盛から私に届けられた文は、築城の時間を稼ぐためのものだったのか……、」
「山崎は佐久間一族の治める地。こちらに気取られぬよう砦を築くというなら奴以上の適役はいない。が、しかし、信勝配下のはずの佐久間がまさか信長と連携するとは、」
 教継は未だ納得がいっていない様子。眉間に皺を寄せ、歯ぎしりしている。「何故だ?」という思いが彼の全身を支配していた。頭に血が登った人間というのは、この精神の迷宮に足を踏み入れて引き返せない。疑問とは、一つの事実とまた他の一つの事実が食い違うことに不快が生じる心の作用だが、これは、冷静さを失った者には決して解けない判じ物じみた性質を持っている。
 なぜあの織田信長が? と教継は考える。答えは出ない。しかし、その時、自分の考える「」が、確固たる事実に立脚しているだろうか? と考えることができたなら、教継にも勝ちの目は消えなかったことだろう。同じ頃、笠寺砦で依然として山崎砦を眺めていた岡部元信は「ウウン。大うつけと呼ぶには、ちょっと都合がわるいナ。いかにも繊細な策略である」と、一人、敵の戦略を肴に少量の酒をあおっていた。
 桜中村城内は混迷を極めたが、敵というのは心の整理を待ってくれるものではないらしい。教継の元に注進が入る。何でも那古野方面から出撃した五〇〇ほどの兵がこちらへ向かって駆けてくるという。
「信長ッ。この桜中村を攻め取るつもりか?」

 信長軍は那古野から南東へ中根なかねという村を越え、桜中村城に攻めかかるかと思いきや、やがて、その東側を掠めるように素通りしていった。
「まさか!」
 信長の狙いは、鼻から、笠寺と桜中村の背後に構える鳴海城である。
 信長は馬上からチラと後ろを振り返り、桜中村城に向けて「出て来るなら、来い」という風にニタリと笑う。
 山口教継は動けない。信長軍の背後を突こうにも、眼前の山崎砦がある以上、迂闊に飛び出れば逆に自分たちが背後から攻撃を受けることになる。それに、織田信勝の重臣であるところの佐久間信盛が、よりにもよって織田信長と共に動いているということは、存外、織田兄弟に深刻な確執はなかったのかもしれない。だとしたならば、柴田勝家、林秀貞・道具らの軍勢までもが出張ってくるということも、考えられなくはない。そうなればもう山口一族のみで対抗できる規模の戦の域を出てしまう。
「やはり山口教継は出て来ませんなア。柴田勝家のマボロシでも見ておいでかな。砦一つが大した役者ぶりだ」
 恒興が信長に笑いかける。
「謀反人というのは一見すると型破りに見えるが、その実、事後の心はひどく束縛されるのかもしれないな。ハハ。うまく因果がまわるものだ、コワイね、まったく」

 未明、信長軍は鳴海城の真北・三王山という小山に登って陣を張った。そこへ遅れてきた足軽らが合流し、ざっと七〇〇ほどの軍勢になった。
 山上からの見晴らしは良い。鳴海城の向こう、南側には暗い海が茫々と広がっており、城はさながら海上に浮かんでいるかのように見えた。
 夜が白み始めると、信長はいよいよ高揚した。潮の香に戦場の気が混じっているように感じられる。
「どう攻めてやろうな」
 生え始めた髭を撫でつけたその時、まだ灰暗さの残る眼下の村々の中に、こちらへまっすぐ向かってくる軍勢の姿が見てとれた。
「進め、進め。籠城は不要。いいか、信長は必ず山の上にいる。首を落としてやれ」
 馬を駆ける大将は、鳴海城将・山口教吉である。桜中村城で父と祖父にたしなめられていた青二才とはまるで違う気迫で、叫びながら三王山を目掛けて攻め来る。
『織田信長は、何というか、もっと――早い、性急な人間に思えるのだ。爺様の文への返答が遅すぎる。ということは、そうだ、何か別の仕事をしているに違いない』
 山口教継・教房を出し抜いた信長軍だったが、最も若いこの教吉にだけは、その目論見を半ば看破されてしまった。
「こちらの動きを読み切ったか、山口教吉。いいだろう、すこし遊んでやろう」
 信長は山を駆け下り教吉軍へと向けて突撃する。いつぞやと同じく、何の合図もないものだから配下は慌ててついていくばかりだった。
 天文二十一年(一五五二年)四月十九日朝、両軍は赤塚あかつかと呼ばれる地で真っ向からぶつかった。弾正忠家の家督を相続した織田信長の最初の戦争だった。
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