織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第二章 台風の目

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 山口教房による迫真の文が信長へ届けられた翌日、鳴海城には城主の山口教継、その父・教房、それから教継の嫡男である教吉のりよしの親子三代が集っていた。
「信長の葬儀での蛮行は伝え聞きましたか、父上」
「ああ。お前の見立てに間違いはなかったということだな。信秀公が病に倒れたとき、すでに尾張の行く末は決まっていたのだろう」
「これから、さらに織田から今川へと鞍替えする者も出て来ようが、我らはその者らとは違い、いち早く義元さまに誼を通じた。先の見通しの効かぬ者は滅びる。教吉、お前もよく見ておけ。乱世とはこういうものだ」
「ハア」
 気のぬけた返事のこの男が山口教吉という若者である。歳は今年で二十。信長の一つ上である。
「教吉や。お前は織田信長に引っ付いて遊んでいたときもあったと教継から聞いている。お前の目から見て、アレはどの程度の者かな」
「だった、? ア、や、そうですね、……ウウン」
 何とも歯切れの悪い口ぶり。
「もっとはっきり喋らんか。それしきの声、戦場では誰にも聞こえんぞ」
「そういきり立つこともなかろう。いかに「大うつけ」とはいえ主君に弓を引こうと言うのだ。一生に幾度も経験することではない。教吉も緊張しているのだろうて」
「教吉! 貴様まさか、織田信長に同情しているのではなかろうな」
 教継の目つきがギラリと光る。
「甘い。何と甘い。そして、弱いのだ、貴様は。わかっているのか。この笠寺の地は我らの先祖が守ってきたもの。織田・今川の紛争地としていつまでも消耗されるわけにはいかぬのだ」
「教吉、三河の松平家のことを思い出してみよ。アレは最も良い教訓となるだろう。東西から敵が攻め寄せるたび、織田に今川にと節操なく寝返り続けた結果、どうなったか? 一向に家中をまとめきれず、先代の広忠も、先々代の清康きよやすも非業の死を遂げてしまったではないか」
「ハイ、それはわかっておりますが、……」
「まあ、聞け。義元さまは遠くない未来、尾張を呑むだろう。その急先鋒としての役目を、我らは義元さまから仰せつかったのだ。これは、我らがいずれ今川重臣となるために必要な戦い。此度の謀は、是が非でも成功させなければならない。分かるな」
「今日、信長からの返書が山崎の佐久間信盛を通じて私の元に届いた。「集められるだけの兵を集めて桜中村へ向かうから、命令あるまで待て」とな。まさに袋の鼠というやつよ。天命は我らにあり」
「我らは既に先手を打った。父上は桜中村城へ、私は夜が更けたら、岡部元信おかべもとのぶ殿らが率いる今川勢を迎え入れ共に笠寺砦へ入城する。近日中に桜中村城へノコノコやって来るであろう織田信長の背後を、迂回して突いてやるためだ。この作戦は、この最も重要な鳴海城を、教吉、貴様に預けなければ成り立たぬ。首尾よく進めば、織田信長の首が落ちる結末となろうが、しかし、そこには、憐憫の情が沸く余地も、余裕も、決してないと知れ」
「お前も家督を継げば、教継の心境が分かる日が来よう」
 気炎を上げた二人の熟練武士は、自らを奮い立たせるように似たようなことをあと二三言ってから、やがて鳴海城を去った。先達の助言は、しかし、どうにも教吉には響いていない様子だった。
 教吉は仕草に胡乱なところがある男だが、馬鹿ではない。ただ、一度気になることが見つかると、気分がそっちの方へグッと引っ張られてしまうから、他の事に手がつかないだけだ。父や祖父の語る、家がどうだの、乱世がどうだの、という説教めいた心構え等々が彼の頭には入ってこなかったのは、彼がもっと実際的な、事実に基づいた違和感に囚われていたからだった。
『信長さまとはもうずいぶん会っていない。それに、あの人の戦など、わたしは間近で見たことなどない。けれど、この落ち着かない気持ちは、いったい何だろう? 私たちは、何かを見落としているのではないだろうか。そしてこれは、私が気がつかなければいけない何かだという気がする。
 信長さまから返書がきたのは今日だと言うが、爺さまが偽の文を信長さまに出してから、すでに数日が経っている。「先手を打った」と父上は言った。だが、織田信長という人は、イヤ、これは何の根拠もありやしないが、私の直感では、何というか、もっと――』

 一五五二年(天文二十一年)四月十七日深更、それは織田信秀の死去より一か月ほど経った日だったが、山口教継は、今川重臣の岡部元信ら率いる駿河勢を密かに笠寺砦へ入城させた。
 織田弾正忠家への謀反を計画したときより、この作戦の準備は万全である。障害など一つもない。滞りなく元信を尾張へ迎え入れた教継は得意げになって酒の席を設けた。
「岡部殿、遠路よく参られた。サア、一杯いかがです」
「いいや、結構にござる」
 岡部元信は、今川義元が尾張攻略に向けて寄越した肝煎りの重臣である。かつて小豆坂の戦いにおいて深入りした織田軍に横やりを入れて総崩れに追い込み、信秀・信広らの心胆を寒からしめたのも、元信の仕事だった。
 元来寡黙で職人気質の男だが、この日はとりわけそうだった。
「いかがされましたか。お体の調子が悪いですか」
 あまりに教継に酒を勧められるので、少しだけ口をつけたが、やはりそれ以上は気が進まない。
「ずいぶん簡単に尾張の喉元まで来たものですな」
「ハハハ。北条や武田と渡り合ってきた駿河のつわものには、尾張の大うつけでは不足があって当然ですな」
「果たして、そういうものか」
 なるほど、山口教継は元弾正忠家の重臣に違いなく、家中の内情のみならず、この辺りの地理至るまでその詳細に大層明るい。万全の根回しが功を奏し、そのうえ、相手方の殿様が、いま自分がたいして労せず敵の本拠のすぐ近くにまで入り込めたのも、別段、変なことではないのかもしれない。
 元信はそういう風に筋道を立ててみたが、だが猪口をもった手が首から上へ上がらない。そういった計算とは別の歴戦の勘が、納得していないのだ。
「ドウモ、駄目だな」
 元信は酒の席を立った。
 外へ出ると、物見櫓の一棟に見張りのいないところがあったので「やれやれ」と言いながら、そこへ登った。
 春先の冷たい風を浴びる。酒はほんのわずかに口に含んだだけで、酔ってなどいないはずなのに、風が頭を通り抜けていくように感じた。
「尾張の大うつけ、か」
 見据えたのは北・那古屋の方角である。雷雲のような暗い丘が横たわっており、遠くまでは見通せない。本物の雲は欠片もない。元信はふと空を仰ぎ見た。満天の星空が煌めいていて、昨日も、今日も、空は快晴らしい。
 しかし、その時である。満天の星のいくらかが不意に見えなくなった。目をこすってもう一度見たが、見間違いではなかった。一つ、また一つというように小さなものから闇の中へ沈んで消えていく。そして、元信はようやく気がついた。星が消えているのではない。辺りが明るくなっているのだと。
 地平に視線を下ろしたとき、元信は目を疑った。北の丘陵の中に、ポツリポツリと小さな光が蛍のように粒だって輝き出していた。この光が増えるたびに、星を一つ消していたのである。幻想的といえなくもないが、そんな情緒に浸る間もなく、光の粒はし、その輪郭を明瞭にした。
「こちらにおられましたか、岡部殿。星でも見ておられましたかな。オヤ? あれは、」
 元信の背後から教継が媚びた声をかけたが、元信は振り返ることなく、浮かびあがったを指差し、そして、その正体をゆっくりと、そして、独り言のように静かに教継に教えてやった。
「砦、ですな」
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