織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第一章 うつろの気

十八

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 信長が目を覚ますと、そこにはよく見知った天井があった。
 うすぼけた視界の隅に、帰蝶らしき女が座っているのが分かった。那古屋城の寝殿らしい。
「起きられましたか」
 帰蝶の声を聞くと、途端、急速に意識が戻った。即座に起き上がろうとしたが、全身が焼けるように痛んでそれを妨げる。足も腕も上がらない。
「平手殿です。倒れていたあなたを、城まで連れ帰ったのは」
「そうか」
 信長はもうジタバタしなかった。そして、ただぼうっとしている。この男がかつてこれほど静かだったことはあっただろうか? 帰蝶はそう思った。
「オレは、まだ生きているのか」
「はい」
「オレは、死にかけたのか」
「はい」
「夢ではないのだな」
「はい」
「オレのほかに、生き残った者は?」
「ご覧になられますか」
 帰蝶は立ち上がり、縁と寝殿を仕切っている襖をあけ放った。
 すでに雨は上がり、代わりに刺すような夕日が照り付けている。そこは例の鉄砲の鍛錬上場である。侍女や小姓たちが負傷した兵士の救護に奔走しており、泥の地面にはそれを待つ兵たちが転がっている。その喧騒はまさしく戦場の熱をそのまま城内へと持ち込んだようで、その熱気に触れると、信長は眩暈を覚えた。
 やがて、彼らのなかの誰かが目を覚ました信長に気がついた。はじめの一人を皮切りにして次々に縁側まで駆け寄ってきたが、信長は身じろぎ一つしないまま、暗い室内から外の彼らをただ眺めていただけだった。
 兵たちはひれ伏し、額を土にこすりつけながら、「申し訳ありません」「我々が不甲斐ないばかりに、」などと嗚咽まじりに許しを乞うた。
 信長はここでも戦場と同じものを感じた。まるで成す術がないのである。目の前の者たちに何と声をかければいいのか、皆目わからない。
『「オレが悪かった。オレがすべて駄目だった」と言ったらどうか? それが偽りのない織田信長の気持ちだとして、しかし、それを言われたこいつらは喜びやしないだろう。本心などというものは見ぬふりをして、「つぎは勝つぞ」などと豪胆を装えばいいのだろうか。その嘘に耐えることこそが大将の器量だと思えとでもいうのか? オレは、どうすればいい。そして、明日からも』
 兵たちの中を分け入って一人の男が現れた。俯いていた信長はそれを見て、ようやく顔を上げた。
「恒興、キサマ、生きていたのか」
 そう言って目を見開いた瞬間、彼の肩に一人の少年が担がれているのが分かった。
 恒興はその少年を信長の眼前へゴロンと転がした。すでに骸であった。
「六助。まだ十四だが、死んぢまった。見覚えがあるでしょう。素性を隠して決して親兄弟の話をしない、「語らずの六助」だ。さっきまでは、生きていたんですがね」
 血の気の引いた青白い顔が、やけにうつくしく見える。
「清洲で武衛さまに仕えた小姓だそうですよ。まあ、ウソかもしれないが、死に際にわたしに話してくれた。我々に引っ付いているのが知れれば坂井大膳に成敗されてしまっていたかもしれないね。しかし、コイツも馬鹿な奴で、もう、信長さまが逃げた後だというのに、「逃げるだけの戦などは恥ずかしい」なんて、敵兵の首を獲りに行こうとしたのですよ。そこを弓にやられた。意地っぱりなというか何というか、いや、「張って得するのは食い意地ぐらいのものだ」と日頃から私は聞かせてはいたんですけどね、」
 信長は「ソウカ」と言って六助を抱きかかえた。彼の顔を見て何か諦念が確かなものになったようだった。
「これで仕舞いだな」
「仕舞い?」
「オレが廃嫡されたら、キサマらはどこへ行くのかな。アア、信光の叔父上なら変わり者たちの面倒もひょっとしたら見てくれるかもしれない」
「織田信長は、どこへ行くのですか」
「さあな。うつけに似合いの最期をいま探しているところだよ。立派に腹を切ってやると、皆驚くかな。案外、それが父や平手への孝行になるかもしれないな」
 その時、突如として恒興が縁から寝殿へ踏み入った。周囲がどよめくよりも早く信長のところへずいと詰め寄ると、その湯帷子の首根っこを掴んで、引き抜くように外へ放り投げた。
 誰もが呆気にとられたが、一瞬の間に恒興は取り押さえられた。恒興の蛮行に怒りを禁じ得ない幾名かの小姓らなどは、脇差にて手をかけて今にもその首を刎ねんと鼻息を荒くしていた。
 信長はからだを打ち付け、包帯の巻かれた随所から血をにじませたが、肩を借りながら起き上がると、「はなしてやれ」と呟くように言った。
 解放された恒興は苦しさからまだ顔を真っ赤にしていたが、構わず口を開く。
「わたしも大概だが、あなたはやはり大うつけと言われても仕方がないな。 腹を切ってすっきりするなんてのはあんただけさ。血だまりに倒れた織田信長を見て、「立派に筋の通ったお方だった」とわたしたちが涙するなんて思っているんじゃないだろうな。いったいどれだけ他人を下に見ているんだ。
 今日の戦ではっきりしたぜ。馬鹿をやって、馬鹿を集めてきた、馬鹿な若殿さまが、その実、その馬鹿どもの生死をすべて預かった気になって敗戦の責に押しつぶされているのだとしたら、本当の大馬鹿はあんただろうが。まったく見くびられたものさ。今日の戦で死んだ者たちがどれだけの首級を上げたかも知らないくせに、たった一度の敗戦で切腹とは笑わせますよ。
 誰も彼もがあなたのために哀れに死んだと考えているのでしょうが、思い上がりも甚だしいな。死んだ奴らが本当に守りたかったのは、自分の父や母、弟や妹なんだ。だから、あんたが逃げた後も今川の兵に向かって行った。あんたは、わたしたちを無理やりに死なせたとでも思っているんだろうが、全然違うね。わたしたちは、自分が守りたいと思ったものを守るために、殿これまで戦ってきたのさ。そして、死んだ。あんたが負けたのと同じように、わたしたちも負けたのだ。大敗だ。しかし、だから、何だ。何だってんだ。一度負けただけで切腹するような殿様が相手なら、敵さんは楽でいいな!」
 はじめは主君への無礼に憤っていた者も、見たことがない恒興の剣幕に圧され、いつしか固唾をのんでいた。
 恒興は、庭先に植え込まれている柿の木からちょうど熟した実をもぎった。一口かじりついてから、その場にどっかと腰を下ろし、柿の実を地面にどんと置いた。
「サア。いまのが無礼だと思うなら、誰でもわたしを斬ってみなさい。今うまい柿を食った。わたしは、このために生きて帰ってきた。そして、このために今後も戦に出るのさ」
 信長はよろめきながらも一人で立ち上がり、小姓から受け取った脇差を抜き、恒興の前に出る。そして、柿の実をずぶりと串刺しにし、それを恒興の顔に向けた。
「全部食え」
 恒興は躊躇なく噛みつくと、実のすべてを残さず切っ先から抜き取って頬張った。
 その燃えるような眼を信長は間近に見た。敗軍の兵の顔ではない。まるで今から出陣するかの如くに気力にあふれている。『死の覚悟は決められているが、死ぬ気は毛頭ない』とでもいうような、矛盾を抱えた武士そのものを象徴するような目だった。
 信長は脇差を取り落とした。そして、涙が両の目からこぼれだした。
「キサマは、……キサマらは、ほんとうに織田信長を主君とするのか。この先も」
 皆押し黙って、頭を垂れる。
「今日、負けた。オレは、また負けるかもしれない。しかし、勝ちたいのだ。オレは、負けないために、死なないために生きているのではない。勝つために生きている。キサマらを何人死なせても、それでも、オレは、まだ今川に勝ちたいと思っているのだ。尾張をこのオレの手に収め、今川義元の首を獲る。そのための織田信長なのだ」
「は」
 重なった家臣らの応答の声が信長の鼓膜を揺らすと、またボロボロと涙を流させた。
「それでも、キサマらは、オレの元にいるのか」
「は」
 日が沈みかけていたから、それ以上は誰も信長の涙を見ることができなかったが、嗚咽だけがしばらく聞こえていた。
「それでは、勝ち鬨でもあげてみましょうか」
 唐突な恒興の提案。皆は戸惑ったが、信長はグイと涙を拭うと「いいだろう」と割れんばかりに叫び、拳を振り上げた。
「エイエイ、」
「オー!」
「エイエイ、」
「オオオー!」
 世に二つとない敗軍によるが那古野城に轟いていた。城下でその声を聞いた町人たちは、「また信長が何かやっているな」としきりに笑った。
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