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第一章 うつろの気
十
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いつかの河原が、この日もまた騒々しい。
「やはり、こちらでしたか」
土手に座り込んでいる信長の背後から、平手が声をかける。
「戦に連れて行ってもらうのはもう諦めたよ。オレは、オレのやり方で戦を学ぶまでだ。見よ」
川の浅瀬に、竹槍を携えた信長一党の面々が、二つの組に分かれて戦っている。
模擬戦という奴だが、注目すべきはその竹槍の長さであった。およそ四間ほどもある長槍だ。本当にこんなものが役に立つのか? そう平手が訝ったとき、ちょうど、それをブンブン振り回していた一人の少年が体勢を崩して川にバシャンとずっこけた。
「信長さまよ、ホラ、四間の槍なんて無理ですよ。さっさと帰って餅でも食いましょうや」
「キサマだから無理なんじゃないか。もう一度やれ」
勝三郎はまたバシャンとずっこける。より上手く振り回す少年はほかにチラホラいたが、しかし、いずれにせよ戦場で立ちまわれそうな足取りでないことには変わりない。
「四間の槍はどうやら使いものにならんようだ。しかし、三間半までなら何とかなりそうに見えたよ。槍はすこしでも長い方がいい」
「一朝一夕で新たな戦術が生まれれば誰も苦労はしません。三間半すら聞いたことがない。なぜだかわかりますか」
「サアナ」
「誰も彼もが、「そんな長槍は使いものにならん」と当たり前に知っているからです」
「果たして、そうかな。平手、キサマは人を信じすぎるね。もし、誰もまだ試していなかったとしたらどうする。オレはそれが怖い。一朝一夕にいかないのはまったくその通りだが、やってみねば仕方ない。以前、キサマから美濃勢の槍が三間あると聞いたからな。実際のところどこまでできるか、オレの方でも試してみたというわけさ」
平手はそれ以上言い返す気にはならなかった。
そして、「美濃」という言葉を聞いて、自分が信長の元へきた要件に立ち返った。
「その美濃のことで大事なお話がございます」
「キサマの大事が、オレにとっても大事だったことは、甚だ少ないナ」
信長は平手の方を見ることなく、河原の竹槍隊をじっと見つめていた。
「美濃との和睦が成りました。ついては、斎藤利政殿のご息女を若のご正室として当家へお迎えする運びとなりましたので、これをご報告いたします」
それを聞いても、信長は平手の方を見向きもしなかったが、しかし、もう模擬戦を見分しているというわけでもないらしかった。ただ、遠くの空を見ていた。
「キサマが美濃へ行ったという話は聞いていた。そんなことをしていたのか」
清洲衆らの横やりを避けるため、婚姻はおろか、和睦の方針すら家中には秘匿されていた。当人の信長とて知るところではなかった。しかし、それを知っても、実際、信長はそんなことには構わなかった。
既に彼の関心事は、もっと別のところにぐっと捉えられていたのだ。
「あの利政がオレに娘を寄越すというのか。 ずいぶんと虫の良い話じゃないか。どんな手を使ったのだ、政秀」
平手はきょとんとした顔。格別、どんな手も使っていやしない。
「どんな手と言われましても……、以前から幾度か挙がっていた話を改めて取りまとめただけですからな」
「喋る気は、ないということか」
信長は微笑して草原に寝転がった。頬杖をつき、ああでもないこうでもないと好き勝手に謎解きに乗り出す。それを見る平手は、やはりきょとんとするばかり。
「利政はなぜ父上と、……、何か別の、いや……」
信長は父・信秀のことを十分に慕ってはいたが、しかし、ある面においては鋭い批評の目を向けていた。
『清州衆などはさっさと滅ぼすに限る。あんな小者を相手に和睦の算段をするなど、父上は間違っている』
信長には信秀の方針が分からないのではない。よく分かるのだ。父が、何を嫌がり、何を避けようとしているのか、よく分かっていた。
『清洲衆を攻め滅ぼせば、主筋に背いた逆賊の誹りは免れない。他の織田一族の反感を招き、今以上に敵を増やしてしまうかもしれない。そういうことだろう。しかし、その手の面倒事に手をつけ、一つずつ着実に乗り越えていかなければ、もうこの家は頭打ちなのだ。それがわかっている以上は実行しなければいけない。美濃国にそれを成し遂げた男がいるじゃないか』
かかる下克上に対する億劫な気持ち、それが信長自身にも大いに思い当たるからこそ、信秀の行動を、己の弱さの一部として刺すように咎めていた。
しかし、その自己批判的なマジメさには、信長も自覚できない反作用があった。
理解できるものに対して辛辣な批評を突き付ける一方で、自分が知らない、分からないものに対して、信長は、根拠なく好意的になる癖がついていたのだ。大多数の人間は、未知のもの、理解できないものを恐れ、また、それと対峙する不安から逃れるために時に排除しようとするものだが、ここでも彼はアベコベだった。理解できないものを目の当たりにすると、「オレの知らない秘密があるらしい」と好奇心をたぎらせ、目を輝かせる。それが実相と遠くかけ離れていようとも。
その代表例こそ、斎藤利政という悪徳漢だった。
尾張の大勢力である父を二度に渡って叩き伏せ、そして、これまた父が手をつけられないでいる下克上を成し遂げた大妖怪。信長の目にはそう映っていた。
だから、今回の和睦も、信長の中では「織田にとって虫の良い話」に思えて仕方がない。何か裏があると決めつけてしまう。斎藤利政が、信長の恐れるところの大妖怪が、現実問題として、美濃の国衆たちをまとめるだけで青色吐息、信秀から持ち掛けられた和睦がまさに渡に舟だったという素朴な真実には、決して思い至らない。
天文十九年(一五四八年)秋の末、織田信秀と斎藤利政の和睦が確からしいと周囲に広く伝わった頃、陰謀実現の要を失ったことで、清洲衆もようやく弾正忠家との和議に応じた。
斎藤利政、清洲衆、双方の敵対勢力を一手で抑え込んだその手腕を評して皆が平手を褒めそやしたが、ただ一人、信長だけは未だ狐につままれたような心地で、「不気味な同盟だよ」などと、いつまでも執拗に訝しんでいた。
「やはり、こちらでしたか」
土手に座り込んでいる信長の背後から、平手が声をかける。
「戦に連れて行ってもらうのはもう諦めたよ。オレは、オレのやり方で戦を学ぶまでだ。見よ」
川の浅瀬に、竹槍を携えた信長一党の面々が、二つの組に分かれて戦っている。
模擬戦という奴だが、注目すべきはその竹槍の長さであった。およそ四間ほどもある長槍だ。本当にこんなものが役に立つのか? そう平手が訝ったとき、ちょうど、それをブンブン振り回していた一人の少年が体勢を崩して川にバシャンとずっこけた。
「信長さまよ、ホラ、四間の槍なんて無理ですよ。さっさと帰って餅でも食いましょうや」
「キサマだから無理なんじゃないか。もう一度やれ」
勝三郎はまたバシャンとずっこける。より上手く振り回す少年はほかにチラホラいたが、しかし、いずれにせよ戦場で立ちまわれそうな足取りでないことには変わりない。
「四間の槍はどうやら使いものにならんようだ。しかし、三間半までなら何とかなりそうに見えたよ。槍はすこしでも長い方がいい」
「一朝一夕で新たな戦術が生まれれば誰も苦労はしません。三間半すら聞いたことがない。なぜだかわかりますか」
「サアナ」
「誰も彼もが、「そんな長槍は使いものにならん」と当たり前に知っているからです」
「果たして、そうかな。平手、キサマは人を信じすぎるね。もし、誰もまだ試していなかったとしたらどうする。オレはそれが怖い。一朝一夕にいかないのはまったくその通りだが、やってみねば仕方ない。以前、キサマから美濃勢の槍が三間あると聞いたからな。実際のところどこまでできるか、オレの方でも試してみたというわけさ」
平手はそれ以上言い返す気にはならなかった。
そして、「美濃」という言葉を聞いて、自分が信長の元へきた要件に立ち返った。
「その美濃のことで大事なお話がございます」
「キサマの大事が、オレにとっても大事だったことは、甚だ少ないナ」
信長は平手の方を見ることなく、河原の竹槍隊をじっと見つめていた。
「美濃との和睦が成りました。ついては、斎藤利政殿のご息女を若のご正室として当家へお迎えする運びとなりましたので、これをご報告いたします」
それを聞いても、信長は平手の方を見向きもしなかったが、しかし、もう模擬戦を見分しているというわけでもないらしかった。ただ、遠くの空を見ていた。
「キサマが美濃へ行ったという話は聞いていた。そんなことをしていたのか」
清洲衆らの横やりを避けるため、婚姻はおろか、和睦の方針すら家中には秘匿されていた。当人の信長とて知るところではなかった。しかし、それを知っても、実際、信長はそんなことには構わなかった。
既に彼の関心事は、もっと別のところにぐっと捉えられていたのだ。
「あの利政がオレに娘を寄越すというのか。 ずいぶんと虫の良い話じゃないか。どんな手を使ったのだ、政秀」
平手はきょとんとした顔。格別、どんな手も使っていやしない。
「どんな手と言われましても……、以前から幾度か挙がっていた話を改めて取りまとめただけですからな」
「喋る気は、ないということか」
信長は微笑して草原に寝転がった。頬杖をつき、ああでもないこうでもないと好き勝手に謎解きに乗り出す。それを見る平手は、やはりきょとんとするばかり。
「利政はなぜ父上と、……、何か別の、いや……」
信長は父・信秀のことを十分に慕ってはいたが、しかし、ある面においては鋭い批評の目を向けていた。
『清州衆などはさっさと滅ぼすに限る。あんな小者を相手に和睦の算段をするなど、父上は間違っている』
信長には信秀の方針が分からないのではない。よく分かるのだ。父が、何を嫌がり、何を避けようとしているのか、よく分かっていた。
『清洲衆を攻め滅ぼせば、主筋に背いた逆賊の誹りは免れない。他の織田一族の反感を招き、今以上に敵を増やしてしまうかもしれない。そういうことだろう。しかし、その手の面倒事に手をつけ、一つずつ着実に乗り越えていかなければ、もうこの家は頭打ちなのだ。それがわかっている以上は実行しなければいけない。美濃国にそれを成し遂げた男がいるじゃないか』
かかる下克上に対する億劫な気持ち、それが信長自身にも大いに思い当たるからこそ、信秀の行動を、己の弱さの一部として刺すように咎めていた。
しかし、その自己批判的なマジメさには、信長も自覚できない反作用があった。
理解できるものに対して辛辣な批評を突き付ける一方で、自分が知らない、分からないものに対して、信長は、根拠なく好意的になる癖がついていたのだ。大多数の人間は、未知のもの、理解できないものを恐れ、また、それと対峙する不安から逃れるために時に排除しようとするものだが、ここでも彼はアベコベだった。理解できないものを目の当たりにすると、「オレの知らない秘密があるらしい」と好奇心をたぎらせ、目を輝かせる。それが実相と遠くかけ離れていようとも。
その代表例こそ、斎藤利政という悪徳漢だった。
尾張の大勢力である父を二度に渡って叩き伏せ、そして、これまた父が手をつけられないでいる下克上を成し遂げた大妖怪。信長の目にはそう映っていた。
だから、今回の和睦も、信長の中では「織田にとって虫の良い話」に思えて仕方がない。何か裏があると決めつけてしまう。斎藤利政が、信長の恐れるところの大妖怪が、現実問題として、美濃の国衆たちをまとめるだけで青色吐息、信秀から持ち掛けられた和睦がまさに渡に舟だったという素朴な真実には、決して思い至らない。
天文十九年(一五四八年)秋の末、織田信秀と斎藤利政の和睦が確からしいと周囲に広く伝わった頃、陰謀実現の要を失ったことで、清洲衆もようやく弾正忠家との和議に応じた。
斎藤利政、清洲衆、双方の敵対勢力を一手で抑え込んだその手腕を評して皆が平手を褒めそやしたが、ただ一人、信長だけは未だ狐につままれたような心地で、「不気味な同盟だよ」などと、いつまでも執拗に訝しんでいた。
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