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第一章 うつろの気
六
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信長がそこへやってきたとき、宴会という類の騒ぎはもう終わっていた。そこには、織田弾正忠家の一族衆だけが残っており、わずかに厳かな風がある。
上座、八重畳に座っているのが、織田弾正忠家・惣領の織田信秀である。この男を中心として、親類縁者がずらりと列座している。
「三郎信長、ただいま参りました」
これではどこへ座っても居心地が悪い。仕方がないから、信長は、覚悟を決めて空いていた中央にどっかと腰を下ろした。引見された罪人のようである。
「みんな葬式みたいな顔していますな。めでたい日なのに、良くないです」
大半が眉をひそめたが、信秀は信長のことを見もせず、しずかに酒を呷り、鼻で笑った。
「進退窮まったというヤツだな。どこを見ても、敵ときたものだ」
信秀の迅速な帰還で古渡城の落城は免れたものの、そもそもの目的だった美濃の大柿城の救援は頓挫し、信秀の撤兵後、やがて斎藤利政の軍勢によって陥落した。加えて、蜂起した清洲衆は依然として弾正忠家との和議に応じない意思を示していた。
「父上が、好きでつくられた敵さんでしょう。わたしに言われても困りますよ」
「どう切り抜けるのが良いと思うか。答えてみよ、ノブナガ」
新年会といえども武士の集まり。時には、現実の外交すら酒の肴にする。
同じ問答が、信長がやってくる前に既に行われていた。信秀は、嫡出二番の息子、つまりは、信長の弟(後・織田勘十郎信勝)に同じことを訊ねた。その答えは次の通りである。
「清州衆に臣従を申し出てみてはいかがでしょう。もちろん、形だけのことです。そうして、今度は、武衛さまを奉じ、再び、大軍勢で美濃を攻めます。守護の軍勢が、悪逆非道の斎藤利政を討つのです」
齢十二、まだ声変わりも済んでいない童の着想としては意気軒高、そして、堂々たる話しぶり。酒の席で身内の好評を博すのは、訳のないことだった。
うつけの兄・信長に比して、そのすぐ下の嫡弟が如才ない少年だというのは、口々に噂されていたことだった。先の問答を引き合いに出せば、それが現実に実現可能かどうかは問題ではなく、大多数の人間が望むものをすぐに差し出せるという事それ自体が、当意即妙の才覚、すなわち器量だと見なされるわけである。
そういった観点において、信長の答えは論外であった。
「まあ、清州衆は、ここらで諸共討ってしまうのがよろしいでしょう」
「ほう。美濃はどうする」
「どうもしませんよ。攻めてきたら追い返します。そのときに考えるのでは、いけませんかね」
何とも楽天的で行き当たりばったり、弟君に比べると、短慮で曖昧としか言いようがない。そんな思いの籠められた溜息が、いくらか折り重なって部屋にこぼれた。しかし、信長としては、むしろ、極めて具体的な回答をしたつもりだった。清州衆を攻め滅ぼすことには一つの確信があったが、斎藤利政の思惑など読めやしないからだ。
「ハハ。信長さまらしいお考えですな」
重苦しい沈黙を破って口を開いたのは、織田信光という男。
「和睦できないなら倒してしまう。素直な道理です。気持ちがいいではないですか」
信光は信秀の実弟である。信長からすれば叔父に当たる間柄。智勇兼備の名将と家中に誉れ高く、信秀が最も信頼を寄せる弟だが、しばしば、常識の反対をあえて好むクセがあるので、話していることのどこまでが本気なのだか、誰にもよくわからない。
「清洲衆を討てば、我らは謀反人となりましょう、叔父上」
件の嫡弟が反論の声を上げる。が、語気は強くない。叔父が本心から兄を認めているわけがないと確信しているからだ。
「そうして一国を支配した男が隣におりますな」
信光はちらりと信秀に目配せする。
「俺にあの成り上がりの真似事をしろと? うつけが」
口ではそう言いながらも、信秀は豪快に笑った。
さて、信長はというと、それきり置いてきぼりだった。何だか、酔っ払いたちが口先の上手さを競い合っている。「そういえば」と、信長は、父が連歌を好んでいたことを思い出した。信長も一人の武士として、幼少の頃より、弓馬、剣術、鉄砲の稽古に、水連(水泳)、鷹狩りなどはやりすぎるほどやったが、連歌の面白さはついにわからなかった。社交場と呼ばれるすべてのものは、信長にとってつまらないものだったのだ。
『どうせ遊びなら、下手に大人の振りなんかせず、つむじからつま先まで遊べばいいのに』
そう思っていた。
一しきりの歓談の後、やがて信秀が溜息交じりにぽつりと呟いた。
「どうも、また今年も忙しい年になるようだよ」
しかし、目は笑っている。それらの全てに勝つ自信があるのだ。
これが織田信秀という侍の異才だった。一時の負けや不利に頓着しない。根が豪快な楽天家なのだ。昨年、美濃から逃げ帰ったときでさえも、一晩ぐっすりと寝た後には、「つぎこそは俺が勝つさ」と笑い飛ばしてみせた。周囲が親兄弟を亡くして悲しみにくれていることなど素知らぬ顔、戦争に懲りる兆しなど欠片も見せず、翌月には、三河方面で今川方についた松平勢を蹴散らしていた。
信秀の思想は、至極単純明快である。『勝つまでやる』。それだけだった。しかし、ただの博徒とは年季が違っている。無尽蔵の戦を展開できるのは、熱田・津島といった港町で蓄えた財力の裏付けがあってのこと。負けが込んだら金でも何でも使って、あらゆる手段で、とにかく一時を凌ぐ。そうして、また、勝機が見え始めたら、「つぎこそは、」と出かけて行き、そして、本当に勝つのである。
『清洲衆、斎藤利政、今川義元、何するものぞ。反対に俺が食ってやる』
不屈の気概は家中に伝播し、いつ如何なる時も、弾正忠家を蘇らせてきた。
しかし、この日を境に、それにも翳りが見え始めることとなった。
宴の席も終わる頃、信秀が倒れたのだ。
上座、八重畳に座っているのが、織田弾正忠家・惣領の織田信秀である。この男を中心として、親類縁者がずらりと列座している。
「三郎信長、ただいま参りました」
これではどこへ座っても居心地が悪い。仕方がないから、信長は、覚悟を決めて空いていた中央にどっかと腰を下ろした。引見された罪人のようである。
「みんな葬式みたいな顔していますな。めでたい日なのに、良くないです」
大半が眉をひそめたが、信秀は信長のことを見もせず、しずかに酒を呷り、鼻で笑った。
「進退窮まったというヤツだな。どこを見ても、敵ときたものだ」
信秀の迅速な帰還で古渡城の落城は免れたものの、そもそもの目的だった美濃の大柿城の救援は頓挫し、信秀の撤兵後、やがて斎藤利政の軍勢によって陥落した。加えて、蜂起した清洲衆は依然として弾正忠家との和議に応じない意思を示していた。
「父上が、好きでつくられた敵さんでしょう。わたしに言われても困りますよ」
「どう切り抜けるのが良いと思うか。答えてみよ、ノブナガ」
新年会といえども武士の集まり。時には、現実の外交すら酒の肴にする。
同じ問答が、信長がやってくる前に既に行われていた。信秀は、嫡出二番の息子、つまりは、信長の弟(後・織田勘十郎信勝)に同じことを訊ねた。その答えは次の通りである。
「清州衆に臣従を申し出てみてはいかがでしょう。もちろん、形だけのことです。そうして、今度は、武衛さまを奉じ、再び、大軍勢で美濃を攻めます。守護の軍勢が、悪逆非道の斎藤利政を討つのです」
齢十二、まだ声変わりも済んでいない童の着想としては意気軒高、そして、堂々たる話しぶり。酒の席で身内の好評を博すのは、訳のないことだった。
うつけの兄・信長に比して、そのすぐ下の嫡弟が如才ない少年だというのは、口々に噂されていたことだった。先の問答を引き合いに出せば、それが現実に実現可能かどうかは問題ではなく、大多数の人間が望むものをすぐに差し出せるという事それ自体が、当意即妙の才覚、すなわち器量だと見なされるわけである。
そういった観点において、信長の答えは論外であった。
「まあ、清州衆は、ここらで諸共討ってしまうのがよろしいでしょう」
「ほう。美濃はどうする」
「どうもしませんよ。攻めてきたら追い返します。そのときに考えるのでは、いけませんかね」
何とも楽天的で行き当たりばったり、弟君に比べると、短慮で曖昧としか言いようがない。そんな思いの籠められた溜息が、いくらか折り重なって部屋にこぼれた。しかし、信長としては、むしろ、極めて具体的な回答をしたつもりだった。清州衆を攻め滅ぼすことには一つの確信があったが、斎藤利政の思惑など読めやしないからだ。
「ハハ。信長さまらしいお考えですな」
重苦しい沈黙を破って口を開いたのは、織田信光という男。
「和睦できないなら倒してしまう。素直な道理です。気持ちがいいではないですか」
信光は信秀の実弟である。信長からすれば叔父に当たる間柄。智勇兼備の名将と家中に誉れ高く、信秀が最も信頼を寄せる弟だが、しばしば、常識の反対をあえて好むクセがあるので、話していることのどこまでが本気なのだか、誰にもよくわからない。
「清洲衆を討てば、我らは謀反人となりましょう、叔父上」
件の嫡弟が反論の声を上げる。が、語気は強くない。叔父が本心から兄を認めているわけがないと確信しているからだ。
「そうして一国を支配した男が隣におりますな」
信光はちらりと信秀に目配せする。
「俺にあの成り上がりの真似事をしろと? うつけが」
口ではそう言いながらも、信秀は豪快に笑った。
さて、信長はというと、それきり置いてきぼりだった。何だか、酔っ払いたちが口先の上手さを競い合っている。「そういえば」と、信長は、父が連歌を好んでいたことを思い出した。信長も一人の武士として、幼少の頃より、弓馬、剣術、鉄砲の稽古に、水連(水泳)、鷹狩りなどはやりすぎるほどやったが、連歌の面白さはついにわからなかった。社交場と呼ばれるすべてのものは、信長にとってつまらないものだったのだ。
『どうせ遊びなら、下手に大人の振りなんかせず、つむじからつま先まで遊べばいいのに』
そう思っていた。
一しきりの歓談の後、やがて信秀が溜息交じりにぽつりと呟いた。
「どうも、また今年も忙しい年になるようだよ」
しかし、目は笑っている。それらの全てに勝つ自信があるのだ。
これが織田信秀という侍の異才だった。一時の負けや不利に頓着しない。根が豪快な楽天家なのだ。昨年、美濃から逃げ帰ったときでさえも、一晩ぐっすりと寝た後には、「つぎこそは俺が勝つさ」と笑い飛ばしてみせた。周囲が親兄弟を亡くして悲しみにくれていることなど素知らぬ顔、戦争に懲りる兆しなど欠片も見せず、翌月には、三河方面で今川方についた松平勢を蹴散らしていた。
信秀の思想は、至極単純明快である。『勝つまでやる』。それだけだった。しかし、ただの博徒とは年季が違っている。無尽蔵の戦を展開できるのは、熱田・津島といった港町で蓄えた財力の裏付けがあってのこと。負けが込んだら金でも何でも使って、あらゆる手段で、とにかく一時を凌ぐ。そうして、また、勝機が見え始めたら、「つぎこそは、」と出かけて行き、そして、本当に勝つのである。
『清洲衆、斎藤利政、今川義元、何するものぞ。反対に俺が食ってやる』
不屈の気概は家中に伝播し、いつ如何なる時も、弾正忠家を蘇らせてきた。
しかし、この日を境に、それにも翳りが見え始めることとなった。
宴の席も終わる頃、信秀が倒れたのだ。
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