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第七話

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 あれから、宇土は人から愚鈍ぐどんと馬鹿にされても、自分は饂飩うどんだと言い返し、黙々と飾り彫りの腕を磨いた。
 そして三十年が経ち、将軍も吉宗公から家重公に変わった宝暦の頃、宇土はその世界で名の通った職人になっていた。その頃には宇土の事を愚鈍と呼ぶ人間は、誰もおらず、みんな、親しみを込めて、『饂飩さん』と呼ぶようになっていた。

「饂飩さん、やっとですね」
「そうだね。やっとだね」

 宇土こと、饂飩はその腕を見込まれて、京に呼ばれたのだった。それは俵との約束であり、宇土の夢だった。
 あの日、甚六を説得してくれたことを、俵にお礼を言うと、『一人前になって、京に呼ばれるようなことがあれば、店の看板を作ってくれ』と言われたのだった。

 卯月四月も半ば、宇土は唯一の弟子である竜露たつろうと共に京へと着くと、まず、俵の饂飩屋へと向かう。その店は学問の神様で知られる北野天満宮の門前にあった。
 年期の入った看板のない店のれんを潜ると、生きの良い声が聞こえてきた。

「へい、いらっしゃい。お二人ですね」
「は、はい。一本饂飩を二杯ください」

 宇土は注文をすると、店の中を見回した。
 老舗らしく、落ち着いた店内にほぼ満員の客が入っていた。町人職人以外にも、腰に長物を差している人も多く見られる。
 年季の入った机には、饂飩の匂いが染み込んでいるようだった。

「へい、おまち」

 出された饂飩はあの日、恩人が出してくれた饂飩そのものだった。やはり、ここは俵の店で間違いない。懐かしさを覚えながら完食した宇土は、店の人を呼んだ。

「すみません。こちらに俵さんはいらっしゃいますか?」
「へ、へい。少々お待ちを」

 二十歳を過ぎた頃の娘は、怪訝な顔をしながら奥へと引っ込んだ。
 しばらくすると、粉で汚れた前掛けをした、宇土と変わらない年の親父が出てきた。

「へえ、何かございましたか?」
「え、あ、ぼくが呼んだのは俵さんで……」
「へえ、ですから私が俵ですが」
「へえ?」

 宇土が知っている俵は、こんなに若くはなかった。もっと白髪が多く、顔に皺も深く、渋い感じだった。
 しかし、自分を俵だと言うこの人が、嘘をついているようには見えなかった。
 
「饂飩さん、この人は俵さんの息子さんか、お孫さんでは? 饂飩さんが俵さんに会ったのは、もう三十年も前の話でしょう」
「ああ、そうか。うっかりしていた」

 年を取っても宇土は、宇土だった。
 普通に考えれば分かることも、うっかりと忘れてしまう。
 頭を掻いて笑う宇土に、俵は話しかけた。

「三十年前ですか? その体つきは……もしかして、あなたは宇土さんですか? 祖父がずっと言っていた江戸一番の飾り彫り職人の?」
「祖父? じゃあ、あなたは俵さんのお孫さん?」
「ええ、私は俵源左衛門の孫の俵喜三郎と申します」
「そうなんですね。それで俵さんは今どこに? やっとあの日の約束を果たしに来たのです」
「祖父ですか……この後、お時間はありますか?」

 看板を作るつもりでいたため、時間に余裕を持っていた。
 
「大丈夫ですが、俵さんはここにいないのですか?」

 そう言えば、よく考えれば俵はかなりの高齢のはずだ。自宅で老後を過ごしているのだろう。
 そんな俵の元を訪れるのだから、相手の都合に合わせるべきだろう。
 だから、お孫さんに任せた方がいいだろうと、宇土は考えた。

「ええ、まだお客が多いので、半刻一時間ほど待って貰えますかね」
「それは全く問題ないです」

 宇土と弟子の竜露は待つ間、店に迷惑がかからないように、北野天満宮へ行くことにした。
 一の鳥居を潜り、楼門をすぎ、三光門へとたどり着いた。
 
「あれ? 饂飩さん、御本殿に行かないんですか?」

 三光門をまじまじと見上げる宇土に、竜露は声をかけた。
 宇土はその声に気が付かないかのように、門を食い入るように見ていた。

「竜露よ。ここは三光門って言って、お天道様、お月さん、お星さんが彫られてるって聞いてんだが、お星さんはどこにあるんだろうな?」
「そう言えばそうですね。二匹の兎の間に下弦の月がありますから、これが、星じゃないんですか?」
「星にしては大きくないか? お天道様とお星さんが同じ大きさって言うのもおかしくないかい」
「そう言われりゃ、そうですね」
「ははは、いいところに気が付かれましたな」

 二人に声をかけたのは、紫袴の装束を身につけた宮司だった。
 驚いた二人は慌てて頭を下げた。

「どうぞ、頭をお上げください。先ほどおっしゃったように、それは日と月を表しております。じゃあ、星はどこにあるかと申しますと、天子様天皇がおられます禁中朝廷大極殿からこの門を見ますと、北のひとつぼし北極星がちょうどこの門の真上に来るのです。だから、この門は三つの光で三光門というのです」
「普段は見えない物を、彫り物のひとつにするなんて、粋ですね。勉強になります」

 一人前と言われるようになっても宇土自身何も変わりが無かった。いつでも、実直に今でも修行を続けながら、取り入れられる物を探していた。しかし、彫らない物を表現する。そんな発想は宇土にはなかった。
 大事な何かを得たような気持ちになった宇土は、本堂で参拝する。

(菅原の道真公、どうか、竜露を早く一人前の職人になる方法を教えてください。この愚鈍な頭じゃ、竜露が可哀想で……)

 宇土は自分の事ではなく、唯一残った可愛い弟子の行く末をお祈りしていた。
 飾り彫り職人として名をはせた宇土の元に、弟子志願は多くやってくる。
 しかし、一向に要領を得なく、普通の人間からすれば遠回りにしか見えない、宇土のやり方に嫌気をさし、次々と辞めていき、最後に残ったのは竜露だった。
 そのため、宇土はこの唯一の弟子を可愛く思っていた。

「饂飩さん、早く嫁が来るようにお祈りしておきましたよ」

 その弟子は、宇土の気持ちも知らずに、的外れなお願いをしていたようだった。
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