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扉
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『開かずの扉』
その扉をくぐれば何処へでも行ける。
そんなふうに思っていた。
その扉をくぐれば何にでもなれる。
そんなふうに信じていた。
その扉をくぐれば手に入れられる。
そんなふうに欲していた。
その扉をくぐれば世界が広がっている。
そんなふうに見えていた。
その扉をくぐれば違う自分に出会える。
そんなふうに期待していた。
でもね、ぼくには勇気がないんだよ。
そして扉は今日も、堅く閉ざされたまま。
〈了〉
『開かれた扉』
旅先で偶然訪れた、とある小さな街。
その街外れの一角に、瀟酒な洋館があった。
建てられてからまだそれほどの年月は経過していないらしい。白い壁面は汚れひとつなく、眩しい陽の光を照り返している。
まさに『白亜の豪邸』の言葉がしっくりくる佇まいだ。
「どんな家族が住んでいるのだろう」
何故か強く心惹かれるものを感じたぼくは、無意識のうちにその館に足が向いていた。
人の気配は全く感じない。
だが、手入れは行き届いているようなので、廃墟というわけではないようだ。
館に目をやりながら塀に沿って歩いていると、やがて立派な門構えが現れた。
門戸は開いている。やはり住人がいるのだろう。
ほんの少しの罪悪感を覚えながら、ぼくは門の中を覗いてみた。
緑の芝で彩られた十メートルほどの前庭の奥に建つ白い館は、まるで海外の絵はがきを見ているようだった。
そんな風景に見惚れていると、すうっと玄関の扉が開いた。
――まずい。
不審者にでも思われたら厄介だ。
すぐにその場を離れようと、頭では思ったのだが、何故か足が動かない。
そして、目も扉から離すことが出来ない。
幸い扉の向こうからは誰も出てこないので、ぼくは安堵する。それと同時に、微かな違和感を覚えた。
扉はまるでぼくを誘うかのように、その口を開けている。
今思い返せば、この時すぐにでも引き返すべきだった。
だが、ぼくの足は扉に向かって歩を進めていた。まるで見えない力に操られているかのように。
芝生に等間隔で据えられた飛び石を伝い、前庭を歩いて扉の前までやってきた。
中を覗くと、昼間だというのに窓は全て厚いカーテンが閉められ、室内は照明が灯されていた。
ぼくは何も疑うことなく、扉をくぐった。
広い玄関ホールだった。吹き抜けの天井は高く、こんなの現実に存在するんだと思わせるほどの、豪華絢爛なシャンデリアが吊るされていた。
ホール中央まで来たところで、ぼくの足はようやく自由を取り戻した。
立ち止まり、周囲を見まわす。
明らかに不法侵入だ。住人が現れたら何と言い訳すればよいのだろう。
そう考えた直後、人の視線を感じたぼくは、全身が粟立つのを覚える。
玄関ホール正面、幅の広い階段を上ったその先の踊り場部分。その壁には、縦幅一メートル以上はゆうにありそうな、大きな肖像画が掛けられていた。
視線の主の正体だ。
「なんだ、絵か」
ぼくはほっと胸を撫で下ろす。
ほぼ等身大なのだろう。かなりリアルに描かれた、肖像画を見上げる。若い貴婦人がモデルのようだ。口元に笑みを湛え、慈しみ深い目で玄関ホールのぼくを見下ろしている。
「なんて綺麗な人だ……」
ぼくは時が経つのも忘れて貴婦人像に見入っていた。
館に足を踏み入れてから、どれだけ経っただろうか。
「いらっしゃいませ」
女性の声がした。幻聴などではない、はっきりとした人の声だ。
すると階段の踊り場、そのさらに上から、ひとりの若い女性がゆっくりと降りてきた。どこかで見たようなドレスを身に纏っている。
それもそのはずだ。つい今しがた見たばかりの、肖像画のモデルと同じドレスなのだから。
ん? 待てよ、顔立ちも似ている。そうか、あの肖像画はこの女性がモデルなのだろう。
いや、そんなことはどうでもいい。
今の、この状況をどう説明すればいいのだろうか。
「あ、あ、あの、すいません。黙って入ってしまって」
しどろもどろで口を開くが、言い訳が全く思い浮かばない。ところが――。
「お待ちしておりましたのよ」
一段一段を確かめるように階段をゆっくりと降りながら、女性は思いもよらない言葉を口にした。
凛とした、それでいて優しさも感じる透き通った声。
待っていた? ぼくを? 何故?
得も言われぬ感覚が、ぼくの全身を駆け抜ける。
(――ヤバい)
直感が、いや本能が警告する。ここはヤバいところだと。
「あの、本当にごめんなさい。すぐ出て行きますので」
そう言うと、ぼくは踵を返し、玄関へ向かおうとする。
だが、開けっ放しだったはずの玄関の扉は、いつの間にか閉められていた。
「そう言わずに、ゆっくりして行ってくださいな」
背後から女性が声を掛ける。
恐る恐る振り返ると、彼女はすでに目の前に立っていた。蒼白い顔は照明の加減なのだろうか。
「ひっ」
思わず声にならない悲鳴が、咽喉からこぼれた。
女性の顔を直視出来ず、背後の階段の方へ視線を向けたぼくは、更に驚かされることになる。
踊り場の壁に掛けられていた肖像画だ。
信じられないことに、描かれていた貴婦人は消えており、背景だけの、風景画になっていた。
今、目の前にいるこの女性はあの絵から抜け出てきたのか? まさか、そんなこと――。
ぼくは閉ざされた扉を開き、そして開かれた扉へ入ったことを、激しく後悔していた。
〈了〉
その扉をくぐれば何処へでも行ける。
そんなふうに思っていた。
その扉をくぐれば何にでもなれる。
そんなふうに信じていた。
その扉をくぐれば手に入れられる。
そんなふうに欲していた。
その扉をくぐれば世界が広がっている。
そんなふうに見えていた。
その扉をくぐれば違う自分に出会える。
そんなふうに期待していた。
でもね、ぼくには勇気がないんだよ。
そして扉は今日も、堅く閉ざされたまま。
〈了〉
『開かれた扉』
旅先で偶然訪れた、とある小さな街。
その街外れの一角に、瀟酒な洋館があった。
建てられてからまだそれほどの年月は経過していないらしい。白い壁面は汚れひとつなく、眩しい陽の光を照り返している。
まさに『白亜の豪邸』の言葉がしっくりくる佇まいだ。
「どんな家族が住んでいるのだろう」
何故か強く心惹かれるものを感じたぼくは、無意識のうちにその館に足が向いていた。
人の気配は全く感じない。
だが、手入れは行き届いているようなので、廃墟というわけではないようだ。
館に目をやりながら塀に沿って歩いていると、やがて立派な門構えが現れた。
門戸は開いている。やはり住人がいるのだろう。
ほんの少しの罪悪感を覚えながら、ぼくは門の中を覗いてみた。
緑の芝で彩られた十メートルほどの前庭の奥に建つ白い館は、まるで海外の絵はがきを見ているようだった。
そんな風景に見惚れていると、すうっと玄関の扉が開いた。
――まずい。
不審者にでも思われたら厄介だ。
すぐにその場を離れようと、頭では思ったのだが、何故か足が動かない。
そして、目も扉から離すことが出来ない。
幸い扉の向こうからは誰も出てこないので、ぼくは安堵する。それと同時に、微かな違和感を覚えた。
扉はまるでぼくを誘うかのように、その口を開けている。
今思い返せば、この時すぐにでも引き返すべきだった。
だが、ぼくの足は扉に向かって歩を進めていた。まるで見えない力に操られているかのように。
芝生に等間隔で据えられた飛び石を伝い、前庭を歩いて扉の前までやってきた。
中を覗くと、昼間だというのに窓は全て厚いカーテンが閉められ、室内は照明が灯されていた。
ぼくは何も疑うことなく、扉をくぐった。
広い玄関ホールだった。吹き抜けの天井は高く、こんなの現実に存在するんだと思わせるほどの、豪華絢爛なシャンデリアが吊るされていた。
ホール中央まで来たところで、ぼくの足はようやく自由を取り戻した。
立ち止まり、周囲を見まわす。
明らかに不法侵入だ。住人が現れたら何と言い訳すればよいのだろう。
そう考えた直後、人の視線を感じたぼくは、全身が粟立つのを覚える。
玄関ホール正面、幅の広い階段を上ったその先の踊り場部分。その壁には、縦幅一メートル以上はゆうにありそうな、大きな肖像画が掛けられていた。
視線の主の正体だ。
「なんだ、絵か」
ぼくはほっと胸を撫で下ろす。
ほぼ等身大なのだろう。かなりリアルに描かれた、肖像画を見上げる。若い貴婦人がモデルのようだ。口元に笑みを湛え、慈しみ深い目で玄関ホールのぼくを見下ろしている。
「なんて綺麗な人だ……」
ぼくは時が経つのも忘れて貴婦人像に見入っていた。
館に足を踏み入れてから、どれだけ経っただろうか。
「いらっしゃいませ」
女性の声がした。幻聴などではない、はっきりとした人の声だ。
すると階段の踊り場、そのさらに上から、ひとりの若い女性がゆっくりと降りてきた。どこかで見たようなドレスを身に纏っている。
それもそのはずだ。つい今しがた見たばかりの、肖像画のモデルと同じドレスなのだから。
ん? 待てよ、顔立ちも似ている。そうか、あの肖像画はこの女性がモデルなのだろう。
いや、そんなことはどうでもいい。
今の、この状況をどう説明すればいいのだろうか。
「あ、あ、あの、すいません。黙って入ってしまって」
しどろもどろで口を開くが、言い訳が全く思い浮かばない。ところが――。
「お待ちしておりましたのよ」
一段一段を確かめるように階段をゆっくりと降りながら、女性は思いもよらない言葉を口にした。
凛とした、それでいて優しさも感じる透き通った声。
待っていた? ぼくを? 何故?
得も言われぬ感覚が、ぼくの全身を駆け抜ける。
(――ヤバい)
直感が、いや本能が警告する。ここはヤバいところだと。
「あの、本当にごめんなさい。すぐ出て行きますので」
そう言うと、ぼくは踵を返し、玄関へ向かおうとする。
だが、開けっ放しだったはずの玄関の扉は、いつの間にか閉められていた。
「そう言わずに、ゆっくりして行ってくださいな」
背後から女性が声を掛ける。
恐る恐る振り返ると、彼女はすでに目の前に立っていた。蒼白い顔は照明の加減なのだろうか。
「ひっ」
思わず声にならない悲鳴が、咽喉からこぼれた。
女性の顔を直視出来ず、背後の階段の方へ視線を向けたぼくは、更に驚かされることになる。
踊り場の壁に掛けられていた肖像画だ。
信じられないことに、描かれていた貴婦人は消えており、背景だけの、風景画になっていた。
今、目の前にいるこの女性はあの絵から抜け出てきたのか? まさか、そんなこと――。
ぼくは閉ざされた扉を開き、そして開かれた扉へ入ったことを、激しく後悔していた。
〈了〉
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