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第十一章 濁り水
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「どうして美帆さんはぼくにあんなことを要求したのだろう」と小学校五年生の悠太郎は考えながら、楢や唐松や白樺が緑濃い枝を差し交わす林間の道を、照月湖へ向かってゆっくりと歩んでいた。一九九四年の夏休みも近い、ある暑い日曜日のことであった。歩むにつれて木洩れ日は、聞こえない音楽の川のようにきらきらと光り流れて、幼かった頃の夏の日にも変わらず悠太郎を陶然とさせた。しかし葉叢とそのあいだを洩れる光を不思議がる一方で、「どうして美帆さんはぼくにあんなことを要求したのだろう」という疑問をも今の悠太郎は持っていた。いつしか緑の葉叢を洩れる光の流れと、空手道場でしか会うことのない敏捷な美帆の姿が混ざり合った。蝉が鳴き夏鳥が歌い、刈られた草が訴えるような匂いを放つなかを風が吹けば、もはや葉叢が鳴っているのか光が鳴っているのか定かではなかった。その明滅する光のなかに、あたかも白い道着を身にまとって茶帯を締めた美帆の姿が浮かび、素早く鋭い突きや蹴りを繰り出しては切れ長の目で悠太郎を顧みて、どうだとばかり薄い唇で薄く微笑むかのようであった。ほとんど感情を表さない美帆の白い顔には、空手の稽古で激しく動いた後ではほのかな赤みが差した。稽古で発する高く鋭い気合いのほかには、言葉を話すのを聞いたこともなかった。それがまたよりにもよって美帆さんは、どうしてあんなことをぼくに要求したのだろう――。
美帆さんというのは、空手道場の副師範の娘であった。道場になっているのは、やがては悠太郎も通うことになる中学校の体育館であった。普段は農協に勤めている赤木篤師範と赤木駿副師範の兄弟が、夜に体育館を借りて空手を教えていたのである。篤も駿も馬のつく字だから、この師範と副師範は空手家の馬兄弟で通っていた。実際のところ兄弟ともに馬面であった。篤師範の目の細い乾燥した顔も、駿副師範の睨むような目をした脂ぎった顔も、どちらも実に長かったのである。悠太郎は四年生のとき祖父の千代次に強いられて、この空手道場に入門していた。千代次はあるとき朝食の席で極度に細い近視の目をしばたたきながら、「おいユウ、ピアノもいいが、おめえは運動も何かやらにゃあならねえ。人間の価値なんちゅうものは、頭の強さと体の強さのふたつに尽きる。おめえはその弱い体を、もっと鍛えにゃあならねえ。野球部が嫌なら、せめて空手をやれ。道場を開いている馬兄弟ちゅう奴等は、なかなかの使い手らしいぞ。おめえそこへ入って鍛えてもらって来お」と命じ、「それにしても篤に駿か。馬の好きな親だったんだのう。ユウおめえ、駿がつく熟語を何か言えるか?」と問うたので、悠太郎は睫毛の長い目を伏せたまま「駿馬」と「優駿」を挙げた。すると千代次はなおも「篤がつく熟語は何がある?」と問うたので、悠太郎は少し考えてから「篤実」を挙げ、またピアノ教室の佐藤陽奈子先生を思い浮かべて「篤信」を挙げた。悠太郎は小学校四年生にして、これらの熟語をすでに知っていたのである。それから千代次が好きな土井晩翠の「星落秋風五丈原」から、諸葛孔明の病が篤いことを歌ったリフレインを挙げることも忘れなかった。千代次は眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながら「それはおめえ、熟語じゃあるめえ」と言って機嫌よく笑った。祖母の梅子はパンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら「ウッフフ、篤さんは正子の同級生だったねえ。そうだよ悠太郎、しっかり鍛えてもらって来お。そうしておまえの父親から受け継いだ悪魔の性質を、根絶やしにするんだよ。ピアノも弾けて武道もできれば立派なもんだよ。ウッフフ、まわりの奴等に差をつけろ! 与太奴等をぶっ潰せ! 馬鹿奴等を蹴散らせ!」と言って満面に喜色を浮かべた。悠太郎はいつもの水っぽい野菜炒めに入っているキャベツの芯やシイタケの石突きが、急に口のなかで咀嚼できないものに変わってしまったように感じた。母の秀子は下膨れの顔を困ったように笑わせながら、悠太郎の同級生の親たちにも空手道場に興味を持っている人がいることを思い出していた。地母神のような戸井田アオイさんや、篤信のカトリック教徒である佐藤陽奈子さんがそういう人であった。
それで悠太郎は戸井田一輝や佐藤隼平と一緒に、三人して同時に入門したのである。道場主の赤木篤師範は、中学生や高校生もいる上級者を教えていた。入門したばかりの初心者は、赤木駿副師範が指導していた。白い道着に白帯を締めた三人は、稽古が始まって体育館を十周走り終えると、相手から目を離さない礼の仕方から始まって、閉足立ちや平行立ちや四股立ちや前屈立ちといった立ち方を教わり、また正拳の握り方や突き方を教わった。だがあるとき駿副師範が教えた「しと打ち」なるものを、悠太郎はうわべばかりは真似しながらも、その名の意味するところを理解しかねた。教えたことを毎日必ず家で稽古するようにという駿副師範の言葉を、悠太郎は割合と忠実に実行していたから、初めのうちその上達ぶりは、秀子が心配したほど悪くないようであった。三人は一緒に四股立ちの姿勢で正拳突きを十回繰り出し、十回目に「せい!」と気合いを発した。前屈立ちの足を摺り足で移動させながら、上段受けや中段受けや下段払いをすることもあった。駿副師範が野太い声で「一!」とか「二!」とか「三!」とか掛け声をかけるのに合わせて、三人はそうした基本を稽古したのだが、駿副師範は「六!」と言うべきとき、なぜか「ウーク!」と言ったので、そのたびに悠太郎は内心おかしがった。すると悠太郎の内心の動きが見えるのか、駿副師範は野太い声で「真壁! 引き手がなってない!」と注意するのである。そんなとき隼平は斜視気味の目で悠太郎を見て小気味よさそうに笑っては、ひょろ長い手足を存分に活かして、正拳突きや前蹴りや回し蹴りを繰り出した。悠太郎はしかし左足の前蹴りのときうまく力が入らず、いつも膝をくきっと鳴らしていた。三人を評する駿副師範の言葉は、いつもだいたい似たようなものだった。「佐藤はずいぶんよくなった! 真壁はまあまあよくなった! 戸井田! おめえは本当に家で稽古してるのか? いっこうなってねえじゃねえか!」ということになるのが常であった。そんなことを言われ続けても、一輝は別段気にしていない様子で、いくらか鳥の嘴めいた唇で笑いを堪えていた。実に男臭く汗臭い空手道場という環境のなかで、この三人が一緒にいることの滑稽味を、一輝は楽しんでいるようであった。そんな奇妙な三人を、体育館の壁に備えつけられたトレーニング用の大型鏡が、揺らめきも波立ちもせずに映していた。
「するとこれが正子ちゃんの甥っ子なのか」と赤木篤師範は、時々遠くから悠太郎の様子を見ながら考えた。中学校まで一緒だった正子ちゃんは、文武に秀でた立派な子だったっけ。バレーボールを活発にやっていて、男子たちの憧れの的だったっけ。たしか正子ちゃんは薬剤師になって自衛官と結婚したが、子供には恵まれなかったはずだ。たったひとりの甥っ子を、正子ちゃんはさぞや可愛がっていることだろう。それにしても悠太郎の覇気のなさときたらどうだ。こんなに覇気のない男の子が、この世にいるとは思わなかった。この道場で彼を預かるのは、あるいは間違ったことではないか――。篤師範はそんなことを考えながら、差し当たり弟に任せてある悠太郎を、乾燥した長い顔の細い目で見守っていた。
美帆さんというのは、その空手道場の赤木駿副師範の娘で、門弟のなかでただひとりの女子であった。美帆の敏捷なことといったら、ほかの門弟たちの及ぶところではなかった。突きや蹴りや払いのひとつひとつが、固体の重さをまったく失った高速の気流のようであった。二段蹴りを打つときは、びっくりするほど高く跳躍した。形の演武は平安四段も平安五段もナイハンチ初段も、飛び抜けて美しかった。だが組手もまた実に強かった。約束組手で美帆に対するとき、悠太郎はその吹きつける烈風のような突きに思わず目を瞑った。どんなに瞑るまいとしても瞑ってしまうのである。そんなとき駿副師範は野太い声で「おい真壁、おめえは女の突きが怖えのか!」と一喝するのであるが、そこには強い娘の父親としての誇りもまた、いくらかは混じっているに違いなかった。そして自由組手では目にも留まらぬ早技を繰り出して男たちを圧倒した。基本や形や組手のときに発する高く鋭い気合いのほかには、悠太郎は美帆の声を聞いたことがなかった。美帆はそれほど静かであった。ほとんど感情を表さない美帆の白い顔からは、激しい運動を終えて休むとすぐに赤みが引いていった。するともう美帆が何を考えているのか、その切れ長の目には世界がどう見えているのか、悠太郎には何も窺い知れなかった。そもそも年はいくつなのか、同い年なのか上なのか下なのか、悠太郎は知らなかったし尋ねてみるつもりもなかった。年がいくつであれ、こんなに強いうえに副師範の娘なのだから、敬わなければならないと悠太郎は思っていた。そんな敬意をともに稽古するなかで感じるのか、美帆は父親のか弱い門弟である悠太郎を見ると、薄い唇で薄く笑ってみせることがあった。あるとき悠太郎は、美帆にはどこか留夏子を思わせるところがあると気がついた。切れ長の目といい、薄い笑いといい、頭の後ろでひとつに束ねた髪型といい、どこか留夏子に似ているような気がした。留夏子から学業をたやすくやってのける知性や、音楽や絵画を好む感性や、自己の存在を不純だと考えるような精神性をことごとく抜き去ったら、あるいは空手機械のような美帆になるのかもしれなかった。
標高およそ千メートルの高原とはいえ、体育館が蒸し暑くなる夏には、道場はますます汗臭くなったし、ことに自由組手のときに着ける垢じみた拳サポーターはひどい臭いがした。標高およそ千メートルの高原ゆえに、体育館の床が氷のように冷たくなる冬には、足袋の着用が許されたから、隼平や一輝は摺り足が楽になると言って、スケートでもするように床を滑った。三人は一緒に形の演武を行ない、三人一緒に白帯から紫帯になり、やがて緑帯になったが、その頃には美帆はすでに茶帯を締めていたのである。悠太郎はどうにか緑帯まではついて来られたが、それも落伍の兆候を示しながらであった。初めのうちは見劣りのした一輝であったが、もともと悠太郎には体力で勝っていたのだから、少し本腰を入れて稽古すれば、たちまちこのか弱い同級生を凌ぐわけであった。体の正中線がどうとか、重心がどうとか、腰の切れがどうとか教えられるが、そういう身体感覚に関することが悠太郎には分からなかった。駿副師範に野太い声で「真壁! もっと腰を入れろ!」と一喝されても、悠太郎にはどうしてよいか分からないのである。一緒に入門した隼平や一輝にはもうついてゆけないと悠太郎は落胆し、落ちこぼれてゆくぼくを美帆さんは笑うだろうかと思ったりした。
新たな入門者が現れたのは、悠太郎がそんなことを思っていた一九九四年の五月のことであった。体育館を十周走った後で門弟たちは整列し、前に立った赤木篤師範の乾燥した長い顔を見ていた。「今日からこの道場に入る者がいる」と言った篤師範は、その人に同じく前に出るよう促した。その人は真新しい黒帯を着けていたから、もともとどこかで空手を習っていたのだろうと悠太郎は思った。年はぼくよりもずいぶん上らしい。中学生いや高校生だろうか。背は高いし体格は筋肉質だし、暗い顔にはもうひげの剃り跡が濃い。ぼくも大きくなれば、あんなふうになるのだろうか。それにしてもこの懐かしさはどこから来るのか? がっしりと筋肉質になりながらも、なおハンノキの若木のようにまっすぐなその体も、道着の丈を短く見せるほどすらりと長く伸びた腕や足も、濃いひげの剃り跡にもかかわらず色白のその肌も、弓なりのしなやかな眉も、血走っていながらもなお円かに見開かれた目も、どこかで見たことがあるような気がする――。悠太郎がそう思っていると、その人はリスを思わせるやや大きな白い前歯を見せながら、声変わりした大人の男の低い声で、驚くべきことを言った。「入江紀之です。よろしくお願いします」
悠太郎は思わずあっと声を上げた。それはレストラン照月湖ガーデンのシェフの息子のノリくんであった。誰よりも慕わしい湖の騎士であった。ノリくんがいる、ノリくんがいる、今ここにいる、生きている!――喜びのあまり悠太郎は、心が明澄な湖水のように揺らめき光るのを感じた。陶酔のなかで悠太郎は、指を折って彼我の年の差を数えた。ぼくが小学校一年生のとき、ノリくんは六年生だった。ぼくが五年生になった今では、ノリくんはもう高校一年生だ。「まあず子供の成長は早えのう。ネズミは四月から幼稚園の年長さんで、ユウは小学校二年か。するとノリ、今度おめえは中学校へ行くのか?」と問うライサク老人に、紀之が屈託のない声で「はい!」と答えたのはつい昨日のことのようなのに、ノリくんはもうその中学校をも卒業してしまったというのか――。悠太郎が時の不思議を思いながら、二重瞼の物問いたげな目を見開いて紀之を見つめていると、紀之もまた脳裏に思念をめぐらせた後で相手を認め、「ユウじゃないか」と言った。篤師範は乾燥した長い顔に驚きの色を浮かべながら、「なんだ入江、真壁と知り合いだったのか?」と意外そうに尋ねた。紀之は手短に「はい」と答えた。
これはうまいめぐり合わせかもしれないと考えた篤師範は、駿副師範の指導のもとで稽古する悠太郎の様子を紀之に見せた。紀之は円かな目を見開いて注意深く悠太郎の動きを見た。紀之は悠太郎の困難をすぐさま見て取った。突きでも蹴りでも払いでも、ひとつひとつの動作を意味も分からずに行なうのが、悠太郎にはつらいのだろうなと紀之は思った。平安五段の形で跳躍するとき、悠太郎はほかのふたりより一瞬遅れていた。ふたりが動くのを見てからしか、悠太郎は動けないのだと紀之には明らかであった。「どうだ入江、どうにかできそうか?」と問う篤師範に、「任せてください。真壁のことならよく知っています。筋は悪くないですよ」と紀之は答えた。そうしたわけで悠太郎はいったん一輝や隼平と離れ、一対一で紀之の指導を受けることになった。
道場で紀之と過ごす時間は、悠太郎にとってなんと豊かであったことか! さながら照月湖でともに過ごした四年前の日曜日が、姿を変えて夜の体育館に回帰したかのようであった。体育館の壁に備えつけられたトレーニング用の大型鏡は、照月湖が明鏡閣や浅間山を映すように、紀之と悠太郎を映したのである。あの頃初めてボートに乗った悠太郎に、紀之は腰を落として重心を低くすることを教えた。今また紀之は悠太郎に、空手における腰の落とし方を教えたのである。「真壁は頭の人だ。常に考えて生きている。考えのなかに生きている。それはそれでいい。だが人間は頭だけの存在ではない。頭も体の一部であることを忘れてはならない。体には重さがある。人間は精神であると同時に肉体なんだ。頭のなかの考えを自分とまったく同一視すれば、肉体としての自分を見失ってしまう。改めて体の重さを感じるんだ。体は呼吸をしている。生まれたときから休むことなく息をしている。その息の通り道が体の軸だ。息をしている体の重さを感じて、その重さを腰に集めるんだ。そうすれば腰が落とせる。読んで字のごとく、腰は体の要だ」
また紀之は認識と行為についても語った。このような対概念は、篤師範も駿副師範も使ったことがなかった。この道場で子供たち相手に使わないばかりではない。単純な空手家の馬兄弟の語彙には、そもそも認識と行為という対概念などなかったのである。その対概念を紀之は悠太郎に教えた。「行為には現在しかない。行ない動くということには、ただ今があるだけだ。ところが認識は起こってしまったことしか認識できない。人間が認識できるのは、終わってしまったことだけだ。だがら認識は常に遅れる。相手が動くのを確認した後では、相手と同時に動くことはできない。形の動きを他人と合わせるときにも、組手で相手の動きに対応するときにも、動きながら直観しなければならない。それは止まりながらする認識とは違うんだ。動くことによって、動くことのなかで行なわれるような直観があるんだ。空手ではそれを身に着ける必要がある」
また具体的なイメージを持つことの大切さをも紀之は教えた。突きのときであれ受けのときであれ、肘から先を一本の剣のように思いなすべきことや、受けもまた攻撃であって、受けることで相手の腕を折るつもりで受けるべきことを紀之は説明した。突くときも受けるときも、自分が体の軸を中心に回る独楽になったと思いなせば、独楽の回転が腰の切れであり引き手であるとも、手刀打ちは鞭のようにしなうべきであるとも言われた。「しゅとう打ち?」と悠太郎は物問いたげな目を見開いて訊いた。「そうだ、手の刀と書いて手刀だ。足の刀と書く足刀に対応しているんだ」という紀之の答えを聞いて、「しと打ち」についての悠太郎の疑問は、春に照月湖の氷が融けるごとく消滅したのである。前蹴りであれ回し蹴りであれ足刀であれ、蹴りもまた鞭のごとくにしなうべきこと、ぴしりと相手に当たる瞬間にだけ力を入れるべきことが説かれた。悠太郎は突くときであれ蹴るときであれ受けるときであれ、自分が力を入れっぱなしであることに気がついた。「ずっと力を入れていることが、努力することだと思っていました」と打ち明けた悠太郎に、「力を入れることと同じくらい、力を抜くことも大切だ。その点は音楽とよく似ているな」と応じた。そして形について紀之は、様々な基本を組み合わせたひとつの体系なのだと言った。体系とはこれまた単純な空手家の馬兄弟が、日頃使わない言葉であった。そしてひとつひとつの動作やその連続について、紀之はいちいち具体的なイメージによる意味づけを行なった。例えば平安初段の最初は、左側面から突き込んできた手を左手で受けて右手で攻撃するのだとか、ナイハンチ初段の用意の姿勢で、両手を体の前に交差させて重ねるのは、武器は何も持っていないことを示すのだとかいうことである。
イメージ豊かな論理性を持った紀之の教えは、悠太郎の失われていた身体感覚を取り戻すことに与って大いに力があった。紀之の指導を受けたことで悠太郎は飛躍的に上達し、再び隼平や一輝と一緒になっても全然見劣りしなかった。行為しながらの直観によって、ふたりとぴったり同時に動けるようになった形では、三人のなかでいちばんの美しさを示すこともあった。駿副師範は睨むような目で悠太郎の変わりようを見て驚いた。しかしそんな悠太郎の様子を時々遠くから見ていた篤師範は、その美しさに感心しながらこうも考えた。「たしかに真壁の動きはずいぶん美しくなった。真壁の形は美しい。しかしやはり何かが足りない。空手の形は踊りではないのだ。美しければそれでいいというわけではない。真壁の形は美しいが、しかし武道ではないな。いまだ武道ではないのか、もはや武道ではないのか俺には分かりかねる。だが武道でないことは確からしい。してみればこの道場で彼を預かるのは、やはり間違ったことではないか……」もし篤師範が審美的という言葉を知っていれば、真壁の動きは審美的に過ぎると考えたかもしれない。しかしこの単純な空手家は、そんな言葉を使いもしなければ知りもしなかった。
美帆さんというのは、空手道場の副師範の娘であった。道場になっているのは、やがては悠太郎も通うことになる中学校の体育館であった。普段は農協に勤めている赤木篤師範と赤木駿副師範の兄弟が、夜に体育館を借りて空手を教えていたのである。篤も駿も馬のつく字だから、この師範と副師範は空手家の馬兄弟で通っていた。実際のところ兄弟ともに馬面であった。篤師範の目の細い乾燥した顔も、駿副師範の睨むような目をした脂ぎった顔も、どちらも実に長かったのである。悠太郎は四年生のとき祖父の千代次に強いられて、この空手道場に入門していた。千代次はあるとき朝食の席で極度に細い近視の目をしばたたきながら、「おいユウ、ピアノもいいが、おめえは運動も何かやらにゃあならねえ。人間の価値なんちゅうものは、頭の強さと体の強さのふたつに尽きる。おめえはその弱い体を、もっと鍛えにゃあならねえ。野球部が嫌なら、せめて空手をやれ。道場を開いている馬兄弟ちゅう奴等は、なかなかの使い手らしいぞ。おめえそこへ入って鍛えてもらって来お」と命じ、「それにしても篤に駿か。馬の好きな親だったんだのう。ユウおめえ、駿がつく熟語を何か言えるか?」と問うたので、悠太郎は睫毛の長い目を伏せたまま「駿馬」と「優駿」を挙げた。すると千代次はなおも「篤がつく熟語は何がある?」と問うたので、悠太郎は少し考えてから「篤実」を挙げ、またピアノ教室の佐藤陽奈子先生を思い浮かべて「篤信」を挙げた。悠太郎は小学校四年生にして、これらの熟語をすでに知っていたのである。それから千代次が好きな土井晩翠の「星落秋風五丈原」から、諸葛孔明の病が篤いことを歌ったリフレインを挙げることも忘れなかった。千代次は眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながら「それはおめえ、熟語じゃあるめえ」と言って機嫌よく笑った。祖母の梅子はパンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら「ウッフフ、篤さんは正子の同級生だったねえ。そうだよ悠太郎、しっかり鍛えてもらって来お。そうしておまえの父親から受け継いだ悪魔の性質を、根絶やしにするんだよ。ピアノも弾けて武道もできれば立派なもんだよ。ウッフフ、まわりの奴等に差をつけろ! 与太奴等をぶっ潰せ! 馬鹿奴等を蹴散らせ!」と言って満面に喜色を浮かべた。悠太郎はいつもの水っぽい野菜炒めに入っているキャベツの芯やシイタケの石突きが、急に口のなかで咀嚼できないものに変わってしまったように感じた。母の秀子は下膨れの顔を困ったように笑わせながら、悠太郎の同級生の親たちにも空手道場に興味を持っている人がいることを思い出していた。地母神のような戸井田アオイさんや、篤信のカトリック教徒である佐藤陽奈子さんがそういう人であった。
それで悠太郎は戸井田一輝や佐藤隼平と一緒に、三人して同時に入門したのである。道場主の赤木篤師範は、中学生や高校生もいる上級者を教えていた。入門したばかりの初心者は、赤木駿副師範が指導していた。白い道着に白帯を締めた三人は、稽古が始まって体育館を十周走り終えると、相手から目を離さない礼の仕方から始まって、閉足立ちや平行立ちや四股立ちや前屈立ちといった立ち方を教わり、また正拳の握り方や突き方を教わった。だがあるとき駿副師範が教えた「しと打ち」なるものを、悠太郎はうわべばかりは真似しながらも、その名の意味するところを理解しかねた。教えたことを毎日必ず家で稽古するようにという駿副師範の言葉を、悠太郎は割合と忠実に実行していたから、初めのうちその上達ぶりは、秀子が心配したほど悪くないようであった。三人は一緒に四股立ちの姿勢で正拳突きを十回繰り出し、十回目に「せい!」と気合いを発した。前屈立ちの足を摺り足で移動させながら、上段受けや中段受けや下段払いをすることもあった。駿副師範が野太い声で「一!」とか「二!」とか「三!」とか掛け声をかけるのに合わせて、三人はそうした基本を稽古したのだが、駿副師範は「六!」と言うべきとき、なぜか「ウーク!」と言ったので、そのたびに悠太郎は内心おかしがった。すると悠太郎の内心の動きが見えるのか、駿副師範は野太い声で「真壁! 引き手がなってない!」と注意するのである。そんなとき隼平は斜視気味の目で悠太郎を見て小気味よさそうに笑っては、ひょろ長い手足を存分に活かして、正拳突きや前蹴りや回し蹴りを繰り出した。悠太郎はしかし左足の前蹴りのときうまく力が入らず、いつも膝をくきっと鳴らしていた。三人を評する駿副師範の言葉は、いつもだいたい似たようなものだった。「佐藤はずいぶんよくなった! 真壁はまあまあよくなった! 戸井田! おめえは本当に家で稽古してるのか? いっこうなってねえじゃねえか!」ということになるのが常であった。そんなことを言われ続けても、一輝は別段気にしていない様子で、いくらか鳥の嘴めいた唇で笑いを堪えていた。実に男臭く汗臭い空手道場という環境のなかで、この三人が一緒にいることの滑稽味を、一輝は楽しんでいるようであった。そんな奇妙な三人を、体育館の壁に備えつけられたトレーニング用の大型鏡が、揺らめきも波立ちもせずに映していた。
「するとこれが正子ちゃんの甥っ子なのか」と赤木篤師範は、時々遠くから悠太郎の様子を見ながら考えた。中学校まで一緒だった正子ちゃんは、文武に秀でた立派な子だったっけ。バレーボールを活発にやっていて、男子たちの憧れの的だったっけ。たしか正子ちゃんは薬剤師になって自衛官と結婚したが、子供には恵まれなかったはずだ。たったひとりの甥っ子を、正子ちゃんはさぞや可愛がっていることだろう。それにしても悠太郎の覇気のなさときたらどうだ。こんなに覇気のない男の子が、この世にいるとは思わなかった。この道場で彼を預かるのは、あるいは間違ったことではないか――。篤師範はそんなことを考えながら、差し当たり弟に任せてある悠太郎を、乾燥した長い顔の細い目で見守っていた。
美帆さんというのは、その空手道場の赤木駿副師範の娘で、門弟のなかでただひとりの女子であった。美帆の敏捷なことといったら、ほかの門弟たちの及ぶところではなかった。突きや蹴りや払いのひとつひとつが、固体の重さをまったく失った高速の気流のようであった。二段蹴りを打つときは、びっくりするほど高く跳躍した。形の演武は平安四段も平安五段もナイハンチ初段も、飛び抜けて美しかった。だが組手もまた実に強かった。約束組手で美帆に対するとき、悠太郎はその吹きつける烈風のような突きに思わず目を瞑った。どんなに瞑るまいとしても瞑ってしまうのである。そんなとき駿副師範は野太い声で「おい真壁、おめえは女の突きが怖えのか!」と一喝するのであるが、そこには強い娘の父親としての誇りもまた、いくらかは混じっているに違いなかった。そして自由組手では目にも留まらぬ早技を繰り出して男たちを圧倒した。基本や形や組手のときに発する高く鋭い気合いのほかには、悠太郎は美帆の声を聞いたことがなかった。美帆はそれほど静かであった。ほとんど感情を表さない美帆の白い顔からは、激しい運動を終えて休むとすぐに赤みが引いていった。するともう美帆が何を考えているのか、その切れ長の目には世界がどう見えているのか、悠太郎には何も窺い知れなかった。そもそも年はいくつなのか、同い年なのか上なのか下なのか、悠太郎は知らなかったし尋ねてみるつもりもなかった。年がいくつであれ、こんなに強いうえに副師範の娘なのだから、敬わなければならないと悠太郎は思っていた。そんな敬意をともに稽古するなかで感じるのか、美帆は父親のか弱い門弟である悠太郎を見ると、薄い唇で薄く笑ってみせることがあった。あるとき悠太郎は、美帆にはどこか留夏子を思わせるところがあると気がついた。切れ長の目といい、薄い笑いといい、頭の後ろでひとつに束ねた髪型といい、どこか留夏子に似ているような気がした。留夏子から学業をたやすくやってのける知性や、音楽や絵画を好む感性や、自己の存在を不純だと考えるような精神性をことごとく抜き去ったら、あるいは空手機械のような美帆になるのかもしれなかった。
標高およそ千メートルの高原とはいえ、体育館が蒸し暑くなる夏には、道場はますます汗臭くなったし、ことに自由組手のときに着ける垢じみた拳サポーターはひどい臭いがした。標高およそ千メートルの高原ゆえに、体育館の床が氷のように冷たくなる冬には、足袋の着用が許されたから、隼平や一輝は摺り足が楽になると言って、スケートでもするように床を滑った。三人は一緒に形の演武を行ない、三人一緒に白帯から紫帯になり、やがて緑帯になったが、その頃には美帆はすでに茶帯を締めていたのである。悠太郎はどうにか緑帯まではついて来られたが、それも落伍の兆候を示しながらであった。初めのうちは見劣りのした一輝であったが、もともと悠太郎には体力で勝っていたのだから、少し本腰を入れて稽古すれば、たちまちこのか弱い同級生を凌ぐわけであった。体の正中線がどうとか、重心がどうとか、腰の切れがどうとか教えられるが、そういう身体感覚に関することが悠太郎には分からなかった。駿副師範に野太い声で「真壁! もっと腰を入れろ!」と一喝されても、悠太郎にはどうしてよいか分からないのである。一緒に入門した隼平や一輝にはもうついてゆけないと悠太郎は落胆し、落ちこぼれてゆくぼくを美帆さんは笑うだろうかと思ったりした。
新たな入門者が現れたのは、悠太郎がそんなことを思っていた一九九四年の五月のことであった。体育館を十周走った後で門弟たちは整列し、前に立った赤木篤師範の乾燥した長い顔を見ていた。「今日からこの道場に入る者がいる」と言った篤師範は、その人に同じく前に出るよう促した。その人は真新しい黒帯を着けていたから、もともとどこかで空手を習っていたのだろうと悠太郎は思った。年はぼくよりもずいぶん上らしい。中学生いや高校生だろうか。背は高いし体格は筋肉質だし、暗い顔にはもうひげの剃り跡が濃い。ぼくも大きくなれば、あんなふうになるのだろうか。それにしてもこの懐かしさはどこから来るのか? がっしりと筋肉質になりながらも、なおハンノキの若木のようにまっすぐなその体も、道着の丈を短く見せるほどすらりと長く伸びた腕や足も、濃いひげの剃り跡にもかかわらず色白のその肌も、弓なりのしなやかな眉も、血走っていながらもなお円かに見開かれた目も、どこかで見たことがあるような気がする――。悠太郎がそう思っていると、その人はリスを思わせるやや大きな白い前歯を見せながら、声変わりした大人の男の低い声で、驚くべきことを言った。「入江紀之です。よろしくお願いします」
悠太郎は思わずあっと声を上げた。それはレストラン照月湖ガーデンのシェフの息子のノリくんであった。誰よりも慕わしい湖の騎士であった。ノリくんがいる、ノリくんがいる、今ここにいる、生きている!――喜びのあまり悠太郎は、心が明澄な湖水のように揺らめき光るのを感じた。陶酔のなかで悠太郎は、指を折って彼我の年の差を数えた。ぼくが小学校一年生のとき、ノリくんは六年生だった。ぼくが五年生になった今では、ノリくんはもう高校一年生だ。「まあず子供の成長は早えのう。ネズミは四月から幼稚園の年長さんで、ユウは小学校二年か。するとノリ、今度おめえは中学校へ行くのか?」と問うライサク老人に、紀之が屈託のない声で「はい!」と答えたのはつい昨日のことのようなのに、ノリくんはもうその中学校をも卒業してしまったというのか――。悠太郎が時の不思議を思いながら、二重瞼の物問いたげな目を見開いて紀之を見つめていると、紀之もまた脳裏に思念をめぐらせた後で相手を認め、「ユウじゃないか」と言った。篤師範は乾燥した長い顔に驚きの色を浮かべながら、「なんだ入江、真壁と知り合いだったのか?」と意外そうに尋ねた。紀之は手短に「はい」と答えた。
これはうまいめぐり合わせかもしれないと考えた篤師範は、駿副師範の指導のもとで稽古する悠太郎の様子を紀之に見せた。紀之は円かな目を見開いて注意深く悠太郎の動きを見た。紀之は悠太郎の困難をすぐさま見て取った。突きでも蹴りでも払いでも、ひとつひとつの動作を意味も分からずに行なうのが、悠太郎にはつらいのだろうなと紀之は思った。平安五段の形で跳躍するとき、悠太郎はほかのふたりより一瞬遅れていた。ふたりが動くのを見てからしか、悠太郎は動けないのだと紀之には明らかであった。「どうだ入江、どうにかできそうか?」と問う篤師範に、「任せてください。真壁のことならよく知っています。筋は悪くないですよ」と紀之は答えた。そうしたわけで悠太郎はいったん一輝や隼平と離れ、一対一で紀之の指導を受けることになった。
道場で紀之と過ごす時間は、悠太郎にとってなんと豊かであったことか! さながら照月湖でともに過ごした四年前の日曜日が、姿を変えて夜の体育館に回帰したかのようであった。体育館の壁に備えつけられたトレーニング用の大型鏡は、照月湖が明鏡閣や浅間山を映すように、紀之と悠太郎を映したのである。あの頃初めてボートに乗った悠太郎に、紀之は腰を落として重心を低くすることを教えた。今また紀之は悠太郎に、空手における腰の落とし方を教えたのである。「真壁は頭の人だ。常に考えて生きている。考えのなかに生きている。それはそれでいい。だが人間は頭だけの存在ではない。頭も体の一部であることを忘れてはならない。体には重さがある。人間は精神であると同時に肉体なんだ。頭のなかの考えを自分とまったく同一視すれば、肉体としての自分を見失ってしまう。改めて体の重さを感じるんだ。体は呼吸をしている。生まれたときから休むことなく息をしている。その息の通り道が体の軸だ。息をしている体の重さを感じて、その重さを腰に集めるんだ。そうすれば腰が落とせる。読んで字のごとく、腰は体の要だ」
また紀之は認識と行為についても語った。このような対概念は、篤師範も駿副師範も使ったことがなかった。この道場で子供たち相手に使わないばかりではない。単純な空手家の馬兄弟の語彙には、そもそも認識と行為という対概念などなかったのである。その対概念を紀之は悠太郎に教えた。「行為には現在しかない。行ない動くということには、ただ今があるだけだ。ところが認識は起こってしまったことしか認識できない。人間が認識できるのは、終わってしまったことだけだ。だがら認識は常に遅れる。相手が動くのを確認した後では、相手と同時に動くことはできない。形の動きを他人と合わせるときにも、組手で相手の動きに対応するときにも、動きながら直観しなければならない。それは止まりながらする認識とは違うんだ。動くことによって、動くことのなかで行なわれるような直観があるんだ。空手ではそれを身に着ける必要がある」
また具体的なイメージを持つことの大切さをも紀之は教えた。突きのときであれ受けのときであれ、肘から先を一本の剣のように思いなすべきことや、受けもまた攻撃であって、受けることで相手の腕を折るつもりで受けるべきことを紀之は説明した。突くときも受けるときも、自分が体の軸を中心に回る独楽になったと思いなせば、独楽の回転が腰の切れであり引き手であるとも、手刀打ちは鞭のようにしなうべきであるとも言われた。「しゅとう打ち?」と悠太郎は物問いたげな目を見開いて訊いた。「そうだ、手の刀と書いて手刀だ。足の刀と書く足刀に対応しているんだ」という紀之の答えを聞いて、「しと打ち」についての悠太郎の疑問は、春に照月湖の氷が融けるごとく消滅したのである。前蹴りであれ回し蹴りであれ足刀であれ、蹴りもまた鞭のごとくにしなうべきこと、ぴしりと相手に当たる瞬間にだけ力を入れるべきことが説かれた。悠太郎は突くときであれ蹴るときであれ受けるときであれ、自分が力を入れっぱなしであることに気がついた。「ずっと力を入れていることが、努力することだと思っていました」と打ち明けた悠太郎に、「力を入れることと同じくらい、力を抜くことも大切だ。その点は音楽とよく似ているな」と応じた。そして形について紀之は、様々な基本を組み合わせたひとつの体系なのだと言った。体系とはこれまた単純な空手家の馬兄弟が、日頃使わない言葉であった。そしてひとつひとつの動作やその連続について、紀之はいちいち具体的なイメージによる意味づけを行なった。例えば平安初段の最初は、左側面から突き込んできた手を左手で受けて右手で攻撃するのだとか、ナイハンチ初段の用意の姿勢で、両手を体の前に交差させて重ねるのは、武器は何も持っていないことを示すのだとかいうことである。
イメージ豊かな論理性を持った紀之の教えは、悠太郎の失われていた身体感覚を取り戻すことに与って大いに力があった。紀之の指導を受けたことで悠太郎は飛躍的に上達し、再び隼平や一輝と一緒になっても全然見劣りしなかった。行為しながらの直観によって、ふたりとぴったり同時に動けるようになった形では、三人のなかでいちばんの美しさを示すこともあった。駿副師範は睨むような目で悠太郎の変わりようを見て驚いた。しかしそんな悠太郎の様子を時々遠くから見ていた篤師範は、その美しさに感心しながらこうも考えた。「たしかに真壁の動きはずいぶん美しくなった。真壁の形は美しい。しかしやはり何かが足りない。空手の形は踊りではないのだ。美しければそれでいいというわけではない。真壁の形は美しいが、しかし武道ではないな。いまだ武道ではないのか、もはや武道ではないのか俺には分かりかねる。だが武道でないことは確からしい。してみればこの道場で彼を預かるのは、やはり間違ったことではないか……」もし篤師範が審美的という言葉を知っていれば、真壁の動きは審美的に過ぎると考えたかもしれない。しかしこの単純な空手家は、そんな言葉を使いもしなければ知りもしなかった。
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