明鏡の惑い

赤津龍之介

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第八章 湖の騎士

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 湖畔の樹々の新緑を輝かせる五月の光のなかを、あるいは燦々たる日射しを浴びて生い茂る夏草の生命力にも似た賑わいのなかを、あるいは青玻璃せいはりのような秋空の下で紅葉が燃えるなかを、悠太郎は波に揺られる手漕ぎボートに乗せられて、いま照月湖の水面を滑っているような気がした。ふと我に返れば、いま悠太郎はボートの上ではなく小学校の二年生の教室で席に着いて、算数の時間に掛け算九九を唱えたり、同級生が唱えるのを聞いたりしていた。悠太郎は眠って夢見ていたわけではなかった。今は一九九一年の六月で、通学路のそこここに見られる色鮮やかなレンゲツツジが、浅間牧場の丘々に遠くまで炎のように群れ咲いては、しめやかに降り続く雨の雫に濡れて光っている頃であるということを、悠太郎はちゃんと承知していたし――照月湖の水面は、雨のひと雫ひと雫が円形に広げる不可思議な連祷の合唱に、揺らめき波立っていることであろう――、それに掛け算九九だって、家で母の秀子からみっちり指導を受けたり、幼稚園時代から続けている通信教育で予習したりしているから、言い間違えることはなかった。ただ悠太郎ほど過剰に内省的な子供にとっては、ひとつのことを行ないながら別のことを考えるのみならず、ひとつのことを考えながら別のことを考えることさえ、ごく普通のことであった。そうしたわけで数と数を掛け合わせながらも、悠太郎は哀惜の念に浸っていた。つまりはもう去年のことなのだ、まだ一年生だった悠太郎を、ほとんど日曜日ごとにレストラン照月湖ガーデンの前で歓迎してくれたあのお兄さんと遊んでは、時が過ぎてゆくことの切ないような悲しみを、毎週のように味わったのは――。
 卒業していった人のことばかりが思われるのは、悠太郎にとって初めてのことではなかった。幼稚園で迎えた最初の卒園式で、切れ長の目を虚空の一点に据えたような思い詰めた表情をしていた留夏子を見送ったとき、悠太郎はいつも帰りのバスでルカちゃんが下車してゆくときの何倍もの空虚感を味わったとはいえ、ルカちゃんにはまた小学校でも会えるのだと思えば、この慕わしい上級生が不在の一年は、まだしも耐えやすいものであった。現にこうして小学校で再会し、常日頃は幼稚園時代のように多くを語り合うことはなくなったものの、運動会の日に真心ある言葉をかけてもらって以来、留夏子は悠太郎にとって再び心の支えとなっていた。だがこの三月に卒業していったあのお兄さんにはもう会えないだろうと、悠太郎は悲観していた。悠太郎が一年生であった年に彼は六年生であったのだから、それぞれ三年しかないという中学校でも高校でも、もはや会える見込みはなかった。梅雨時の雨が降りしきる音の聞こえる二年生の教室で、若くて背の高い丸橋清一先生が、東南アジア的な童顔に喜色を湛えながら掛け算九九を教えつつ、黒板に騒がしく白や赤や黄色のチョークを走らせるあいだ、悠太郎には一年生のとき日曜日のたびに遊んでくれた、誰より慕わしく懐かしいノリくんのことばかりが思い出されてならなかった。
 あの入江紀之いりえのりゆきくんと最初に会ったのはいつのことだったろう? 去年の四月に小学校生活が始まって、小さな背中に重たい大きなランドセルを背負いながら、三本辻の右手から現れる児童たちの野卑なからかいを受けて歩く通学路には、悠太郎は最初の一週間でほとほと嫌気が差した。だから平日より一時間遅くまで寝ていることが許されていた日曜日には、祖父の千代次や祖母の梅子とトーストや牛乳や水っぽい野菜炒めの朝食を終えると、千代次が見つめるブラウン管に映し出される政治討論の番組に付き合うことはせず、悠太郎は母の秀子が観光ホテル明鏡閣へと出勤していった林間の舗装道路を、ひとり散歩した。千代次はそんな孫に構うことなく、小中学校での日の丸掲揚と君が代斉唱の義務づけの是非や、日経平均株価の急落について戦わされる議論に、遠くなった耳のためにテレビの音量を上げて聴き入っていた。
 鷹繋山を湖の向こうの正面に見ながら急な坂道を降りれば、ようやく氷もすっかり融けた照月湖が細波立っているだろう。白く雪の残る浅間山を眺めながら、湖に架かる橋を渡って明鏡閣へお手伝いにゆこうか。「うおっほ、うおっほ、うおっほ」と咳払いする南塚支配人や、スリッパの音を「とっちん、とっちん」とか「ちっとん、ちっとん」とか響かせながら客室を渡り歩く三池光子さんや、煙草の煙を口から輪っかの形にして連続で吐き出せるサカエさんこと黒岩栄作さんや、痒い背中をぎざぎざの柱に熊のようにこすりつける橋爪進吉さんや、平たい顔をにこやかに笑わせるバイク好きの林浩一さんにご挨拶にゆこうか。氷の融けた湖に、リースの業者から手漕ぎボートや、足漕ぎのスワンボートが戻ってきた。大きな石段を下りた先のボート番小屋では、防水仕様の作業服を着た桜井謙助さんが、ギョロ目を見開いて額に三筋の横皺を寄せながら、ボートや釣りのお客さんを案内していることだろう。ああ、なんとぼくはあの人たちに会いたいことだろう。小学校で味わう野蛮と悲惨を、なんと忘れてしまいたいことだろう――。そんなことを考えながら歩むうちに、悠太郎は思い出したくもない小学校での出来事を思い出してしまった。とりわけ「おまえは分裂病だから精神病院へ行け」と悠太郎を嘲る一級上の石井尚美や、何かにつけては粗野な声で喚き散らす二級上の中島猛夫のことが思い出されて、悠太郎はボート番小屋の上階に当たるレストラン照月湖ガーデンの前の駐車場で、睫毛の長い目を伏せて悄然とうつむきながら立ち尽くしてしまった。華奢な体からもう歩く力もすっかり抜けてしまったような気がして、悠太郎はその場に膝をついてしまいたかった。
 「ユウじゃないか。どうした、大丈夫か?」という清々しい声を、悠太郎が聞いたのはそのときであった。レストラン照月湖ガーデンの勝手口から出てきた長身の少年が、悠太郎を見つけて歩み寄ったのである。ハンノキの若木のように真っ直ぐなその体からは、ブルージーンズを穿いた脚も若緑のシャツの袖に通した腕も、すらりと長く伸びていた。色白の肌は明鏡閣の売店で売られている白樺人形のようにきめ細やかで、その顔の弓なりのしなやかな眉も、明澄な光を湛えて見開かれた円かな目も、リスを思わせるやや大きな白い前歯も、指の長い美しい手も、気取らない気品に溢れていた。黒のベストが大人っぽいなと思いながら恐る恐る見上げる悠太郎に、少年は優しく言った。「やっぱり真壁さんのうちの悠太郎だ。もう小学生か、大きくなったな。まだ幼稚園だった頃、よくこのレストランの前を通って明鏡閣へ歩いていたな。俺はよく憶えているぞ。ユウは俺を憶えていないか。俺は入江紀之、このレストランを預かるシェフが俺の父さんだ。ノリくんとでも呼んでくれ。ときにユウ、今日もひとりなのか?」と少年は悠太郎に問うた。そのとき悠太郎は、あたかも紀之の清々しい優しさが光のシャワーとなってわが身に降り注ぎ、ついさっきまでの暗い思いをすっかり洗い清めてくれたように感じた。この人は違う、あの小学校の野卑で粗暴な上級生たちの誰とも違っている。そんな人がぼくのことを知ってくれている。ぼくのことを心に懸けてくれている――。そのことが奇跡のように思われて、悠太郎は言葉を失い、二重瞼の物問いたげな大きな目を黒々と見開いて紀之の顔を見上げ、ただこっくりと頷くほかはなかった。「そうか、それなら一緒に遊ぼう。照月湖の浅瀬に蛙の卵を見にゆこう。妹も一緒に連れてゆこう。それからボートに乗るのもいいな。妹のいづみは幼稚園に入ったばかりだ。ユウよりもふたつ年下だな。いま呼んでくるから、仲良くしてやってくれ」そう言い置くと紀之は、再び勝手口からレストランのなかへ入っていった。
 ややあって紀之は年の離れた小さな妹を連れて出てきたが、耳を垂らした子ウサギのような髪型をした入江いづみは、幼いながら表情も物腰も奇妙にませていた。紀之が清々しい声で「いづみ、真壁千代次さんのお孫さんの悠太郎だ」と紹介すると、いづみは眉も目も前歯も兄によく似た顔に、澄ましたような微笑みを浮かべて小首を傾げながら、スミレ柄のスカートの裾を両手の指でつまむと片足を斜め後ろに引き、もう片方の足の膝を軽く曲げてフリルのブラウスを着た上体を傾け、こましゃくれたカーテシーで悠太郎に挨拶した。いづみはお辞儀しながら弓なりのしなやかな眉を、目の開き具合は変えることなく水平に持ち上げたから、その瞼には眠たげな気怠さが表れていた。悠太郎はそんなませた仕草と表情を呆気に取られて見つめながら、はてぼくはいかにも真壁の家の悠太郎だが、このノリくんにとってもぼくは千代次さんのお孫さんなのだろうか、現に観光ホテル明鏡閣に勤めている秀子さんの息子さんではないのだろうかと訝った。お祖父様が浅間観光を定年退職して久しいはずなのに、いつまで経っても関係者のあいだでは自分は千代次さんのお孫さんなのだと考えると、悠太郎はどこか窮屈で重苦しい感じに襲われた。つまりはお母様だって千代次さんの娘さんでしかないのだろうと考えると、悠太郎はなんだか秀子のことまでも可哀想に思えてきた。だがそれも仕方ないことなのだと悠太郎は思い直した。秀子がこの六里ヶ原界隈では珍しい二十万円の月給をそっくり貯金に回せるのは、千代次が厚生年金や、戦傷病者の認定で増額された恩給に加えて、株式会社浅間観光から永久名誉顧問として毎月十万円の報酬を受け取っていればこそなのだ。いつか千代次は眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながら「ユウ、秀子はおめえの父親から、養育費なんざびた一文もらっちゃあいねえだぞ」と得意げに言っていたことがあった。梅子はパンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら「ウッフフ、そうだとも。あんな悪魔の男にねえ、養育費なんざもらうもんかい。うちはねえ、はあ貧乏じゃあないものを」と満面に不自然な喜色を浮かべて同調したが、父親からの養育費がなくても悠太郎が暮らしに困らないのは、千代次の財力があればこそなのである。だがそのことを思うとき、悠太郎は小柄な祖父があまりにも巨大な存在となって、虚弱な自分を圧迫していることを感じないわけにはゆかなかった。
 だが三人して湖畔で遊ぶのは楽しかったから、悠太郎は小学校でのことや家族のことから来る暗い思いを、しばし忘れることができた。大きな石段を降りて橋を渡り、細波立つ照月湖を突っ切って明鏡閣の側へ回ると、いつかの五月に三池光子さんと水仙の花を愛でたあたりの浅瀬に、三人は近づいた。果たしてそこにはカエルの卵が生みつけられていた。透明なゼリー状の粘液のなかに、黒い粒々が包まれていた。悠太郎はそれを見ていくらか気持ち悪がったが、いづみは少しも臆することなく澄ました顔でそれを見つめ、手近に落ちていた木の枝を拾って、卵塊をつついてみさえした。「こら、よさないか。卵が傷ついて潰れてしまってはいけない。ここから生まれてくるオタマジャクシは貴い命だ」と紀之は幼い妹をたしなめた。いづみは弓なりの眉を水平に持ち上げながら「あら、生まれてきて蛙になったって、車にでも轢かれれば同じことじゃない」とませたことを言いはしたが、木の枝を茂みのなかへ捨てたところを見れば、素直に兄の言うことを聞き分けたらしかった。「ユウは見たことがあるか? 水のなかを泳ぐオタマジャクシに足が生えて、尻尾がなくなって、やがて陸に上がって蛙になる。観察すると面白いぞ。動物であれ植物であれ、自然を観察するのは面白い。生命は神秘だな。俺たちが生まれてきて、ここにこうして生きていて、だんだん大きくなってゆくのも、つまりは神秘だ。分かるか、いづみはだんだんユウのようになり、ユウはだんだん俺のようになるんだ。それが命の不思議だ」と紀之が語るあいだにも、春まだ浅い四月の微風は三人を包んでそよぎ、係留されたボートを浮かべる照月湖を細波立たせ、その水面をきらきらと光らせていた。
 それから紀之はスケート靴の皮革の匂いがする埃っぽいボート番小屋で、ギョロ目を見開いて額に皺を寄せる桜井謙助さんに断ると、悠太郎といづみを手漕ぎボートに乗せてくれた。悠太郎がボートに乗り込むと、恐ろしいほど足許が揺れた。怯える悠太郎を桟橋の上から見た見た紀之は、係留ロープをしっかりと引っ張りながら「ユウ、ボートの上を歩くときは、重心を低くするんだ。腰を落としてな」と助言し、その通りにしてどうにか身動きが取れるようになった悠太郎に「そうだ、うまいぞ。よくやった」と声をかけて、自分もブルージーンズを穿いた長い脚で大股に乗り込みつつ、幼い友を見守る円かな目に明澄な光を湛えた。いづみはしかしスミレ柄のスカートの裾を器用に押さえると、慣れた足取りで弾むようにボートに乗り込み、弓なりの眉を水平に持ち上げながら、兄と悠太郎のそんなやりとりを気怠そうな目で見つめていた。船首の席に座ったいづみが、フリルのブラウスを着た上体を柔らかくひねって、桟橋の水際に張ってあるワイヤーに通されたリングから、慣れた手つきでロープの先の留め金具を外すと、紀之は上半身を大きく動かしながら、若緑のシャツに袖を通した長い腕で力強くオールを漕ぎ始めた。見慣れたはずの照月湖の、しかしまだ見たことのない景色が、水上を揺れる悠太郎の眼前に開けた。ボートはあるときは近々と迫る鷹繋山のほうを向き、あるときはその背後に連なる浅間隠の連山のあの山やこの山のほうを向き、あるときは雪の残る寝観音のような浅間山のほうを向いた。紀之は中央の席で、折り曲げた長い脚を踏ん張りながらオールを漕いでいた。船尾の席に座っている悠太郎は、そんな紀之と向かい合っていることに気がついた。漕ぎ手から見れば、ボートは後ろ向きに進むのだ。悠太郎がそのことを指摘すると紀之は「ユウ、よく気がついたな。いずれはユウにも漕ぎ方を教えてやろう。いろいろな漕ぎ方があるからな」と言い、片側のオールだけを漕いで船首の向きを変えたり、普段とは反対向きにオールを回してバックしたり、左右のオールを交互に使って危なっかしく蛇行したりして、悠太郎といづみを楽しませた。春まだ浅い青空と白い雲を映した清澄な湖水は、紀之が操るオールのブレードでふたつに割られてはまた融合し、オールの先から雫となって滴り水面に波紋を描いては、不可思議な呪文を唱えかつ綴った。波に揺られて風のように軽やかに水上を進みながら、悠太郎は胸がはち切れんばかりの甘美な陶酔を味わっていた。空の空色を映していっそう水色に光る水と、水の水色を映していっそう空色に光る空とのあわいに、悠太郎は自分が溶けてゆくのを感じた。
 午前の湖を背景にした紀之と出会った悠太郎が、午後の湖を背景にした紀之と別れ、レストラン照月湖ガーデンを離れて、家へ帰るべく急な坂道を登ろうとしたとき、照月湖モビレージのほうからレストラン前の駐車場に至る緩やかな坂道を、えっちらおっちら登ってくるふたりのお婆さんが現れた。白い三角巾を被ったおタキ婆さんと、紫色の三角巾を被ったおロク婆さんである。ふたりはモビレージの仕事に従事する浅間観光のパートタイマーで――浅間観光の社員は六十歳で定年を迎えるが、パートタイマーはこの限りではなかった――、来たるべき五月の連休からのシーズンに備えて、バンガローやトイレの掃除に取り掛かっていたが、今しも観光ホテル明鏡閣の社員食堂へと休憩に向かうところであった。ふたりとも腰と膝を曲げ、手を後ろに組んでいかにも大儀そうに歩いていたが、がに股のおタキ婆さんのほうが、いっそう腰が曲がっていた。おロク婆さんは老いてなお生き生きとした目で悠太郎を認めると、血色のよい赤ら顔に笑みを浮かべて「おやユウちゃん、こんにちは。今日は学校が休みかい?」と活力ある声で話しかけた。蒼白な顔のおタキ婆さんは苦しげに目を細めながら「それはそうさ、だって日曜日だものを」とおちょぼ口でぼそぼそ言ったが、誰も聞いていなかった。
 このおロク婆さんの弁舌に現れる才気の煥発かんぱつぶりは、観光ホテル明鏡閣に集うほどの人々のあいだでは、すでにある種の語り草となっていた。例えばある日の昼休みにハイエースで乗りつけた西軽の兄貴が「へえ、へえ、へえ、株価がだいぶ下がったみてえだけど、大丈夫かねえ? まあ照月湖さんは痛くも痒くもあるめえが、わが社の野沢菜漬の売れ行きがどうにかなることはあるめえね?」と景気のいい声をいくらか翳らせながら入ってきて、キャップから盛大にはみ出したもみあげを指先でぼりぼりと掻きながら、野沢菜漬ならぬ油を売り始めたとき、また愛犬のポメラニアンを袋に入れて背負った森山伸代さんが「皆さん、おこんにちは。ねえ今日もなさる?」と甘ったるい声で挨拶しながら麻雀に加わろうとしたとき、その場に居合わせたおロク婆さんはふたりにお茶を出しながら「これはねえ、うんと珍しいお茶だよ。唐の国のお茶だよ。飲んでおゆき」と言って勧めたのである。西軽の兄貴も伸代さんも、そのお茶を物珍しげに啜ったが、さりとて何の変哲もないわが国の緑茶としか思われなかった。不思議そうに顔を見合わせるふたりに、三池光子さんがアイシャドウの濃い目をぱちくりさせながら、「おふたりとも引っ掛かったわね。ロクちゃんが言うのは、お茶菓子のないからちゃってことよ」と、月光に照らされた黒天鵞絨のような艶のある低音の声で種明かしをすると、伸代さんは「あら、まあ!」と甘ったるい間の抜けた声で嘆じた。「へえ、へえ、へえ、ロクちゃんはまあず口が減らねえつうこと!」と西軽の兄貴は、造作の大きな顔を破壊的に笑わせた。社員食堂という名の従業員詰所は、煙草の煙と和やかな笑いに包まれた。蒼白な顔のおタキ婆さんは苦しげに目を細めながらおちょぼ口で「それはそうさ、だって唐の時代のお茶っ葉が残っているわけないものを」とぼそぼそ言ったが、誰も聞いていなかった。ともかくもおロク婆さんとはそういう人であった。ちなみに空っ茶というのは、おロク婆さんが冗談を言ってみたかったがための虚構であり、実際には観光ホテル明鏡閣の社員食堂は、お茶菓子に事欠いてはいなかった。このときも従業員のみんなにと南塚支配人が買ってきてあったティラミスを、西軽の兄貴や伸代さんもまた味わうことができた。不景気はまだその影を、株式会社浅間観光に少しも落としてはいなかったのである。
 「ところでユウちゃん、紙はまだ足りているかい?」とそのおロク婆さんが思い出したように言った。浅間観光でのパート勤務のほかに、栗平の家で内職もしているおロク婆さんは、手丁合いする保険会社の書類を仕切ってあった紙を集めていて、いつか秀子を通じてそれらの紙束を、悠太郎にくれたことがあった。悠太郎は大いに喜んでそれらの紙に絵を描いていたが、まだ直接おロク婆さんにお礼を言っていなかったことを思い出して、睫毛の長い目を伏せると鄭重に謝意を述べた。おロク婆さんは老いてなお生き生きとした目を輝かせながら、「それはよかった。あんな紙は要らないもので、ゴミになっちまうだけだからね。ユウちゃんがもらってくれて紙も喜んでいるよ。捨てずに取っておいた甲斐があったってもんだ。ユウちゃんは絵を描くのが好きか? それとも字を書くのが好きか? まあそんなことはどっちでもええ。どっちでもええし、どっちもええ。ユウちゃん、紙が足りなくなったらね、このロク婆に言うんだよ。あたしはうんと内職をして、紙を集めておくからね」と活力ある声で流れるように言った。悠太郎は二重瞼の大きな目を輝かせながら、おロク婆さんに感謝した。蒼白な顔のおタキ婆さんは苦しげに目を細めながら、「捨てる紙あれば拾う紙ありだ」とおちょぼ口でぼそぼそ言ったが、誰も聞いていなかった。まだ夏鳥も渡ってこない早春の樹々に、胸に黒いネクタイの模様のあるシジュウカラが鳴いては、また枝を飛び立っていった。
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