明鏡の惑い

赤津龍之介

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第七章 薄い夢

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 そうこうするうちに怠惰な輝かしい夏休みも終わり、九月に七歳の誕生日を迎えた悠太郎にとって、次なる試練は小学校の運動会であった。高く澄んだ秋晴れの青空の下で、色とりどりの万国旗は爽やかな風に翻り、浅間山は白い煙を吐きながら寝観音のような山容を、校庭に集った人々に示していた。前へ倣え! 直れ! 気をつけ! 休め!――児童たちは赤・白・青・黄の四団に分けられ、はためく団旗のもと同じ色の鉢巻を額に巻いて整列していた。そんな児童たちの活躍を見ようと、親たちや老人会の年寄りたちが観客席に居並び、菓子や玩具を売る屋台が立ち並んだ。白団に配属された悠太郎は開会式のあいだ、風に翻る万国旗やはためく団旗を見つめていると、これから襲ってくるであろう恥辱への恐怖に気が遠くなり、どこまでが旗でどこからが風なのか分からなくなるのであった。体操の隊形に開け! 一・二・三! 屈伸! 伸脚!――全校児童を挙げての準備体操が終わると競技が始まった。玉入れでは四色の玉が、垂直に屹立するポールに括りつけられた籠を目掛けて高々と投げ上げられたが、悠太郎の放り上げる白い球はちっとも籠に入らなかった。大球転がしでは空気ではち切れんばかりの四色の大きな球を、それぞれの団が転がしながらトラックを走ったが、悠太郎は視界を塞ぐほど巨大な白い球をうまく扱えず、カーブでコントロールを失ってほかの団に遅れを取った。綱引きで悠太郎は、後ろにかけた体重を腕で支え切れず尻餅をついた。そもそもが虚弱で足の遅い悠太郎のことであるから、梅子が「とびっくら」と呼ぶ徒競走では話にもならなかった。風のごとくに駆けた黄色団の佐原康雄は、学年一の俊足を示して浅黒い顔を輝かせた。それに続いて速かった赤団の神川直矢は、白目の冴えた小さな目を面白そうに笑わせていた。彼らのような開拓の子供たちに自分が遅れを取ることで、祖父母や母がいかに機嫌を損ねるかを悠太郎はよく知っていた。だが知っていたところで体が強くなるわけでも、足が速くなるわけでもなかった。無慈悲に放たれるいくつもの号砲は、悠太郎を処刑する銃声にも等しかった。
 不安と恐怖のうちにリレー競走のバトンを待つあいだ、悠太郎はまた風に翻る色とりどりの万国旗を見つめながら、どこまでが旗でどこからが風だろうかと考えつつ、また別のことも考えていた。四色のバトンのうちでは白いバトンに最も汚れが目立った。白とはきっと汚れやすい色なのだろう。白団はぼくにぴったりだ。ぼくは小学校に入ってこんなに汚れてしまったのだから――。万国旗には知っている国の旗もあったが、ほとんどは知らない国の旗であった。いつしか悠太郎にはこの地球にある国々のすべてが、校庭に翻る万国旗を通じて、弱い自分を嘲笑しているかのように思われた。心細さと恥辱のあまり悠太郎の気は遠くなり、その聴覚は聴覚自身を聴いているかのようにしいんと鳴ったが、そのしいんという音は、やがて悠太郎を圧倒するほどに常になく高まった。目の奥では緑色や紫色の光が、後から後から湧き出して不気味な形を作っては、消えるそばからまた湧き出した。秋晴れの青空の下で白い煙を吐く浅間山の山容は、突如として転倒した。バトンをまさに受け取らんとする直前に、悠太郎は気を失って校庭にどうと倒れたのである。悠太郎にバトンを渡すべく走ってきた児童は、何事が起こったのか理解する暇もなく、横たわる悠太郎に蹴躓いて盛大に転んだし、走っていたほかの団の児童たちも無事では済まなかった。泣き叫ぶ者があり、驚き呆れる者があり、怒り狂って罵詈雑言を吐く者があった。先生方が救護に駆けつけ、悠太郎が担架で運び出され、校庭が大混乱の様相を呈するあいだも、遥かな空の高みではトビが輪を描いてゆっくりと飛んでいた。
 保健室のベッドの上で悠太郎が意識を取り戻したときには、すでに昼休みも終わろうとしていた。細面で色白の若い養護教諭が、縁なし眼鏡の奥の怜悧な目で見つめながら話しかける声は、運動会の喧騒を離れた静けさのなかで、悠太郎の耳に優しかった。横沢よこざわさやか先生の説明によれば、悠太郎は貧血を起こしたということであった。さらに横沢先生は、「倒れたときに痛くしたところはない?」と問うたので、悠太郎は「まだ少し目眩がします。それに気が遠くなっているようで、先生の声も遠くからのように聞こえます」と答えた。すると緑の唐松林を吹き渡る朝風のような声が「失礼します」と響いて保健室のドアが開いた。二年生の佐藤留夏子は、ポニーテールをぴょこりと弾ませて一礼すると、ドアを閉めて悠太郎に歩み寄り、切れ長の目を細めながら「悠太郎くん、大丈夫? 私、心配していた」と静かな声で言った。そのとき悠太郎は、小学校に入ってからその日までの出来事を一挙に思い出した。担任の麻沼先生への反抗のことや、体育の成績が振るわなくて悩んでいることや、校歌にある「心のふるさと六里ヶ原」の歌詞を憎んで歌わないことは、同級生の隼平を通じて、当然その姉の留夏子の知るところとなっているはずであった。留夏子が心配していたのは、リレー競走で倒れたことばかりではあるまいと悠太郎には思われた。留夏子の言葉は六里ヶ原マラソンの給水所で飲んだ水のように、悠太郎の全身に染み渡った。涙を堪えた悠太郎が黙ってこっくりと頷くと、留夏子は「大丈夫? 校庭までひとりで戻れる?」と問うたので、悠太郎はまたこっくりと頷いた。悠太郎が前非を悔いるには、留夏子の心ある言葉だけで充分であった。
 秋晴れの午後の校庭を、高学年による鼓笛隊が、賑やかにさんざめきながら通り過ぎた。三人の指揮者は鋭く響くホイッスルを吹き鳴らしては、先端近くに飾り房のついたメジャーバトンを振り回していたが、総指揮者はハイロン通学班の班長を務めるあの大柄な女子であった。六年生が演奏する大太鼓や中太鼓や小太鼓が、異世界からの軍勢のどよめきのような〈ドラムマーチ〉を轟かせ、澄んだ日の光のなかでシンバルが金色に、ベルリラが銀色に鳴り響くなかを、五年生が立奏の形に構えた鍵盤ハーモニカで、牧歌的なヘ長調の校歌の旋律を奏でた。悠太郎は二重瞼の物問いたげな大きな目を見開きながら、ベレー帽を被って整然たる隊列で行進するそのきらきらしい一団を、夢見るように眺めていた。校歌の歌詞にある白樺も唐松も、浅間も白根も、カッコウの声も北風も、学ぶことも遊ぶことも働くことも、今や言葉のない器楽のなかで一段と実在感を増したように思われた。なんとよいのだろう。今この浅間山の麓の校庭にこうしていることは、なんと素晴らしいのだろう。ぼくの体は弱いし脚は遅い。開拓の子供たちには劣っていて、それでぼくは家族の気に入らない。ぼくにはそのことがつらいのだ。できることなら、ぼくはお祖父様やお祖母様の誇りになるような孫でありたいし、お母様の誇りになるような子でありたい。それができないから、こんなにもつらいのだ。だがこれからは麻沼先生にそのことを正直に話そう。できれば家族にだってそのことを知ってほしい。よく生きよう、少しでもよく生きよう、できる限りよく生きよう。そうしてルカちゃんに心配をかけないようにしよう。ぼくの体は弱いし脚は遅い。だがそれにもかかわらず、今この浅間山の麓の校庭にこうしていることは、素晴らしいことなのだ――。
 悠太郎がそんなことを考えているあいだに、鼓笛隊は再びの〈ドラムマーチ〉を轟かせながら退場し、全校児童が整列して表彰式が行なわれた。俊足のヤッサンが所属する黄色団が優勝した一方で、悠太郎の白団は最下位であったから、悠太郎はやはりそのことに責任を感じて申し訳なく思った。同じく白団に所属していた中島猛夫は、鼻の穴を広げて悠太郎への憎しみを露骨に表し、産毛だらけの猿めいた顔を歪めながら中指を立てて「ぶっ殺す!」と凄んだ。だが黄色団の団長が金色のトロフィーを受け取るあいだ、吹奏楽の荘重な音楽が流れた。その音楽は満ち溢れる勝利の喜びのなかに、戦い疲れた戦士への労りをも織り込んでいるように聞こえた。それは来たるべき落日のような、ある満ち足りた終焉の音楽に違いなかった。家に帰った悠太郎は、運動会での失態のことで家族からの総攻撃に曝されたが、それでも数日後のあるとき、梅子に記憶していたその旋律を歌って聞かせ、曲名を尋ねてみた。梅子はパンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら「ウッフフ、それはヘンデルさんの〈得賞歌〉だよ、得・賞・歌! 見よ勇者の帰れるを、っていってねえ。一生懸命戦って勝った人を、よく頑張りましたと迎える歌だよ」と、相変わらず作曲家の姓に敬称をつけて教えたが、「まあおまえのように虚弱でのろまな子にはウッフフ、一生縁のない音楽さね」と付け加えたので、悠太郎の心は曇った。
 荒れる悠太郎のことを心配していたのは、留夏子ばかりではなかった。しばしば一緒に帰ってくれる佐原康雄もまたそうであったことに悠太郎は気づいた。ふたりは木下闇こしたやみの道で花咲くハルジオンやヒメジオンの茎を手折っては投げ合ったり、根深く生い茂るスギナをむしり取ったりしながら、飽きることなくアニメや漫画の話をして通学路を歩いた。一緒に帰るといっても、三本辻から悠太郎が学芸村に入った後で、康雄はなおも大屋原第一集落まで、残り三・五キロの道のりを歩くわけであった。悠太郎はこの友達と別れ難く思えるほど、一・五キロの徒歩通学を苦にしなくなっていた。だから唐松の葉が金色に散りやまぬ秋の終わりのある日、「ユウちゃん、うちに遊びにこないかい? うちまで一緒に歩こうぜ!」と康雄が言ってくれたとき、悠太郎は心から嬉しく思った。「ありがとう。でもぼくに五キロも歩けるかな?」と心配する悠太郎を、康雄は「大丈夫だよ。ユウちゃんが疲れたら、休み休み行こうぜ」と励ました。楢の落葉が詰まった町道の側溝にわざと足を踏み入れたり、路傍に落ちた枯れ枝を踏み折ったりしながら、ふたりは三本辻を通り過ぎて町道をなおも一緒にたどった。
 いつものことながら開拓集落に踏み入ると、悠太郎にはそこが少しものどかな田園とは見えなかった。幼稚園の頃にバスで通っていた国道の、甘楽のバス停の近くにある四つの厳めしい石碑のまわりには、錆びつくままに放置された草軽バスの廃車をも取り巻いて、血の涙のような気配が揺曳ようえいしていたが、それと同質の痛ましく禍々しい気配は、石井観光農園のあるハイロン集落にも、神川直矢の家がある大屋原第三集落にも感じられたから、悠太郎は全身の毛が逆立つような気がした。ふたりはなおもだだっ広い開拓地に伸びる直線の道路を進み、いくつもの直角のクランクを曲がった。康雄は開拓集落に踏み入ることで、農家の後継ぎとしての自覚を呼び起こされたのか、「六里ヶ原の標高はおよそ千メートル!」とか「最高気温は三十度、最低気温はマイナス二十度、北海道の札幌以北に該当する!」とか「霜が降りないのは年間百十日! 積雪最高七十センチ!」とか、営農条件のことを言い始めたので悠太郎は感心した。康雄は屋根の勾配が二段階になっている牛舎を指さして、「マンサード屋根っていうんだよ」と悠太郎に教えもした。どの家の畑にも黒いタイヤが積み上げられているのを不思議がった悠太郎に、康雄は「すんだよ。浅間山の雪が融けてね、雪が逆さ馬の形になったら、畑に種を蒔く。でもその後に寒くなることがあるからね。霜除けだよ」とまた教えた。途中の大屋原第二集落では、畑のそばに一匹の黒猫が寝ていた。だが悠太郎が近づいてよく見ればそれは猫の死骸で、その眼窩はすでに虚ろであった。ぞっとして怯えた悠太郎を康雄がまた励まして、自分の頭に被った黄色い帽子を力いっぱい前方に投げ飛ばしたので、悠太郎もそれに倣った。ふたりはそれぞれ自分の帽子を投げ飛ばしては、すぐに走ってそれを追いかけながら、いつしか大屋原第一集落にたどり着いていた。
 佐原の家では康雄より四つ年下の弟の拓也たくやも一緒に、とうに穫り入れの終わった広い畑を駆けまわって遊んだ。康雄は悠太郎を見習って憶えたという英語を披露したが、それらは「キングスター!」とか「ゴールデンデリシャス!」とかいった林檎の品種の名前のほかに、なぜか「ジーザス!」とか「ガッデム!」とかいった涜神的とくしんてきな言辞を含んでいた。そして康雄が東の浅間隠連山を背にしてポーズを決めながら、「アメリカンドリームっていうのは、薄い夢っていう意味なんだぜ!」と言って浅黒い顔を輝かせたとき、悠太郎は心底驚いてしまった。二重瞼の大きな目をかっと見開いて「なんだって? なぜそうなるんだい?」と問う悠太郎に、「だってアメリカンコーヒーは、薄いコーヒーだろう? だからアメリカンドリームは、薄い夢なんだよ」と康雄は自説の根拠を説明した。幼い拓也も兄を真似して「アメリカンドリーム!」と繰り返した。
 荒涼たる開拓地の枯れ草を鳴らして風が吹くあいだ、悠太郎は言葉を失っていた。康雄の説はどう考えても正しくはなかったが、さりとてそんな説を主張した康雄を侮る気には全然なれなかった。むしろ既知の言葉を手掛かりに、未知の言葉の意味を探り当てようとする康雄の態度を悠太郎は尊敬した。これこそが拓魂なのだ、ヤッサンに受け継がれた開拓民の魂なのだ。それに引き替え自分はどうか? お祖父様やお母様やテレビが教えてくれる言葉を、あの杜甫の詩に歌われた鸚鵡のように、真似して言ってきただけではないか? ぼくはヤッサンのように、自分で言葉の意味を探求したことがあるだろうか? 自分の言葉を持とうとしたことがあるだろうか? のっぺりした顔の目許に酷薄さを漂わせたヒデッサ伯父様から、何かにつけて「自分でやれ!」と言われることを悠太郎は思い出した。「悠太郎には自分というものがない。操り人形と同じだ」とも伯父様は言うのであったが、悠太郎にとっては自分というものの存在が少しも自明ではなかった。運動会の日に校庭で風に翻っていた万国旗は、どこまでが旗でどこからが風だったのだろう?――それが分からなかったのと同じように、どこまでが自分でどこからがほかの誰かなのか分からないのである。それこそが自分の無力感の根源であることを、康雄の主張を聞いた悠太郎ははっきりと悟った。「すごいなあ、ヤッサンは。それに引き替えぼくは……やっぱり駄目だよ。開拓の子たちには敵わない」と、やっとのことで悠太郎は力なく言った。
 「何言ってんだよ。そんなことあるもんか。ユウちゃんが駄目なら、幼稚園の頃からユウちゃんを見習ってきた俺はどうなるんだい? 俺はユウちゃんの次くらいに勉強ができるようになったら、北海道へでもアメリカへでも行って、農業の勉強がしたいんだよ。ユウちゃんだって今に足が速くなるよ。今日だって休みもせずに五キロ歩けたじゃないか。俺の祖父ちゃん祖母ちゃんたちはここらを開拓したさ。でもユウちゃんが開拓するのは、もっと別のものだよ。何て言ったらいいのかな……?」と励ましがてら言葉を探す康雄に、悠太郎がふと思いついて「目に見えない精神の大地かい?」と助け船を出すと、康雄は「それだよ! まったくユウちゃんはいつもうまいことを言うなあ。ユウちゃんは目に見えない大地の開拓民だ。立派な拓魂の持ち主だよ。俺たちは拓友だぜ!」と感嘆して嬉しそうに言った。そのうちに康雄によく似た幼い拓也が兄に向かって突進すると、康雄はひらりと身をかわして、「俺は闘牛士だ。牛と戦う人だよ。トレアドール! ピカドール! マタドール!」と叫びながら弟の相手をした。悠太郎が物問いたげな目を見開きながら、「闘牛士っていうのは人なのかい? トウギュウシっていう牛がいるのかと思った」と言えば、康雄は拓也と一緒に大笑いしながら、「ユウちゃんは何でも知ってるわけじゃないんだな」とおかしそうに応じた。それから三人は、マンサード屋根の牛舎の薄暗い屋根裏部屋に入って、そこに貯蔵されているトウモロコシわらに埋もれて転がったり、電気ランタンの明かりで漫画雑誌を読んだりした。康雄が特に気に入っている野球のギャグ漫画を読んで、悠太郎も大笑いした。埃っぽい屋根裏部屋に満ちる乾燥した藁の匂いは、大らかな安らぎで悠太郎を包んだ。
 だが悠太郎の繊細な体は、その環境を拒絶した。その夜に始まった喘息のような咳は翌日にも収まらず、悠太郎は学校を欠席せねばならなかった。梅子はパンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら、孫が開拓農家へ遊びにいって体調を崩したことに激怒して、「まあずおめえは与太者だよ! 屯匪の孫に騙くらかされて、五キロも歩いて藁小屋へなんざ入るとは! 馬鹿だねえ! 馬鹿なことをするからこうなるんだよ! いいかい悠太郎、もう二度と佐原さんのうちへ行っちゃいけないよ! 康雄と一緒に帰ってきてもいけないよ! もし今度おまえたちが一緒に歩いているところを見つけたら、いいかい、わったしは佐原のうちに火をつけるよ! そうとも、必ず火をつけるよ! 分ったかい?」と目を吊り上げて喚き散らし、激しく舌打ちを繰り返した。悠太郎は血でも吐くのではないかと思うほど咳き込みながら、怒り狂う祖母の言うことに頷くしかなかった。その次の日の放課後、悠太郎の容態を気遣ってくれた康雄に事情を説明するとき、悠太郎は胸が張り裂けんばかりにつらい思いをした。「ありがとうヤッサン。でももう一緒に帰るわけにはいかないんだ。お祖母様が――祖母がもうヤッサンと一緒に帰ってはいけないと言うんだ。もしぼくらが一緒にいるところを見つけたら、佐原さんの家に火をつけると言うんだ。ぼくはヤッサンのうちを危ない目に遭わせたくない。だからどうかぼくからは離れてほしい。祖母は何をするか分からないんだ」と悠太郎が目を伏せて不安そうに言えば、さしも快活な康雄も浅黒い顔に驚きの色を浮かべたが、やがて気を取り直すと「そうなのか。そういうことじゃ仕方ないな。俺のうちのことを心配してくれてありがとう。でも一緒に帰らなくなったって、友達は友達だぜ。これからもよろしくな」と言って五キロの道のりを踏破すべく、黒い軽石を積み重ねて作られた校門を後にした。そのときから悠太郎はまったくのひとりで、うつむきがちに帰り道をたどるようになった。浅間隠の連山を背に康雄が語った「薄い夢」という言葉が、淋しい帰り道のあいだ悠太郎の脳裏に去来した。時々は梅子が運転する軽自動車が、「見ているぞ」と言いたげに警笛を鳴らしながら、悠太郎がひとりで歩いているかを確かめるべくパトロールしていた。
 悠太郎が改めて康雄の言葉を思い出したのは、観光ホテル明鏡閣のクリスマスパーティーのときであった。浅間山が三度の冠雪で山裾近くまで白く染まり、とうとう里にも雪が降った後のある夜に開かれたそのパーティーでは、大食堂のガラス戸には白い雪の結晶が精緻に描かれ、壁は柊の葉やベルやトナカイや天使を象った飾りで賑わっていた。暗い緑色のクリスマスツリーは明滅する色とりどりの電飾に取り巻かれ、雪を模した綿ときらきらしい金モールをまとわされていた。薄黒いサングラスをかけた黒岩サンタの「メリークリスマス!」の掛け声とともに、一斉にクラッカーが弾けて縮れたカラフルな紙テープが夢のように緩やかに舞い落ちた。小気味よい音とともに瓶の栓が抜かれ、大人たちのグラスにはアルコール入りの、子供たちのグラスにはアルコールなしのシャンパンが注がれて金色に泡立った。ハムとチーズのサンドイッチや、マッシュポテトを付け合わせたローストビーフや、パプリカが色鮮やかな貝とエビのパエリアや、イチゴのショートケーキが次々とテーブルに運ばれて取り分けられ、やがてカラオケが始まると、諸星真花名の母の美雪さんが、テレビのような機械の前に進み出てマイクを握った。夏休みに照月湖ガーデンでアルバイトをしていた高校生の入江香澄かすみさんが、美雪さんとデュエットをする運びとなった。三連符がむせび泣いて崩れ落ちるような音楽が始まると、美雪さんは幸の薄さを楽しもうとしているかのようにふんわりと微笑みながら、香澄さんは翳りのある顔で伏し目がちに、互いの声とハーモニーを作りながら〈待つわ〉を歌った。
 なんて悲しい歌なんだろうと悠太郎は胸を衝かれた。この歌にうたわれた悲しい女の人は、それを歌っている美雪さんや香澄さんと同一人物であるように悠太郎には思われた。そればかりでなく、ふたりの女性の幸の薄さは、そのままこの六里ヶ原の淋しさでもあるような気がした。学芸村も観光ホテル明鏡閣も石井観光農園も、人々の訪れをいつまでも待っているほかない、無限に淋しいものに思われてならなかった。走ることが大好きな丸橋清一先生が六里ヶ原マラソンの後で、高原の空気は酸素が薄いとか、六里ヶ原はランナーの天国だとか言ったらしいことを悠太郎は思い出した。「そうだったのだ。ヤッサンが言った薄い夢というのは、この六里ヶ原の在りようそのものだったのだ。幸薄い人々が、薄い空気のなかで、薄い夢を見ている。この六里ヶ原とはそういう場所なのだ。いや、むしろここに暮らしている幸薄い人々のほうこそ、高原の薄い空気が見ている薄い夢なのかもしれない。薄い夢のように儚く時が流れ、儚く人が生きて死んでゆくことは、またなんという淋しさなのだろう。そんな淋しさのなかで、果たしてぼくはよく生きることができるだろうか。よく生きようとすることだけでもできるだろうか。ルカちゃんの言葉やヘンデルさんの〈得賞歌〉を思い出せば、できるような気がする。でも猛夫くんがぼくに働いたような乱暴のことを思い出せば、できないような気がする。やっぱりぼくは駄目なのかもしれない。ヒデッサ伯父様の言う通り、ぼくは自分というものを持たない操り人形にすぎないのかもしれない」と悠太郎が大きな目に涙を溜めながら物思いに沈むあいだにも、クリスマスツリーを飾る電飾は色とりどりに明滅して、金モールはきらきらと輝いた。
 そうしたわけで年が明けて年度が終わる頃になっても、悠太郎は雪白の寝観音のような浅間山に背を向けて、小学校からの通学路をひとり淋しく下校していたのである。その一年間は、あまりにも多くの変転と恐怖と挫折感を悠太郎にもたらしながら、悪夢が記された教科書のページがめくられるように過ぎていった。徒歩での通学にはもう慣れていたが、黄色い交通安全カバーを被せられた大きなランドセルは、教科書やノートやドリルで重たかった。そのカバーも頭に被った黄色い帽子と同じく、もうすぐ二年生になれば使わなくなるものであった。睫毛の長い目を悄然と伏せて、道路に落ちる樹々や自分の影を見つめながら、この一年で起こった出来事を思い出した悠太郎は、しくしくと心を責め苛む淋しさと虚しさの正体を、幾分かは見定めたように思った。淋しさに包まれながらうつむいて歩む悠太郎に、雑木林を隔てた左手にあるゴルフ場の遥けさが、しんとして迫った。かつて康雄と楽しく話しながら歩んだ町道の側溝を、雪融け水が静けさのなかに輝かしい音を立てながら、悠太郎の遅い歩みを追い越して、ハイロンや大屋原の集落へと勢いよく流れ下っていった。
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