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第五章 野鳥と鳥籠
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何度か甘楽集落の戸井田農園に遊びにゆくうちに、悠太郎は死に関して一輝が持っている開けっ広げな楽天性に得心が行った。近くにハルニレの樹がある戸井田さんの家には、牛舎ばかりでなく広い畑もあって、一輝の父の幹夫さんがほとんど一手に農事を受け持っていた。幹夫さんは精悍な風貌であった。口まわりに黒々と濃いひげを生やし、首にはタオルを巻き、頭につば広の麦わら帽子を被った野良着姿で畑に立つ幹夫さんは、しかし研究熱心で進取の気性に富んでいた。例えばトウモロコシの栽培で幹夫さんは、六里ヶ原で従来栽培されていた黄粒種のハニーバンタムに代えて、新たに開発されたピーターコーンをいち早く導入したひとりであった。夏のある日に戸井田農園を訪れた悠太郎に、幹夫さんは濃いひげを生やした顔に満面の笑みを湛えながら、ぶっきら棒な「ほれ!」というひと言とともに、ポリ袋いっぱいのトウモロコシを持たせてくれたことがあった。訥弁の父親に代わって一輝が、「ピーターコーンだよ。白い粒が入ってるよ。バンタムより甘いんだぜ」と説明するあいだも、幹夫さんは得意げに満面の笑みを輝かせていた。真壁の家で梅子が蒸かしてくれたピーターコーンを悠太郎は、二重瞼の物問いたげな大きな目を黒々と見開きながら見つめていた。だいたい黄色い粒三つに白い粒がひとつか――と悠太郎が数えていると、梅子はパンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら「ウッフフ、考えてねえで早く食え! まあずおめえは、いっこうはしはししねえ」と苦々しく吐き捨てるように言った。
精悍な幹夫さんと違って、一輝の母のアオイさんは農事にほとんど関わらなかった。地母神のようなアオイさんは、ドングリまなこをくりくりと動かしながら、浅い呼吸で冗談を次々と繰り出してはころころと笑う陽気な人で、もともとは良家のお嬢さんであったらしい。アオイさんは牛乳を搾ったり畑に立ったりする代わりに、農園の収支や税金を計算し、また夏場には女学園の山の家で働くことで戸井田農園を助けていた。ところでこの夫妻は、何かにつけて大雑把であった。悠太郎は戸井田農園の門をくぐった最初のとき、その家の薪ストーブのある土間や、一輝とファミコンで遊ぶ部屋や、家族が食事をするのであろう居間や、ガラス張りのサンルームの乱雑な散らかり具合にひどく驚いた。潔癖症ともいうべき梅子が掃除ばかりする真壁の家では、およそ考えられない事態であった。土間には土に汚れた農具が雑然と放置され、部屋ではファミコンソフトや漫画本は箱や本棚からはみ出して溢れ返り、カーペットにはお菓子の食べこぼしや猫の毛が散乱し、居間には食器が台所に下げられもせず鎮座し、サンルームでは脚が折れて傾いた卓球台をはじめ、玩具ともがらくたともつかぬものが所狭しと置かれているなかを、四匹か五匹かそれ以上の猫たちが気まぐれに出入りしていた。こんな光景を梅子が見たら卒倒するのではないかと悠太郎は思ったが、その雑駁さはなぜか不快ではなかった。それは秀子にとっても同様で、アオイさんの大らかさが戸井田家の散らかりとなって表れているのだと思っていた。そうした大らかさこそ、千代次や梅子のいる窮屈なわが家にはあり得ないものであった。悠太郎をこの家に送ってきたり迎えにきたりしがてら、陽気で開けっ広げなアオイさんと話すとき、秀子は雑然とした環境のなかで、不思議と心が安らぐのを感じた。
悠太郎が一輝とファミコンに興じていたあるとき、アオイさんはコンソメ味のポテトチップスのひと袋とともに、ペットボトルに入った金色の炭酸飲料を運んできてくれた。グラスに注ぐと爽やかに泡立つその飲み物についてアオイさんが、「ユウくんはこういうの飲んだことないでしょう? これはジンジャーエールよ。生姜から作った飲み物よ」と説明すると、すかさず一輝が「死んじゃえーる! 死んじゃえーる!」とおどけたふうに連呼した。アオイさんもドングリまなこをくりくりと動かしながら、「死んじゃえーる! 死んじゃえーる!」と繰り返し、浅い呼吸をしながらころころと笑いこけた。悠太郎はこの冗談に、どれほど救われたか知れなかった。冷たく淋しく悠太郎を脅かす死というものが、親子して笑いこけるアオイさんと一輝にかかれば、ジンジャーエールの泡のように軽快なものに思われたのである。幹夫さんとアオイさんに出会ったことで、悠太郎は一輝が身に着けている大らかな逞しさと、死についての感じ方の秘密に触れたような気がした。
北軽井沢駅前の牧の宮神社で、九月二十八日に開かれた秋の例大祭では、涼やかに高くなりゆく青空のもと、悠太郎は一輝とともに幼稚園からの帰りに、金属製の鳥居をくぐって茅葺き屋根の社殿に参拝し、それぞれ秀子やアオイさんに教わるがまま、鈴緒を揺り動かして本坪鈴を鳴らし柏手を打った。だが鈴の鳴らし方も柏手の打ち方も、一輝に比べて悠太郎には元気が全然なかった。そのことをアオイさんは心配したが、秀子はわが子のおとなしさこそ知性の証と常々考えていたので、内心密かに誇っていた。それから子供たちふたりは境内の出店で綿菓子を食べたが、そこで諸星真花名ちゃんが母の美雪さんに連れられて来ているのに行き合った。軽くウェーヴのかかった茶色い髪をした美雪さんは、茶色い目を細めて幸薄そうにふんわりと微笑みながら、「カズくんとユウくんは仲良しなのね」と言った。短い髪の真花名はぎこちない笑みを浮かべながら、きらきら光る茶色の目で、おずおずと悠太郎たちを見ていた。
そんなことがあって秋も深まり、ベルリンの壁が崩壊してすぐの十一月の日曜日にも、悠太郎は戸井田農園の門をくぐった。近くにあるハルニレの樹は、黄色くなった葉をすでに落としていた。猫の毛だらけの雑然とした親しみ深い部屋で、悠太郎は一輝とファミコンに興じていた。前年に発売された《スーパーマリオブラザーズ3》は、悠太郎も田無の正子伯母様に買ってもらってはいた。一定距離を助走して空を飛ぶ操作は、どうにかできるようになっていたものの、マリオ1の頃にはなかった多種多様な追加要素に、悠太郎はほとんど手も足も出なかった。それに引き替え一輝の操作は大したもので、ゲームをどんどん先のほうまで進めるのであった。
ところでマリオ1とマリオ3のあいだには、当然マリオ2があるのではないかと悠太郎が疑問を呈すると、一輝はそれをも持っていた。カズくんに負けず劣らず幹夫さんもアオイさんも常日頃から、この新時代の遊具を大いに楽しんでいたのである。《スーパーマリオブラザーズ2》はディスクシステムのソフトであったから、一輝はファミコンの本体を分厚い箱のような機械に乗せて接続し、手早く起動して黄色いディスクを挿入した。「ユウちゃんやってごらん」と一輝に勧められるまま、悠太郎はマリオ2を遊び始めた。絵柄も音楽も、マリオ1とよく似ていた。最初のステージで悠太郎は、マリオをしてブロックから叩き出したキノコを取らせようとした。ところがキノコに触れるや否や、マリオは大きくなるどころか、たちどころに絶命した。それを見た一輝は抱腹絶倒して「引っ掛かった! あのキノコ、色が変だったろう? 毒キノコだよ。マリオ2にはこういうひどいことがあるんだ」と教えた。マリオ2でひどいことといえば、マリオの弟で緑の帽子のルイージは、ジャンプ力が異常に高すぎるのだと一輝は教えながら実演してみせた。ジャンプ力のあまりの高さゆえ、ゴール手前の階段の頂上から思い切り跳躍すると、三角旗の掲げられたゴールポールを跳び越してしまうのである。「こうなったらもうゴールできないよ。時間切れを待って死ぬしかないね」と一輝は言った。制限時間が残り百秒を切って警告音が鳴り、BGMの速度が上がり、やがて時間切れでルイージが絶命すると、一輝はまた抱腹絶倒した。悠太郎はしかし物問いたげな目を見開いてブラウン管を見つめながら、自分に残された時間はあとどれほどだろうと考えた。
一輝が持っていた漫画本を読むのも、悠太郎の楽しみのひとつであった。ある漫画本のなかに「待たんか、われーっ!」という台詞があった。この「われ」の意味が分からなかった悠太郎は、ある日家に帰ってから秀子に訊いてみた。秀子はまた下膨れの顔に驚きの色を浮かべて、「そんな言葉をどこで憶えたの?」と不審がりながらも、「おまえっていう意味よ。あまり綺麗な言葉じゃないから、よそで使っては駄目よ」と教えた。とはいえ一人称の代名詞であるはずの「われ」が、二人称に使われるのが悠太郎には面白かったので、一輝の家で遊ぶときに限っては、禁を破ってこれを連呼した。その晩秋の日にも、ふたりは広々とした開拓集落の屋外で自転車を乗り回していた。どんどん先へ進む一輝の後から、悠太郎はか細い声で「待たんか、われーっ!」と叫びながら、のろのろとペダルを漕いでゆくのであった。ところどころにある樹々はすでに落葉して草は枯れ、そこかしこの広い畑は、とうに穫り入れの終わった黒土を晒し、荒涼たる光景を取り巻く山々の上には、秋晴れの青天が広がっていた。
緩やかに起伏する道路を登り降りしながら、錆びたような二台の自転車は走りに走った。先んじて戸井田の家の門に入った一輝を追って、悠太郎は「待たんか、われーっ!」と叫びながら、下り坂で思い切りスピードを上げた。自分で漕いでいてそれほど加速したことはかつてなかったから、悠太郎はやや怖くなってブレーキを握り、速度を落とそうとした。ところがどんなに強く握っても、ブレーキは効かなかった。止まれない! 悠太郎は総毛立つような恐怖を覚えて、大きな目をかっと見開いた。その鋭敏な聴覚には、風を切る音ばかりがごうごうと聞こえていた。このまま自動車や電柱にぶつかれば、お墓の下かもしれない――。そう思った悠太郎は、自分が死のほうへと引き寄せられているのを感じながら、何としてでも止まらなければならないと考えた。とっさに悠太郎は戸井田の家の門の脇にある、もはや何の花も咲いていない花壇の黒土に飛び込むことを決めた。囲いの大石に衝突した自転車は盛大に引っ繰り返り、悠太郎は絶叫しながら宙返りして黒土の上に落ちた。聴覚が聴覚自身を聴いているようにしいんと鳴るなかを、やがてカラスの鳴き声や羽音が響いた。早鐘のように打っている心臓や、急いで駆け寄ってくる一輝とアオイさんを知覚しながら、どうやらまだ自分は生きているらしいと悠太郎は思った。「ユウくん大丈夫? 危なかったわね!」とアオイさんは浅い呼吸で心配そうに言ったが、幸い悠太郎の体にはかすり傷ひとつなかったから、地母神のような母とむっちりした逞しい子は、安心して陽気に笑い始めた。何かにつけて大雑把なアオイさんの家庭では、子供用の自転車もまた整備が行き届いていなかったのである。自分をそんな自転車に乗せた親子を、悠太郎は別に恨みはしなかった。むしろ自転車を壊してしまったのではないかと恐縮しながら、悠太郎は死地を脱したことの不思議をしみじみと感じ、「いよいよぼくも死んじゃえーるかと思いました」と言って、アオイさんをころころと笑わせた。一輝も悠太郎の無事を喜び、「死んじゃえーる! 死んじゃえーる!」と連呼して抱腹絶倒した。
そのとき北のほうから冷たい風に乗って、鍵盤ハーモニカの音色で哀切なメロディーが聞こえてきた。この甘楽集落の戸井田農園で遊んでいるとき、トウモロコシの実る夏の頃から、しばしばかすかに断片的に聞こえていたメロディーであった。「あら、また〈グリーンスリーヴス〉ね。誰かしらね、前よりもすっかりうまくなっちゃって。この開拓にも音楽の好きな人がいるのね」とアオイさんは浅い呼吸で感心し、一輝はいくらか鳥の嘴めいた唇を神妙に閉じて、何事か考えているようであった。悠太郎は二重瞼の物問いたげな大きな目を黒々と見開きながら、その切々と訴えるようなメロディーに耳を澄ました。たしかに幼稚園で聞き慣れ、また吹き慣れた鍵盤ハーモニカの音であったが、荒涼たる晩秋の開拓集落に孤絶して響く淋しげなその調べは、悠太郎がそれまで耳にしたどんな鍵盤ハーモニカの音よりも心に染みた。風の歌や鳥の歌に混じり合うその音楽を奏でている人に、悠太郎は改めて強く惹きつけられるのを感じた。
浅間山のほうへ日が傾いて夕方になり秀子が迎えに来たとき、アオイさんはその日の自転車事故のことを包み隠さず話した。秀子は下膨れの顔に驚きの色を浮かべたが、悠太郎をも戸井田さんの親子をも別に咎めはしなかった。アオイさんと秀子が庭で世間話をしていたとき、突然一輝が二、三歩駆け出すと「バーン!」と叫んで左胸を押さえ、
うれしさや秋晴れの野に部下と共
と苦しそうに言ってがっくりと膝をつき、地面に倒れた。悠太郎は驚いて駆け寄ると「どうしたカズくん! 大丈夫か?」と鋭く声をかけながら、むっちりと逞しい友達の体を細い腕で抱き起した。白いひげの枢密顧問官のお爺さんは、話し合いの席で発言中に脳溢血で即死したというではないか。その話を聞いていた悠太郎にとって、それまで元気だった人が突然死んでしまうことは、実際あり得るだろうと思われたのである。しかし抱き起された一輝は、元気にへらへらと笑っていた。幸いにしてそれはただの死んだふりであった。物問いたげな悠太郎の眼差しに答えて、アオイさんが浅い呼吸で「まったくもう、またそんなことをやって。これね、中国で戦死した陸軍の軍人さんの真似なの。満蒙開拓移民の父とか呼ばれてる人で、最期にはあんな辞世の句を詠んだんですって。お祖母ちゃんから話を聞かされて、この子ったらはまっちゃったのね」と真壁の親子に説明した。「ユウちゃん心配ないよ、俺の胸にはこれがついてるからね」と言って一輝は、ジャンパーの前のファスナーを開いて、得意げに缶バッジを示した。秀子は隙間の空いた前歯を剥き出して気安げに笑いながら、「この子たちもいつか大きくなって、部下を持ったりするのかしら?」と言った。そんな光景を、牛舎から出てきた精悍な幹夫さんは、満面の笑みを湛えながら少しのあいだ見守っていた。
帰りの車のなかで秀子は運転しながら、どこか痛いところはないかと改めて悠太郎に確かめ、「それにしても戸井田さんのうちは面白いわね」と楽しそうに言った。「大らかで開けっ広げで細かいことは気にしない。うちとは大違いだわ。私ね、あそこにいてアオイちゃんと話していると、楽しいっていうか、気が楽になるっていうか、何ていうのかしらね……」と言葉を探す秀子に、悠太郎は「救われる?」と助け船を出した。「そうよ、救われるのよ。相変わらずおまえはうまいことを言うわね」と秀子は喜んで褒めたが、悠太郎は一輝と遊んでいて感じることを、そのまま言ってみただけであった。お母様が救われるなら、ぼくはカズくんとこれからも仲良くしなくちゃな――と悠太郎が考えたとき、その考えを読み取ったように秀子が、「仲良くするのはいいわよ。でもカズくんに負けては駄目よ」と低い声で言ったので、悠太郎はぞっとして身を縮めた。鬱蒼たる学芸村の家に帰ってきた悠太郎は、再び心が見晴らしのきかない空間のなかに閉じ込められるような気がした。褐色に変わって縮かんだ楢の葉が、死ぬことを頑なに拒むかのように、まだそこかしこの枝に残っていた。
家では千代次が極度に細い近視の目をしばたたきながら、弁護士一家の不可解な失踪を報じるテレビに見入っていた。祖父の様子と事件の重苦しさを気詰まりに感じながらも、悠太郎は努めて気丈に「弁護士さんたちはどこへ行ってしまったんでしょう? でもきっと帰ってきますよね? 急に大事なお仕事が舞い込んだから、慌てて出掛けただけですよね?」と千代次に話しかけた。しかし千代次はブラウン管から極度に細い目を離さず「いや、そういうわけにはいくめえ。弁護士のうちには気持ちの悪いバッジが落ちていたちゅうぞ。どうも気味が悪い。残念だが一家三人とも、はあ生きちゃあおるめえ」と残酷にも言ってのけたので、悠太郎はまた胸の奥が冷たくなるのを感じた。「それよりユウ、おめえは」とテレビを消して悠太郎に向き直った千代次は、「俺が教えた漢詩をちゃんと憶えているんだろうな?」と孫を尋問した。悠太郎を東京の幼稚園や学校に通わせる案が立ち消えになって以来、千代次の偏った教育は秋霜のような苛烈さを増していた。読めもしない難しい字を習字で書かされたり、行書や草書の名跡を見せられたりすることが、以前よりも頻繁になっていた。そればかりでなく漢籍の暗唱も強いられれば、英会話のテレビ番組まで視聴させられるという有様であったから、幼い悠太郎の神経は、すでにして極度に張り詰めていた。ただ幸いなことに耳のよい悠太郎には、目で見て書く習字よりも、耳で聞いたままを繰り返せばよい漢詩や英語のほうが、まだしも負担は少なかった。だからこのときも悠太郎は、たまたま強く印象に残っていた杜甫の「鸚鵡」をすらすらと暗唱することができた。
開かれることのない鳥籠に閉じ込められた鸚鵡が、故郷の森の樹の枝を思い出して悲しんでいるのだ――そんな千代次の説明に、なぜあんなにも心が揺さぶられたのかを、悠太郎は淀みなく暗唱しながら突き止めようとした。ぼくはずっとこの六里ヶ原にいられることになったじゃないか。ぼくにとっては故郷の森そのものが鳥籠なのだろうか。鸚鵡は人間の言葉を真似るのだ。赤い嘴が無駄に多くの言葉を知っているというのも、なんだかぼくのことを言っているみたいだな。ぼくは家族やテレビが教えてくれる言葉を、それこそ鸚鵡返しに繰り返しているだけなんだ。たしかにぼくは暮らしに困らないように大事にされている。でもそのぼくが大事にしているものは、お母様が山のデパートで買ってくれるテレビの雑誌だって、ぼくが一生懸命組み立てたその付録だって、お祖母様がパンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら「ウッフフ、こんなものはお勉強の妨げ! 整理整頓! まあずおめえがいるとウッフフ、うちのなかがいっつまででも片づかねえ!」なんて言いながら、すぐに捨ててしまうじゃないか。ぼくは家族の楽しみのために飼われている鸚鵡と同じなんだ。真壁の家は、ぼくにとっての鳥籠なんだ――。
そんなことを考えた次の日の幼稚園では、チャボ小屋の当番が悠太郎に回ってきた。悠太郎はもう年少組の頃のように、鳥が食べた餌の殻をアルミの容器から吹き飛ばそうとして、誤って自分の目に入れてしまうような失敗はしなくなっていた。同じくその日の当番になった短い髪の真花名ちゃんは、チャボの飲み水を取り換えようとしながら、きらきら光る茶色の目で悠太郎の様子をそれとなく見守っていた。尖った顎を傲然と上げて冷たい眼差しで監視している温子先生に、悠太郎が圧迫されているらしいことが真花名には気懸かりであった。帰りのバスを待つ乗り場へ向かうあいだ、男の子と女の子が手を繋ぐという決まりを取りやめにしてしまったのも温子先生だという噂だったから、真花名はなおのことこの近寄り難い女性を好きにはなれなかった。ルカちゃんがいなくなった後で、ユウちゃんがひとりぼっちのままなんてあんまりだと真花名は思っていた。
真花名が水を汲んでチャボ小屋に戻ってくると、悠太郎は二重瞼の物問いたげな大きな目を黒々と見開いて、黄色の頭と緑の体を持ったセキセイインコを見つめているところであった。何を思い詰めているのかと真花名が訝れば、悠太郎は突然「先生、このインコを放してあげましょうよ。こんなところに閉じ込められていて可哀想です。お外に出して、ほかの鳥たちみたいに自由にしてあげましょうよ」と言い出した。その口ぶりのあまりの真剣さに温子先生は面食らったが、また悠太郎くんをひとつ賢くする好機だとすぐに思い直し、尖った顎を傲然と上げて悠太郎の提案を冷たく退けると、「ユウちゃんは生態系って聞いたことある?」と問うた。悠太郎は記憶を探るように一瞬目を泳がせた。それを見た温子先生は、「生態系っていうのはね、ある地域に生きている動物とか植物とか、それらを取り巻いている環境のすべてを引っくるめたシステムのことよ。分かるかしら?」と説明を始めた。「このインコはね、海の向こうの外国から連れてこられた鳥で、このあたりの自然のなかにはいないの。放してしまったら餌を採るのに困るかもしれない。もし生きられたとしても、本来このあたりにいるはずのない鳥が紛れ込んだら、生態系が乱れてしまうの。自然の生き物たちが保っているバランスが崩れるの。だからインコは放してはいけないの。自然のなかにいる野鳥のようには生きられないの。この小屋で飼われているほうが、インコにとっては幸せなのよ」と温子先生は押し被せるように言い聞かせた。悠太郎は二重瞼の物問いたげな大きな目を黒々と見開いて聞いていたが、ややあってふとインコを見やると「そうか、おまえも籠の鳥か。可哀想にね」と諦めたような声で言った。真花名はきらきら光る茶色の目で悠太郎を見ながら、インコのほかには誰が籠の鳥なのだろうと疑問に思った。
そのときふと悠太郎は、照月湖へと通じるダート道を舗装したあの日のことを思い出した。コンクリートを均す作業が終わった後で、悠太郎もみんなと一緒に観光ホテル明鏡閣へと引き揚げて、煙草の煙が充満する狭苦しい社員食堂でお茶を飲んでいた。そのとき若い林浩一さんのバイク好きが話題になり、秀子が悠太郎の仮面ライダー好きを話すと、林さんは平たい顔をにこやかに笑わせながら、「そうだ、お兄さんが本物のバイクに乗せてやろう。お兄さんは本物のライダーだぞ。秀子さん、悠太郎くんをちょっと借りますよ」と言った。驚いた梅子が湯呑みから口に含んだお茶を吐き出し、その場のみんなが大騒ぎをするどさくさに紛れて、林さんは悠太郎を連れ出した。そんなときのためでもあろうか、用意されていた子供用のヘルメットを被らされた悠太郎は後部座席に跨って、「しっかりつかまってるんだぞ」と言われた通り、革ジャケットを身に着けた林さんの大きな背中にしがみついた。オートバイが轟々たる爆音を響かせて明鏡閣の駐車場を出発し、黄色から淡紅色へと移ろいつつある楢の葉や、まっすぐに天を指して立つ黄金色の唐松のあわいを谷へと降り、冷涼たる風を切って浅間観光ホテルがあった熊川の方面へと向かうのを、悠太郎は夢見るように味わった。唐松の実を食べていたマヒワの群れが、エンジン音に驚いて一斉に飛び立った。
あれがつまり束の間の解放感だったのだと、悠太郎はセキセイインコを見つめながら思った。漢詩に出てくる鸚鵡のように、ぼくを可愛がってくれる人はいる。でも籠の鳥に自由はないのだ。東ベルリンの人たちは、自由を求めて壁を壊したのだとお母様が教えてくれた。でもピッケルやハンマーを振るって壁を打ち砕くような乱暴をしなければ、人間は自由になれないのだろうか。あんな乱暴なことはぼくにはできない。それに自由になったって、ぼくはインコと同じで世のなかでは生きられないのだ。これから死刑になる人のように閉じ込められて、ゴールポールを跳び越してしまったルイージのように、時間切れで死ぬのを待つしかないのだ。まだ籠が開く日は来ないし、ずっと来ないのだ――。
悠太郎の大きな目から涙がこぼれ落ちるのを、真花名はきらきら光る茶色の目で見て愕然とした。年少さんから年長さんに進級したのに、ユウちゃんが弱くなったなんてことがあり得るだろうか? なんだかユウちゃんは、風に消えてゆく浅間山の煙みたいに頼りない。お祭りの日に食べた綿菓子みたいに儚く溶けてしまいそう。なんでユウちゃんはこんなに淋しいんだろう。何がユウちゃんをこんなふうにしちゃったんだろう――。しかし幼い子供たちの思いなど何知らぬげに、チャボは餌をついばんでは騒がしく羽ばたいて羽毛を散らし、インコは水を飲んでは美しい翼を広げて舞い上がり、はしゃいだような声で歌っていた。
精悍な幹夫さんと違って、一輝の母のアオイさんは農事にほとんど関わらなかった。地母神のようなアオイさんは、ドングリまなこをくりくりと動かしながら、浅い呼吸で冗談を次々と繰り出してはころころと笑う陽気な人で、もともとは良家のお嬢さんであったらしい。アオイさんは牛乳を搾ったり畑に立ったりする代わりに、農園の収支や税金を計算し、また夏場には女学園の山の家で働くことで戸井田農園を助けていた。ところでこの夫妻は、何かにつけて大雑把であった。悠太郎は戸井田農園の門をくぐった最初のとき、その家の薪ストーブのある土間や、一輝とファミコンで遊ぶ部屋や、家族が食事をするのであろう居間や、ガラス張りのサンルームの乱雑な散らかり具合にひどく驚いた。潔癖症ともいうべき梅子が掃除ばかりする真壁の家では、およそ考えられない事態であった。土間には土に汚れた農具が雑然と放置され、部屋ではファミコンソフトや漫画本は箱や本棚からはみ出して溢れ返り、カーペットにはお菓子の食べこぼしや猫の毛が散乱し、居間には食器が台所に下げられもせず鎮座し、サンルームでは脚が折れて傾いた卓球台をはじめ、玩具ともがらくたともつかぬものが所狭しと置かれているなかを、四匹か五匹かそれ以上の猫たちが気まぐれに出入りしていた。こんな光景を梅子が見たら卒倒するのではないかと悠太郎は思ったが、その雑駁さはなぜか不快ではなかった。それは秀子にとっても同様で、アオイさんの大らかさが戸井田家の散らかりとなって表れているのだと思っていた。そうした大らかさこそ、千代次や梅子のいる窮屈なわが家にはあり得ないものであった。悠太郎をこの家に送ってきたり迎えにきたりしがてら、陽気で開けっ広げなアオイさんと話すとき、秀子は雑然とした環境のなかで、不思議と心が安らぐのを感じた。
悠太郎が一輝とファミコンに興じていたあるとき、アオイさんはコンソメ味のポテトチップスのひと袋とともに、ペットボトルに入った金色の炭酸飲料を運んできてくれた。グラスに注ぐと爽やかに泡立つその飲み物についてアオイさんが、「ユウくんはこういうの飲んだことないでしょう? これはジンジャーエールよ。生姜から作った飲み物よ」と説明すると、すかさず一輝が「死んじゃえーる! 死んじゃえーる!」とおどけたふうに連呼した。アオイさんもドングリまなこをくりくりと動かしながら、「死んじゃえーる! 死んじゃえーる!」と繰り返し、浅い呼吸をしながらころころと笑いこけた。悠太郎はこの冗談に、どれほど救われたか知れなかった。冷たく淋しく悠太郎を脅かす死というものが、親子して笑いこけるアオイさんと一輝にかかれば、ジンジャーエールの泡のように軽快なものに思われたのである。幹夫さんとアオイさんに出会ったことで、悠太郎は一輝が身に着けている大らかな逞しさと、死についての感じ方の秘密に触れたような気がした。
北軽井沢駅前の牧の宮神社で、九月二十八日に開かれた秋の例大祭では、涼やかに高くなりゆく青空のもと、悠太郎は一輝とともに幼稚園からの帰りに、金属製の鳥居をくぐって茅葺き屋根の社殿に参拝し、それぞれ秀子やアオイさんに教わるがまま、鈴緒を揺り動かして本坪鈴を鳴らし柏手を打った。だが鈴の鳴らし方も柏手の打ち方も、一輝に比べて悠太郎には元気が全然なかった。そのことをアオイさんは心配したが、秀子はわが子のおとなしさこそ知性の証と常々考えていたので、内心密かに誇っていた。それから子供たちふたりは境内の出店で綿菓子を食べたが、そこで諸星真花名ちゃんが母の美雪さんに連れられて来ているのに行き合った。軽くウェーヴのかかった茶色い髪をした美雪さんは、茶色い目を細めて幸薄そうにふんわりと微笑みながら、「カズくんとユウくんは仲良しなのね」と言った。短い髪の真花名はぎこちない笑みを浮かべながら、きらきら光る茶色の目で、おずおずと悠太郎たちを見ていた。
そんなことがあって秋も深まり、ベルリンの壁が崩壊してすぐの十一月の日曜日にも、悠太郎は戸井田農園の門をくぐった。近くにあるハルニレの樹は、黄色くなった葉をすでに落としていた。猫の毛だらけの雑然とした親しみ深い部屋で、悠太郎は一輝とファミコンに興じていた。前年に発売された《スーパーマリオブラザーズ3》は、悠太郎も田無の正子伯母様に買ってもらってはいた。一定距離を助走して空を飛ぶ操作は、どうにかできるようになっていたものの、マリオ1の頃にはなかった多種多様な追加要素に、悠太郎はほとんど手も足も出なかった。それに引き替え一輝の操作は大したもので、ゲームをどんどん先のほうまで進めるのであった。
ところでマリオ1とマリオ3のあいだには、当然マリオ2があるのではないかと悠太郎が疑問を呈すると、一輝はそれをも持っていた。カズくんに負けず劣らず幹夫さんもアオイさんも常日頃から、この新時代の遊具を大いに楽しんでいたのである。《スーパーマリオブラザーズ2》はディスクシステムのソフトであったから、一輝はファミコンの本体を分厚い箱のような機械に乗せて接続し、手早く起動して黄色いディスクを挿入した。「ユウちゃんやってごらん」と一輝に勧められるまま、悠太郎はマリオ2を遊び始めた。絵柄も音楽も、マリオ1とよく似ていた。最初のステージで悠太郎は、マリオをしてブロックから叩き出したキノコを取らせようとした。ところがキノコに触れるや否や、マリオは大きくなるどころか、たちどころに絶命した。それを見た一輝は抱腹絶倒して「引っ掛かった! あのキノコ、色が変だったろう? 毒キノコだよ。マリオ2にはこういうひどいことがあるんだ」と教えた。マリオ2でひどいことといえば、マリオの弟で緑の帽子のルイージは、ジャンプ力が異常に高すぎるのだと一輝は教えながら実演してみせた。ジャンプ力のあまりの高さゆえ、ゴール手前の階段の頂上から思い切り跳躍すると、三角旗の掲げられたゴールポールを跳び越してしまうのである。「こうなったらもうゴールできないよ。時間切れを待って死ぬしかないね」と一輝は言った。制限時間が残り百秒を切って警告音が鳴り、BGMの速度が上がり、やがて時間切れでルイージが絶命すると、一輝はまた抱腹絶倒した。悠太郎はしかし物問いたげな目を見開いてブラウン管を見つめながら、自分に残された時間はあとどれほどだろうと考えた。
一輝が持っていた漫画本を読むのも、悠太郎の楽しみのひとつであった。ある漫画本のなかに「待たんか、われーっ!」という台詞があった。この「われ」の意味が分からなかった悠太郎は、ある日家に帰ってから秀子に訊いてみた。秀子はまた下膨れの顔に驚きの色を浮かべて、「そんな言葉をどこで憶えたの?」と不審がりながらも、「おまえっていう意味よ。あまり綺麗な言葉じゃないから、よそで使っては駄目よ」と教えた。とはいえ一人称の代名詞であるはずの「われ」が、二人称に使われるのが悠太郎には面白かったので、一輝の家で遊ぶときに限っては、禁を破ってこれを連呼した。その晩秋の日にも、ふたりは広々とした開拓集落の屋外で自転車を乗り回していた。どんどん先へ進む一輝の後から、悠太郎はか細い声で「待たんか、われーっ!」と叫びながら、のろのろとペダルを漕いでゆくのであった。ところどころにある樹々はすでに落葉して草は枯れ、そこかしこの広い畑は、とうに穫り入れの終わった黒土を晒し、荒涼たる光景を取り巻く山々の上には、秋晴れの青天が広がっていた。
緩やかに起伏する道路を登り降りしながら、錆びたような二台の自転車は走りに走った。先んじて戸井田の家の門に入った一輝を追って、悠太郎は「待たんか、われーっ!」と叫びながら、下り坂で思い切りスピードを上げた。自分で漕いでいてそれほど加速したことはかつてなかったから、悠太郎はやや怖くなってブレーキを握り、速度を落とそうとした。ところがどんなに強く握っても、ブレーキは効かなかった。止まれない! 悠太郎は総毛立つような恐怖を覚えて、大きな目をかっと見開いた。その鋭敏な聴覚には、風を切る音ばかりがごうごうと聞こえていた。このまま自動車や電柱にぶつかれば、お墓の下かもしれない――。そう思った悠太郎は、自分が死のほうへと引き寄せられているのを感じながら、何としてでも止まらなければならないと考えた。とっさに悠太郎は戸井田の家の門の脇にある、もはや何の花も咲いていない花壇の黒土に飛び込むことを決めた。囲いの大石に衝突した自転車は盛大に引っ繰り返り、悠太郎は絶叫しながら宙返りして黒土の上に落ちた。聴覚が聴覚自身を聴いているようにしいんと鳴るなかを、やがてカラスの鳴き声や羽音が響いた。早鐘のように打っている心臓や、急いで駆け寄ってくる一輝とアオイさんを知覚しながら、どうやらまだ自分は生きているらしいと悠太郎は思った。「ユウくん大丈夫? 危なかったわね!」とアオイさんは浅い呼吸で心配そうに言ったが、幸い悠太郎の体にはかすり傷ひとつなかったから、地母神のような母とむっちりした逞しい子は、安心して陽気に笑い始めた。何かにつけて大雑把なアオイさんの家庭では、子供用の自転車もまた整備が行き届いていなかったのである。自分をそんな自転車に乗せた親子を、悠太郎は別に恨みはしなかった。むしろ自転車を壊してしまったのではないかと恐縮しながら、悠太郎は死地を脱したことの不思議をしみじみと感じ、「いよいよぼくも死んじゃえーるかと思いました」と言って、アオイさんをころころと笑わせた。一輝も悠太郎の無事を喜び、「死んじゃえーる! 死んじゃえーる!」と連呼して抱腹絶倒した。
そのとき北のほうから冷たい風に乗って、鍵盤ハーモニカの音色で哀切なメロディーが聞こえてきた。この甘楽集落の戸井田農園で遊んでいるとき、トウモロコシの実る夏の頃から、しばしばかすかに断片的に聞こえていたメロディーであった。「あら、また〈グリーンスリーヴス〉ね。誰かしらね、前よりもすっかりうまくなっちゃって。この開拓にも音楽の好きな人がいるのね」とアオイさんは浅い呼吸で感心し、一輝はいくらか鳥の嘴めいた唇を神妙に閉じて、何事か考えているようであった。悠太郎は二重瞼の物問いたげな大きな目を黒々と見開きながら、その切々と訴えるようなメロディーに耳を澄ました。たしかに幼稚園で聞き慣れ、また吹き慣れた鍵盤ハーモニカの音であったが、荒涼たる晩秋の開拓集落に孤絶して響く淋しげなその調べは、悠太郎がそれまで耳にしたどんな鍵盤ハーモニカの音よりも心に染みた。風の歌や鳥の歌に混じり合うその音楽を奏でている人に、悠太郎は改めて強く惹きつけられるのを感じた。
浅間山のほうへ日が傾いて夕方になり秀子が迎えに来たとき、アオイさんはその日の自転車事故のことを包み隠さず話した。秀子は下膨れの顔に驚きの色を浮かべたが、悠太郎をも戸井田さんの親子をも別に咎めはしなかった。アオイさんと秀子が庭で世間話をしていたとき、突然一輝が二、三歩駆け出すと「バーン!」と叫んで左胸を押さえ、
うれしさや秋晴れの野に部下と共
と苦しそうに言ってがっくりと膝をつき、地面に倒れた。悠太郎は驚いて駆け寄ると「どうしたカズくん! 大丈夫か?」と鋭く声をかけながら、むっちりと逞しい友達の体を細い腕で抱き起した。白いひげの枢密顧問官のお爺さんは、話し合いの席で発言中に脳溢血で即死したというではないか。その話を聞いていた悠太郎にとって、それまで元気だった人が突然死んでしまうことは、実際あり得るだろうと思われたのである。しかし抱き起された一輝は、元気にへらへらと笑っていた。幸いにしてそれはただの死んだふりであった。物問いたげな悠太郎の眼差しに答えて、アオイさんが浅い呼吸で「まったくもう、またそんなことをやって。これね、中国で戦死した陸軍の軍人さんの真似なの。満蒙開拓移民の父とか呼ばれてる人で、最期にはあんな辞世の句を詠んだんですって。お祖母ちゃんから話を聞かされて、この子ったらはまっちゃったのね」と真壁の親子に説明した。「ユウちゃん心配ないよ、俺の胸にはこれがついてるからね」と言って一輝は、ジャンパーの前のファスナーを開いて、得意げに缶バッジを示した。秀子は隙間の空いた前歯を剥き出して気安げに笑いながら、「この子たちもいつか大きくなって、部下を持ったりするのかしら?」と言った。そんな光景を、牛舎から出てきた精悍な幹夫さんは、満面の笑みを湛えながら少しのあいだ見守っていた。
帰りの車のなかで秀子は運転しながら、どこか痛いところはないかと改めて悠太郎に確かめ、「それにしても戸井田さんのうちは面白いわね」と楽しそうに言った。「大らかで開けっ広げで細かいことは気にしない。うちとは大違いだわ。私ね、あそこにいてアオイちゃんと話していると、楽しいっていうか、気が楽になるっていうか、何ていうのかしらね……」と言葉を探す秀子に、悠太郎は「救われる?」と助け船を出した。「そうよ、救われるのよ。相変わらずおまえはうまいことを言うわね」と秀子は喜んで褒めたが、悠太郎は一輝と遊んでいて感じることを、そのまま言ってみただけであった。お母様が救われるなら、ぼくはカズくんとこれからも仲良くしなくちゃな――と悠太郎が考えたとき、その考えを読み取ったように秀子が、「仲良くするのはいいわよ。でもカズくんに負けては駄目よ」と低い声で言ったので、悠太郎はぞっとして身を縮めた。鬱蒼たる学芸村の家に帰ってきた悠太郎は、再び心が見晴らしのきかない空間のなかに閉じ込められるような気がした。褐色に変わって縮かんだ楢の葉が、死ぬことを頑なに拒むかのように、まだそこかしこの枝に残っていた。
家では千代次が極度に細い近視の目をしばたたきながら、弁護士一家の不可解な失踪を報じるテレビに見入っていた。祖父の様子と事件の重苦しさを気詰まりに感じながらも、悠太郎は努めて気丈に「弁護士さんたちはどこへ行ってしまったんでしょう? でもきっと帰ってきますよね? 急に大事なお仕事が舞い込んだから、慌てて出掛けただけですよね?」と千代次に話しかけた。しかし千代次はブラウン管から極度に細い目を離さず「いや、そういうわけにはいくめえ。弁護士のうちには気持ちの悪いバッジが落ちていたちゅうぞ。どうも気味が悪い。残念だが一家三人とも、はあ生きちゃあおるめえ」と残酷にも言ってのけたので、悠太郎はまた胸の奥が冷たくなるのを感じた。「それよりユウ、おめえは」とテレビを消して悠太郎に向き直った千代次は、「俺が教えた漢詩をちゃんと憶えているんだろうな?」と孫を尋問した。悠太郎を東京の幼稚園や学校に通わせる案が立ち消えになって以来、千代次の偏った教育は秋霜のような苛烈さを増していた。読めもしない難しい字を習字で書かされたり、行書や草書の名跡を見せられたりすることが、以前よりも頻繁になっていた。そればかりでなく漢籍の暗唱も強いられれば、英会話のテレビ番組まで視聴させられるという有様であったから、幼い悠太郎の神経は、すでにして極度に張り詰めていた。ただ幸いなことに耳のよい悠太郎には、目で見て書く習字よりも、耳で聞いたままを繰り返せばよい漢詩や英語のほうが、まだしも負担は少なかった。だからこのときも悠太郎は、たまたま強く印象に残っていた杜甫の「鸚鵡」をすらすらと暗唱することができた。
開かれることのない鳥籠に閉じ込められた鸚鵡が、故郷の森の樹の枝を思い出して悲しんでいるのだ――そんな千代次の説明に、なぜあんなにも心が揺さぶられたのかを、悠太郎は淀みなく暗唱しながら突き止めようとした。ぼくはずっとこの六里ヶ原にいられることになったじゃないか。ぼくにとっては故郷の森そのものが鳥籠なのだろうか。鸚鵡は人間の言葉を真似るのだ。赤い嘴が無駄に多くの言葉を知っているというのも、なんだかぼくのことを言っているみたいだな。ぼくは家族やテレビが教えてくれる言葉を、それこそ鸚鵡返しに繰り返しているだけなんだ。たしかにぼくは暮らしに困らないように大事にされている。でもそのぼくが大事にしているものは、お母様が山のデパートで買ってくれるテレビの雑誌だって、ぼくが一生懸命組み立てたその付録だって、お祖母様がパンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら「ウッフフ、こんなものはお勉強の妨げ! 整理整頓! まあずおめえがいるとウッフフ、うちのなかがいっつまででも片づかねえ!」なんて言いながら、すぐに捨ててしまうじゃないか。ぼくは家族の楽しみのために飼われている鸚鵡と同じなんだ。真壁の家は、ぼくにとっての鳥籠なんだ――。
そんなことを考えた次の日の幼稚園では、チャボ小屋の当番が悠太郎に回ってきた。悠太郎はもう年少組の頃のように、鳥が食べた餌の殻をアルミの容器から吹き飛ばそうとして、誤って自分の目に入れてしまうような失敗はしなくなっていた。同じくその日の当番になった短い髪の真花名ちゃんは、チャボの飲み水を取り換えようとしながら、きらきら光る茶色の目で悠太郎の様子をそれとなく見守っていた。尖った顎を傲然と上げて冷たい眼差しで監視している温子先生に、悠太郎が圧迫されているらしいことが真花名には気懸かりであった。帰りのバスを待つ乗り場へ向かうあいだ、男の子と女の子が手を繋ぐという決まりを取りやめにしてしまったのも温子先生だという噂だったから、真花名はなおのことこの近寄り難い女性を好きにはなれなかった。ルカちゃんがいなくなった後で、ユウちゃんがひとりぼっちのままなんてあんまりだと真花名は思っていた。
真花名が水を汲んでチャボ小屋に戻ってくると、悠太郎は二重瞼の物問いたげな大きな目を黒々と見開いて、黄色の頭と緑の体を持ったセキセイインコを見つめているところであった。何を思い詰めているのかと真花名が訝れば、悠太郎は突然「先生、このインコを放してあげましょうよ。こんなところに閉じ込められていて可哀想です。お外に出して、ほかの鳥たちみたいに自由にしてあげましょうよ」と言い出した。その口ぶりのあまりの真剣さに温子先生は面食らったが、また悠太郎くんをひとつ賢くする好機だとすぐに思い直し、尖った顎を傲然と上げて悠太郎の提案を冷たく退けると、「ユウちゃんは生態系って聞いたことある?」と問うた。悠太郎は記憶を探るように一瞬目を泳がせた。それを見た温子先生は、「生態系っていうのはね、ある地域に生きている動物とか植物とか、それらを取り巻いている環境のすべてを引っくるめたシステムのことよ。分かるかしら?」と説明を始めた。「このインコはね、海の向こうの外国から連れてこられた鳥で、このあたりの自然のなかにはいないの。放してしまったら餌を採るのに困るかもしれない。もし生きられたとしても、本来このあたりにいるはずのない鳥が紛れ込んだら、生態系が乱れてしまうの。自然の生き物たちが保っているバランスが崩れるの。だからインコは放してはいけないの。自然のなかにいる野鳥のようには生きられないの。この小屋で飼われているほうが、インコにとっては幸せなのよ」と温子先生は押し被せるように言い聞かせた。悠太郎は二重瞼の物問いたげな大きな目を黒々と見開いて聞いていたが、ややあってふとインコを見やると「そうか、おまえも籠の鳥か。可哀想にね」と諦めたような声で言った。真花名はきらきら光る茶色の目で悠太郎を見ながら、インコのほかには誰が籠の鳥なのだろうと疑問に思った。
そのときふと悠太郎は、照月湖へと通じるダート道を舗装したあの日のことを思い出した。コンクリートを均す作業が終わった後で、悠太郎もみんなと一緒に観光ホテル明鏡閣へと引き揚げて、煙草の煙が充満する狭苦しい社員食堂でお茶を飲んでいた。そのとき若い林浩一さんのバイク好きが話題になり、秀子が悠太郎の仮面ライダー好きを話すと、林さんは平たい顔をにこやかに笑わせながら、「そうだ、お兄さんが本物のバイクに乗せてやろう。お兄さんは本物のライダーだぞ。秀子さん、悠太郎くんをちょっと借りますよ」と言った。驚いた梅子が湯呑みから口に含んだお茶を吐き出し、その場のみんなが大騒ぎをするどさくさに紛れて、林さんは悠太郎を連れ出した。そんなときのためでもあろうか、用意されていた子供用のヘルメットを被らされた悠太郎は後部座席に跨って、「しっかりつかまってるんだぞ」と言われた通り、革ジャケットを身に着けた林さんの大きな背中にしがみついた。オートバイが轟々たる爆音を響かせて明鏡閣の駐車場を出発し、黄色から淡紅色へと移ろいつつある楢の葉や、まっすぐに天を指して立つ黄金色の唐松のあわいを谷へと降り、冷涼たる風を切って浅間観光ホテルがあった熊川の方面へと向かうのを、悠太郎は夢見るように味わった。唐松の実を食べていたマヒワの群れが、エンジン音に驚いて一斉に飛び立った。
あれがつまり束の間の解放感だったのだと、悠太郎はセキセイインコを見つめながら思った。漢詩に出てくる鸚鵡のように、ぼくを可愛がってくれる人はいる。でも籠の鳥に自由はないのだ。東ベルリンの人たちは、自由を求めて壁を壊したのだとお母様が教えてくれた。でもピッケルやハンマーを振るって壁を打ち砕くような乱暴をしなければ、人間は自由になれないのだろうか。あんな乱暴なことはぼくにはできない。それに自由になったって、ぼくはインコと同じで世のなかでは生きられないのだ。これから死刑になる人のように閉じ込められて、ゴールポールを跳び越してしまったルイージのように、時間切れで死ぬのを待つしかないのだ。まだ籠が開く日は来ないし、ずっと来ないのだ――。
悠太郎の大きな目から涙がこぼれ落ちるのを、真花名はきらきら光る茶色の目で見て愕然とした。年少さんから年長さんに進級したのに、ユウちゃんが弱くなったなんてことがあり得るだろうか? なんだかユウちゃんは、風に消えてゆく浅間山の煙みたいに頼りない。お祭りの日に食べた綿菓子みたいに儚く溶けてしまいそう。なんでユウちゃんはこんなに淋しいんだろう。何がユウちゃんをこんなふうにしちゃったんだろう――。しかし幼い子供たちの思いなど何知らぬげに、チャボは餌をついばんでは騒がしく羽ばたいて羽毛を散らし、インコは水を飲んでは美しい翼を広げて舞い上がり、はしゃいだような声で歌っていた。
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