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第五章 野鳥と鳥籠
一
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平成の御代となって最初の秋も、充実のうちに過ぎ去りつつあることを感じながら、千代次は眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたいて、家の南の庭に面した縁側のガラス戸越しに、枝振りのよい松の大木に括りつけられた鳥の餌台を眺めていた。灰色の翼を羽ばたいてヒマワリの種を食べにくる小さな鳥は、黒い頭から白い胸へと伸びたネクタイが短いコガラなのか、それとも長いシジュウカラなのか定かには見分けがつかなかったが、それに比べてオナガの群れは豪勢で、見ていて気持ちがよかった。黒い頭と白い喉元と灰色の胴に、翼と長い尾の淡い水色が墨絵めいて美しいこの鳥が、盛大な宴のように庭を乱れ飛ぶ様を見れば、千代次は「まあず豪儀なもんだ」と独りごちた。そして照月湖に中秋の名月が円かな姿を映した後で、真壁の家の芝生に初霜が降り、山林の樹木が冷涼の気のなかで燃えるように紅葉する頃には、北から渡ってきた冬鳥たちが、姿と声で六里ヶ原を彩るようになっていた。ゴミシの実をついばむツグミの赤褐色の羽根と笑うような鳴き声や、唐松の種を食べる黄色いマヒワの高く澄んだ歌声に、千代次は乾いた落ち葉を踏んで学芸村の道を散歩するとき、しばしば出会った。唐松の針葉が黄金色に散り敷いて柔らかな絨毯を広げつつあるなかで、その名の通り青い色をしたルリビタキの愁いを帯びた地鳴きは、深まりゆく別荘村の淋しい秋の静けさを響かせていた。
そうだ、平成の御代となって最初の秋も、充実のうちに過ぎ去りつつあるのだ、そのことに何の疑いがあろうかと千代次は思いながら居間に入ると、掘り炬燵の卓上に広げてあった栗の皮剥きの仕事を続けた。裏庭の隅にある大きな栗の樹は、この秋もたわわに実った毬を豪勢に落としたではないか。ほかのところで拾い集めた栗を合わせれば、大収穫のあまり食べ切れないほどだったではないか。それで皮つきのまま保存してあった残りを、今頃剥いているのではないか。それに栗の樹の近くの日陰に、菌を植えて井桁に組んでおいた楢の丸太からは、シイタケやナメコが豊富に採れた。そればかりか古くから学芸村に定住している木村ミツル爺さんが、ちゃんちゃんこを着た背を丸めながら真壁の家を訪ねてきては、白内障で混濁した目におぼろな光を湛えて朴訥に挨拶しがてら、クリタケやハツタケやアミタケといったキノコを手土産に置いていってくれた。ミツル爺さんは昔この六里ヶ原で炭焼きを生業としていた人々のひとりで、森に分け入って楢や栗や白樺の樹を鋸で伐り倒しては鉈で枝を払い、運び出しては切断して炭焼き釜に入れていたから、森に自生するキノコにも詳しかったのである。学芸村の草創期には、枢密顧問官の大学に木炭を納めて収入を得ていたというミツル爺さんは、混濁した目でどこか遠くを見るようにしながら朴訥な口調で、「今は昔ですよ真壁さん。もう石油とガスと電気の時代です。炭焼きが必要なくなるなんて、あの頃は思いもしませんでしたよ」と千代次に往時を物語ることがあった。
時々こうして鳥の餌台でも眺めては、また電気炬燵に入ってぼつぼつ栗でも剥くのが千代次の楽しみなのである。あまり手先が器用でない千代次にとっては、栗剥き器で鬼皮や渋皮を取り除くのは骨が折れないでもなかった。その覚束ない手つきを見るたびに妻の梅子は、パンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら「ウッフフ、まあず容易じゃあねえ。そんなものを拾わねえったってあんた、食うものはいっくらもあるものを」などと悪態をつくのだが、千代次にしてみればそうした手仕事そのものが、堅固な現実に働きかける充実感を与えてくれるのである。硯に向かって墨を磨り、漢籍の字を毛筆で紙に書くのもよいが、栗剥きのほうが食べ物に関わる分だけ生活に近いような気がする。浅間観光の現役を引退してもう十年以上だが、なかなか精神だけの存在にはなり切れないもので、何かしら生活との接点が欲しくなる。今年も楢の落葉を掻き集めて腐葉土にしておけば、来年また家庭菜園の肥やしになるだろう。ニラも長ネギもカボチャもミョウガも大根も、それなりのものができるだろう――。「なかなか仙人にはなり切れねえもんだのう」と独りごちながら千代次は、今にも清浄な大気に溶け込もうとしているかのように薄墨で描かれた仙人の絵を見た。壁に飾ってあるこの掛け軸は、熱海の芸者だったおイネ社長から贈られた形見の一幅である。増田ケンポウもおイネ夫人も懐かしいな。あの頃は俺も現役で、有り余るほど仕事があった。部屋割りに伝票作成にフロントでの金のやり取り、客へのお茶出しに施設の掃除、土地の分譲に旅行会社への営業、何から何までやったあの頃はまあず忙しかった。だが冬場の暇な季節には、夕方の四時ともなれば社員食堂で従業員みんなして一升瓶なんざ傾けて、思えば楽しい職場だったし、いい時代だった。引退した今となっては何に追われることもない。こうしてひとりでぼつぼつやるのだ――。ひとり黙々たる手仕事に没頭しているあいだは、栗という対象とひとつになって千代次は我を忘れた。それでもひとつの栗を剥き終えて次の栗へと移るときや、鬼皮を剥こうとして栗剥き器の刃が深く入りすぎたときには、日頃の心を塞ぐ雑念が千代次の脳裏を去来せずにはいなかった。遠くでルリビタキの愁いを帯びた地鳴きが、晩秋の別荘村の淋しい静けさを響かせた。
平成の御代となって最初の秋がこうして終わってゆくのだと思いながら、千代次は黙々と栗を剥いた。その顔がふと苦渋に歪んだのは、栗剥き器の刃が栗に食い込んだためばかりではなかった。秋の充実にもかかわらず心を苛む空虚感は、前の時代の終焉という取り返し難い事実から来ているのではないか? そうだった。昨年の大量吐血から重態が報じられていた先代の天皇陛下は、この一九八九年が始まってまもない一月七日に、とうとう崩御されたのだ。俺が戦争を生き抜いて働き詰めに働いた昭和の、すなわち俺の時代の、あれが終わりだったのだ――。暗い影のように列島に覆い被さっていた重苦しい自粛ムードは、その日のうちに皇太子が新たな天皇として即位したことで一応の終結を見たが、記者会見で内閣官房長官が墨書された新元号を掲げるのをテレビで観ても、千代次には何かよその国の出来事のように感じられた。一時代の終焉を否応なく思い知らせたのは、翌月に執り行なわれた大喪の礼であった。「まあずあの日は寒かった」と千代次は栗を剥く手を止めて、眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながら独りごちた。また遠くでルリビタキの地鳴きが淋しさを響かせた。
昭和天皇の大喪の礼が執り行なわれた二月二十四日には、東京に氷雨が降りしきっていた。霊柩を載せた轜車を中心に組まれた葬列が、宮内庁楽部の奏する雅楽と陸上自衛隊の弔砲に送られ、皇居正門を出発して二重橋を渡り、葬場の新宿御苑へ向かうあいだ、沿道に詰めかけた人群れは黒い雨傘を差して寒さにふるえながら、深く大きな悲しみに耐えていた。そうした模様はテレビで中継されたから、千代次は雪の降りしきる六里ヶ原の家にありながら、極度に細い近視の目をしばたたいてブラウン管に見入っていたのである。霊柩は葱華輦に移され、徒歩列で葬場殿に運ばれた。御苑には白黒の幔幕が張りめぐらされ、日本や諸外国の首脳や弔問使節が参列していた。束帯姿の天皇が御誄を奏上するあいだも、皇后は黒いヴェールをまとった影のように立ち尽くしていた。正午には一分間の黙祷が捧げられたから、千代次もまたテレビの前で瞑目して頭を垂れた。
その黙祷が終わり、内閣総理大臣をはじめ三権の長が弔辞を述べ終え、諸外国の首脳や弔問使節に続いて参列者が一斉に礼拝した後、葬列が御苑を出発して高速道路で陵所へ向かった頃であろうか、二重瞼の物問いたげな大きな目を黒々と見開いてブラウン管に見入っていた悠太郎が、「天皇陛下も亡くなったら物質に還るのですか?」と問うたのである。大喪の行なわれる日を休日とする法律によって、公立の幼稚園は休みになっていた。結局のところ悠太郎はまだ六里ヶ原にいて、この町の公立幼稚園の年長組に進級しようとしていた。娘ふたりの説得に動かされた千代次は、愚図な孫を家に留め置くことに渋々ながら同意した。甥を思いやる聡明な正子伯母様の理知的な説得もさることながら、母親の妄念にぶるぶるとふるえるような秀子の説得が、千代次に対して情動的に作用したことが結局は物を言った。大学やその先で学費や生活費はいくらもかかるのだから、何も今のうちから無駄にお金を使うことはない、この地の公立学校で義務教育を終えてから、高等教育に財産を投入するのが最も効果的な使い道だという秀子の言い分は、苦労して財を成した千代次の心底にある貧しさへの恐怖に強く訴えたのであるが、それは老父の気質を見抜いた上での秀子の戦略であった。秀子にしてみれば、英雄はこの六里ヶ原から出で立たねばならなかった。わが子が同年輩の凡庸な子供たちのなかから抜きん出て、彼らを徹底して足下に踏みにじることなしには、かつて理不尽な妬み嫉みから自分をドラ娘として攻撃し、今また自分を出戻り娘として嘲る開拓の連中への復讐は、果たされないわけであった。「そこまで言うんならおめえ、大学だってうんといいところへやらなけりゃあ承知しねえぞ。いや大学の学部を出ただけじゃあ承知しねえ。必ず博士まで進めるように勉強させるだぞ」と聞こえよがしに千代次が秀子に念を押すのを、悠太郎は食事のテーブルで伏せた目の焦点をずらしながら、いたたまれないような思いで聞いていた。
その孫が昭和天皇の大喪に心を動かされていることは、祖父の気難しさをいくらか和らげた。千代次は眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながら、「そうさな。この前の戦争までは、天皇陛下は現人神ちゅうわけだったから、亡くなれば神上がって神々の国にでも迎えられたかもしれねえ。だが日本が戦争に負けてから、天皇陛下は人間になられた。だからやっぱり亡くなったら物質に還るんだんべえ。お気の毒な陛下よ。俺たちが負けさえしなけりゃあ、俺たちが負けさえしなけりゃあ……」と呻くように言って苦渋に歪んだ顔をうつむけた。悠太郎は祖父のこの言葉を聞くと、いつにも増して胸の奥が冷たくなるのを感じた。いくつもの死の話を、すでに悠太郎は千代次から聞いていた。湖の完成を見ないまま死んでしまった枢密顧問官のお爺さんや、勲章に飾られて死んでいった増田ケンポウや、首を吊って自殺したその夫人のおイネさんのことも、いずれ訪れるであろう千代次自身の死のことも、悠太郎は片時も忘れたことがなかった。だが昭和天皇の崩御は、悠太郎が同時代的に体験した初めての大いなる死であった。天皇陛下でさえ亡くなればそれっきりお墓の下なのだと思うと、悠太郎の鋭い聴覚はいっそう鋭敏になって、六里ヶ原の冬の淋しさのなかで聴覚自身を聴いているようにしいんと鳴った。だが千代次は孫がそれほどまでに死のことを思い詰めているとは知らなかった。千代次にとって悠太郎は、虚弱で覇気のない愚図な孫にすぎなかった。そうだ、平成はあれの時代なのだ。あれの頭も体も鍛えて立派なものに仕上げなけりゃあ、真壁の家はおしまいだ。小学校までもう時がない。何とかしなければならない。何とかしなければならない――。不器用な手に力を込めて栗剥き器で栗の鬼皮を剥きながら、千代次はもはや雑念を止めることができなくなっていた。ルリビタキの愁いを帯びた地鳴きが淋しさを響かせるのも、もう耳に入らなかった。
千代次がおもむろにテレビをつけると、相変わらずブラウン管のなかはベルリンの壁崩壊の話題で持ちきりであった。ピッケルやハンマーを振るって壁を粉砕する東ベルリン市民たちの群像が、そこには繰り返し映し出されていた。終戦このかたの東西冷戦構造は、これからどういうことになるのか。世界が大きく動きつつあることは間違いない。六月の中国で起きた天安門事件はひでえものだった。民主化を求める学生や市民のデモ隊を、中国共産党の人民解放軍が銃で撃ち殺し、戦車で轢き殺した。俺を捕虜にしてこき使ったあのソ連では、ペレストロイカとかいう民主化が進んでいる。そしてドイツではベルリンの壁の崩壊だ。そこへ持ってきて俺の孫にはいっこう覇気がねえ。平成の御代となって早々に、先が思いやられるわ――。
こんなはずではなかった、真壁の家は隆盛を極めたはずではなかったかと千代次は、ただひとりの孫の悠太郎が生まれる前年のことを思い出した。あの年には、学芸村と株式会社浅間観光が締結した道路交換条約をめぐる手違いが表面化し、両者のあいだに一触即発の空気が張り詰める事態となった。千代次はすでに浅間観光の現役を引退していた身でありながら、同社の永久名誉顧問としてこの紛争の解決のために、影になり日向になって大車輪の活躍をした。後任の南塚支配人以下の従業員と力を合わせ、土地所有権の移転登記を無事に完了し、学芸村が誤って浅間観光の所有地を売却した問題を穏便に解決したのみならず、浅間観光から建屋を売却して学芸村の事務所とする手筈も調えたことで、両陣営の紛争は一応の解決を見た。この功績によって千代次は夏の組合総会において、ついに学芸村の理事に選出されたのである。真壁理事! 学芸村の真壁千代次理事! 株式会社浅間観光の永久名誉顧問と、六里ヶ原学芸村の理事という称号をふたつながら手に入れた人物が、この浅間北麓のどこにいるというのか! 戦争で兵隊に取られシベリアで死にかけたこの俺が、増田ケンポウのもとで働きに働いてのし上がり、ついに別荘民の学者や芸術家と肩を並べたのだ!――真壁の家が学芸村の文化人の家に伍して栄えることは、もはやほとんど疑う余地がないことのように思われた。問題はただ跡取りがいないことだが、そんなことは自分の養父がしたように、優秀な養子でも迎えればどうにかなる話であった。別荘族の学者や芸術家に勝るとも劣らない傑物がこの家から現れて、六里ヶ原学芸村に真壁ありという盛名が轟くのは、時間の問題かと思われた。ところがそこへあろうことか出来損ないの次女が、生まれてまもない息子を連れて出戻ってきたのである。千代次は不吉な予感を覚えた。あたかも照月湖に映る満月が、暗い雲に隠されたようであった。そして予感は年々歳々現実のものとなっていた。学芸村と浅間観光の不和は、その後も何かにつけて持ち上がり、その双方で重きをなしている千代次を、板挟みにして苦しめたのである。
そして今年の夏の理事会と、組合総会での修羅場というわけだ。「まあずあの日は暑かった」と千代次は、ブラウン管に映し出されるベルリンの壁崩壊のニュースにも上の空で、極度に細い近視の目をしばたたきながら独りごちた。白い口ひげと山羊ひげの枢密顧問官が生きていた草創期から、学芸村も大きく様変わりしていた。枢密顧問官が他界して、その家に財産処分の問題が起こり、増田ケンポウの株式会社浅間観光が、六十万坪余りの学芸村の不動産を大々的に取得した。その土地を千代次は宅地建物取引士として、新たに入村を希望する多くの人々に分譲していた。千代次の世話になったがゆえに浅間観光を支持する新参の村民たちこそ、千代次を理事に押し上げた一大勢力であった。だが観光ホテルの回し者が成り上ったことに象徴される力関係の変化を、古株村民たちやその二世たちが快く思わないのは当然のことであった。うだるような暑さの七月の東京で理事会は開かれた。出掛けていった千代次を待ち受けていたのは、学者や詩人や小説家や作曲家といった文化人の理事たちによる、裁判もさながらの糾弾であった。学芸村と浅間観光のあいだに交わされた土地交換契約に関して、昨年明らかになった種々の問題がいまだ解決しないのはどういうわけかと、彼らは千代次を攻め立てた。浅間観光が買ったことになっているどこそこの土地は、登記上では誰のものかという重箱の隅をつつくような執拗な問いに、千代次は眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながら、ハンカチで額の汗を拭き拭き頭を絞って答えた。そのうち彼らは例によって例のごとく、夏のモビレージのキャンプファイアーがうるさい、冬の照月湖のスケート場の音楽がうるさいという難癖を、寄ってたかって千代次に浴びせかけ、あまつさえ往年の学芸村倶楽部が浅間観光ホテルに転用されたことまでも引き合いに出し、学芸村の平和を乱す浅間観光の即時立ち退きを、強硬に要求したのである。大恩ある浅間観光のために一歩も引くわけにはゆかない千代次は、そもそも増田ケンポウの意図は村の侵略などでは毛頭なく、村民たちとの共存共栄にあったこと、不動産買収に際しては、村に十分な額の支払いをしたこと、新学芸村倶楽部こと楢の木会館の浴場が閉鎖された昨年には、村民たちに照月湖温泉のパスを発行していることからも明らかなように、現在の浅間観光にも村民たちを排斥する意図はまったくないことを力説して理解を求めた。しかし彼らに言わせれば、旧学芸村倶楽部の円形浴場こそ、文化人たちの円満な共同体たる学芸村の象徴であったという。それが浅間観光ホテルのせいで自由に使えなくなって三十年以上であり、今さら照月湖温泉のパスなどもらっても、これまでに被った不自由は、到底償えるものではないということであった。そもそも学芸村のなかには営利目的の施設があってはならないというのが、初代村長を務めた枢密顧問官の方針であったと彼らが言えば、六里ヶ原学芸村組合とはこれを要するに水道の組合であり、この組合と水源を異にする浅間観光の諸施設は厳密には学芸村の一部ではなく、したがって商業施設として許容されるべきであると千代次は熱を込めて反論した。
そこまで言ってもなお収まらない文化人の理事たちは、千代次にとっていっそう痛いところを突く一矢を放った。町道から楢沢の池へ――というのはつまり浅間観光の言う照月湖へ――通じる道路をコンクリートで舗装しようと浅間観光は計画しているかに聞き及ぶが、その道路は真壁理事の家の前を通っている。村内の道は舗装せず自然のままに残すことが、これも初代村長を務めた枢密顧問官の方針であり、したがってコンクリート舗装などそもそも許されないことであるが、かてて加えて真壁理事は浅間観光の利便に乗じ、我田引水的に自家へと利益を誘導せんと企てていることは明白であり、よってこの舗装工事は二重に許し難く、真壁理事の解任にも値する罪過であるとまで彼らは言い募ったのである。千代次は眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながら、ハンカチで額と首筋の汗を拭き拭き頭を絞って、いかにも舗装工事の計画は事実であるが、それは浅間観光と町が協議して決めたことである、北軽井沢市街地から照月湖に通じる道は二本あるが、主要な一本のみ舗装道路でもう一本がダート道では来訪客に不便である、拙宅の前の道を通行する車両が増えている以上、土埃が巻き上がったり泥水が跳ねたりする不都合を解消することは学芸村の環境改善にも寄与する、そもそも当該道路は学芸村の道であるかのように思われているが、すでに町道として認められており、これを舗装することは学芸村の規則に抵触するものではない、いかにも当該道路は拙宅の前を通っているが、この工事はけっして私から浅間観光や町に働きかけたものではなく、そこには真壁の家の長としていささかの私心も差し挟んではいないと、むきになって反論した。
すると脅し文句の通りに文化人の理事たちは、屋根に垂直面のある楢の木会館で翌八月に開かれた組合総会において、あろうことか六里ヶ原学芸村規約に定められた正規の手続きも踏まず、騙し討ち同然に真壁理事解任の動議を提出して強行採決に及んだのである。理事会で持ち出された言い掛かりが、尾ひれをつけて組合員たちの前で繰り返されるあいだ、千代次は屈辱のあまり顔を苦渋に歪めながら、「おのれインテリどもめ、学のねえ俺をコケにしおって。今に見ておれ、今に見ておれ……」と念じつつ弾劾の言葉を聞いていた。もちろんそこにはむちむちとした森山サダム爺さんも居合わせて、てらてらした赤ら顔に笑いを浮かべながら千代次の様子を見物していた。朴訥な木村ミツル爺さんはしかし、白内障で混濁した目におぼろな光を湛えながら、千代次の身を案ずるかのように事の次第を見守っていた。幸いにして賛成者は出席組合員の過半数に辛くも満たなかったから、突如として降って湧いた解任動議は否決されたものの、紛糾のうちに組合総会が果てる頃には老いたる千代次の脳と体は、理事会以来の緊張に精力を使い果たして疲労困憊していた。虚脱状態で楢の木会館を退出した千代次は、樹脂の匂いと草いきれと夕蝉の声に飲み込まれそうになった。文化人の理事たちが浅間観光に向ける執拗な敵意を、千代次は改めて思い知らされた。成り上がり者としての劣等感はこの夏を境に、千代次をますます苛むようになっていた。
そうだ、平成の御代となって最初の秋も、充実のうちに過ぎ去りつつあるのだ、そのことに何の疑いがあろうかと千代次は思いながら居間に入ると、掘り炬燵の卓上に広げてあった栗の皮剥きの仕事を続けた。裏庭の隅にある大きな栗の樹は、この秋もたわわに実った毬を豪勢に落としたではないか。ほかのところで拾い集めた栗を合わせれば、大収穫のあまり食べ切れないほどだったではないか。それで皮つきのまま保存してあった残りを、今頃剥いているのではないか。それに栗の樹の近くの日陰に、菌を植えて井桁に組んでおいた楢の丸太からは、シイタケやナメコが豊富に採れた。そればかりか古くから学芸村に定住している木村ミツル爺さんが、ちゃんちゃんこを着た背を丸めながら真壁の家を訪ねてきては、白内障で混濁した目におぼろな光を湛えて朴訥に挨拶しがてら、クリタケやハツタケやアミタケといったキノコを手土産に置いていってくれた。ミツル爺さんは昔この六里ヶ原で炭焼きを生業としていた人々のひとりで、森に分け入って楢や栗や白樺の樹を鋸で伐り倒しては鉈で枝を払い、運び出しては切断して炭焼き釜に入れていたから、森に自生するキノコにも詳しかったのである。学芸村の草創期には、枢密顧問官の大学に木炭を納めて収入を得ていたというミツル爺さんは、混濁した目でどこか遠くを見るようにしながら朴訥な口調で、「今は昔ですよ真壁さん。もう石油とガスと電気の時代です。炭焼きが必要なくなるなんて、あの頃は思いもしませんでしたよ」と千代次に往時を物語ることがあった。
時々こうして鳥の餌台でも眺めては、また電気炬燵に入ってぼつぼつ栗でも剥くのが千代次の楽しみなのである。あまり手先が器用でない千代次にとっては、栗剥き器で鬼皮や渋皮を取り除くのは骨が折れないでもなかった。その覚束ない手つきを見るたびに妻の梅子は、パンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら「ウッフフ、まあず容易じゃあねえ。そんなものを拾わねえったってあんた、食うものはいっくらもあるものを」などと悪態をつくのだが、千代次にしてみればそうした手仕事そのものが、堅固な現実に働きかける充実感を与えてくれるのである。硯に向かって墨を磨り、漢籍の字を毛筆で紙に書くのもよいが、栗剥きのほうが食べ物に関わる分だけ生活に近いような気がする。浅間観光の現役を引退してもう十年以上だが、なかなか精神だけの存在にはなり切れないもので、何かしら生活との接点が欲しくなる。今年も楢の落葉を掻き集めて腐葉土にしておけば、来年また家庭菜園の肥やしになるだろう。ニラも長ネギもカボチャもミョウガも大根も、それなりのものができるだろう――。「なかなか仙人にはなり切れねえもんだのう」と独りごちながら千代次は、今にも清浄な大気に溶け込もうとしているかのように薄墨で描かれた仙人の絵を見た。壁に飾ってあるこの掛け軸は、熱海の芸者だったおイネ社長から贈られた形見の一幅である。増田ケンポウもおイネ夫人も懐かしいな。あの頃は俺も現役で、有り余るほど仕事があった。部屋割りに伝票作成にフロントでの金のやり取り、客へのお茶出しに施設の掃除、土地の分譲に旅行会社への営業、何から何までやったあの頃はまあず忙しかった。だが冬場の暇な季節には、夕方の四時ともなれば社員食堂で従業員みんなして一升瓶なんざ傾けて、思えば楽しい職場だったし、いい時代だった。引退した今となっては何に追われることもない。こうしてひとりでぼつぼつやるのだ――。ひとり黙々たる手仕事に没頭しているあいだは、栗という対象とひとつになって千代次は我を忘れた。それでもひとつの栗を剥き終えて次の栗へと移るときや、鬼皮を剥こうとして栗剥き器の刃が深く入りすぎたときには、日頃の心を塞ぐ雑念が千代次の脳裏を去来せずにはいなかった。遠くでルリビタキの愁いを帯びた地鳴きが、晩秋の別荘村の淋しい静けさを響かせた。
平成の御代となって最初の秋がこうして終わってゆくのだと思いながら、千代次は黙々と栗を剥いた。その顔がふと苦渋に歪んだのは、栗剥き器の刃が栗に食い込んだためばかりではなかった。秋の充実にもかかわらず心を苛む空虚感は、前の時代の終焉という取り返し難い事実から来ているのではないか? そうだった。昨年の大量吐血から重態が報じられていた先代の天皇陛下は、この一九八九年が始まってまもない一月七日に、とうとう崩御されたのだ。俺が戦争を生き抜いて働き詰めに働いた昭和の、すなわち俺の時代の、あれが終わりだったのだ――。暗い影のように列島に覆い被さっていた重苦しい自粛ムードは、その日のうちに皇太子が新たな天皇として即位したことで一応の終結を見たが、記者会見で内閣官房長官が墨書された新元号を掲げるのをテレビで観ても、千代次には何かよその国の出来事のように感じられた。一時代の終焉を否応なく思い知らせたのは、翌月に執り行なわれた大喪の礼であった。「まあずあの日は寒かった」と千代次は栗を剥く手を止めて、眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながら独りごちた。また遠くでルリビタキの地鳴きが淋しさを響かせた。
昭和天皇の大喪の礼が執り行なわれた二月二十四日には、東京に氷雨が降りしきっていた。霊柩を載せた轜車を中心に組まれた葬列が、宮内庁楽部の奏する雅楽と陸上自衛隊の弔砲に送られ、皇居正門を出発して二重橋を渡り、葬場の新宿御苑へ向かうあいだ、沿道に詰めかけた人群れは黒い雨傘を差して寒さにふるえながら、深く大きな悲しみに耐えていた。そうした模様はテレビで中継されたから、千代次は雪の降りしきる六里ヶ原の家にありながら、極度に細い近視の目をしばたたいてブラウン管に見入っていたのである。霊柩は葱華輦に移され、徒歩列で葬場殿に運ばれた。御苑には白黒の幔幕が張りめぐらされ、日本や諸外国の首脳や弔問使節が参列していた。束帯姿の天皇が御誄を奏上するあいだも、皇后は黒いヴェールをまとった影のように立ち尽くしていた。正午には一分間の黙祷が捧げられたから、千代次もまたテレビの前で瞑目して頭を垂れた。
その黙祷が終わり、内閣総理大臣をはじめ三権の長が弔辞を述べ終え、諸外国の首脳や弔問使節に続いて参列者が一斉に礼拝した後、葬列が御苑を出発して高速道路で陵所へ向かった頃であろうか、二重瞼の物問いたげな大きな目を黒々と見開いてブラウン管に見入っていた悠太郎が、「天皇陛下も亡くなったら物質に還るのですか?」と問うたのである。大喪の行なわれる日を休日とする法律によって、公立の幼稚園は休みになっていた。結局のところ悠太郎はまだ六里ヶ原にいて、この町の公立幼稚園の年長組に進級しようとしていた。娘ふたりの説得に動かされた千代次は、愚図な孫を家に留め置くことに渋々ながら同意した。甥を思いやる聡明な正子伯母様の理知的な説得もさることながら、母親の妄念にぶるぶるとふるえるような秀子の説得が、千代次に対して情動的に作用したことが結局は物を言った。大学やその先で学費や生活費はいくらもかかるのだから、何も今のうちから無駄にお金を使うことはない、この地の公立学校で義務教育を終えてから、高等教育に財産を投入するのが最も効果的な使い道だという秀子の言い分は、苦労して財を成した千代次の心底にある貧しさへの恐怖に強く訴えたのであるが、それは老父の気質を見抜いた上での秀子の戦略であった。秀子にしてみれば、英雄はこの六里ヶ原から出で立たねばならなかった。わが子が同年輩の凡庸な子供たちのなかから抜きん出て、彼らを徹底して足下に踏みにじることなしには、かつて理不尽な妬み嫉みから自分をドラ娘として攻撃し、今また自分を出戻り娘として嘲る開拓の連中への復讐は、果たされないわけであった。「そこまで言うんならおめえ、大学だってうんといいところへやらなけりゃあ承知しねえぞ。いや大学の学部を出ただけじゃあ承知しねえ。必ず博士まで進めるように勉強させるだぞ」と聞こえよがしに千代次が秀子に念を押すのを、悠太郎は食事のテーブルで伏せた目の焦点をずらしながら、いたたまれないような思いで聞いていた。
その孫が昭和天皇の大喪に心を動かされていることは、祖父の気難しさをいくらか和らげた。千代次は眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながら、「そうさな。この前の戦争までは、天皇陛下は現人神ちゅうわけだったから、亡くなれば神上がって神々の国にでも迎えられたかもしれねえ。だが日本が戦争に負けてから、天皇陛下は人間になられた。だからやっぱり亡くなったら物質に還るんだんべえ。お気の毒な陛下よ。俺たちが負けさえしなけりゃあ、俺たちが負けさえしなけりゃあ……」と呻くように言って苦渋に歪んだ顔をうつむけた。悠太郎は祖父のこの言葉を聞くと、いつにも増して胸の奥が冷たくなるのを感じた。いくつもの死の話を、すでに悠太郎は千代次から聞いていた。湖の完成を見ないまま死んでしまった枢密顧問官のお爺さんや、勲章に飾られて死んでいった増田ケンポウや、首を吊って自殺したその夫人のおイネさんのことも、いずれ訪れるであろう千代次自身の死のことも、悠太郎は片時も忘れたことがなかった。だが昭和天皇の崩御は、悠太郎が同時代的に体験した初めての大いなる死であった。天皇陛下でさえ亡くなればそれっきりお墓の下なのだと思うと、悠太郎の鋭い聴覚はいっそう鋭敏になって、六里ヶ原の冬の淋しさのなかで聴覚自身を聴いているようにしいんと鳴った。だが千代次は孫がそれほどまでに死のことを思い詰めているとは知らなかった。千代次にとって悠太郎は、虚弱で覇気のない愚図な孫にすぎなかった。そうだ、平成はあれの時代なのだ。あれの頭も体も鍛えて立派なものに仕上げなけりゃあ、真壁の家はおしまいだ。小学校までもう時がない。何とかしなければならない。何とかしなければならない――。不器用な手に力を込めて栗剥き器で栗の鬼皮を剥きながら、千代次はもはや雑念を止めることができなくなっていた。ルリビタキの愁いを帯びた地鳴きが淋しさを響かせるのも、もう耳に入らなかった。
千代次がおもむろにテレビをつけると、相変わらずブラウン管のなかはベルリンの壁崩壊の話題で持ちきりであった。ピッケルやハンマーを振るって壁を粉砕する東ベルリン市民たちの群像が、そこには繰り返し映し出されていた。終戦このかたの東西冷戦構造は、これからどういうことになるのか。世界が大きく動きつつあることは間違いない。六月の中国で起きた天安門事件はひでえものだった。民主化を求める学生や市民のデモ隊を、中国共産党の人民解放軍が銃で撃ち殺し、戦車で轢き殺した。俺を捕虜にしてこき使ったあのソ連では、ペレストロイカとかいう民主化が進んでいる。そしてドイツではベルリンの壁の崩壊だ。そこへ持ってきて俺の孫にはいっこう覇気がねえ。平成の御代となって早々に、先が思いやられるわ――。
こんなはずではなかった、真壁の家は隆盛を極めたはずではなかったかと千代次は、ただひとりの孫の悠太郎が生まれる前年のことを思い出した。あの年には、学芸村と株式会社浅間観光が締結した道路交換条約をめぐる手違いが表面化し、両者のあいだに一触即発の空気が張り詰める事態となった。千代次はすでに浅間観光の現役を引退していた身でありながら、同社の永久名誉顧問としてこの紛争の解決のために、影になり日向になって大車輪の活躍をした。後任の南塚支配人以下の従業員と力を合わせ、土地所有権の移転登記を無事に完了し、学芸村が誤って浅間観光の所有地を売却した問題を穏便に解決したのみならず、浅間観光から建屋を売却して学芸村の事務所とする手筈も調えたことで、両陣営の紛争は一応の解決を見た。この功績によって千代次は夏の組合総会において、ついに学芸村の理事に選出されたのである。真壁理事! 学芸村の真壁千代次理事! 株式会社浅間観光の永久名誉顧問と、六里ヶ原学芸村の理事という称号をふたつながら手に入れた人物が、この浅間北麓のどこにいるというのか! 戦争で兵隊に取られシベリアで死にかけたこの俺が、増田ケンポウのもとで働きに働いてのし上がり、ついに別荘民の学者や芸術家と肩を並べたのだ!――真壁の家が学芸村の文化人の家に伍して栄えることは、もはやほとんど疑う余地がないことのように思われた。問題はただ跡取りがいないことだが、そんなことは自分の養父がしたように、優秀な養子でも迎えればどうにかなる話であった。別荘族の学者や芸術家に勝るとも劣らない傑物がこの家から現れて、六里ヶ原学芸村に真壁ありという盛名が轟くのは、時間の問題かと思われた。ところがそこへあろうことか出来損ないの次女が、生まれてまもない息子を連れて出戻ってきたのである。千代次は不吉な予感を覚えた。あたかも照月湖に映る満月が、暗い雲に隠されたようであった。そして予感は年々歳々現実のものとなっていた。学芸村と浅間観光の不和は、その後も何かにつけて持ち上がり、その双方で重きをなしている千代次を、板挟みにして苦しめたのである。
そして今年の夏の理事会と、組合総会での修羅場というわけだ。「まあずあの日は暑かった」と千代次は、ブラウン管に映し出されるベルリンの壁崩壊のニュースにも上の空で、極度に細い近視の目をしばたたきながら独りごちた。白い口ひげと山羊ひげの枢密顧問官が生きていた草創期から、学芸村も大きく様変わりしていた。枢密顧問官が他界して、その家に財産処分の問題が起こり、増田ケンポウの株式会社浅間観光が、六十万坪余りの学芸村の不動産を大々的に取得した。その土地を千代次は宅地建物取引士として、新たに入村を希望する多くの人々に分譲していた。千代次の世話になったがゆえに浅間観光を支持する新参の村民たちこそ、千代次を理事に押し上げた一大勢力であった。だが観光ホテルの回し者が成り上ったことに象徴される力関係の変化を、古株村民たちやその二世たちが快く思わないのは当然のことであった。うだるような暑さの七月の東京で理事会は開かれた。出掛けていった千代次を待ち受けていたのは、学者や詩人や小説家や作曲家といった文化人の理事たちによる、裁判もさながらの糾弾であった。学芸村と浅間観光のあいだに交わされた土地交換契約に関して、昨年明らかになった種々の問題がいまだ解決しないのはどういうわけかと、彼らは千代次を攻め立てた。浅間観光が買ったことになっているどこそこの土地は、登記上では誰のものかという重箱の隅をつつくような執拗な問いに、千代次は眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながら、ハンカチで額の汗を拭き拭き頭を絞って答えた。そのうち彼らは例によって例のごとく、夏のモビレージのキャンプファイアーがうるさい、冬の照月湖のスケート場の音楽がうるさいという難癖を、寄ってたかって千代次に浴びせかけ、あまつさえ往年の学芸村倶楽部が浅間観光ホテルに転用されたことまでも引き合いに出し、学芸村の平和を乱す浅間観光の即時立ち退きを、強硬に要求したのである。大恩ある浅間観光のために一歩も引くわけにはゆかない千代次は、そもそも増田ケンポウの意図は村の侵略などでは毛頭なく、村民たちとの共存共栄にあったこと、不動産買収に際しては、村に十分な額の支払いをしたこと、新学芸村倶楽部こと楢の木会館の浴場が閉鎖された昨年には、村民たちに照月湖温泉のパスを発行していることからも明らかなように、現在の浅間観光にも村民たちを排斥する意図はまったくないことを力説して理解を求めた。しかし彼らに言わせれば、旧学芸村倶楽部の円形浴場こそ、文化人たちの円満な共同体たる学芸村の象徴であったという。それが浅間観光ホテルのせいで自由に使えなくなって三十年以上であり、今さら照月湖温泉のパスなどもらっても、これまでに被った不自由は、到底償えるものではないということであった。そもそも学芸村のなかには営利目的の施設があってはならないというのが、初代村長を務めた枢密顧問官の方針であったと彼らが言えば、六里ヶ原学芸村組合とはこれを要するに水道の組合であり、この組合と水源を異にする浅間観光の諸施設は厳密には学芸村の一部ではなく、したがって商業施設として許容されるべきであると千代次は熱を込めて反論した。
そこまで言ってもなお収まらない文化人の理事たちは、千代次にとっていっそう痛いところを突く一矢を放った。町道から楢沢の池へ――というのはつまり浅間観光の言う照月湖へ――通じる道路をコンクリートで舗装しようと浅間観光は計画しているかに聞き及ぶが、その道路は真壁理事の家の前を通っている。村内の道は舗装せず自然のままに残すことが、これも初代村長を務めた枢密顧問官の方針であり、したがってコンクリート舗装などそもそも許されないことであるが、かてて加えて真壁理事は浅間観光の利便に乗じ、我田引水的に自家へと利益を誘導せんと企てていることは明白であり、よってこの舗装工事は二重に許し難く、真壁理事の解任にも値する罪過であるとまで彼らは言い募ったのである。千代次は眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたきながら、ハンカチで額と首筋の汗を拭き拭き頭を絞って、いかにも舗装工事の計画は事実であるが、それは浅間観光と町が協議して決めたことである、北軽井沢市街地から照月湖に通じる道は二本あるが、主要な一本のみ舗装道路でもう一本がダート道では来訪客に不便である、拙宅の前の道を通行する車両が増えている以上、土埃が巻き上がったり泥水が跳ねたりする不都合を解消することは学芸村の環境改善にも寄与する、そもそも当該道路は学芸村の道であるかのように思われているが、すでに町道として認められており、これを舗装することは学芸村の規則に抵触するものではない、いかにも当該道路は拙宅の前を通っているが、この工事はけっして私から浅間観光や町に働きかけたものではなく、そこには真壁の家の長としていささかの私心も差し挟んではいないと、むきになって反論した。
すると脅し文句の通りに文化人の理事たちは、屋根に垂直面のある楢の木会館で翌八月に開かれた組合総会において、あろうことか六里ヶ原学芸村規約に定められた正規の手続きも踏まず、騙し討ち同然に真壁理事解任の動議を提出して強行採決に及んだのである。理事会で持ち出された言い掛かりが、尾ひれをつけて組合員たちの前で繰り返されるあいだ、千代次は屈辱のあまり顔を苦渋に歪めながら、「おのれインテリどもめ、学のねえ俺をコケにしおって。今に見ておれ、今に見ておれ……」と念じつつ弾劾の言葉を聞いていた。もちろんそこにはむちむちとした森山サダム爺さんも居合わせて、てらてらした赤ら顔に笑いを浮かべながら千代次の様子を見物していた。朴訥な木村ミツル爺さんはしかし、白内障で混濁した目におぼろな光を湛えながら、千代次の身を案ずるかのように事の次第を見守っていた。幸いにして賛成者は出席組合員の過半数に辛くも満たなかったから、突如として降って湧いた解任動議は否決されたものの、紛糾のうちに組合総会が果てる頃には老いたる千代次の脳と体は、理事会以来の緊張に精力を使い果たして疲労困憊していた。虚脱状態で楢の木会館を退出した千代次は、樹脂の匂いと草いきれと夕蝉の声に飲み込まれそうになった。文化人の理事たちが浅間観光に向ける執拗な敵意を、千代次は改めて思い知らされた。成り上がり者としての劣等感はこの夏を境に、千代次をますます苛むようになっていた。
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