明鏡の惑い

赤津龍之介

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第四章 白詰草の冠

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 そして一学期の最後にこうした問題は、悠太郎がその早すぎる生涯の終わりまで忘れ得ぬような仕方で顕在化した。それは年少組と年長組が揃って、ちょっとした遠出をしたときに起こったのである。その日も天候が危ぶまれたが、幸い快晴とはゆかないまでも薄曇り程度には恵まれたから、総出の園児たちは夏服の半袖スモックに麦わら帽子姿で、二台の草軽バスに分乗した。浅間山へと向かって国道を南下するあいだ、湖の乱反射のような車内の騒ぎは、いつにも増してぎらぎらと輝いていた。年少組と年長組は別々のバスに乗ったから、悠太郎の隣に留夏子はいなかった。夏服になってからいつもするように、映二はバスのなかでも悠太郎の露出した細い腕を指さして、「毛深い! 毛深い!」と騒ぎ立てた。黙って車窓から外の景色を眺める悠太郎の目のなかを、「Health & Beauty MILK」という英語に囲まれた牛の絵の看板や、給食の時間に飲む牛乳を作っているミルク村の工場や、地蔵川を渡った先の自動車店や、難しそうな漢字の書かれた四つの厳めしい石碑が流れていった。バスが北軽井沢の駅を通らずに信号を通過し、樹々や草叢がいよいよ鬱蒼と両側に迫る国道を進んでゆくあいだ、悠太郎はこれこそが人生の姿ではないかと物思いに沈んでいた。時という名のバスのがやがやと騒がしい車内に詰め込まれ、揺られ揺られて自分が選んだわけでもない道を、自分が選んだわけでもない目的地へと連れてゆかれる。そんなこととは無関係に樹々は風にざわめいて枝には鳥たちが歌い、青空が見えたかと思えば、また曇ったり霧が流れたりする。そのうちに死という名のバス停に着けば、人はそれぞれまったくのひとりぼっちで降車しなければならないのだ。どうしてみんなは乱反射する湖のように楽しく騒いでいられるのだろう。どうしてぼくはみんなのようになれないのだろう。ひとりぼっちで死んでゆくことの淋しさを、誰も考えないのだろうか――。だが幸いその日には、まだ悠太郎は死という名のバス停に到着することなく、元気いっぱいの園児たちと一緒に、浅間牧場で降車したのである。
 あたりに薄く立ち込めた霧のように、絶え間ない内省が悠太郎を包んでいた。二段勾配になっている浅間牧場茶屋の茶色い大屋根から突き出た、小さなドーマーのとんがり屋根を数えてみると五つあった。それにしても五つあるとんがりの壁のそれぞれにくっついている、木製の車輪のような円形のものは何だろう。こちらを見ている目のようで、ひどく奇妙な感じがする。でもその目のひとつに見入っていると、なぜか気持ちが落ち着いてくる。落書き帳に円形の枠を描いたときと同じような感じがする。いくつもの目があることが恐ろしいのだろうか。ああ、ぼくはまだこんなに小さいのに、ぼくを見ている目はもうなんと多いことだろう。お祖父様の目がある。お祖母様の目がある。お母様の目がある。弦巻先生の目がある。ぼくと同じ園児たちの目がある。その親たちの目がある。観光ホテル明鏡閣の従業員たちの目がある。これらの目からぼくはけっして逃れることができない。そしてぼくが大きくなるにつれて、こういう目はどんどん増えてゆくのだ。ぼくを落ち着かせ安心させてくれる目が、そのなかにただひとつでもあったらいいのに。いや、いや、いや、それはないのだ。誰も彼もがぼくを見張るのだ。優しかろうが厳しかろうが、そんなことは関係ない。ぼくが読み書きに秀でるように、丈夫な体になるように、決まりを守るように、みんなと同じになるように、抜きん出た者になるように、歌がうまくなるようにと、それぞれの思惑を持ってぼくを見張っているのだ。それでぼくは心も体も小さく縮こまってしまうのだ。こうして物思いのなかへと突き返されてしまうのだ。みんなは楽しそうにしている。ウサギや山羊に餌をやっては、きゃっきゃと歓声を上げている。そのウサギや山羊の目もまた、ぼくには恐ろしいのだ。言葉を話さない動物たちだって、「おまえはみんなと違っている。おまえは人間のようではない。おまえは生き物のようではない」とその目でぼくに告げているのだ。なんと恐ろしいことだろう。ああ、ただひとつの目があって、そのなかに映されて無限に落ち着き安心することができたなら、どんなにか救われるだろう。だがきっとその目はこの世の目ではないのだ。この世にぼくは馴染めないだろう。きらきらと笑いさざめくみんなの声が、なんだかひどく遠くに聞こえる。ぼくには霧が流れる音が聞こえる気がする。だがみんなはそんなものを聞いてはいないだろう。みんなは階段を上ってゆく。元気いっぱいに緑の丘を登ってゆく。柔らかな草地に横たわって転がったり、柵の向こうに放牧されている白黒斑しろくろまだらの牛たちを見て喜んだりしている。その牛たちの目も「おまえはみんなと違っている。おまえは人間のようではない。おまえは生き物のようではない」とぼくに言うのだ。ぼくはじわじわと力を奪われて、もう歩き続けることができない。みんなは先へと行ってしまう。ぼくはここに座り込んだまま取り残されてしまう。だがこれもまた人生の姿なのだろう。ぼくの人生の姿なのだろう――。
 そんなことを考えながら悠太郎が座り込んだあたりの草地には、白詰草が群れ咲いて静かな風に揺れていた。悠太郎はその花の白と、放牧されている牛の白と、牧草ロールを巻いたビニールシートの白と、園庭にある白い滑り台の白を比べてみた。すると白いあのものやこのものから「白さ」を抽象できるということに気がついた。そのふとした気づきは悠太郎に、具体的なあのものやこのものを超えて舞い上がるような自由感をもたらした。そうして把握された「白さ」を、群れ咲く白詰草の花にもう一度帰してやると、花はほかの白いものと共通の「白さ」を分け持つものとして、一段と美しさと意味深さを増したように思われた。あのものやこのものだって、やっぱり大切なんだ。白いあのものやこのものがなかったら、「白さ」を支えるものがない。これからお絵描きするときは、あのものやこのものをもっと丁寧に描いてみよう。だが白いあのものやこのものなしに、「白さ」だけがあるような場所はどこだろう? それはきっとお空の上だ。そうだ、ぼくを無限に落ち着かせ、安心させてくれるただひとつの目があるとしたら、きっとお空の上にあるに違いない――。悠太郎は気がつくと、その白詰草を摘んで花冠を編み始めていた。花の編み方は、いつかルカちゃんが幼稚園のお山で教えてくれた。そのときも留夏子は、手先が器用だと言って悠太郎を褒めてくれた。そんなことを思い出しながら、ひたすら茎を束ね巻きつけて編み継ぐうちに、その環の完成こそ自分にとっての世界の崩壊を防いでくれるものだと、悠太郎は信じるようになった。あらゆる白いものの「白さ」を分け持つ花で編まれたひとつの円環のなかに、悠太郎は安らぎを見出したいと願ったのである。
 悠太郎が長い花の束を環にして別の花の茎で結わえたとき、薄く立ち込めた霧のなかを、丘の向こうから近づいてくる大小の人影があった。それはややずんぐりした体つきの弦巻先生と、何人かの園児たちであった。弦巻先生は悠太郎の姿を認めると、「どこへ消えたかと思えばこんなところにいたの。急にいなくなるんだから心配したわよ」と言ったが、少しきつい目で悠太郎が手にした花冠を見とがめると、瞬時に表情を険しくした。「ちょっとユウちゃん、その手に何を持っているの? 牧場に生えている草花を採ってはいけないってあれほど言ったでしょう? 聞いてなかったの?」と弦巻先生は厳しい声で悠太郎を責めた。突然のことに驚いた悠太郎は、二重瞼の物問いたげな大きな目を黒々と見開きながら、「実際こうして花を摘んで、冠を編んでしまったところを見ると、聞いていなかったと考えるのが妥当なようです」と答えた。「何よ他人事ひとごとみたいに。先生は牧場の人に謝らなければならないでしょう。ユウちゃんは自分が何をしたか分かっているの?」と弦巻先生が悠太郎を難詰すると、白目の冴えた直矢はここぞとばかりに面白がり、「いつもぼうっと考え事ばっかしてるからこうなるんだ」と言って機関銃のように高笑いしたし、映二は鬼の首でも取ったように細長い目を笑わせて、水筒のコップを吸い着けた円い跡のある口で「いけないんだ! いけないんだ! しぇんしぇいに言ってやろう!」と歌ったが、現にこうして弦巻先生に見つかっている以上、映二が誰に言いつけようと言いつけまいと、状況は変わらないわけであった。一輝は鳥の嘴めいた唇を笑わせて、呆れたように悠太郎を見ていたし、目許に静かな知性を光らせたカイは、雀斑の散った小さな顔をニヤリと笑わせながら、世のなかにはこういうこともあるものだと言いたげであった。
 騒ぎを聞きつけてまた何人かの園児たちが、薄く立ち込めた霧のなかを丘の向こうから歩んできた。留夏子は切れ長の目でいち早く異変を見て取ると、薄灰色のスモックの裾をひらりとなびかせながら、風のように近づいてきた。悠太郎の手にあるものを認めた留夏子は、眩しいものでも見るように切れ長の目を細めた。「また一段と綺麗にできたわね。ユウちゃんはやっぱり感性が細やかで手先が器用よ。先生もそう思いません?」と留夏子が緑の唐松林を吹き渡る朝風のような声で言うと、「そういう問題じゃないのよルカちゃん。この牧場では植物の採集は禁止なの。困るなあ、どうして決まりを守れないかなあ」と弦巻先生はうんざりしたように答えた。「起こってしまったことは仕方ないじゃん。問題はその花冠をどうするかね」と言って悠太郎に向き直った留夏子は、「ユウちゃんはどうしてそれを作ったの? 誰にあげようと思ったの?」と問うた。悠太郎は当惑して睫毛の長い目を伏せた。また始まった。なぜ、どうして、誰のため、何のため。ルカちゃんまでがそんなことを言う。ぼくは世界が壊れてしまわないようにこれを作ったんだと言ったって、どうせ誰も分かってくれはしないんだ――。そんなことを考えながら悠太郎は、「別になぜもどうしてもないよ。誰のためでも何のためでもない。そういうことが問題にならないところに、ぼくにとっての意味はあるんだ」とやっとのことで答えた。「おかしなことを言うのね。何のためにとか誰のためにとかいうことが、意味っていうことの意味でしょう?」と留夏子はなおも追及した。留夏子の同級生で一緒についてきた垂れ目の岩瀬麻衣ちゃんが、のんびりと間延びした声で「じゃあ誰のため?」と問うた。同じく一緒にいた隼平は、切れ長で斜視気味の目で悠太郎を見据えながら、ぶっきら棒な早口で「じゃあ何のため?」と問うた。座ったままで目を伏せて困ったように黙り込む悠太郎を、眩しいものでも見るように見ていた留夏子は、「お願いしてもいいかしら。ユウちゃん、それを私にくださいな」と言って麦わら帽子を脱いだ。「その花冠を私の頭に載せてちょうだい」と留夏子は悠太郎の前にふわりと片膝をついた。観念した悠太郎はおずおずと立ち上がり、軽くうつむいた留夏子の頭に白詰草の冠をそっと載せながら、ルカちゃんがこの花冠を被るのは、白い花が「白さ」を持つのと同じことだと考えようとした。
 そのときにわかに霧が晴れ始めた。薄曇りの空を切り裂いて青空が広がり、煙を噴き上げる雄大な浅間山や、その東麓に盛り上がった瘤のような小浅間山は言うに及ばず、遥か北西の四阿山と白根山や東の浅間隠連山をはじめとして、六里ヶ原をぐるりと取り巻く山々が一斉にその姿を現した。悠太郎は顔を上げると、二重瞼の物問いたげな大きな目を黒々と見開いてあたりを見渡した。留夏子もまた立ち上がり、近くや遠くの山々を眺めては、眩しいものでも見るように切れ長の目を細めて感嘆した。「ほら見たこと? 素晴らしい景色じゃない。ユウちゃんの罪は神様がお赦しよ。どう? 私に似合うでしょう?」と言いながら、花冠を頭に載せた留夏子がくるりと一回転するたび、緑の髪ゴムで留めた長いポニーテールがぴょこりと弾んだ。この幼い戴冠式とそれに続いて開けた眺望を、そこに居合わせたみんなは何かに打たれたように見ていた。麻衣ちゃんが垂れ目を嬉しそうに笑わせながら、「ルカちゃん綺麗。花嫁さんみたい」と間延びした声で讃嘆するのを聞いた弦巻先生は、いつかゼラニウムの花びらが降った日に感じた暗澹たる気分を思い出していた。髪を短くした真花名ちゃんは、そんな留夏子と悠太郎の様子をいくらか離れたところから、きらきら光る茶色の目に涙を浮かべながら見守っていた。お化けも恐れぬ豪胆な涼子ちゃんは、林檎のように頬の赤い顔を不安に曇らせながら、黒曜石のように光る黒目がちな目で、その真花名ちゃんを心配そうに見守っていた。白詰草が群れ咲いていたあたりには一羽のアカハラが降り立ち、人懐っこそうに喜ばしげな声で歌い続けて、長いこと去らなかった。
 そうしたことを思い出しながら過ごす夏休みも、一日また一日と悠太郎から失われていった。お盆休みが終わってしまえば、大好きな正子伯母様はまた田無へ帰ってしまうのだ。悠太郎は正子に、幼稚園でのことをたくさん話そうとした。だがいざ言葉にしようとしてみると、それはあまりにも悲しい話になりそうだったから、代わりに庭に咲いている花のことをたくさん尋ねた。トランプのスペードの形のような大きな葉っぱのオオバギボウシや、それぞれ赤と黄色に輝くサルビアとマリーゴールドや、炎のようなタイマツソウや、赤黒く燃えるダリアや、どこまでも明るい大輪のヒマワリや、慎ましい紫のキキョウのことを、盛り上がる白い夏雲の湧く青空の下で、正子は聡明な目を悠太郎に向けながら教えてくれた。家のなかではヒデッサ伯父様が、テレビの前に胡坐をかいてファミコンのコントローラーを握っていた。真壁の家にこの機械が導入されたのは、千代次ひとりにかかる子守の負担を軽減するためであったが、案外大人たちだって悠太郎と同じくらいかそれ以上に、この新時代の遊具に興味を持っていたのである。そのファミコンでヒデッサ伯父様が遊んでいる光景は、現職の自衛官が子供の世界に屈服しているように見えたから、悠太郎は内心密かにある種の優越感を覚えた。英久の操作が悠太郎より下手であったから、なおのことである。《スーパーマリオブラザーズ》を遊ぶ英久が、赤い帽子のマリオを左から右へと走らせて穴を飛び越えようとするとき、コントローラーを持つ両手は傾く体ごと右へ動いた。しかし身を入れた跳躍の甲斐もなく、マリオが穴に落ちて絶命すると、英久は上滑りするような声で「あちゃ!」と言っては、のっぺりとした顔に苦笑を浮かべた。英久が大した進歩もないままファミコンの電源を切ると、テレビのブラウン管には白黒の砂嵐が虚しく吹き荒れた。騒音停止期間の学芸村は静かであった。真壁の家と庭を取り巻く鬱蒼たる緑の樹々が、明るい夏の午後の風にさわさわと鳴っていた。
 そうした緩やかなお盆休みも、いつしか浅間牧場のサーキットを走り抜けたオートバイのように過ぎ去った。大好きな正子伯母様との別れの朝が来ると、悠太郎は朝食のトーストも水っぽい野菜炒めも喉を通らないほど、ひたすら大泣きした。高崎にあるヒデッサ伯父様の実家に寄ってから田無へ帰るという正子は「ユウちゃん、また来るから。泣かないの、また会えるから」と穏やかな声でなだめたが、眼鏡の奥で極度に細い近視の目をしばたたいた千代次が「ユウ、おめえも高崎へ行くか?」と不可能なことを言ったので、悠太郎はますます悲しくなって大泣きに泣いた。梅子はパンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら「ウッフフ、あんた余計なことを言うもんじゃないよ」と千代次をたしなめた。秀子はわが子が姉に懐いていることからくる嫉妬に顔を曇らせながら、姉夫婦を自動車で北軽井沢の駅まで送らなければならなかった。ヒデッサ伯父様はのっぺりとした顔に人の好さそうな笑いを浮かべながら「じゃ、また」と義父母に挨拶したが、大泣きする悠太郎を見るその目許からは酷薄さが消えなかった。土手の上に列をなす唐檜の向こうの道を自動車が走り去ると、梅子はパンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら「ウッフフ、あの婿はねえ、いつもああ言うんだよ。〈じゃ、また〉ってね。ウッフフ、面白いねえ。ウッフフ、そうさねえ悠太郎、おまえが正子の子ならよかったのにねえ。秀子なんかの子じゃなければよかったのにねえ」と言った。するとまた別の悲しみに襲われて、悠太郎はますます泣かなければならなかった。
 あまりの悲しさに悠太郎は、正子伯母様がくれたバッタのオートバイのフィギュアを手に取った。緑のバッタの形をしたオートバイの赤い目は、「おまえはみんなと違っている。おまえは人間のようではない。おまえは生き物のようではない」と言っているようには思われなかった。気持ちが落ち着いてきた悠太郎は、フィギュアを手にしたまま庭へ出た。泣きやんだ後で見る庭は、どこかしらさっきまでとは違って見えた。鳥の歌と蝉の声に満たされた午前の爽やかな大気のなかで、トランプのスペードの形のような大きな葉っぱのオオバギボウシも、それぞれ赤と黄色に輝くサルビアとマリーゴールドも、炎のようなタイマツソウも、赤黒く燃えるダリアも、どこまでも明るい大輪のヒマワリも、慎ましい紫のキキョウも、正子伯母様の透明な非在によって、くっきりと存在感を強めたようであった。白樺の枝がふるえ始める前から、悠太郎には風の思いが分かるような気がした。よく登って遊ぶイロハモミジの樹も、幼な子の手のひらのような葉を夥しく緑色に茂らせていた。「ぼくがもうこの樹に登って遊ばなくなる日がいつか来るだろうか」と悠太郎は不意に考えた。「そうだ、お盆休みは終わる。伯母様はいなくなってしまう。夏休みが終わる。ひとつの夏が終わる。誕生日が来れば、ぼくは五歳になる。ぼくは大きくなる。一年また一年と大きくなってゆく。いま登って遊ぶこの樹の枝も、いつかぼくを支え切れなくなる日が来るだろう。伯母様がプレゼントにくれたこのフィギュアも、いつかぼくを離れてゆくのだろうか」と考えると、言い知れぬ淋しさに幼い悠太郎の小さな胸ははち切れんばかりであった。
 この夏の輝きを可能な限り記憶に留めたい――。そう願った悠太郎は庭を出ると、楢や唐松や白樺の緑が燃えるような林間のダート道を歩んだ。歩むにつれてきらきらと光る木洩れ日に陶然とした悠太郎は、葉叢とそのあいだを洩れる光のどちらがより強い実体であろうかと不思議がった。騒音停止期間中だから、機械ではなく鎌で刈られたに違いない草の匂いが、息苦しいほどの強烈な生命感で悠太郎の鼻を衝いた。草叢には本物の緑のバッタが跳ねていた。なぜ木洩れ日はこんなにも聞こえない音楽の川のように美しくて、なぜ切られた草の匂いはこんなにも生々しく何かを訴えるようで、なぜバッタの脚の力はこんなにも強いのかと悠太郎は物思いに耽った。やがて急な坂道の上から見下ろされたレストラン照月湖ガーデンは、コーヒーやカレーのおいしそうな香りを立ち昇らせていた。店内で食事する客のみならず、カウンターでソフトクリームを買い求める客や、屋外に用意されたパラソルテーブルの椅子でそれを食べる客が引きも切らなかった。浅間隠の連山や、近々と迫る緑の鷹繋山を背景にした湖は、手漕ぎボートや足漕ぎのスワンボートを澄んだ湖水にいくつも浮かべて、静かに賑やかに乱反射していた。別の一画ではへら鮒を狙う釣り人たちが、さわさわと風に鳴る樹々の音を聞きながら、水の深みに垂れた釣り糸のウキを辛抱強く見つめていた。湖畔を一周する遊歩道の木陰を、多くの人々が様々に談笑しながら歩んでいた。午前の時は正午に向かって刻々と明るさと偉大さを増していった。
 「なんという今の美しさだろう」と悠太郎は思った。「今このときの賑わいと、それを包んでいる深い静けさはどうだろう。こんな時間がいつまでも続いてゆくような気がする。ぼくはこんな時間が、いつまでもいつまでも続いてほしいと思う。こんな今が過ぎ去るなんて、ほとんど考えられない。いったい今は過ぎ去るのだろうか。お盆休みは終わる。正子伯母様は病院の薬局で働くために、田無へ帰らなければならない。夏休みは終わる。来月の七日には、ぼくは五歳になる。ぼくは一年また一年と大きくなる。お祖父様は一年また一年と年老いて死に近くなり、やがてお墓の下へゆく。人間は死ぬとき何を見るのだろう。ファミコンの電源を切った後のように、白黒の砂嵐が虚しく吹き荒れるのだろうか。それともテレビを消した後のように、何も映らないブラウン管が冷たく沈黙するのだろうか。一年また一年と時間が流れた後で、人はお墓の下へゆくのか。むしろお空の上へゆくのではないのか。白いものの白さそのものがあるお空の上へゆくことはできないのか。ああ、あの白詰草の花冠はもう萎れてしまっただろう。あんなにもルカちゃんに似合っていたあの白詰草の冠は、この世から消えてどこへ行ってしまったのだろう。そして夏休みが終わる頃には、ぼくは六里ヶ原にいないかもしれない。あの幼稚園にはもう戻れないかもしれない。また会えると伯母様は言った。でも来年また浅間で会おうと誓い合って別れたオートバイのファンたちは、結局もう会えなかったではないか。ぼくだって伯母様にもう会えないかもしれない。ぼくの罪をあんなふうに庇ってくれたルカちゃんにだって、もう会えないかもしれない。それはぼくが選べることではないのだ。すべてはお祖父様やお祖母様の意を受けて、お母様が決めるだろう。ぼくはそれに従うだろう。そしてこれからもずっとそうだろう。ぼくは何ひとつ自分では選べないだろう。ぼくには今からそのことがはっきりと分かる。それにしても」と悠太郎は二重瞼の物問いたげな大きな目を黒々と見開いた。賑いを浮かべた明澄な湖水が一段と眩しく乱反射して、悠太郎をほとんど甘美な陶酔へと引き込んだ。「本当にこの今が過ぎてゆくのだろうか。こんなに美しい時間が本当に跡形もなくなってしまうのだろうか。いや、いや、いや、そんなことは考えられない。そんなことはあり得ないのだ。たしかに夏休みは終わるだろう。ぼくは五歳になるだろう。ぼくは一年また一年と大きくなるだろう。お祖父様は死に近づいてゆくだろう。だがそれらはすべて見かけだけのことなのだ。今が流れてゆくのは、うわべだけのことなのだ。深いところではきっとそうではない。あの湖よりももっと深いところでは、あの湖に映ったお空よりももっともっと深いところでは、今は今のままじっと動かずに留まっているような気がする。そこでは何もかもが今のままなのだ。本当の今はずっとずっと今のままであるに違いないのだ……」
 けれども悠太郎が暮らしている見かけの世界では、あの花冠が萎れてしまったように、正子伯母様が田無へ帰っていったように、その午前は町の防災無線が〈草競馬〉を鳴り響かせる正午へと昇り詰め、やがてその日は終わっていった。そのように夏休みも秋も冬も、その年もその年度も留まることなく流れ流れて、幼い悠太郎を先へ先へと運んでいった。夏の牧場で白詰草の冠を戴き、くるりと一回転してポニーテールをぴょこりと弾ませた年長組のあのお姉さんも、いつまで幼稚園児のままではなかった。生じては消えてゆくあらゆる映像のなかで、あの旋回のほかには何が本当にあったことなのか、悠太郎には次第に分からなくなっていった。流れゆく日々のなかで悠太郎は、過ぎ去る時の花を摘んでは、見えない冠を編もうとしているかのようであった。しかしあまりに早く編み終えられるその花冠もまた、ついにひとつの過ちでしかないことを、幼い悠太郎はまだ知らなかった。
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