明鏡の惑い

赤津龍之介

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第二章 四季折々の花

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 ゼラニウムの花びらを挟んだティッシュをとんとんと叩いた悠太郎は、その二枚のティッシュを離してピンク色の移り具合を見ながら、四季折々の花はこれからもきっと咲くのだと自分に言い聞かせていた。やがて家の花壇には、花占いにちょうどよいマーガレットが咲き、背の高いヒマワリが咲き、大輪のダリアが咲くだろう。家のなかでは鉢植えの君子蘭が咲いているし、シクラメンも咲くだろう。でもまた冬になったら、雪と氷に閉ざされたお外では、どこに花が見つかるだろうかと悠太郎は思い悩んだ。そんな悠太郎の様子を桃組の部屋の入口の外から、髪をふたつの三つ編みにしたひとりの女の子が、きらきら光る茶色の目でおずおずと窺っていた。そうして見られていることを、悠太郎はとうから承知で無視していた。あれは赤組の諸星真花名もろぼしまかなちゃんだ、あの子はぼくのせいで辱めを受けているんだと、悠太郎は気に病んでいたのである。それというのも入園して早々に無神経な男の子たちが、「おまえらふたりは結婚しろ! 結婚すれば女は男の苗字に変わるんだぜ! 結婚すれば真壁真花名だ! マカマカだ!」と囃し立てて騒ぎ始めたのである。まさかそんな事態が起ころうとは、悠太郎は想像だにしていなかった。入園前に家で祖母の梅子が、喜色満面でパンチパーマの頭をゆらゆらと揺らしながら「ウッフフ、そういえば諸星電機の娘さんも同級生だねえ。真花名ちゃんとかいったっけ? おっ母さんの美雪みゆきちゃんは別嬪べっぴんさんだものを、真花名ちゃんだって器量よしだろうよ」と言ったり、祖父の千代次が極度に細い近視の目をしばたたきながら、「諸星真花名とはまた豪儀な名前だのう。諸々の星にまことの花の名か。まあずきらきらしいのう」と、土井晩翠の「星と花」という詩を引き合いに出して感嘆したりしたときに、そうした事態を予測しておくべきであった。しかし離婚した母の子である悠太郎は、物心ついたときにはもう母方の姓である真壁を名乗っていたから、結婚した女性のほとんどが相手の男性の姓を名乗り、その夫婦の子も父方の姓を名乗るという事実を知って驚愕した。大屋原第三集落の直矢くんでさえ、神川の姓は鹿児島から六里ヶ原にやって来た父親のものであった。あの強烈なスパルタ式の協子さんは婿を取ったも同然ながら、表向きはその旧姓を捨てたのである。この幼稚園で母方の姓を名乗っているのは、悠太郎ただひとりであった。
 諸星さんの母と娘については、梅子の言ったことが当たっていた。北軽井沢の駅で会った美雪さんの顔は色白で、茶色がかった淡い目の色に合わせたように、軽くウェーヴのかかった肩までの髪も茶色かった。どこか幸薄い感じの女性であったが、そのふんわりした微笑みには、むしろ幸の薄さを楽しもうとしているかのような余裕があり、六里ヶ原界隈の母親たちのなかで一番の美人として通っているのも、悠太郎には納得できた。娘の真花名ちゃんは母親の特徴をおおむね受け継いでいたが、わずかに顎がしゃくれた顔は思い詰めたようで幸の薄さばかりが際立ち、その笑顔も何となくぎこちないものであった。悠太郎はそのことに、はっきりと責任を感じていた。自分の苗字のせいでひとりの女の子が辱めを受けているという事実は、悠太郎にとって耐え難いものであった。真壁の苗字を変えるため、新しいお父様と結婚してくれるように、お母様にお願いしてみようか? そう考えたが、おいそれと実現する見込みは薄そうだし、何より秀子を傷つけることになるような気がしたので、この策は放棄した。差し当たり悠太郎にできることは、真花名には何の関心もないことを装って、冷淡に振る舞うことだけであった。あるとき廊下でふたりが出くわしたところを見つけた映二が、「おまえら結婚しろ! マカマカだ!」とからかったとき、悠太郎は二重瞼の物問いたげな大きな目で静かに映二を見据えながら、「そういうことは軽々しく言うものじゃないよ」と諭したことがあった。すると映二は逆上し「何だと! 弱いくしぇに!」と叫んで掴みかかってきた。事物と知性の一致という観点から見れば、映二の言葉は真理であった。それというのも悠太郎は、実際信じられないほど弱かったからである。防戦一方の悠太郎を叩きのめそうと、騒ぎを聞きつけた乱暴な男の子たちが、ひとりまたひとりと映二に加勢した。彼らにとっては弱い者を思う存分ぶちのめすことができさえすれば、細かい事情などはどうでもよかったのである。そんな目に遭ってから悠太郎は、真花名に対して冷淡策を貫こうと決めていた。そして第三の策も頭をよぎったが、それは自分が死んでしまうということであった。自分さえいなくなれば、真花名ちゃんは辱められなくて済む。家の花壇にトリカブトが咲いたら、毒があるというその花や根っこを食べてしまおうか――。悠太郎が初めて自殺願望を抱いたのは、実に真花名ちゃんのゆえであった。
 ところが真花名ちゃんのほうでは、きらきら光る茶色の目で、事態をちょっと違ったふうに見つめていた。たしかに最初は恥ずかしかった。でもよくよくまわりの男の子たちを見渡してみればどうか? ユウちゃんは、ただ乱暴なだけの男の子たちとは全然違って、冷たいようだけど実は優しいし物知りだし、なんだか夢見るような不思議なところがある。それにああまで弱いのに、私をいじめる子たちに立ち向かってくれたじゃない。あのとき私は助けてあげられなかった。だからせめて、結婚しろなんて言われてももう全然恥ずかしくないんだってことを、ユウちゃんに教えてあげなくちゃ。そうよ、この幼稚園の男の子たちのなかから選ぶなら、やっぱりユウちゃんよ――。真花名はそう思っていた。稀に見る奇妙な幼稚園児である悠太郎と、名前の上で浅からぬつながりがあることは、幼い真花名ちゃんに運命的という感じを与えた。声をかけてみようかな? 桃組の部屋の入口の外で真花名がおずおずと考えているうちに、砂場遊びで長いパイプを奪い合って騒いだ園児たちが、ひとりまたひとりと部屋のなかの悠太郎に近づいて、また何事か騒ぎ始めていた。聞けば「ユウちゃんは女の子みたいだ」という声が口々に上がっており、弦巻先生までそれに同調しているのであった。いま私が助けてあげなくちゃと真花名は思った。ユウちゃんはまわりの子たちとはいつもあんな具合で、先生としかお話しできなくて淋しそう。ううん、淋しそうだった。年長さんの黄色組のあの子が、ユウちゃんに声をかけるまでは……。でもだからって、私が声をかけちゃいけないわけじゃないよね? 別にユウちゃんはあの子のものになったわけじゃない。私も声をかけてみよう。お花で染めたあのティッシュを綺麗だと言ってあげよう――。真花名が意を決しようとしたその瞬間、緑の唐松林を吹き渡る朝風のような声が、「どうしたの? 何の騒ぎ?」と響き渡った。あの子だ!
 その声を発した長いポニーテールの女の子は、薄灰色のスモックの裾をひらりとなびかせながら、臆することなく桃組の部屋に入って悠太郎に近づくと「先生、いったいどうしたの?」と静かに問うた。「ユウちゃんが女の子みたいだって、みんなが言ってるのよ。こんなもの作ってるんだから」と答えながら弦巻先生は、悠太郎がゼラニウムの花びらで染めたティッシュを指し示した。黄色組のポニーテールの女の子は、その薄紙を繊細な手つきでつまみ上げると「まあ綺麗」と感嘆して、眩しいものでも見るように切れ長の目を細め、口許だけに微笑みを浮かべた。「いいじゃありませんか先生、感性の細やかな男の子がいたって。ただ乱暴なだけの男の子より、私はよっぽど素敵だと思う」と言いながら、黄色組のお姉さんがあたりを払うような眼差しを投げると、悠太郎をからかっていた園児たちは畏怖して後ずさりした。今や白目の冴えた直矢も、顔に雀斑の散った小さなカイも、指しゃぶりをする一輝も、林檎のように頬の赤い豪胆な涼子も、口のまわりにコップの円い跡を拵えた映二も、桃組の部屋のなかで事の成り行きを見守っていた。真花名はしかし相変わらず入口の外でおずおずしていた。思ってはいても口に出せずにいたことを、黄色組のあの子が臆面もなく言ってのけたのを聞いて、真花名は危機感を覚えた。
 ああまたルカちゃんかと弦巻先生は思った。真壁悠太郎くんの家庭環境はちょっと類を見ないと思ったが、そういえばこの佐藤留夏子さとうるかこちゃんの場合だってなかなかに複雑なのだ。母親は音楽大学でピアノを専攻して、ハンガリーに留学した経験もあるカトリック教徒だというから、その娘の口から感性がどうのという台詞が出てきても、別段不思議はないわけであった。だが不思議なのは、そんな女性がなぜ選りにも選って六里ヶ原に、それも甘楽の開拓農家に嫁いできたのかということであった。案の定と言うべきか、精神性への理解が欠如した家庭のなかで、留夏子の母親は孤立しているらしい。「農家に音楽は要らねえ」と夫からは疎んじられ、「聖書なんざ読む気取った嫁」だと舅や姑からは嫌われているという。そんな母親を見て育った留夏子が、孤独な者の存在に敏感なのは当然かもしれなかった。留夏子が悠太郎に目をつけたときの嬉しそうな様子を、弦巻先生の少しきつい目は見逃していなかった。園庭に整列してから帰りのバスを待つ乗り場へ向かうあいだ、男の子と女の子が手を繋ぐという決まりがあるのだが、内気な悠太郎は入園したばかりの頃、誰とも手を繋げなかった。そんな様子を見た留夏子は、眩しいものでも見るように切れ長の目を細めると、口許だけに微笑みを浮かべた。「あらユウちゃん、振られちゃったの? あぶれちゃったの? 駄目ねえ、そんなことじゃお嫁さんのなり手がないわよ。仕方ないわね、お姉さんが手を繋いであげる」と朝風のような爽やかな声で言いながら、留夏子は有無を言わせず悠太郎の手を取ったのだが、それ以来ふたりは帰りに毎日手を繋ぐようになったばかりでなく、時々は一緒に〈アルプス一万尺〉を歌いながら手遊びをしたり、話をしたりするようになっていた。
 留夏子はゼラニウムの花びらで染められたティッシュをしばし見つめると、「綺麗は綺麗だけど、もうひと工夫してみたら? 何かの形にしてみるとか。そうねえ、ハート形はどう?」と提案した。しかしその提案は異論にぶつかることになった。ついに意を決して桃組の部屋に入ってきた真花名が、ふるえがちな声を励ましながら「お星さまの形がいいと思う」と対案を出したのである。たちまち留夏子がむきになって「お姉さんの言うことが聞けないの?」と悠太郎に詰め寄れば、真花名もまた「私のお願いを聞いて」とふるえがちな声を強めた。悠太郎は睫毛の長い目を伏せて、どうしたものかと思案しながら、呪われたナルキッソスの話を思い出していた。「今ここでふたりのどちらかを傷つけたら、ぼくは鏡のなかへと逆戻りしてしまう。鳩ぽっぽ体操の左右がまた分からなくなってしまう」と悠太郎は思った。何秒か思案するうちに「玲瓏たる氷雪」という言葉が、突如として悠太郎の脳裏に閃いた。悠太郎はティッシュペーパーの中央にまず六枚の花びらを密集させて六角形を作り、その外側になお六枚の花びらを等間隔で配置した。染め上がったティッシュをのぞき込む留夏子と真花名に、悠太郎は「雪の結晶だよ」と説明した。「冬にお空から降ってくる雪はね、虫眼鏡で見るとこんな形をしているんだって。六花とも言うらしいよ。冬に咲く雪の花だよ」と悠太郎が言えば、留夏子は眩しいものでも見るように切れ長の目を細めて、「雪の花なら水の花ね。いつか水飲み場で教えてくれた水ごくんにあったでしょう。こおってはれいろうたるひょうせつとかす。真花名ちゃんは水ごくんを知ってる? 私はもう全部言えるよ。みずからかつどうしてたをうごかすはみずなり……」と言いながら、濃いピンク色の六花を写したティッシュペーパーを繊細な手つきでつまみ上げ、そっと折りたたんで園児服のポケットに入れてしまった。二枚の薄紙の片割れが自分のために作られたことを、留夏子は少しも疑っていない様子であった。真花名のことを慮った悠太郎は、「今はいいじゃないか、その話は」と言って「水五訓」の暗唱を遮った。すると留夏子は「あらそう? それじゃユウちゃん、その代わり私の髪を三つ編みにしてよ。みんなも見てて。ユウちゃんは手先が器用なのよ」と言うが早いか、緑色の髪ゴムを外してポニーテールを解いた。
 言われるがまま悠太郎は、背筋を伸ばして椅子に座った留夏子の後ろに立って、その髪を編んでいった。そして三つ編みが出来上がり、預かっていた緑色のゴムで悠太郎が留夏子の髪を留めたとき、突然ふたりの上にたくさんの花びらが、舞い踊りながら降り注いだ。ふたりは気づいていなかったが、ルカちゃんと同じ年長さんで青組に属する垂れ目の女の子が、いつの間にか桃組の部屋に入り込み、窓辺で散ってしまったゼラニウムの花びらを両手いっぱい集めると、白い上履きを脱いで椅子の上に立ち、柔らかく伸び上がりながらその花びらを、ふたりの上にばら撒いたのである。事の成り行きを静観していた弦巻先生も、さすがにこれにはびっくりした。「ちょっと、何してるの麻衣まいちゃん! あーあ、こんなに散らかして!」と、少しきつい目を吊り上げてたしなめる弦巻先生に、垂れ目の岩瀬いわせ麻衣ちゃんはのんびりと間延びした声で、「散らかしたんじゃないもん。祝福したんだもん」と答えたので、弦巻先生はますますびっくりした。「何が祝福よ! 十年早いわ! 散らかした花びら、これでちゃんとお掃除しておくのよ!」と、弦巻先生は箒と塵取りを麻衣ちゃんに押しつけて、何かしら暗澹たる気分で桃組の部屋を出ていった。後には園児たちが残された。白目の冴えた小さな目の直矢くんは、面白がって機関銃のように高笑いしたし、未熟児だったカイくんは目許に静かな知性を光らせながら、雀斑の散った顔をニヤリと笑わせた。一輝くんは思わず指しゃぶりをやめると、いくらか鳥の嘴めいて突き出た口を神妙に閉じた。コップを口に吸い着けてばかりの映二くんは「弱いくしぇに」と呟いた。だがお化けも恐れぬ豪胆な涼子ちゃんは、林檎のように赤い頬から血の気が引くのを感じた。涼子ちゃんは黒曜石のように光る黒目がちな目で、留夏子と真花名を代わる代わるに見やりながら、同じ赤組で仲良しの真花名ちゃんを心配した。真花名ちゃんはきらきら光る茶色の目に涙を溜めながら、体をこわばらせて立ち尽くしていた。まさか自分の三つ編みを解いて、わざわざもう一度編んでくれと悠太郎に頼むことはできなかった。悠太郎は睫毛の長い目を伏せて、床に散った花びらが片づけられるのを悲しげに見ていた。留夏子はしかしこれらの出来事をすべて心に納め、静かに思いをめぐらしていた。
 弦巻先生はさっき感じた暗澹たる気分の正体を見定めようと、しきりに思いをめぐらしていた。感性が細やか? 六花? 水五訓? 祝福? 二十一世紀にはあんな園児たちばかりになるのだろうか? 冗談じゃない。それにしても悠太郎と留夏子の親和性の高さを、いったいどう考えたらいいのか。類は友を呼ぶの諺はあながち嘘ではなさそうだ――。そこまで考えたとき「果たして友で済むだろうか?」という想念に襲われた弦巻先生は、あまりの不吉な予感に目眩を覚えた。幼い祝福の花を浴びた幼いあのふたりが、あと十年もすれば……。「いや、いや、いや」と弦巻先生は、頭を振って不吉な予感を追い払おうとした。「いくら運命が見通せるような気がしたって、私はあくまで幼稚園の先生であって、占い師でも予言者ノストラダムスでもないんだ。悠太郎くんだって鳩ぽっぽ体操ができるようになったし、子供たちには変化し得るだけの自由があるんだ。今から最悪の結末を予期して、恐れることはないじゃないか。そんな最悪の結末を予期して……」桃組の教室から廊下ひとつ隔てただけの職員室までの道のりが、このときの弦巻先生には無限に遠く感じられた。
 学芸村の家に帰った悠太郎は、二重瞼の物問いたげな大きな目を見開いて庭で満開の桜を見ながら、再びあの言葉を思い出していた。四季折々の花――。あのとき襲ってきた、白く光る香しい奔流の意味が、その日の幼稚園でルカちゃんと舞い散る花びらを浴びたとき、悠太郎にはよく分かったような気がした。あの奔流は、四季折々の花を咲かせる見えない力そのものであったに違いない。それは年から年へ、時代から時代へと生き続けて、この地上に花を咲かせ続ける命なのだ。どこかこの世ならぬ次元に拉し去られ、恍惚として我を忘れていた数十秒のあいだに、悠太郎は何世紀にもわたって生きていたのである。「そうだった。こんなだった。何世紀も前からこんなだったのだ。二十世紀が終わっても人類が滅亡しても、またいつかどこかでこんなことがあるのだ。またいつかどこかでこんなふうに花が咲くのだ」と悠太郎は考えた。見れば桜の樹の枝にはキビタキが一羽とまって、黄色い喉を反らしながら上行音型の連続をさえずっていた。だがそこへ真っ黒な一羽のカラスが風切り羽を響かせて飛来し、キビタキを追い払ってひと声鳴くと羽音も高くまた飛び立ち、満開の桜の花を盛大に散らしてしまった。
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