上 下
33 / 71

32

しおりを挟む

 急いで仕事から帰り玄関を開けた途端、部屋の中からいい匂いが漂って来た。

 カウンターキッチンへ駆け込む。僕の天使がお玉で鍋の中身を掻き回していた。

「ただいま、恵介くん」
「あ……おかえりなさい」

 ハッとして振り返った恵介くんは、どこか上の空で鍋を掻き回し続けている。中身を見ると野菜がたくさん入った洋風のスープで、料理が全くできない僕でも、些かかき混ぜすぎなんじゃないかと思う。

「どうしたの?元気ないよ」
「うん……」

 悩ましげな彼の表情は、それはそれで魅力的だ。美しく整った彼のアーモンドの瞳が憂いを帯び、思わず駆け寄って跪き、手を取ってどうかその憂いを晴らして差し上げましょう、という気分になる。

「ねぇ、そんなとこで跪いてると邪魔なんだけど。つか、手離して」

 本気で邪魔と言われ、僕は仕方なく寝室へ向かう。とりあえずスーツを脱ぎラフなスウェットに着替える。

 戻ってくると、ダイニングテーブルにスープとグラタン、色合いの鮮やかなサラダが並んでいた。

「君はいい奥さんだよ」
「そうかな……いや、奥さんって」

 あれ?ちょっといつもより勢いが足りないな。いつもはもう少し辛辣な気がするんだけど。

「理人さん、熱いうちに食べて」
「わかった。ありがとう」
「いいよ……俺、こんなことしかできないから」

 と、少し卑屈に言う。

「こんなことって言うけど、僕にできないことができる君はすごいよ?」
「そうかな」

 沈黙。会話が続かない。ただ、ツーンと黙っていても美人は見ているだけで飽きない。

「今日は何してた?」

 向かい合って食事をしながら聞く。恵介くんはスプーンでグラタンを掻き回しながら答えてくれる。

「朱美さんとSubのグループホームに行った。そこで昔の知り合いに再開して、連絡先を交換した。それから、電車で帰ってきて、スーパーに寄って、ご飯作って……って、言わなくても全部知ってるでしょ」
「君の口からも聞きたい」

 そう言うと、彼はムスッとしてまたグラタンを混ぜ始める。

 恵介くんには、逐一どこで何をしているかメールするよう言ってある。独占欲の強い僕のルールを、恵介くんは特に何も言わずに受け入れてくれた。

「悩み事があるならちゃんと言ってね」

 せっかくのこんがり焼けたチーズがこれ以上ダメになる前に止めなければ。

 恵介くんは、ふぅ、とひとつ息を吐いて口を開く。

「あのね、俺、パートナーとか恋人とか、理人さんが初めてなんだよね」

 改めてそう言われると、自分でも制御できない感情が湧いてくる。彼にどんな過去があっても、自分が初めてのことがひとつでもあることが嬉しい。

「でさ、自分で考えてもどうしてもわからないことがあって」
「何かな?」
「家族と恋人って、どっちが大事なの?」
「……はい?」

 随分と哲学的な質問に、一瞬思考が止まった。意図がわからず、言葉に困る。

「だから、もし、葉一と理人さんが同時に倒れたら、俺はどっちに駆け寄ったらいい?」
「それはもちろん、葉一くんの方だと思うよ」
「え?じゃあ俺、理人さんは大事じゃないの?」

 僕に聞かれても、なんて答えてあげればいいのか?

 まるで初めて自分の影に気付いた赤ちゃんみたいだ。

「いやぁ、なんていうか、僕は家族を大事にしている君が好きだし、そんな君を大事にしたい」
「答えになってないよ」

 ムスッとした顔で、ついにスプーンから手を離した。

「そもそも、なんで急にそんなこと考え出したんだ?」

 僕の頭も混乱しそうだった。

「今日、昔の仲間に会ったって言っただろ。風俗店にいた頃に仲が良かったヤツなんだけど。ソイツが、ウリを辞める理由は好きな人のためだって言ったんだ。俺も、確かにそうだなって思ったんだけど……葉一たちにどれだけ止められても、ウリを辞めるって選択肢は浮かばなかったと思う。でも今は自分のためにでもあるけど、理人さんのためも辞めようって思ってる。それって、俺は無意識に家族より理人さんを大事に思ってるってことだよね?」

 なんて健気で可愛いんだろう。本人はものすごく悩んでいるみたいだけど、その考えがすでに可愛い。

「家族と恋人が同じわけないと思うよ。好きの意味合いも違うだろうし」
「ああ、それはわかる。葉一には抱き付いたりしないし、褒められてもウザいだけなのに、理人さんとは触れ合ってたいし、褒められると嬉しい」

 自分がどれだけ凄いことを言っているか、自覚がないようなので触れないでおく。素直な彼はとても可愛い。

「わかった。僕のことは大事にしなくていい。但し、家族にできないことは、全部僕にしてほしい」
「例えば?」
「甘える、我儘を言う、頼る、とかね」
「それも、みんなそうしろって言うけど、よくわからない」

 悩みの種を増やしてしまった。

「家族を大事に思うのは当たり前だけど、君は長男として義務を感じてる。家族のためにウリを続ける選択をするのは、責任を感じてるからだよ。僕を大事にしようとしているのは、君が恋人は大事にしなければならないって思ってるからだ。でも、恋人の関係はそれだけじゃないんだ」

 無条件に甘えてもいい、頼ってもいい、我が儘を言っても許される。お互いがそういう関係性を大事にするのが、恋人同士なのではないか、と僕は思う。

 もちろん家族に対してもそう考える人はいるだろう。だけど、両親、兄姉、弟妹と序列が決まっている家族の中では、対等であることもまた難しい。

 ただし、彼にそれが伝わるとは思わない。だってほら、現に未だかつてないほど険しい顔をしている。

 責任感や義務感から、長く自分の感情を押し殺してきた彼には、なかなか理解できないようだ。

「今度の休みは、どこか出かけようか」
「……急にどうしたの?」

 怪訝な顔をする恵介くんに、僕は笑顔を浮かべる。

「デートしよう。どこか行きたいところはある?」
「行きたいところ……ないよ」
「じゃあ僕が決めておくよ」

 うん、と頷いて、でも浮かない顔のまま、恵介くんはやっと食事を口に入れ始めた。

 やれやれ、禅問答の時間がやっと終わった。

 恵介くんの作ったグラタンは、すっかり冷めてしまったけれど美味しかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

少年はメスにもなる

碧碧
BL
「少年はオスになる」の続編です。単体でも読めます。 監禁された少年が前立腺と尿道の開発をされるお話。 フラット貞操帯、媚薬、焦らし(ほんのり)、小スカ、大スカ(ほんのり)、腸内洗浄、メスイキ、エネマグラ、連続絶頂、前立腺責め、尿道責め、亀頭責め(ほんのり)、プロステートチップ、攻めに媚薬、攻めの射精我慢、攻め喘ぎ(押し殺し系)、見られながらの性行為などがあります。 挿入ありです。本編では調教師×ショタ、調教師×ショタ×モブショタの3Pもありますので閲覧ご注意ください。 番外編では全て小スカでの絶頂があり、とにかくラブラブ甘々恋人セックスしています。堅物おじさん調教師がすっかり溺愛攻めとなりました。 早熟→恋人セックス。受けに煽られる攻め。受けが飲精します。 成熟→調教プレイ。乳首責めや射精我慢、オナホ腰振り、オナホに入れながらセックスなど。攻めが受けの前で自慰、飲精、攻めフェラもあります。 完熟(前編)→3年後と10年後の話。乳首責め、甘イキ、攻めが受けの中で潮吹き、攻めに手コキ、飲精など。 完熟(後編)→ほぼエロのみ。15年後の話。調教プレイ。乳首責め、射精我慢、甘イキ、脳イキ、キスイキ、亀頭責め、ローションガーゼ、オナホ、オナホコキ、潮吹き、睡姦、連続絶頂、メスイキなど。

膀胱を虐められる男の子の話

煬帝
BL
常におしがま膀胱プレイ 男に監禁されアブノーマルなプレイにどんどんハマっていってしまうノーマルゲイの男の子の話 膀胱責め.尿道責め.おしっこ我慢.調教.SM.拘束.お仕置き.主従.首輪.軟禁(監禁含む)

男色医師

虎 正規
BL
ゲイの医者、黒河の毒牙から逃れられるか?

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜おっぱい編〜♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート詰め合わせ♡

くまさんのマッサージ♡

はやしかわともえ
BL
ほのぼの日常。ちょっとえっちめ。 2024.03.06 閲覧、お気に入りありがとうございます。 m(_ _)m もう一本書く予定です。時間が掛かりそうなのでお気に入りして頂けると便利かと思います。よろしくお願い致します。 2024.03.10 完結しました!読んで頂きありがとうございます。m(_ _)m 今月25日(3/25)のピクトスクエア様のwebイベントにてこの作品のスピンオフを頒布致します。詳細はまたお知らせ致します。 2024.03.19 https://pictsquare.net/skaojqhx7lcbwqxp8i5ul7eqkorx4foy イベントページになります。 25日0時より開始です! ※補足 サークルスペースが確定いたしました。 一次創作2: え5 にて出展させていただいてます! 2024.10.28 11/1から開催されるwebイベントにて、新作スピンオフを書いています。改めてお知らせいたします。 2024.11.01 https://pictsquare.net/4g1gw20b5ptpi85w5fmm3rsw729ifyn2 本日22時より、イベントが開催されます。 よろしければ遊びに来てください。

バイト先のお客さんに電車で痴漢され続けてたDDの話

ルシーアンナ
BL
イケメンなのに痴漢常習な攻めと、戸惑いながらも無抵抗な受け。 大学生×大学生

ある少年の体調不良について

雨水林檎
BL
皆に好かれるいつもにこやかな少年新島陽(にいじまはる)と幼馴染で親友の薬師寺優巳(やくしじまさみ)。高校に入学してしばらく陽は風邪をひいたことをきっかけにひどく体調を崩して行く……。 BLもしくはブロマンス小説。 体調不良描写があります。

処理中です...