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 二月にはいると、ずっと有耶無耶にしてきた問題にそろそろ焦りを感じ始めていた。

 つまり俺の今後について。

 あいかわらずスマホには、客からのメールがひっきりなしに届いていて、断りの返信をするのも面倒になってきていた。

 ウリを辞めるなんて簡単に言うけど、今後に目処が立たないので悩んでいる。

 気持ちはもう辞める気でいるのだけど、先立つものがないとどうしようもない。

 年齢的には後数年が限界だろうとは思っていたが、漠然とそう考えていただけで、そのあとどうするかなんて考えたことなかった。

 結局いずれは直面する問題だったのだ。

 平日のカフェで無料の求人誌を手に頭を抱える。気分を変えたくて家を出てきて、適当に入ったカフェのおかわり自由のコーヒーの味はさほど良くなくて、思いがけず、高城さんの家でのんだコーヒーの味を思い出した。

 あれはとても美味しかった。生活する上で何に対しても拘りのない俺でも、また飲みたいなと思うほどに。

 それからまた思考があらぬ方へ向かう。

 高城さんにキスしてしまった。

 酔っていたとはいえ、失礼なことしたなとは思う。恥ずかしい。

 お酒を飲むと、自分でもどうかしたんじゃないかという行動をとってしまう。そしてその記憶はなくなってくれない。全部覚えている。

 でも、あの日はどうしても飲みたかったんだ。高城さんに会うのが怖かったから。

 結局同情で付き合ってくれているんだと思ったら、急に会うのが怖くなった。

 俺にはパートナーなんて、一生できないかもしれない。でももういい。開き直って生きていこう。とりあえず、高城さんは相手をしてくれるから。

 虚しいな、とちょっと思うけど。

 そういえば、俺から誰かにキスするのは初めてだった。客とはあまりしないし、自分からなんてもちろんしたことがなかった。

 なんか、無性にしたいなって思ったんだ。それにとても満たされた気分になった。素面でなんてできないから、お酒を理由にしてしまった。後悔はしてない。

 まあでも、そのせいで避けられるかもしれない。キスはplayとは別だって人もいるから。高城さんはもともと、play中に性的に興奮しないみたいだし尚更だ。

 もやもやとした思考を消し去るように、二杯目のコーヒーを飲む。酸味がキツく好みの味ではないが、苦い思いを消すにはちょうどいい。

 カフェの中は三分の一ほど席が埋まっていた。俺は四人掛けのテーブル席をひとりで占領していたが、その時、すぐ近くの、同じく四人掛けのテーブル席が目に入った。

 席は四つとも埋まっている。全員男性だ。そのすぐそばでひとりだけ立ったままの男性もいる。

 立っているその男性は痩せていて、長い前髪の下に見える顔は暗い。一際目立つのは首元だ。

 太く頑丈そうな革製の首輪をつけている。彼がSubである証拠だが、それにしても酷い。

 Collarを送るのはDomだが、それを身につけるのはSubからのDomへの信頼の証だ。付けるか付けないかはこっちの気持ち次第で、強制ではない。首輪のようなそれを、嫌悪しているSubもいる。そのため、多くのDomは、そうとわからないようネックレスやチョーカーをCollarとして贈る。要はなんでもいいのだ。

 まあ、服従の精神が強く、いわゆるドMなSubなんかは、ああいういかにもな首輪をつけて喜ぶけど。

 だけどあの彼はそうは見えない。完全に萎縮して怯えているように見える。可哀想だな、と視線をそらした。

 社会的にも問題になっているSubへのDV被害の、その典型のような光景だ。きっとあの四人の中の誰かがパートナーなのだろうけど、そいつはあのSubを何でも言うことを聞く召使い程度にしか思っていない。

 可哀想だけど俺にはなにもできない。俺もそうだった。土俵は違えど、立場は同じだ。支配されることを受け入れて、諦めるしか道はない。

 見えているけれど誰も何も言わない。この店内に彼は存在しない。底辺Subなんてそんなもんで、悲しいかなこういうことはよくある。

 しばらくコーヒーを啜り、求人誌をめくっていると、例の席から怒鳴り声がした。

「お前マジで役立たずだな!!なんでこんな簡単なもんがわかんねぇんだよ!?」

 ガン、とテーブルを叩く音が響き、店内の客が一斉にそっちを見た。でもすぐに、何もなかったかのように目を逸らす。関わらないのが一番だ、と判断したようだ。

 俺は同じくそっちを見たけど、特になにも感じなかった。目を逸らすこともしなかった。せめて、仲間として彼の頑張りを見ていてやろう、と思った。

「オレさ、この日のチケット四枚取っとけって言ったよな!?なに別の日の取ってんだよ!?役立たずのクソSubが!!」
「ご、ごめんなさい……」

 立ったまま頭を下げて謝る彼だが、パートナーと思われる男の怒りは収まらなかった。

「それで謝ってるつもりかよ?お前さ、またゲロ吐くまで躾けられたいわけ?」
「ごめんなさいっ」

 ついには床に膝をついて土下座を始める。見ていて気分が悪くなりそうだ。俺はそろそろ帰ろうかなと求人誌をカバンに入れた。

 これ以上ここにいて、あのバカなDomがCommandを言えば、俺まで巻き添えを喰らいそうだ。

 だけど俺が席を立つより先に、その集団がSubの彼の首輪を引きずって店を出て行く。店員さんの引き攣った「ありがとうごさいましたー」という声がした。

 残された重苦しい空気がしばらくその場に残る。ヒソヒソと話す声が聞こえてきて、やっぱり居心地の悪くなった俺はすぐに店を出た。

 可哀想とか、酷いとか、そんなことわざわざ口に出して言ってくれなくてもいい。俺たちが一番理解している。自分がどれだけ惨めな存在なのかを。

 お前らには絶対に理解できない。だから、俺たちのことを軽々しく口にするな。そんな卑屈な思いが湧き起こる。

 別に、全てのDomが悪いわけじゃないし。良い人だっている。高城さんみたいな……

 高城さんがあの場所にいたら、どうするんだろう。大多数のように見て見ぬふりをする姿は想像つかない。

 きっとあの怖い顔で詰め寄って、相手のDomを黙らせることができるんだろうな。誰にでも優しいから、あの弱くて惨めなSubを助けようとするだろう。

 俺はあの人にはなれない。でも、そうだな、あの人みたいに優しくなりたいとは思う。

 誰も信用してはいけない、手を差し伸べてもくれないと思い込んでいた。

 俺の考えを変えたのは、間違いなく高城さんだ。

 店を出てしばらく歩き、繁華街から離れた路地の暗がりを覗く。

 さっきの連中が、Subを力任せに殴りつけているのが目に入る。

 平日の街は意外と静かで、こんな路地には誰もこない。そう思っているんだろうけど、たまたま跡をつけてくる人間もいるんだぞ、と教えてやることにした。

 特に何も考えていなかったけど、俺と同じ可哀想なSubに、たまには誰かが味方になってくれるんだってことを知って欲しかった。

 俺はカバンを下ろして、かわりに積み上げられたプラスチックのケースから空き瓶を取った。路地の前に閉まった居酒屋があったから、そこのものだろう。

 それから、走り寄ってひとりの頭に思いっきり叩きつける。

 突然の乱入に驚いた男たちが振り返る。殴られた奴は頭を抱えてしゃがみ込んだ。割れたガラスがバラバラと散らばる。

「なんだよお前!?」
「うるせぇ!クソ野郎共が!お前らに他人を虐げていい理由なんてねぇんだよ!」
「はぁ?何お前、頭おかしいのかよ!?」

 暴言を吐きながら向かってくる。標的を俺に変えたようだ。ひとりが顔を狙って拳を振ってくる。俺はそれを避けて、代わりに蹴りを入れた。相手が尻餅をつく。

 右から二人目が体当たりしてくる。もろにくらって転げると、三人目がのしかかってきた。馬乗りになり、暴れる俺の腕を押さえつける。

「なんだよお前、突っ込んできたわりに弱いじゃん」

 はあはあと息を吐きながら、尻餅をついていた奴が近付いてくる。クソっと言って唾を吐き、俺の顔を覗き込んだ。

「あ?コイツ、何年か前に内田さんの店にいたヤツじゃん」

 ビクッと体が震える。内田さん、というのが、まさに16歳の俺に指導をした人だった。悪い人ではなかったし、どちらかといえば良くしてくれた。俺の顔が良かったから。

「マジ?ってことはSubかよ」
「マジだって。コイツの顔忘れるわけねぇよ。店辞めて何年か経つけど、全然変わってねぇし」

 四人の顔にニヤニヤと嫌らしい笑みが浮かぶ。俺は尚も逃げ出そうと暴れる。

Stay動くな

 またもビクッと震えが走る。意思とは関係なく、体が抵抗をやめてしまった。

「離せっ、触るなクソが!」
「うるせぇな」

 バシッと頬を叩かれる。かなり力がこもっていて、口の中に血の味が広がった。

「殴られたくなかったら黙れ。どうせクソSubのお前が、Domのオレに逆らうなんてできねぇんだからよ」

 悔しくて唇を噛み締める。精一杯の対抗心を込めて睨みつけるが、ただ笑って流されるだけだった。

 そのままズルズルと路地の奥へ引き摺られ、通りから見えない暗がりに転がされる。

 何をされるかなんて分かりきっているが、慣れているので恐怖はなかった。

 ただ自分の無力感だけが胸中を支配していた。

 あのSubは逃げられるだろうか。例え今この場から逃げられたとしても、強く支配され続けた彼の心は、もう逃れられないかもしれない。

 DV被害と言っても、被害者がそうと理解して、自ら助けを求めなければどうしようもない。

 それでも、少しでもわかってくれたらいい。

 俺たちはひとりじゃない。惨めな思いを抱いて、でも逃げられなくて、なんとかして欲しいと願って、必死に生きている。

 そうして生きていたら、きっと優しい人がみつけてくれる。

 バカなことした。でも、後悔はしてない。
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