ずっと、ずっと甘い口唇

犬飼春野

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バレンタイン・ラプソディ 岡本夫妻編(『バレンタイン・ラプソディ-3-』関連)

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 赤ん坊の泣き声で目が覚めた。


「あ、起きちゃったか」

 すぐさま妻が起き上がり、パジャマ姿のままベビーベッドの中の娘を抱き上げた。

「おはよーう、もうお腹減ったの~?」

 夜泣きもものともせず、優しい声をかけられる彼女には頭が下がる。

「まだ寒いから気をつけろ」
「ありがとう」

 ガウンを着せかけると、胸元を寛げながら微笑んだ。
 どんなときも、妻の有希子は驚くほど綺麗だ。
 化粧を施していない肌は透けるように白くて神々しく、どんな宗教画も、彼女には叶わない。
 素直にそれを告白したら、同僚達に本気で蹴りを入れられた。


「これ、今は目の毒かもしれないけど・・・」

 娘も満足してうとうとと眠りだし、二人で朝食を終えて落ち着いた頃合いを見計らって、シックなラッピングの箱をテーブルに置いた。
 現在母乳を与えている彼女は、あと数ヶ月後の離乳を迎えるまで脂肪分の多い物や刺激物を極力避けるよう指導されている。
 乳の出がよくなるようにそれまで好きだった食べ物をほとんどあきらめ、授乳によいと言われる食物だけを必死に摂取し続けている状態で、禁止されている彼女の大好物を差し出すのは勇気がいった。

「これって・・・」

 箱を両手にとって目を丸くする有希子の瞳に喜色が浮かぶのを見つけ、安堵する。

「バレンタインって、欧米では男女関係なく贈るもんだと池山が言い出して・・・」

「え?あー、そうねえ。和基の言い出しそうなことね」

 有希子が苦笑した。

 同僚である池山和基は、妻の幼馴染みでもある。


「本物のマリオ・カッシーニなのね。凄いわ・・・。ずっと食べてみたかったの、ありがとう」

 岡本は、チョコレートを渡すことを強く説いた池山に心の中で感謝した。

「この人のチョコレートってニューヨークでしか手に入らないって聞いていたのに・・・。いったい何処で手に入れたの?」
「銀座。本間たちからねだられて並んだんだけど、なんか、職人本人が急遽来日していて、すごいことになってさ・・・」
「すごいことって?」
「池山が千人目の客とか言って、真っ赤な薔薇の花束を渡されてハグされて・・・」
「それで?」

 言いよどむと、先をせかされた。

「なんか、『カンシャカンシャ』とか言って、ほっぺたにチューされてた」
「なんですって!」

 いきなりがたんと音を立てて立ち上がった彼女の瞳が、いつになくらんらんと光っているのは・・・。

 気のせいだろうか。

「マリオ・カッシーニ、マリオ・・・・。どこかで聞いた・・・。ニューヨークって言ったら・・・」

 宙を凝視して、うろうろとさまよいながらブツブツと呟くその姿は・・・。
 少し、神がかり的で、ちょっと・・・怖い。

「あああ!ニューヨークのマリオ!あの男か!」
「・・・どの男?」

「ほら、ほらほら、生ちゃんの、元彼氏!」

 生ちゃん、とは、長谷川生という名で、妻が師事している茶道家の孫娘で、同僚・立石徹の元同級生。

 そして、池山和基の元彼女で、シングルマザーで、更には立石がずっと追い回している女。

 岡本は密かにあの女は魔女に違いないと思っている。

 そうでなくてはどうして、こんな事態に陥ったりしようか。


「マリオ・カッシーニが、元彼氏?」

 見たくも聞きたくもないのに、またもやパンドラの箱を開いてしまったようだ。

「うわ、ややこし・・・」

「そうね、ややこしいことのなったわね・・・。ちなみに多分、和基が千人目って言うのはウソね」

「は?」
「マリオは和基の前に別れたんだけど、そのあとニューヨークで再会して、それからずっと・・・」
「ずっと?」
「ええと・・・」

 ここに来て何か不都合な事を思い出したらしい妻が急にしどろもどろになる。

「ええとね・・・。プライバシーに関わるから、知らない方が良いかも・・・」
「いや、今更だろ。ここに来てそれはないだろ」

 あの大げさなイベントがフェイクなら何があるというのだ。

「ええとね・・・」
「ああ」
「えっと、ニューヨークに引き抜かれた後、セレブリティたちに連れ回されているうちに、マリオの嗜好がね。色々変わったらしいの」
「思考?考え方?」
「いや、そうじゃなくて、男女関係の趣味」
「ああ・・・」

 二月の爽やかな朝の雲行きが、だんだんと怪しくなっていく。

「ええとね。さん・・・じゃなくて、ら、乱取り?みたいなものが好きになって、和基を交えてどう?って、かなりしつこく申し入れられていたとか・・・」

 ごん。
 思わず、テーブルに額を打ち付けた。

「きゃー、だ、大丈夫?達也さん!」
「だいじょうぶ・・・。たぶん」

 本当はぜんぜん大丈夫じゃない。

 マリオがらみのいざこざよりも、白い百合のような妻の口からそんな真実を聞かされることの方が衝撃だ。


「こうなると、もしかしたら訪ねてきたりして・・・」
「なんで」
「あきらめてないかもって、生ちゃんが言っていたから」
「・・・なんだよそれ・・・」

 嫌な予感が岡本の脳内に浸透してきたその時、携帯電話が鳴った。
 送信者は立石。
 正直、これ以上巻き込まれたくない。

「おう、なんだ」

 平静を装って出ると、困惑した声が聞こえてくる。

「朝っぱらから悪い。実は昨日のショコラティエがマンションの入り口に現われて、『カズキ』はどこだと言うので、一応この部屋ではないと答えたのだが・・・」

 立石も、嫌な予感を覚えたのだろう。

 なら池山に電話してみれば良いのだが、捕まらないらしい。
 らしくない行動だが、思いあまってのことと推測できる。

「・・・あーうー、あのな。お前のその部屋の、前の住人に聞いてみたら解るんじゃないか?」

 本当は、うすうす解っているだろう。
 立石の借りている部屋の前の住人は、長谷川生だ。

「長谷川はここのところニューヨークで仕事だったから、昨日の夜遅くに帰り着いたばかりだと思う」

 はっと気が付くと、妻の携帯電話からラインの着信が盛んに鳴っていた。
 そして、彼女は聞き迫る勢いでキーを叩き続けている。
 ・・・女どものネットワークに拡散したな・・・。

「そうか。でもな。多分、もうこの件はそいつの耳に入ったと思うぞ」
「え?」

 回線のむこうでピロリンピロリンと鳴り続けるのが聞こえたらしく、いつもの落ち着いた声に戻る。

「・・・そうか。それならまあ、話が早いか・・・」
「女って生きものは、こういう話になると、なんでイキイキしてくるんだろうな・・・」

 まあ、妻にはいつでも元気でいて欲しいけれど。

「素早い対応に感謝する、と、奥さんに伝えてくれ」
「アイアイサー」


 そして。
 狂乱のバレンタイン騒動が始まる。

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