ずっと、ずっと甘い口唇

犬飼春野

文字の大きさ
上 下
31 / 85
本編

パワーワードは突然に

しおりを挟む

 あとを追ったものの、給湯室の前で春彦はためらう。

 一人になりたくて出て行っただろうに、声をかけても良いものか。

 そっと入り口をのぞき込むと、ちょうど振り返った村木と目が合ってしまった。


「・・・ごめんなさい。つい、そのままにしておけなくて・・・」


 彼女の目と鼻の頭は真っ赤に染まっている。

 ハンカチで涙をぬぐった後、口にそれをあてたまま小さく頭を振った。


「い、いいんです。いつもの、いつものことだから・・・」


 まだ時々しゃくり上げながらようようそう答えてくるのに、ますます気の毒になり、足を踏み入れた。

 戸棚の中から急須を一つと湯飲みを二つ出して暖め、先ほどわかした湯をもう一度コンロにかけ、村木が落ち着くのを待つ。

 沸騰した湯を使ってゆっくりと茶を入れ直し、彼女へ差し出した。


「どうぞ。きっと今度の方が美味しく入ったと思いますよ」


 狭い給湯室の中は、茶の匂いでいっぱいになった。


「・・・ありがとうございます」

「いいえ。僕も、あそこで出来ることありませんから」


 そばに立てかけてあった簡易椅子を二つ組み立てて、シンクをテーブルがわりに並んで座った。


「・・・私、この会社に就職するのに物凄く努力したんです」


 湯飲みを両手に抱えて、村木がぽつりと言う。


「・・・そうですか」


 春彦も、短く答えた。


「東京方面は蓋を開けてみたら、見渡す限りコネ入社ばかりで・・・。一般入社の私はなじめなくて、気が付いたらここに飛ばされてました」


 女子社員のほとんどが裕福な家で、金銭感覚だけではなく、価値観そのものが違う。

 それが互いにわかった途端、埋められない溝ができ、更には軋轢に発展していった。

 不和が起きた場合、後ろ盾のない一般社員に勝ち目はない。


「それは・・・。つらいですね」


 よくある話と言えばそこまでだが、気の毒なことだ。


「でも、これくらいで辞めたら学生時代の努力が水の泡だって思って我慢していたけど、もう、限界。私はあんなヤツらのはけ口になるために頑張ったんじゃない」


 鼻をすすりながらも、だんだんと声に力が入ってきた。

 横をのぞき込むと、白い面長な顔に小さくそばかすが散っているものの、眼鏡の下はずいぶんと愛らしい瞳を宿していたことに気づく。


「その眼鏡、もしかしてわざと?」


 実はとても清涼な雰囲気のある綺麗な子なのに、わざと野暮ったい姿に変えているように思えてきて、ついそれが口をついて出た。


「・・・ええ。前任者から忠告されたから。アイツの前で女らしい格好をするなと。嫌われて嫌がらせされる方がましだって」

「それって・・・」

「パワハラ、セクハラ、なんでもありだもの。彼がここに着任してから事務員は私で四代目」


 こうなると、柚木からの一斉送信メールに書かれていた片桐の見解が一気に真実へと近付く。


「・・・でもこんな話、僕にしてしまって大丈夫?後で困ったことにならない?」


 自然と、二人の距離が近くなっていった。


「もういいの」


 村木はふうーっと息を吐き出した後、眼鏡を取ってシンクに置いた。


「なんだかね。あなたたちを見ていたら、暗い顔してここにかじり付いてないで、どこか別の所に行けば良いんだって言う気がしてきたから」


 湯飲みの中の香りをくん、と嗅いだあと、村木はかすかに笑った。


「失礼だけど、貴方いくつ?」

「22歳」

「私が一つ上ね。就職してたった一年だからまだ頑張りたかったけど、もういや」

「僕たちの仕事が良いかと言われると、ちょっと自信ないかな。安月給でハードワークだから」

「でも、みんな活き活きとした顔をしていたわ。まだ23歳なのに、死んでしまえと言われ続けるのはもうたくさん」


 立ち上がって背筋をすっと伸ばし、やかんを手に取り急須に湯を注ぐ。


「村木和香子さんのデータを調べて」


 そっと急須に蓋をした手を止めたまま、唐突に村木が口を開いた。


「え?」


 驚いて春彦は見上げた。


「偶然だけど、名字が一緒なの。福岡支店の村木和香子さん。彼女の個人情報に侵入してデータの改ざんを試みた形跡があるはずよ」


 先ほどまで涙を流していたはずの村木はどこにもおらず、目の前にいるのは、きっぱりと正義感の強い瞳を持つ女性だ。


「もうこの際、何でも言うわ。私は誰よりもアイツの事知ってるから」


 それはまるで、蝶が羽化した瞬間だった。


「・・・ありがとう」


 少し眩しくて目を瞬くと、彼女は少し頬を緩めた。


「こちらこそ」



 と、そこへ、人なつっこい瞳をした顔がひょっこりとのぞいた。


「あの~。すみません。俺も混ぜて貰って良いかな?」

「柚木」

「え?」


 闖入者に驚きの声を上げると、ひょこひょこと軽く飛び跳ねるような足取りで給湯室に入ってきた。


「いや~。なんかあの銀座様って、もしかして隠れゲイ?さっきから片桐さんの下半身ばっか気にして、隙あらば本気で脱がそうとするからもう大変よ」

「銀座様・・・」

「隠れゲイ・・・」


 二人はそれぞれ違うキーワードに囚われ、呆然とする。


「石川さんたちがなんとか止めに入ってるけど、もうそれで頭いっぱいだったからこっそり抜けてきた」

「そ、それで、片桐さん大丈夫なのかな・・・?」

「ん~。いざとなったら脱ぐんじゃない?今、あっち男しかいないし」


 あまりにもざっくりした答えに春彦は目眩を感じた。


「だいじょーぶ、ダイジョブ。土壇場に強いから、片桐さん」


 ばんばんとその背中を叩き、笑い飛ばした後、大きな瞳をくりくりとさせながら首をひょこっと傾ける。


「ところでなんか、ちょうど良いところに合流したのかな、俺」


 唇をにっと上げて村木を見つめると、彼女もにっと唇を上げた。


「そうね。まずはお茶を一杯どうかしら?」

「あ、助かる。あっちじゃ飲んだ気しなかったからさあ」


 ずいずいと二人の間に割り込んで、ちゃっかり椅子に座る。


「で、俺、今聞いたことを伝達しちゃって良い?」


 携帯電話を取りだして村木に尋ねる。


「あー。はいはい。漏らさず言うから、漏らさず伝えて?」

「おっけ。じゃあ、まずは『むらき・わかこ』さんね。それから他に知っていることある?」

「いじっていた時間帯と端末もおおよそ解るわ」


 村木が胸ポケットから小さなメモ帳を取り出した。

 この分だとかなり正確な情報を得ることが出来そうだ。


「らっき。その辺が解るとずいぶん作業が楽ちんになるよな」


 二人が意気投合して作戦会議に熱中し始めたので、春彦は静かに茶の用意をする。

 すると、茶の香りに誘われた彼らが急に顔を上げてにやっと笑った。


「・・・なんでしょう」

「貴方って、気が利いて素敵よね」

「ほんと、嫁さんに欲しいよなぁ」

「うんうん、お嫁に欲しいわね」

「・・・いったい、この状況で何の話を・・・」


 春彦が思わず頬を染めると、二人は息を呑む。


「・・・かわいい」

「は?」

「22歳でこの可愛さはなんなの?」

「俺と同じ男だと思えないっすね」

「・・・だからそんな悠長な話をしてる場合じゃなくて・・・」


 困惑して眉をひそめると、二人は笑いを納めてまじめな顔になる。


「そうね。たくさん笑うのは、この後ね」

「じゃ、仕事に戻りますか」


 柚木が高速打鍵を携帯電話に繰り出す。

 三人とも確信して、心が躍る一方だった。



 勝利は目前だ。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】ビターシロップ

ゆりすみれ
BL
【ケーキ】と【フォーク】が存在する世界。 カニバリズム的な猟奇殺人は起こらないが、本能に抗えなくなったフォークがケーキの体液欲しさに乱暴を働くことは時々ある世界。 ボーイが全員ケーキというフォーク専用のウリ専【Vanilla】で働く人気No.1ケーキの咲十琉架(さとうるか)(26)は、一流ホテルのレストランで働いていたがフォークになり職を失った汐屋和唯(しおやかずい)(22)を道で拾い家に連れて帰る。 行くところがないという和唯を、家事代行を条件に家に置いてやる琉架。「家事の対価にオレを舐めていいよ」という琉架と、フォークになりたての和唯の同居生活が始まって──。 【突然味覚をなくした元エリートコック(フォーク)】×【人気No.1のウリ専ボーイ(ケーキ)】 ※ケーキバースの基本設定をお借りしています。細かい設定や解釈は独自のものです。詳しい説明は「ケーキバースとは」のページに記載しています。 ※猟奇的要素は一切なく、ケーキとフォークがいるということ以外は普通の現代社会の世界観です。ほのぼのケーキバースです。

一目惚れだけど、本気だから。~クールで無愛想な超絶イケメンモデルが健気な男の子に恋をする話

紗々
BL
中身も何も知らずに顔だけで一目惚れされることにウンザリしている、超絶イケメンファッションモデルの葵。あろうことか、自分が一目惚れで恋に落ちてしまう。相手は健気で無邪気で鈍感な可愛い男の子(会社員)。初対面の最悪な印象を払拭し、この恋を成就させることはできるのか…?!

「脇役」令嬢は、「悪役令嬢」として、ヒロインざまぁからのハッピーエンドを目指します。

三歩ミチ
恋愛
「君との婚約は、破棄させてもらうよ」  突然の婚約破棄宣言に、憔悴の令嬢 小松原藤乃 は、気付けば学園の図書室にいた。そこで、「悪役令嬢モノ」小説に出会う。  自分が悪役令嬢なら、ヒロインは、特待生で容姿端麗な早苗。婚約者の心を奪った彼女に「ざまぁ」と言ってやりたいなんて、後ろ暗い欲望を、物語を読むことで紛らわしていた。  ところが、実はこの世界は、本当にゲームの世界らしくて……?  ゲームの「脇役」でしかない藤乃が、「悪役令嬢」になって、「ヒロインざまぁ」からのハッピーエンドを目指します。 *「小説家になろう」様にも投稿しています。

笑い方を忘れたわたしが笑えるようになるまで

風見ゆうみ
恋愛
幼い頃に強制的に王城に連れてこられたわたしには指定の場所で水を汲めば、その水を飲んだ者の見た目を若返らせたり、傷を癒やすことができるという不思議な力を持っていた。 大事な人を失い、悲しみに暮れながらも、その人たちの分も生きるのだと日々を過ごしていた、そんなある日のこと。性悪な騎士団長の妹であり、公爵令嬢のベルベッタ様に不思議な力が使えるようになり、逆にわたしは力が使えなくなってしまった。 それを知った王子はわたしとの婚約を解消し、ベルベッタ様と婚約。そして、相手も了承しているといって、わたしにベルベッタ様の婚約者である、隣国の王子の元に行くように命令する。 隣国の王子と過ごしていく内に、また不思議な力が使えるようになったわたしとは逆にベルベッタ様の力が失われたと報告が入る。 そこから、わたしが笑い方を思い出すための日々が始まる―― ※独特の世界観であり設定はゆるめです。 最初は胸糞展開ですが形勢逆転していきます。

【完結】愛する人にはいつだって捨てられる運命だから

SKYTRICK
BL
凶悪自由人豪商攻め×苦労人猫化貧乏受け ※一言でも感想嬉しいです! 孤児のミカはヒルトマン男爵家のローレンツ子息に拾われ彼の使用人として十年を過ごしていた。ローレンツの愛を受け止め、秘密の恋人関係を結んだミカだが、十八歳の誕生日に彼に告げられる。 ——「ルイーザと腹の子をお前は殺そうとしたのか?」 ローレンツの新しい恋人であるルイーザは妊娠していた上に、彼女を毒殺しようとした罪まで着せられてしまうミカ。愛した男に裏切られ、屋敷からも追い出されてしまうミカだが、行く当てはない。 ただの人間ではなく、弱ったら黒猫に変化する体質のミカは雪の吹き荒れる冬を駆けていく。狩猟区に迷い込んだ黒猫のミカに、突然矢が放たれる。 ——あぁ、ここで死ぬんだ……。 ——『黒猫、死ぬのか?』 安堵にも似た諦念に包まれながら意識を失いかけるミカを抱いたのは、凶悪と名高い豪商のライハルトだった。 ☆3/10J庭で同人誌にしました。通販しています。

巻き戻り令息の脱・悪役計画

日村透
BL
※本編完結済。現在は番外後日談を連載中。 日本人男性だった『俺』は、目覚めたら赤い髪の美少年になっていた。 記憶を辿り、どうやらこれは乙女ゲームのキャラクターの子供時代だと気付く。 それも、自分が仕事で製作に関わっていたゲームの、個人的な不憫ランキングナンバー1に輝いていた悪役令息オルフェオ=ロッソだ。  しかしこの悪役、本当に悪だったのか? なんか違わない?  巻き戻って明らかになる真実に『俺』は激怒する。 表に出なかった裏設定の記憶を駆使し、ヒロインと元凶から何もかもを奪うべく、生まれ変わったオルフェオの脱・悪役計画が始まった。

誕生日当日、親友に裏切られて婚約破棄された勢いでヤケ酒をしましたら

Rohdea
恋愛
───酔っ払って人を踏みつけたら……いつしか恋になりました!? 政略結婚で王子を婚約者に持つ侯爵令嬢のガーネット。 十八歳の誕生日、開かれていたパーティーで親友に裏切られて冤罪を着せられてしまう。 さらにその場で王子から婚約破棄をされた挙句、その親友に王子の婚約者の座も奪われることに。 (───よくも、やってくれたわね?) 親友と婚約者に復讐を誓いながらも、嵌められた苛立ちが止まらず、 パーティーで浴びるようにヤケ酒をし続けたガーネット。 そんな中、熱を冷まそうと出た庭先で、 (邪魔よっ!) 目の前に転がっていた“邪魔な何か”を思いっきり踏みつけた。 しかし、その“邪魔な何か”は、物ではなく────…… ★リクエストの多かった、~踏まれて始まる恋~ 『結婚式当日、婚約者と姉に裏切られて惨めに捨てられた花嫁ですが』 こちらの話のヒーローの父と母の馴れ初め話です。

ふざけんな!と最後まで読まずに投げ捨てた小説の世界に転生してしまった〜旦那様、あなたは私の夫ではありません

詩海猫
ファンタジー
こちらはリハビリ兼ねた思いつき短編の予定&完結まで書いてから投稿予定でしたがコ⚪︎ナで書ききれませんでした。 苦手なのですが出来るだけ端折って(?)早々に決着というか完結の予定です。 ヒロ回だけだと煮詰まってしまう事もあるので、気軽に突っ込みつつ楽しんでいただけたら嬉しいですm(_ _)m *・゜゚・*:.。..。.:*・*:.。. .。.:*・゜゚・* 顔をあげると、目の前にラピスラズリの髪の色と瞳をした白人男性がいた。 周囲を見まわせばここは教会のようで、大勢の人間がこちらに注目している。 見たくなかったけど自分の手にはブーケがあるし、着ているものはウエディングドレスっぽい。 脳内??が多過ぎて固まって動かない私に美形が語りかける。 「マリーローズ?」 そう呼ばれた途端、一気に脳内に情報が拡散した。 目の前の男は王女の護衛騎士、基本既婚者でまとめられている護衛騎士に、なぜ彼が入っていたかと言うと以前王女が誘拐された時、救出したのが彼だったから。 だが、外国の王族との縁談の話が上がった時に独身のしかも若い騎士がついているのはまずいと言う話になり、王命で婚約者となったのが伯爵家のマリーローズである___思い出した。 日本で私は社畜だった。 暗黒な日々の中、私の唯一の楽しみだったのは、ロマンス小説。 あらかた読み尽くしたところで、友達から勧められたのがこの『ロゼの幸福』。 「ふざけんな___!!!」 と最後まで読むことなく投げ出した、私が前世の人生最後に読んだ小説の中に、私は転生してしまった。

処理中です...