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野良猫の矜持。『ねこのなまえ』
しおりを挟むむかし。
結婚して初めて住んだ所で、白黒模様のネコと出会いました。
お腹とつま先は真っ白で尻尾から背中そして後頭部にかけて黒いマントを被せたよう。
そして耳から目元まで仮面を付けたように真っ黒だったので、夫が洋画の怪傑ゾロにちなんで『ゾロ』と呼ぶことにしました。
小柄で金色がかった緑の瞳がとてもとても美しい雌の猫。
一目で好きになりましたが、私たちの住まいはペット厳禁だったため、家に上げることは叶いません。
彼女は野良猫で、近所のスーパーを根城にしており、買い物客を始め近所のネコ好きに大変可愛がられていました。
人なつっこく、話しかけると控えめなか細い声で必ず答え、幼児の乱暴な手で撫でられても怒ることなく、どんなにお腹を空かせてもスーパーの中へ飛び込んだりはしません。
中にはこっそり食べ物をやっていたファンが幾人もいて、一時期はそれを目当てにたくさんのネコが住み着いてしまって猫だまりとなり、さすがに苦情が出たらしく、餌やりさんたちが手分けして人慣れしている若い猫たちを中心に伝手をたどって里親に出したようです。
ただし。
ゾロだけは例外でした。
彼女はあくまでも地域猫だったので。
いや、看板猫と言っても良い存在でした。
彼女が誰かの猫になる事は御法度。
そんな暗黙の了解があったような気がします。
当時の私たちは余所者で、猫の事に関するすべてに対して無知でした。
ただただ、今日も彼女に会えたという幸運だけを喜び、深く考えることはなかった。
それが残酷なことだと気づくのは、ずいぶん後になってからです。
野良猫の生活は厳しいもので、ほんの数年の間にゾロの身体はどんどんボロボロになっていきました。
すっかり薄汚れてしまい、彼女の寿命がもう尽きかけていることを誰もが感じていたと思います。
毛づやがなくなり、げっそりと痩せたゾロはある日、スーパーの入り口近くにちょこんと座りました。
体調を崩して場所を選ばず道ばたでついつい下痢をするようになった彼女が、目立つ場所に出るのはその頃としては珍しいことでした。
背筋を伸ばして、通り人々をじっくりと見つめるその目を、私は忘れません。
それが、彼女を見た、最後でした。
毎日の世話をしていた餌やりさんたちも、こっそりゾロの粗相を始末してくれていた掃除業者さんも、彼女をしばらく捜しましたが見つけられませんでした。
ゾロは、旅立ったのです。
私達に、別れを告げて。
言葉は通じないけれど。
あれが、彼女なりの「さよなら」だったのだと、信じています。
やがてその場所は猫の餌やり禁止となりました。
彼女の最期のために、多くの人が見て見ぬふりをしてくれていたのでしょう。
そんな猫だったのです。
前置きが長くなりましたが。
そのような経緯があるので、ちょっとした話に涙ぐんでしまうことがあります。
それは多分、作者の意図したことではなく、私の勝手な思い入れによるものですが。
何度読んでも私を泣かせる作品はこちらです。
『ねこのなまえ』 いとうひろし作 徳間書店
あらすじは以下の通りです。
さっちゃん、という女の子が散歩をしていると野良猫に出会います。
その猫が言うのです。
『ぼくに名前をつけてください』と。
生まれた時から野良猫で、名前がなく、ほんとうの名前が欲しいという猫。
さっちゃんは変なことになったなと思いつつも、話しているうちに名前って大切なんだなと思うようになります。
ここからネタバレになります。
ご容赦ください。
さっちゃんは色々考えた末に、名前を付けました。
猫はそのいわれを聞いて納得し、とても喜びました。
お礼を言って草むらに去りかけた猫はまたすぐ顔を出してさっちゃんに言います。
『さっちゃん、おねがいです。もういっかい、ぼくのなまえをよんでくれませんか』
『ええ、なんどでもよんであげる。しっぽ』
『はい』
『しっぽ』
『はい』
『しっぽ』
『はい』
さっちゃんは何度も何度も呼んで、猫は何度も何度も嬉しそうに答えながらやがて消えていきます。
猫は、「かぞくにしてください」とは言いませんでした。
ただ、「なまえをつけてください」。
そして、二度と会うことがないだろう二人の、奇蹟の会話。
多くを望まないこの猫の心意気がどうしても切なくて、つい、鼻の奥がつんと痛くなります。
いとうひろしさんは、きっとそんなこと意図されたのではなく、名前の大切さを語りたかったのだと思いますが・・・。
つい、あの猫の最後の瞳と重ね合わせてしまい、違う風景を見てしまうのです。
ゾロ、と私達は呼んだけど。
あなたのほんとうの名前はなんだったのかな。
今でも、私達はあなたが大好きです。
今でも、あなたに、会いたい。
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