上 下
27 / 74
夜に暮らす穏やかな

躯は過去を覚えている

しおりを挟む


 叱られたような気持ちになって仔どもはうつむく。しかしそこに冗談交じりに間延びした、不満そうな空の声が上がった。

「えぇー、男と言うならば刹貴殿とてそうではないですかぁ」

『数百を超えたじじいにふさわしい言葉ではないな。それ以前に、これの飼い主はおれなれば』

 刹貴は潜めた声音でさらに重ねる。

『己が世話をしてやるが道理だろう』

 静かな語調のくせ、その感情の底辺にどうにも苛烈かれつなものを感じてしまって、仔どもは思わず刹貴の肩に沿えていた手を放した。仔どもにとってはまだ、刹貴も安心できる存在ではない。幼いころからのくせで身体が勝手に逃げ出そうとしてしまう。こわかったのだ。けれど、それを一瞬あとに仔どもは後悔した。
 この態度はまた、刹貴を傷つけただろうか。

 それでもうかがった横顔はやはり、その内側を察するには不十分だった。面に覆われた目元は、いつだって同じ表情しか仔どもには見せない。

 刹貴はそんな仔どもの様子に気づいているのかいないのか、空についと面のおもてを向ける。その行動に何の意図を読み取ったのか、空はぱっと立ち上がるとまたがらがらと押入れの引き戸を開けだした。

 そして振り返るや、にんまりと口元をゆるめて笑うのだ。「ふふ、ふ。おれは少し安心しました。刹貴殿にも存外おかわいらしいこころがあったのですねえ。飼い主のご自覚がおありのようでなにより」

「え、そ、 そら」
「今日はおいとまいたしましょう。また、千穿ちせんと来ますね。ごめんください」

 この状態で置いていこうとするなんて、仔どもにとってはこくすぎる。
 待って、そう言おうとしたのに、それよりも早く、さっさと行けとでも言いたげに刹貴がひらりと手を振った。空はそれに頷いてしまって、仔どもの動揺に気づいた様子はない。

 そうして結局引き止めることは叶わないまま、構造不明の押入れの中に消えていった。

「あ、ぁ」

 身を乗り出して空のいたほうを仔どもは見つめる。無情にも閉じられた襖《ふすま》は、それきり沈黙している。

 ふたりきりになったとたん刹貴といることがより強く実感できて、寒くもないのに仔どもはふるりと震えた。

 刹貴と仔どもだけでいることだなんてもうすっかりいつものことだというのに、それがなぜだか今は、痛烈つうれつに意識させられてしようがないのだった。

『人間、』

 呼ばれた。叱られる。そのことに反応して身体中が強張るのを感じた。

 刹貴の声はいつもよりいっそう低い気がして、これば絶対に怒っているに違いないと仔どもは思い込んだ。

「ごめんなさい、ごめんなさっ。怒ん、ないでっ」

 畳の上におろされる。反対に無言で見下げてくる大人の男は仔どもにとっては威圧感の塊で、意思とは関係なく震えだそうとしている身体を抱きしめた。

 自分の態度が誰かに影響を与えるなんて、そんなことにわかには信じ切れなかったけれど、怖がることは刹貴を傷つける行為だと知ったので。

 このアヤカシモノのことが恐ろしくてしようがなくて、彼が自分に手を挙げると信じ込んでいるくせ、なおも愚直ぐちょくにそれを悲しませまいと振る舞おうとするのが、この娘の哀れなところだ。
 刹貴はただ黙って仔どもを見下ろすばかり。

 彼と顔を突合せるのが怖くて、仔どもは目を瞑って俯いた。
 どうされる、折檻せっかん、だろうか。誰にもかえりみられずに過ごした最期の数年より前には、仔どもには殴られたり蹴られたり、売られそうになった思い出しかない。いつでも誰もが何かしら身勝手な理由で仔どもに対して怒っていた。

 刹貴もいま怒っている。きっと殴られる。

 淡々としているけれどでも決して冷たくはない刹貴が、そのようなことをするはずがないと、仔どもはそうは思わなかった。

 薄い肩をさらに縮めて仔どもは来るであろう痛みを待った。

「なん、で」

 なのに得たのは仔どもがいつも突っぱねてしまう、馴染みつつある体温だ。膝を付き、抱え込むように抱きしめられて、仔どもは身体に緊張を走らせた。

『構わん、』

 不意に刹貴は言い出して、抱きしめてきたときと同様に唐突に手を離した。首を傾けた刹貴は穏やかな声で続きを吐き出した。『無理をするな、おれが怖いのだろう、人間』

 焦って、ひゅうと喉が引きつった音を立てた。言葉より身体が先行して、考える間もなく仔どもは必死に頭を振った。

「ち、ちが。そ んなこ とっ。こわ こわい、と かっ」

 返す声はいつもの何倍もつっかえて、自分ですら理解できないほどだ。それなのに刹貴はまるで分かったように冷静な口調で、仔どもの心を見透かしたことを言う。

おれが不用意なことを言ったものだから、お前は無理をしているのだろう。傷つけまいとしているのだろう』

「ち、ちがう。違う  よ」

 本当はまったくもってそのとおりであったのに、仔どもは寸分おかずに否定した。是とすればますます刹貴を傷つけてしまいそうで。

おれが悪かった』

 頭を下げられる。その動作、その一言で、仔どもはひどく泣きたくなった。
 刹貴がこのようなことをする必要はない。

 たとえ刹貴の言葉がきっかけだとしても、傷つけたくないと思ったのは自分の感情だ。それがある種、刹貴への背信だとしても。

 だから、

『あのようなことを言うべきではなかった』

「  っ。や めてっ」

 そんなふうに自分を責めるような言い方をしないで。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

秋物語り

武者走走九郎or大橋むつお
キャラ文芸
 去年、一学期の終業式、亜紀は担任の江角に進路相談に行く。  明日から始まる夏休み、少しでも自分の目標を持ちたかったから。  なんとなく夏休みを過ごせるほどには子供ではなくなったし、狩にも担任、相談すれば親身になってくれると思った。  でも、江角は午後から年休を取って海外旅行に行くために気もそぞろな返事しかしてくれない。 「国外逃亡でもするんですか?」  冗談半分に出た皮肉をまっとうに受け「亜紀に言われる筋合いはないわよ。個人旅行だけど休暇の届けも出してるんだから!」と切り返す江角。  かろうじて残っていた学校への信頼感が音を立てて崩れた。  それからの一年間の亜紀と友人たちの軌跡を追う。

命姫~影の帝の最愛妻~

一ノ瀬千景
キャラ文芸
ときはメイジ。 忌み子として、人間らしい感情を知らずに生きてきた初音(はつね)。 そんな彼女の前にあらわれた美貌の男。 彼の名は東見 雪為(さきみ ゆきなり)。 異形の声を聞く不思議な力で、この帝国を陰から支える東見一族の当主だ。 東見家当主は『影の帝』とも呼ばれ、絶大な財と権力を持つ。 彼は初音を自分の『命姫(みことひめ)』だと言って結婚を申し出る。 しかし命姫には……ある残酷な秘密があった。 和風ロマンスです!

あやかし猫の花嫁様

湊祥@書籍13冊発売中
キャラ文芸
アクセサリー作りが趣味の女子大生の茜(あかね)は、二十歳の誕生日にいきなり見知らぬ神秘的なイケメンに求婚される。 常盤(ときわ)と名乗る彼は、実は化け猫の総大将で、過去に婚約した茜が大人になったので迎えに来たのだという。 ――え⁉ 婚約って全く身に覚えがないんだけど! 無理! 全力で拒否する茜だったが、全く耳を貸さずに茜を愛でようとする常盤。 そして総大将の元へと頼りに来る化け猫たちの心の問題に、次々と巻き込まれていくことに。 あやかし×アクセサリー×猫 笑いあり涙あり恋愛ありの、ほっこりモフモフストーリー 第3回キャラ文芸大賞にエントリー中です!

ビストロ・ノクターン ~記憶のない青年と不死者の洋食屋~

銀タ篇
キャラ文芸
降りしきる雨の中、倒れるように転がり込んだその場所。 なんとそこは、不死のあやかし達の洋食屋だった!? 記憶をなくして路頭に迷った青年、聖弘(仮名)は、イケメンだけどちょっとゆるふわヴァンパイアの店長の取り計らいで不死者の洋食屋『ビストロ・ノクターン』で働かせて貰うことになったのだった。 人外だけの、ちょっとお洒落な洋食屋に陽気な人狼の経営するパン屋さん。 横浜のちょっと近くにある不思議なお店で繰り広げられる、ちょっと不思議でちょっと温かい、そんな話。

冥合奇譚

月島 成生
キャラ文芸
祖父宅への引っ越しを機に、女子高生、胡桃は悪夢を見るようになった。 ただの夢のはず。なのに異変は、現実にも起こり始める。 途切れる記憶、自分ではありえない能力、傷―― そんな中、「彼」が現れた。 「おれはこいつの前世だ」 彼は、彼女の顔でそう言った……

幼稚園探偵のハードボイルドな日々

JUN
キャラ文芸
ぼく──失礼、間違えた。私は広岡俊介、探偵だ。事務所はたんぽぽ幼稚園菊組に構えている。私は慣れ合わない。孤独なんじゃない、自由なんだ。しかしその自由は、事件や、時として女によって侵されるが。今も、その女の一人が来た。「俊ちゃん、おやつが済んだら歯を磨かないとだめでしょう」

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

処理中です...