人魚は久遠を詠えない

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第二航海

仇との邂逅

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 国内最大の賑わいを見せるバンドンの港町まで乗り合い馬車で乗り付けて、五日。途中何度も乗り換えながら三日かけて比較的海に近い町に出て、そこからずっと海沿いの馬車を使い敵の船が停泊する場所の情報を集めた。

 海賊船、≪海洋オーシャン秩序オーダー≫、通称オー・スクエア

 停泊するはバンドンの港町。
 辿り着くまでこれほどまでの日数を要した。

 肉体的なものはもとより精神的な疲労が予想以上に肩に重くのしかかる。

 屋敷の外へ出たのは王都へ出たときが初めてだったし、その時にはすでに逃げ出す算段を整えていたとはいえ、三頭立ての箱型四輪馬車での旅と幌馬車の乗り合いとは意味合いが大きく異なる。
 どれ程の苦労があるかと終始気を張っていたせいか、朝と夕と続いた悪路のせいだけでなく、アリオンはずっと眠っていない。

 馬車を降りたというのに、まだ足元がガタついているような気さえする。

 その上ここは行き交う人が多すぎる。煩い、騒がしい。
 めまいがする。視野が急激に狭まって、目頭を押さえて呻いた。薄暗い馬車の中にいたせいで、まだ外の明るさに慣れていないのだ。

 よろけながら、アリオンは停留所の看板にもたれた。

「くそ、眩しい……」

 注意せずとも洩れたのは女の子らしからぬ悪態だった。殺伐とした心境のせいか、作っていたはずの男言葉まであっという間に舌に馴染みつつある。

「あの男、早く見つけねぇと……」

 馬車の車輪が地面を転がる音の残響を聞きながら、アリオンはのろのろと身体を起こした。バッグパックの口を開け、中から紙包みを取り出す。くるんであるのは堅くなったパンが二欠片だけだ。それ以外のものを買う金を、もうアリオンは持っていなかった。

 アリオンが換金すべく持ち出してきた宝石類は、すべて庭師の格好をした汚ならしい子どもの所有物にはふさわしくなかったのだ。

 鑑定書とやらの提示を求められてもアリオンにはさっぱり理解できなかったし、挙句に盗んできたと疑われ、衛兵を呼ばれる始末。そこから逃げ出すのがどれほど大変だったか!

 結局品はあってもわずかな金しか手に入れられなかった。それこそ馬車代と、最低限の食料がせいぜい買える程度の。
 少しばかり要領は覚えたが、目的を達さないまま危ない橋を渡り続けるのは避けたいところだ。おそらく仇の男に遭う前に、身ぐるみはがされるどころか身ごと剥がされてしまうのも想像に難くない。あるいは王の追手につかまることもありうるのだ。

 パンを奥歯で噛み千切り黙々と咀嚼しながら、アリオンは石畳の上を歩いた。

 港がどちらかはわかっている。停留所から坂を下ればもうすぐそこだ。眼下には鮮やかな海が広がっている。胸が空かれる光景だが、アリオンは唇を引き結んだだけだった。

 ここが。

 そう思えばたとえ美しい風景もひたすらに憎らしい。

 初めて見る海。
 人魚の故郷と呼ぶべき場所。
 恋い焦がれ恐れ続けていた場所がいま目の前にあるのに。

 活気に満ちた応酬が飛び交い、忙しげな様子で荷物を抱えた人々が駆けていく。ドレスの袖を豪快に捲りあげたおばちゃんがアリオンの横様をすり抜け、ぼうっと突っ立ったままのアリオンに邪魔だよ! と言葉を浴びせていった。

 気づけば、ぼんやり立ち止まっているのはアリオンだけである。他はみな思いおもいの活動に勤しんでいた。

 人のすくない内陸部に住んでいたアリオンは、人の多さと喧しさに酔いそうになる。

 ハンチングを必死で押し下げて、アリオンはふらつく足取りで人込みを避けながら坂を下っていった。

 そしてたどり着いた港にはいくつもの船が停泊していた。

 海賊船、オー・スクエアは、他の船とは一風変わって黒い帆を掲げるという。一際大きな威容をほこる帆船が、そうだった。

 今、帆は畳まれているが、海を走るときには海賊船らしい不吉な色が風を受けるのが想像された。
 近く出港するのだろうか、船員とおぼしき屈強な男たちが積み荷を船へ運んでいる。

「間に合ったみたいだな……」

 出港されていたら、目にも当てられない。また情報を集めなおさなければならなくなるのは勘弁してほしいところだったのだ。しかし、さてどうやって男を討つか、それがアリオンには問題だった。
 人波に紛れて、少女は船に近寄る。見上げれば首が痛くなるほど巨大な船。

 帆の支柱がどれ程の高さになるものか、具体的な大きさは弾き出せなかった。

 船長である仇の姿は今だ見ない。

 そもそも仇の顔も、背格好すら知らないアリオンだったから、勢い込んできた自分の計画性のなさに情けなくなる。

 誰がディアギレフなのか確認し、かつ速やかにやつを葬るには船に乗るのが一番だ。下働きとしてでも潜り込めれば、接触の機会は少なくないだろう。
 そのためにアリオンは小汚い少年の恰好をしているのだ。船に乗るのは男ばかりだと、家にある書物には載っていた。もちろん女の一人旅は危ないということも考慮に入れてあったのだが。

 家の海に関連する蔵書は、ほぼ海軍と海賊にまつわるものだった。それらの書物と父が語る職務の話から、アリオンはいかに海賊が残虐な連中であるかを知った。奪い、殺し、犯し、そういったことを悪いとも思わない輩だ。そんな狡猾なやつらの中で、女だとばれようものなら。

 用心していかなければならないとアリオンは気を奮い起こす。

「なあ、そこの坊っちゃん」

 アリオンは背負った布ぶくろの紐を握る手に力を込めて、目を見開いた。顔は正面に固定したまま、声のした方を見ない。

「……なんだ?」

 返答は短く、言葉の震えがわからない程度に。話しかけられたのが他の誰かなんて、こんな近距離でそんな素敵な誤解はしない。

「この船に何か用か?」

 少女は心臓の音が、低く静まる音を聞く。ゆっくりと左を顧みて、声の主人に向き合った。

 白が混じった茶色いひげが、もっさりと口元を覆っている。顔の中心についているが、やや右に傾いただんご鼻。大柄と言うより太りすぎの男。着ている白い袖なしのシャツが、腹の部分で張り裂けそうだ。

「君は……、この船の関係者なのか?」

「ああ、そうだ。だから坊っちゃんが熱心に船を見てるのが気になってな。どうした?」
?」
「まさか!」

 彼は豪快に笑った。

「俺はしがない船員一さ。キャプテンなんて、恐れ多い」

「そうか……」

 望んでいた人物ではなかったことに失望しつつ、アリオンは言葉を濁してまた上方の甲板を見上げた。まさか、君のところの船長を殺しに来たのだと馬鹿正直に打ち明けるわけにもいかない。

 アリオンのはぐらかすような、煮え切らない態度を男は妙にネジ曲がった方向に解釈したらしかった。口元をにやけさせて頷いてくる。

「あれだ、坊っちゃん。この船に乗りたいんだろ? 見たところ、お頭に直談判しに来たって感じか?」

「え? ――いや、……まあ、うん。……だいたい、そうなる、のか」
「へえぇ、」

 アリオンの身体をわざとらしい仕草で上からしたまで眺める。髭面はそして、実に残念なものを見る目で首を振った。

「ダメだな、こりゃ。もうちっとでかくなってから出直して来い。そんな貧相な身体で戦闘になったとき役にたつとは思えねぇ」

「……僕が、戦えないと言うのか?」

 アリオンは俯き、極力声音を抑えて訊ねた。

 髭面は子どもの様子を失望と受けとめたのか、すこしばかり声を柔らかくしながらアリオンの手首を取った。

「こんな細っこい腕じゃあな。なんの威力にも……」
「――馬鹿に、するなよ」

 アリオンは手首を握ったままの男の手を引き寄せた。次の瞬間、髭面の身体はあっけなく宙を舞い、石畳に全身を打ちつける。息を引く悲鳴。アリオンはそれだけでは満足せず、肩を押さえ込みながら関節とは逆に腕をねじ曲げてやった。

 アリオンは膝を彼の背中に乗せ体重をかけて抑え込みながら、ぎりぎりと急所に負荷をかけて唸った。

「体術だけじゃない! 剣術だってできる! 人も斬れる! 覚悟してきた僕を、見た目で判断するな……!」

 喪った父の命を背負って、ここまで来たのだ。それを、安いものだなんて誰にも言わせたりしない。

「……っ悪かった!」

 腕を固められたまま、地面で髭面は手足をばたつかせた。その謝罪にアリオンは締め付ける力をわずかに緩める。
 地面に顔を擦りつけたまま、目だけを動かして彼はアリオンを見上げる。

「悪かったな。……ただの好奇心ってわけでもなさそうだ」
「……わかってくれるのか」
「わけありみたいだな」

 完全にアリオンは手を落とす。髭面は地べたに座ったまま、ぐるんぐるん肩の関節を回した。

「坊主みたいなちっこいのがここまでできるとは、俺も油断したな。抜き技も急所の押さえ込み方もうまいもんだ。力がまだ足りてねぇ分、技術でカバーできてるな」
「……僕だって頑張ってきたんだ」

 隠れ住んでいても、アリオンを狙う人間は多かった。だからほんの少しでも役に立てるように、危ない目に遭っても身を守れるように。指南役をつけられて、アリオンは多くの時間をそれに費やした。
 そしていつか海が怖くなくなったら、船にも乗ってみたかったのだ、父と一緒に。

 けれどそんな日は一度も来ないまま、父は逝った。

「――おや、おもしろい子がいるじゃない」

 落ちてきた声は、穏やかなものだった。それでもそれはアリオンの頭の中で鳴り響き、予感が背筋を駆けた。

「あ、お頭ーっ」

 男が無事な方の手を、船に向かって振った。

 上がった言葉に、アリオンはようやくはっとして頭上を仰ぎ見た。

 ディアギレフの海賊船、その船縁に身をもたれかけさせ、色付きカラー眼鏡グラスを掛けた一人の男がこちらを眺めていた。彼の周囲ではのったりと灰色の煙がくゆっている。パイプ、だろうか。それにしては首が長い。

 その妙なパイプと同様に、男は鮮やかな緋色をした、異国の布を纏っていた。ひら、と気だるげに男は眼下へ手を振る。

「おーう」

 応、えた。

 アリオンはぶるりと身体を震わせた。

 つまり、それは、つまり。

 あの、男が。

 瞬くことも忘れて凝視する。

「お頭、このガキ強ぇんですよー」
「阿呆、手前が弱えんじゃねえのー?」

 二人の会話をどこか遠いものとして聞きながら、アリオンはゆっくりと背中に手をまわした。背負った布ぶくろに差していた、布でくるんだ棒を引っ張る。ひらりと解かれたそれに包まれていたのは、ただの棒ではなく、武器だった。サーベル。

 アリオンはサーベルのグリップに手をやった。しゃらりとスキャバッドから刃が引き抜かれる、その感触に血がざわめく。

「ディアギレフ、」

 呟く。

 不思議とアリオンの身体は軽かった。高揚していた。

 桟橋を駆け、船に下ろされたタラップを飛ぶようにして駆けのぼった。
 すべてがおだやかに流れていった。

 アリオンの行動に気づいた男が哂う。唇が弧を描き、サングラスの奥の瞳が、面白げに細まる。のったりと身体を起こし、船べりを煙管で叩き、灰を落とした。

 アリオンは足場を蹴って跳躍し、船縁に飛び乗った。

「父の仇、」

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