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The adult is sly, and pretends to be gentle
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しおりを挟むそれから更に数日が経った。
今日も広い部屋にウルドとふたりきり。言葉を交わして、モモセに浸食するのは彼だけだった。屋敷には広大な屋敷を維持するのに十分なだけの使用人がいたが、そのほとんどとモモセは言葉を交わすことはおろか、顔を合わせることもなかった。
耳を立てて遠くの音を伺っても、人の気配は希薄だ。ウルドの私室付近はひと払いがされている。
ウルドはモモセを部屋の外へは出さない。そのうち飼殺されるのかもしれない、という意識が頭をもたげる。
だから?
結局モモセはそこで思考を停止させた。
それはそれで、仕方のない話なのだろう。
何の権利もない、不可触民ならば。
つらつらとどうでもいいことのように考えるのは、自身の一生だった。
ウルドの部屋の鍵は開いていて、モモセの脚に枷が嵌められているわけでもないのに、到底逃げ出せはしなかった。それだけの支配力が、男にはあったから。
ただ、心臓の下で燻る焦燥はあった。
それはベゼルを封じられているときに感じたような、閉塞感だった。
今さら外に出たいとは思わない。ウルドとのどこかどろどろとした歪な関係は、肌に深く刻まれていく現実だ。
しかしこうして足腰が立たなくなっていくのは恐怖だと、蓋をされた思考が叫ぶような、気がした。
だんだん自身が希薄になるような――――実感。
「モモセ、」
思考の海に沈み込む仔どもに、やさしい声がかけられる。
今やモモセを殺すのもウルドであれば、生かすものウルドだけだった。
明るく名前を呼ばれ、思考にようやく鮮やかな色がつく。心のどこかで、まだ機能する精神があるのにほっとする。どこかでまだ抵抗しているのだろうか。男のものであることを。
しかし続けて言われたこと、新たに提示された問題に、モモセは引っ掻きまわすだけひとの心を引っ掻きまわして――、と憤りを覚える暇も与えられなかった。
「モモセ、毛、染めるか」
ウルドは髪を梳り、軽い口調でそう言った。
「、へ、は――――――!?」
混乱するしかなかった。それだけ衝撃だった。出てきたのは意味を成さない喃語のほかなかった。
銀糸の毛はモモセの唯一の誇りである。<神の血統>しか持たない銀糸。それが不可触だと自分を卑下していたモモセのたったひとつの拠り所であったことくらい、容易く想像がつくはずであった。
それをいともあっさりと、染めろ、などと。否、疑問調であったことなどこの際棚上げである。あれは限りなく決定事項に近かった、とモモセは涙目になりながら心中で断言した。
「や、やです! それだけは嫌です! 何で、そんな、染めるなんて――」
男の手から髪を取り返し、絶対に手が届くはずもない距離を取ってから、モモセは涙で濁る視界を精いっぱい凝らしてウルドを睨んだ。そうしてしまってまた、モモセは自分の態度を省みてぞっとするのだったが、先日のようにウルドは警戒心たっぷりのモモセに冷徹さを見せることはなかった。彼としてもモモセの反応を予期していたのだろう。手始めに、彼はモモセの反抗が最もであると肯定した。
「だっ、たら、何で、」
良心に訴えるように、モモセの声は悲痛に掠れたものだった。しかし最初に自身の心情を認められたことで、モモセに譲歩という感情が芽生えたのも事実である。ウルドはその隙を逃さずに語句を重ねた。
「俺はここ数日、休暇を取っていた」
ここで、前述と関係のないことを言うのが、ポイントだった。とはいえ本当に関係のないことを言ってしまっても意味がない。結果としては後述に繋がるのだが、この段階においては分からないままにさせておくことが重要である。
「――は、い」
そうすればこうして不審げにしながらも、モモセは相槌を打たざるをえなくなる。
「もうしばらく一緒にいてやりたいのは山々だが、そこまで俺も暇な役職についているわけじゃない」
誰も一緒にいてほしいと頼んだわけではないのだが、とその感想をモモセは隠し、頷く。むしろ放っておいてくれたらどれだけありがく、心労が減ったことだろう。
「――はい」
「お前をひとりにしておくには忍びないと思ったわけだ」
「――――はい」
全てはお前のためだ、そのために俺は努力した、それをさりげなく示す。物腰はあくまで柔らかに、あからさまに自分の尽力をアピールしては逆効果だ。
「そこで、だな。学校に行ってはどうかと。ベゼルを安定させる必要性もあるしな」
「、がっ、こう?」
慣れない言葉を聞いたと言いたげに、モモセはつたなく発音する。
「そう、学校だ、名前くらい聞いたことはないか?」
「いえ、あ、あります、……あります、けど」
モモセはうろうろと視線を彷徨わせた。
話題は、モモセが想像もしなかったところに及んでいる。自分が今しがた聞いた言葉が正しく『学校』だったのか、モモセには自信がない。
「学校って、……言いましたか? あの……べんきょう、をするって、いう?」
勉強、という単語を生まれて初めてモモセは使った、と思った。言葉自体は知っていたけれど……。
「そうだ」
肯定である。モモセは信じられない気持ちで問いを重ねた。
「それに、おれが?」
「お前以外に誰が? 俺はもうとうに卒業している」
もっともである。このたったふたりしかいない空間で、およそ教育が必要そうなのはモモセ以外にいるはずもない。しかし、これはそういった問題ではないのだった。
自分などにそんな上等なものが与えられるはずがないという疑問なのだ。
神世の言語どころか、一般的な公用語ですらモモセは読み書きができない。それはスラムでは一般的なことで、取り分けて不可触民だからと己を卑下する必要もない。けれど、学校という提案はひどく魅力的だった。自由に、好きなだけ学べるその場所はスラムに住む者にとって憧れだ。ウルドはそのことを知っていたのだろうか。
学べばそれだけ稼ぐ手段は多くなる。騙されることも減る。危険は減り、死は遠ざかる。
もっと賢ければ、と誰もが思う。でもそのための時間はないのだ。そのために時間を費やすくらいなら一枚でも銅貨を得た方が明日を生き延びる手段になる。
だがウルドの庇護下にあって、もはやモモセは明日の生き死にを考える必要は、ないのだった。
モモセの白いはずの頬はうっすらと紅潮している。胴衣から覗くふたつの尾が、嬉しさを抑えかねてはたはたと交互に地面を叩いた。
モモセは既に傾いている。落とすためにはあといくらもかからない。モモセの様子を見てそうウルドは確信し、かと思うと、子どもはしょんぼりと肩を落とした。
「だめ、です。おれは不可触民です。そんな、身分的にも、おかしいし、もし触ってしまったりしたら」
「大丈夫だ」
力強い断言に、けれどモモセは頑なに首を振った。
「そんなわけない」
「大丈夫だ。お前が気にしないようにすれば、誰もお前が不可触民だとは気づかない」
「だって毛の色が違う――。それに、ベゼル、も」
そこまで言ったときに、モモセはようやくこの話と先ほどの話との間の関連性に気付いた。
「学校、行きたいだろう?」
そこは勝者の確信を持って、ウルドは殊更ゆっくりと訊ねる。
「、行きたい、です」
モモセは否定しなかった。ウルドが自分を虐めるために言っているわけではないことは、ちゃんとやり取りの間に理解している。
「ベゼルのことも心配するな。お前が知らないだけで、ごまかす方法はいくらもあるさ」
ぱあ、とモモセは華やいだ表情を見せた。ここに来てからおそらく初めてといえる、無邪気な顔。
カナンもそうだった、とウルドは心中でひとりごちた。
獣種は自然を、自由であることを愛する。
囲えば必ず壊れてしまう。
たった数日間ですら自由に振る舞えないモモセが、かつてのカナンのようにゆるゆると深い微睡の中に落ち込んでいこうとするのが、手に取るように伝わってきた。
自分だけでは足りない。己だけではモモセは満たせない。
手元に縛り付け、モモセを殺してしまいたいわけではなかった。
できるならば自分一人だけを見ていてほしいのに、そうすると彼らはするりと死という方法で、逃げていってしまうのだった。
焦りが募り、導き出した結果が学校だった。仔どもの表情に覇気が戻ったのがウルドには何よりの僥倖だ。
そのはずだ。
自分はちゃんとモモセを想えている。正しい方法に進めている。
「――染めるか」
「落ちやすい、やつが」
「好きにしたらいい」
それがモモセの譲歩したなりの譲れない箇所だというのは理解できたので、ウルドは取り立てて異議を述べたりはしなかった。
立ち上がって、ウルドはモモセの手を取った。モモセがあまりにも怯えるため、早い段階から着せるのは長袖の、それもかなり袖の余るものだ。にも拘らず一回りか、もしかしたら二回りも小さなモモセの手はウルドの掌の中で跳ね、ウルドが軽くしか握っていないのをいいことに男を振り払っていた。
譲歩、否、譲歩と呼ぶものかすら曖昧だが、俺のそれは報われない、とウルドは嘆きながら、浴室へ続く扉を開けた。
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